担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

モノとコトの狭間。

2015-01-22 23:52:59 | physics
世の中の全てを「モノ」と「コト」に分けて考えてみる。

モノとは物質であり,それは確かにそこにあるものであって,実在である。

コトとは現象などのことで,情報である。

モノとコトの大きな違いは複製が容易かどうかである。

全く同じ性質のモノをコピーしてもう一つ作り出すのはある意味非常に難しい。例えば目の前の石と同じものをもう一つ作るには,材料が必要である。また,材料があったとしても加工するための道具も必要である。

それに対し,情報をコピーするのはモノの複製に比べ,きわめて容易である。

(注記1:コピーするという言葉の意味をはっきりさせねばここで述べたことはほとんど無意味であるが,僕自身,その意味がはっきりつかめておらず,議論が混乱している気がしてならない。ここでいうコピーするという動作は,一つの石を両手でつかみ,手をスーッと左右に広げるとそれぞれの手にもとと同じ石が一つずつ握られている,というマジックのような行為をイメージしている。それに対し,材料を加工してそっくりな石を作るというのはコピーとは異なる操作として区別したいと思うのである。)

ただ,モノとコトが果たして本当に対立する概念かというと,その点は微妙である。

モノだのコトだのを区別するのは我々人間のような知覚を持った生物である。我々は触覚や視覚を通してモノがそこにあるというコトを知る。つまり,モノはコトに変換されて我々に認識されるわけである。かつて Wheeler が "It from bit" なるフレーズを唱えたというが,それはこういうことを言い表したものなのだろうか。

コトをコピーするのは容易だといったが,情報はモノによって伝えられるため,情報を「書きつける」モノが他にないとコピーができない状況もある。例えば紙に文字で書かれた文章をコピーするには,それを書き写すことのできる媒体が必要である。もっとも,人間の脳のように紙に書かれた文字とは別の状態に変換して保持する方法もあるが,いずれにせよ脳という,もとの紙とは別の記憶装置が必要となることに違いはない。

ところで,物理学においてはエネルギーという概念が重要である。エネルギーはモノとコトのいずれであろうか。

エネルギーは保存すると考えられている。そうすると,あるエネルギーを複製して増やすということは無から有を作ることとなり,エネルギー保存則に矛盾する。こうした保存則というものはコトではなくモノに属する性質と思われるので,エネルギーはモノであるということになる。Einstein が見出した質量とエネルギーの等価性はこの見解を裏付けているといえるかもしれない。

(注記2:情報はコピーが容易だと述べたが,そうすると仮に情報に保存則があったとすると破たんするかというとそうでもないだろう。ある情報をコピーして増やしたとしても,もとのものとは異なる新たな情報が生み出されたり,もとの情報が失われたわけではないから「情報量」は増えも減りもしない。したがって,コトの世界にも保存則を導入できる可能性はある。)

その一方で,運動エネルギーや熱エネルギーなどはモノがある状態にあるという指標であって,コトの一種ととらえることもできよう。つまり,エネルギーはコトであるようにも思われるのである。

このように,無理に世の中のすべてをモノとコトのどちらかに分類しようとすると途端に困ったことになってしまう。しかし,エネルギーはモノとコトの二面性を持つということにしてしまえばよい。あるいは,それと少し異なるとらえ方として,エネルギーはモノとコトを結びつける中間物と考えると,次のような転換が可能かもしれないという妄想に到達する:

モノ(物質)←→ エネルギー ←→ コト(情報)

実はこれは妄想どころかうんと真面目な話であり,情報とエネルギーとの間の変換は科学技術の最先端の研究テーマとして情報理論や物理学の専門家によって実際に研究されている。日本にもこの方面で重要な成果を出した研究グループがあるほどである。

ところで,モノはそこにあるからこそさまざまなコトが起こるのだと我々は信じているのだろうが,モノに関する理論としての物理学は本当にモノそのものを取り扱っているのだろうか。モノがもっている様々な性質やモノ同士が繰り広げる現象は,知覚による測定を通じて観測される。つまり我々が実際に取り扱っているのはコトであり,物理学の対象も結局のところコトでしかないように思われる。

量子力学においては電子や光が粒子と波動の二つの側面を持つということが理論の基礎をなしているが,粒子性はモノに所属する性質であり,波動性はコトに所属する性質であると考えれば,ここで論じた観点は量子力学にもそのまま適用できそうにも思われる。また,熱の理論において,かつて熱は物質であるというフロギストン説が唱えられたが,それが否定されて熱は物質ではなくエネルギーの一形態であるという認識に至ったことは,モノから中間物であるエネルギーなるものへと熱の正体が移行したととらえることができる。こう考えると,上に述べたモノ,エネルギー,コトの図式は熱の概念の変遷の歴史を整理するのにも役立つ。

モノとコトとに分けるという二分法は大雑把すぎる物事のとらえ方かもしれないが,妄想をたくましくしてあれこれ考えてみると既存の理論をうまく整理できるような気がしてなかなか楽しいものである。
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猫背。

2015-01-21 23:57:31 | 
腰の高さまである台の上に乗っていたもぐの眼が僕の肩をじっと見つめていた。

もしや・・・!

