中村幸四郎氏の翻訳,D. ヒルベルト『幾何学基礎論』(ちくま学芸文庫)の付録に「公理論的思惟」という,僕にとって大変興味のある論文があるので,読んでみた。
物理学の諸分野の公理論的取り扱い
前半の話題は数学よりも物理学の公理論的取り扱いが主眼で,ここ8ヵ月ほど熱力学の公理論的取り扱いについて勉強してきた僕にとっては,エントロピーと体積を変数とするエネルギー関数の偏導関数として温度と圧力を定義する,なんて話 (p.195) が書いてあったりすると,びっくり仰天するのである。
このような温度の導入法は1964年の Giles の本が最初なのかと思っていた(その後,1999年に Lieb と Yngvason によって再発見される)。
※ とんでもない間違いを書いてしまった。温度と圧力を微分で定義するという流儀は似ているが,主とする関数と独立変数の選び方が Hilbert の話と Giles や Lieb と Yngvason の理論では大きく異なる。
後者は,エントロピーを内部エネルギーと体積の関数とみて,エントロピーの偏導関数を用いて温度や圧力を定義している。(2012/2/27 付記)
この論文は1917年付けで出版された
Mathematische Annalen 第78巻に掲載されたものなので,1909年の Carathéodory による熱力学第二法則の公理論的取り扱いの仕事が念頭にあったとしても不思議はない。
ただし,Hilbert は一切 Carathéodory については言及していない。
Carathéodory の原論文はドイツ語で,そこそこ長いので未だに目を通していないのだが,ちゃんと調査する必要が高まってきたように感じている。
この論文の出版年はいつ?
このヒルベルトの論文 "Axiomatisches Denken" は,Hilbert の生前に編纂された論文集の第3巻にも収録されており,『幾何学基礎論』の「訳者序」によると中村訳はその全集第3巻を定本としているようだ。
その証拠に,Hilbert は文中で Riemann のゼータ関数を "ξ(t)" という,現在ではあまり見られない(と思う,多分・・・)記号で表しているのに対し,全集および中村訳では "ζ(s)" という,現在よく使われている記法に直されているからである。
ところが,公式サイトでは Band 78 の刊行年が1917年となっているのに対し,全集およびそれを定本とした中村訳では1918年の論文ということにされている。
これは誤植の類と言えるのではないだろうか?
(興味のある方は Hilbert の全集第3巻の146ページを見て欲しい。)
誤植
誤植といえば,中村訳の207ページの下の方に書かれている「πの小数展開の第10(10
10)位」というのが目に付いた。
これは原論文(414ページ)ならびに全集(150ページ)では 10 の右肩に指数として (10
10) が小さく乗っけられているという数式で表されているので,「10 の『10 の 10 乗』乗」のことである。
文庫版に直したときに紛れ込んだ誤植なのかもしれない。
他にも気になった物理学の話題
さて,他の話題の中でも強く興味を惹きつけられたのは,Cauchy の関数方程式 f(x)+f(y)=f(x+y) の,不連続関数解を求めたことや,Hamel 基底という術語でその名前だけはよく知っていた Hamel が,力学の力の合成の原理である平行四辺形の法則を,「連続体の整列可能性の命題」とやらから導いたとの話である(199ページ)。
(これは1908年,Math. Annal. の350ページから掲載されている論文に書かれている内容なのだと思うが,違うかもしれない。)
また,詳細はいま一つピンと来なかったのだが,Lagrange 形式の力学の定式化を土台として,一方では Boltzmann の力学理論が,他方では Hertz の力学理論が分岐するというようなこと(197ページ)が述べられているのも非常に気になった。特に Hertz については最近,その最後の著作と言われている『力学原理』を
ちょっと読もうという気になっていただけに,やはり今が読む時期なのかという思いを強くした。
Hilbert 自身が物理学の公理論的取り扱いに関して貢献したところは,どうも輻射の理論と呼ばれる分野らしいのだが,それについては全く知らない。この論文でもそのことについて当然のごとく言及されているので,いつか学んでみたいところである。
後半の文章について
後半は主に数学の話題で,不変式論や曲面論を例にとって公理論的方法についての注意が述べられている。
曲面論の方はちんぷんかんぷんだったが,不変式論については,おそらく
永田雅宜氏が否定的に解決したという Hilbert の第14問題に関することが改めて論じられているように感じた。文面から推し量るに,Hilbert は否定的に解決されるという見通しは持っていなかったように思われる。
202ページに僕にとってタイムリーな言葉を見つけた。「そして困難は・・・公理を適当に選ぶことにかかっているのである」という一文がそれだが,田中一之編・監訳『数学の基礎をめぐる論争』の「後書きに代えて」をちょうど「公理論的思惟」を読む合間(?)に読んで初めて知った「逆数学」なるものがまさにこの問いに答えるものではないかと,まだそれが何か全く知らないのだが,大きな期待を抱いてしまったのである。
物理学の各分野における公理の無矛盾性は実数の無矛盾性に帰せられ,さらに実数の無矛盾性は整数の無矛盾性に帰着されるという話が終わり近くに述べられているが,その整数の体系の無矛盾性が実はある意味証明不可能であるということが,この一文が書かれた後,1931年に Gödel によって明らかにされたのかと思うと,感慨深いものがある。
(ちなみに,Gödel の不完全性定理などは僕は今のところほとんど理解できていないので,上に述べた Gödel の業績に関する表現は正確さを欠くかもしれない。)
幻の「Hilbert の第24問題」の片鱗
日本語版 Wikipedia の解説によると,Hilbert は有名な23の問題を提示した講演で,実はもう一つ問題を発表するつもりでいたのが,とりやめてしまったらしい。
そのことについてレポートした Rüdiger Thiele 氏の論説は数ヵ月前から Wikipedia の記事のリンクから手に入れていたのだが,英語で24ページという分量にひるんで未だに読んでいない。
ただ,どうもその問題の片鱗が「公理論的思惟」205ページの記述に見られるように思われる。
そこではいくつかの問題が新たに提起されているのだが,列挙されているもののうち,「数学の証明の簡単さの判定条件を求むる問題」というものが目をひいた。これと同じような問題を友人の gk 氏から以前聞かされたことがあったので,頭の片隅にこびりついており,それが呼応したのであろう。
これらの問題については特に具体的な記述はないので,言葉の上での定式化に過ぎず,内容はほとんどなかったのではないかという印象を受ける。
これらの問題が現在でも継承されているのか,基礎論の世界は全く不案内なのでわからないが,気になるところである。
明白な誤訳が一つ
ちょうど熱力学の現代的な公理論的な取り扱いについて勉強し始めた頃から,実数の体系における Archimedes の公理というのが僕の中心的な関心の対象となっている。これはいわば実数の連続性を特徴付ける重要な公理であって,これが熱力学におけるエントロピー関数の存在を証明する際の鍵となるのである。
さて,力の平行四辺形の法則を Hamel はこれを用いて示したのか,それとも選択公理を用いたのかちょっとわかりにくい記述になっているのだが,その話が書いてある箇所の直前,199ページの真ん中に物理学における連続の公理が言明されているのだが,これがなんとも解読し難い一文なのである。
二重否定が使われているのがその原因だとは思うのだが,これを解読するには少しばかり手間がかかりそうなので,ちょっと躊躇している。
はっきり白状しよう。まだちゃんと解読しようと努めていないので,この一文を僕は全く理解していない。
さて,そのわけのわからない公理について述べる前に,198ページあたりで Archimedes の公理について言及しているのだが,そこに重大な誤訳が一つある。
「いわゆるアルキメデスの公理が残余のすべての算術的公理に
依存することが示された」
と書いてあるのだが,最初この文章を読んだときは腰を抜かすほど驚いた。
なぜならば,この「公理論的思惟」の直前に訳出されている「数の概念について」という論文では,
Archimedes の公理と他の公理を合わせてようやく乗法の交換律が成り立つことが示せるとはっきり言明しているのをつい最近読んだばかりだったからである。
ただし,これから Archimedes の公理が他の公理と独立か従属かは判定できるのかどうかといった論理的な関連については僕はよくわからない。けれども,Archimedes の公理は,乗法の交換律の成立に密接な関連があるという印象は強く抱いている。また,他の公理と乗法の交換律とを合わせて Archimedes の公理が導けるとはとても思えない。
このように,はっきりとした理論的根拠があったわけではないが,上に引用した一文の「依存する」という語にとても強い違和感を覚えたのである。