僕は猫背だが,わざと前かがみになってみせると,思った通り,背中にぴょんと飛び乗ってきた。

何が目的なのかは全く不明であるが,目の前にちょうどよい高さの踏み場があったから飛び移っただけというのが真相であろう。
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含意とはなんだろうか。

2015-01-20 23:02:19 | mathematics
論理学でよく取り扱われる「ならば」という条件文は含意と呼ばれる。

日常語としての「ならば」は,「だから」や「なので」という原因と結果を結びつける語としてよく使われているような気がする。

しかし,論理学においてはある種の当たり前の判断を表すのに使われているように思う。

例えば

「あなたが日本人であるならばあなたは人間である。」

といった具合である。日本人というのは人間の一種なのだから当然である。このように,論理学の含意とは

それが「狭いもの」であるならばそれは「それを含むより広いものとしての性質をも持つ」という,まことにもっともな判断を取り上げたもののように思うのである。

ところが,

「気温が氷点下ならば公園の池に氷が張る。」

というような原因・理由と結果を結ぶ「ならば」を含意ととらえると,いろいろと奇妙なことになるような気がする。

このような文章は原因と結果の連鎖である「だから」や「なので」という思考形式によるものとみなすべきではないだろうか。

我々が日常的に行っている推論は,含意というよりも理由や原因の詮索である。

上の例文を次のように書き表してみよう。

気温が氷点下である(原因)→公園の池に氷が張っている(結果)

これの「対偶」は次のようになる。

公園の池に氷が張っていない(結果)→気温が氷点下ではない(原因)

これを日常表現に直すと次のようになる。

公園の池に氷が張っていないということは,気温が氷点下まで下がっているわけではないのだな。

文章を切って論理構造をはっきりさせると次のようになる。

■ 気温が氷点下である。したがって公園の池に氷が張っている。

□ 公園の池に氷が張っていない。つまり,気温は氷点下ではない。

日常的な感覚では,下の文章の「つまり」を「したがって」に変えても意味にほとんど違いがないように思われるが,公園の池の状態から気温について推理を働かせるわけであるから,やはり「つまり」や「だから」の方がより正確であるように感じられる。


なんだかよくわからなくなってきた。一つはっきりしていることは,僕自身がかなり混乱していることだけである。ギリシャ時代から続く伝統的な論理学というのは,まさにこうした問題を取り扱っているのだろうが,そちらについては全くと言っていいほど無知である。数学の世界から一歩踏み出して自然科学における推論というものを論じようとすると,この手の問題が山ほど出てくるのだろう。ましてや,より広い事柄に関する日常言語の論理になると,もっと難解な事態が現れそうで恐ろしい。

究極的には自分の脳が物事をどう考えているのか,思考のメカニズムのようなものを少しでも明らかにしたいものなのだが,前途多難である。
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テスト前,だから・・・?

2015-01-19 22:44:40 | 雑感
試験が近いせい(?)だろうか。わけもなくマンガを一気読みしたいという衝動に駆られ,実際にそうしてしまった。

ふと楳図かずお氏の『神の左手悪魔の右手』を読み返したくなったのがきっかけであった。

それを読み返した後,今まで読んだことがなかった『洗礼』と『おろち』,そして『わたしは真悟』を読み,さらには通して読んだ覚えがない『漂流教室』も一気読みした。

しかし残念なことに『神の左手悪魔の右手』と『漂流教室』を読んだ子供の頃に味わった恐怖はもう二度と味わえなかった。話の筋を知っているせいもあるだろうが,それ以上に自分がもう大人になってしまったということだろう。『14歳』も雑誌連載当時にときおり目にしては強く惹かれたものだったが,それから何年も経った今,単行本で通読しようとして途中でやめてしまったくらいである。ただ,『14歳』はいずれ日を改めて最後まで読もうと思っている。

それにしても,『漂流教室』が今から40年前の作品とは。子供の頃は,過酷な状況下で子供たちだけでなんとかしなければならないという設定に,自分がもし同じ目にあったらどうしようと恐れおののいたものだが,大人になってしまった今ではそういう風に感情移入して読むことができず,それが上述の感想を抱いた根本的な理由である。『神の左手悪魔の右手』もそうである。子供の頃に読んだからこそとてつもなく怖かった。