しかも,もし Archimedes の公理が算術の他の公理から導けるのであれば,ここでことさら Archimedes の公理について述べるのは奇妙である。この文章の後には,その物理学版というものまで書き記しているのだから,Archimedes の公理を Hilbert が非常に重んじていることは明白である。
さらに,例えば長さという物理量が Archimedes の公理を満たすかどうかは,実験によって判定する他はない,というようなことまで述べているのである。それが他の公理から導けるのであれば,実世界の物理量がそれら他の公理を満足することを検証すれば十分なのだから,そう書けば済む話ではないだろうか。
つまるところ,違和感のもとは,他の公理から導けるものをそのように特別扱いする必要があるのだろうか,という疑念である。
以上のような理由から,「依存する」ではなく,正しくは「
独立である」と書いてあったのではないかと推測された。
僕の直感が正しかったことは,原論文と全集の両方において,該当箇所に "Unabhängig"(依存しない,独立な)という語の使用が認められたことで裏付けられた。
以前も一つ誤訳を見つけたことがあるが,前後の文脈と明らかにそぐわない変な訳がこのように時折見受けられるので,中村訳を読むときには原論文の参照が欠かせないのではないかという気になってきた。ちなみに,「独立性」や「独立である」という語はこの論文の他の箇所にも出てくるが,それらはちゃんと正しく訳されているので,僕が指摘した箇所はただのうっかりミスであろう。
なお,中村訳の197ページの上のあたりで,「
第一に」と「
第二に」という,ほとんど意味のない語が太字にして強調されているのにも違和感を覚えるが,これらについては原論文と全集の双方でイタリック字体でもって強調されているので,それに忠実に従ったまでであり,訳者には何の非もない。けれども,それらの語句が出てきた直後に「まず公理の従属性および独立性を考察しよう.」とあるのだが,ここに出てくる「従属性」と「独立性」は共に論文と全集においてイタリックで書かれているので,訳においては太字のゴシック体にすべきであった。それについては誤訳と誤植のどちらに分類すべきかは,この文庫版という資料一つだけからは判定できない。
このように,中村訳は全部を鵜呑みにしないよう注意が必要であるが,そのせいでこの訳書の意義が薄れるわけではない。
この論文は『幾何学基礎論』の原書には採録されていないものであり,僕がこの論文と出会え,しかも自分の母国語である日本語で気軽に読めたのはまったくもって訳者の中村幸四郎氏のおかげである。だから,このような翻訳の労をとられた中村幸四郎先生に対する感謝と畏敬の念は深まりこそすれ,薄らぐことなど決してない。
かくして謎が残った
疑問の箇所が原典と照らし合わせた結果誤訳であったことが判明したのは上に報告した通りであるが,肝心の「Archimedes の公理は算術の他の公理と独立であるか」という問題は僕の中では未解決のままである。これは,「Archimedes の公理が成り立たない数系においては,乗法の交換律は必ずしも成り立たない」という『幾何学基礎論』160ページの定理60から直ちに結論できることなのだろうか?
公理の独立性ということを考えた経験が全くないため,今の僕の頭では理解できそうにない。
有名な Euclid の平行線の公理(公準)が他の幾何学の公理と独立であることの証明は,確か,平行線の公理とは両立しない別の公理と他の幾何学の公理を組み合わせた全く別の幾何学のモデルが存在することを示す,というものだったと思う。
今わかっていることは,「乗法の交換律は,「Archimedes の公理+他の公理」と従属である」ということだけである。したがって「乗法の交換律と Archimedes の公理を除いた残りの公理」たちから,Archimedes の公理が導けるかどうかが肝心な論点であることになる。
Hilbert が「数の体系について」で挙げた公理の中には,このように他の公理群から導けるものが多く含まれているので,それらを削って「シェイプアップした」公理系をまずは見出すことから始めなければならなそうである。
それとも,
「平行線の公理を別の公理に置き換えた幾何学の公理系から,Euclid 幾何とは別の幾何学の体系を構築することが可能である」
ということで平行線の公理の独立性が示されたことになるのなら,
「Archimedes の公理を別の公理で置き換えた公理系から実数とは異なる別の数体系のモデルを構築することが可能である」
ということが定理60で示されているわけだから,既に問題は解決済みだったのだろうか?
やっぱり公理の独立性についてちょっと勉強しないといけないようだ。
僕にはこの問題はまだちょっと早すぎたかな。
※ この問題は,僕の中では
一応の解決をみた。