楳図氏は恐怖漫画家だと思っていたが,どちらかというと怪奇漫画家と呼ぶ方がしっくりくるのかもしれない。人間の心の闇というか,業の深さをこれでもかというくらいに抉り出して読者に突き付けてくる。もし小中高あたりで出される読書感想文の宿題の狙いが文学作品に触れさせて感性をはぐくませることにあるのであれば,こうした重厚な漫画を課題図書にしてもいいのではないだろうか。読めば引き込まれて一気に読めてしまうし,感想もたくさん出てくるだろう。
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風物詩。

2015-01-18 23:57:30 | Weblog
昨日今日とセンター試験が実施された。数IIBが難しかったという噂をネットの記事で見かけたが,それいつものことですやん。

試験問題は,実際に解く受験生にとってどうかという視点に立ってではなく,高校教育の現場へのメッセージやセンター試験としての役割をちゃんと果たすかどうかといった体裁を考慮して作られているため,受験生が難しいと感じてショックを受けようがどうがお構いなしである。

もっとも試験というのはそういうものだろう。受験生の皆さんには,出来が悪くて気分が落ち込んだとしても,早々に切り替えてこれから始まる本格的な一般入試シーズンを乗り越えてほしいところである。
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寒い・・・?

2015-01-17 23:46:56 | Weblog
なんか寒いなーとは思っていたけど,明日の明け方に -4℃ との予報を見て慄いている。それはヤバいわー。
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時相論理なるもの。

2015-01-16 23:48:03 | Weblog
時相論理 (temporal logic) なる学問がある。全く聞いたことが無かったが,昨日初めてそういうものがあることを知った。うーむ,気になる。
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久々の雨。

2015-01-15 23:50:05 | Weblog
今日は久々にまとまった雨が降った。寒くて冷たい雨であった。積もらなければ雪でもよかったかな,という気がした。
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手作り感。

2015-01-14 23:58:57 | 雑感
最近のマイブーム(死語か?)はオートマトンの理論だったが,なぜ夢中になれたのか,理由を考えてみた。

ポイントは「ものづくり」であろうか。

オートマトンというのがどういうものかイメージをつかむには,具体的な問題を考えてみるのが手っ取り早い。例題を参考に試行錯誤してみると,自分なりの作品が仕上がる。そういったオートマトンというおもちゃを作っていじる楽しさがオートマトンの理論の大きな魅力であろう。

翻って自分が担当している微分積分の授業と比較してみると,そちらには自分であれこれ試行錯誤できるような要素がほとんどない。強いて言えばεδ論法を駆使して数列の極限や関数の極限に関する様々な結果を厳密に証明するといったものが挙げられるだろうが,オートマトンに比べて論理展開を習得するのはかなり困難である。

オートマトンと似た分野としてプログラミングがある。そちらも自分でいろいろなプログラムを作って勝手に楽しむことができる。電気・電子回路の理論も,現在はブレッドボードという便利な装置があるので,少しばかりお金を払っていくつかパーツを揃えるだけで実験して遊ぶことができる。機構工学も紙や木材などの加工が簡単な材料を使って装置を組み立て,自分のアイデアを試すことができる。

このような観点から,理工系の学部で教えられている科目の分類ができるであろう。自分で勝手にいろいろ問題を見つけて楽しむことができるか,それとも理論を教わることが中心で自分でいろいろ試す余地がほとんどない(それがなぜかと言えば,物事のとらえ方などの思想的な側面が強いからであろう)か。手作り感を感じられれば主体的に学習を進められるだろう。自分が主体的に物事を考えていると学習者が感じられるかどうかは教育効果に大きな影響を及ぼすと思われる。

自分が担当している科目でそうした楽しみを味わってもらうには,やはり演習問題で疑似体験してもらう他ないだろうか。

ただし,オートマトンやプログラミングにしたって,そうした作業が好きな人に向いているだけであって,パズルが苦手だとか,どうしても興味をもてない人もきっといるだろう。けれども,ものづくりが本当に好きでないヒトというのはいるものなのだろうか。
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レポート提出。

2015-01-13 22:27:44 | 情報系
お世話になっているI先生にオートマトンの授業のレポートを提出した。

I先生は唐突に差し出されたレポートを見て「なにやってんだか」と苦笑されていたが,まんざらでもないご様子だった。

もともと僕はオートマトンの理論に非常に強い興味を抱いていて,何冊か定番のテキストも入手しているのだが,本腰を入れて取り組むことなくここまできてしまった。今回のレポートを機に基本的なことはある程度理解できた気になれたのでとても満足している。

これでようやくスタートラインに立てたわけであるから,もっと先の理論を学んでみたいと思う今日この頃である。

いや,気が済んでしまった・・・のか・・・?!
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