日本の国語教育について思うところがある。話題は動詞の活用形である。
断っておくが,古文の話をしようというのではない。中学校で習う現代日本語の動詞の活用形のことである。
五段活用,上一段活用,下一段活用,カ行変格活用,サ行変格活用といった活用の型に関する分類や,未然形,連体形,終止形,仮定形,連用形,命令形といった用法による活用形の違いに関する分類を教えること自体にはさほど異議はない。
しかし,「次の文中において,傍線部の動詞の活用の種類と活用形の名称を記せ」といった識別問題はやらせる必要がないと思う。ややこしいのが連体形と終止形の区別である。
次の例文を見てほしい。
甲「あんまり速く話すので皆さんついていけません。」
乙「こうやってゆっくり話すのがポイントです。」
この二つの文にはどちらも『話す』という動詞が使われており,どちらも原型のままのように見える。
けれども,おそらく両者の活用形は異なるものと分類されると思われる。
甲は,
「速く話す/なのでついていけません」
というように,文の意味を損なわずに区切りを入れて二つの文に分割することができる。
したがって,こちらの『話す』は終止形ではないかと思われる。
他方,乙は
「話すコトがポイントです」
と書き換えられる。つまり「話すのが」の「の」は体言の役割を果たしている。したがってこちらは連体形である。
このように,「話す」の後に来るのが「ので」なのか「のが」なのかで活用形が異なるわけだが,その区別を中学生にさせるのは少々酷な気がする。そもそも義務教育としてそういう能力を育てることが必須なのか疑わしい。古文とは異なり,日ごろから慣れ親しんでいる現代語なので,動詞の活用形が何かなど全く意識せずとも文の意味は正しくつかめるわけだから,動詞の活用形の詳しい分析など全く不要である。
それよりも,
「彼は自分のことについてはほとんど話○ない。」
「これから私の生い立ちについて話○うと思います。」
「待て,話○ばわかる。」
「特に話○ことはない。」
「二人でいろいろなことについて話○た。」
「黙っていないで,何でもいいから話○。」
などの文において『話す』という動詞の正しい活用形を答えさせるという問題の方がよっぽど実用的ではないだろうか。
「話さ」や「話し」が未然形なのか連用形なのか正しく分類できなくとも中学生のその後の人生においてなんら差支えないだろう。それに対し,様々な動詞の適切な活用形を使用できるかどうかは日本語で他者とコミュニケーションをとる上では重要である。
要するに僕が主張したいことは,
・生きた言語においては適切な語形変化を適用する能力を高めることが重要であるが,
・古文など遺された文献を正しく解き明かすことが必要な場合は,すでに書かれた文における各語の活用形が何であるかを分析することが重要である
ということである。そして,学習者のどんな能力を高めたいのか,合理的な目標を定めたうえで語学の演習問題は作成すべきである。
こんなつまらないことで世の中学生に国語を嫌いになってほしくないと切に願う。
【補足】
国語教育や日本語文法に関しては全くの素人なので的外れかもしれないが,五段活用の未然形について気付いたことがあるので記しておく。
古文で,「アウ」という読みが「オウ」に変化する場合があることを学んだ。
それを踏まえると,
「よまない」
「よもう」
という,五段活用の未然形に現れる二通りの活用の謎が解決する。
つまり,
「よもう」
は元来
「よまう」
であって,語尾の「まう」の読みが「もう」に変化したと考えられるのである。
ひょっとするとこのことは的外れではなく,むしろ常識なのかもしれないが,今更ながらにそんなことに気付いた次第である。
【もう一つの補足】
あと,促音便と撥音便はおぼろげに覚えていたのだが,イ音便というのもあることはすっかり忘れていた。習った記憶がないが,そんなはずはないだろうから自分が忘れていただけだろう。
断っておくが,古文の話をしようというのではない。中学校で習う現代日本語の動詞の活用形のことである。
五段活用,上一段活用,下一段活用,カ行変格活用,サ行変格活用といった活用の型に関する分類や,未然形,連体形,終止形,仮定形,連用形,命令形といった用法による活用形の違いに関する分類を教えること自体にはさほど異議はない。
しかし,「次の文中において,傍線部の動詞の活用の種類と活用形の名称を記せ」といった識別問題はやらせる必要がないと思う。ややこしいのが連体形と終止形の区別である。
次の例文を見てほしい。
甲「あんまり速く話すので皆さんついていけません。」
乙「こうやってゆっくり話すのがポイントです。」
この二つの文にはどちらも『話す』という動詞が使われており,どちらも原型のままのように見える。
けれども,おそらく両者の活用形は異なるものと分類されると思われる。
甲は,
「速く話す/なのでついていけません」
というように,文の意味を損なわずに区切りを入れて二つの文に分割することができる。
したがって,こちらの『話す』は終止形ではないかと思われる。
他方,乙は
「話すコトがポイントです」
と書き換えられる。つまり「話すのが」の「の」は体言の役割を果たしている。したがってこちらは連体形である。
このように,「話す」の後に来るのが「ので」なのか「のが」なのかで活用形が異なるわけだが,その区別を中学生にさせるのは少々酷な気がする。そもそも義務教育としてそういう能力を育てることが必須なのか疑わしい。古文とは異なり,日ごろから慣れ親しんでいる現代語なので,動詞の活用形が何かなど全く意識せずとも文の意味は正しくつかめるわけだから,動詞の活用形の詳しい分析など全く不要である。
それよりも,
「彼は自分のことについてはほとんど話○ない。」
「これから私の生い立ちについて話○うと思います。」
「待て,話○ばわかる。」
「特に話○ことはない。」
「二人でいろいろなことについて話○た。」
「黙っていないで,何でもいいから話○。」
などの文において『話す』という動詞の正しい活用形を答えさせるという問題の方がよっぽど実用的ではないだろうか。
「話さ」や「話し」が未然形なのか連用形なのか正しく分類できなくとも中学生のその後の人生においてなんら差支えないだろう。それに対し,様々な動詞の適切な活用形を使用できるかどうかは日本語で他者とコミュニケーションをとる上では重要である。
要するに僕が主張したいことは,
・生きた言語においては適切な語形変化を適用する能力を高めることが重要であるが,
・古文など遺された文献を正しく解き明かすことが必要な場合は,すでに書かれた文における各語の活用形が何であるかを分析することが重要である
ということである。そして,学習者のどんな能力を高めたいのか,合理的な目標を定めたうえで語学の演習問題は作成すべきである。
こんなつまらないことで世の中学生に国語を嫌いになってほしくないと切に願う。
【補足】
国語教育や日本語文法に関しては全くの素人なので的外れかもしれないが,五段活用の未然形について気付いたことがあるので記しておく。
古文で,「アウ」という読みが「オウ」に変化する場合があることを学んだ。
それを踏まえると,
「よまない」
「よもう」
という,五段活用の未然形に現れる二通りの活用の謎が解決する。
つまり,
「よもう」
は元来
「よまう」
であって,語尾の「まう」の読みが「もう」に変化したと考えられるのである。
ひょっとするとこのことは的外れではなく,むしろ常識なのかもしれないが,今更ながらにそんなことに気付いた次第である。
【もう一つの補足】
あと,促音便と撥音便はおぼろげに覚えていたのだが,イ音便というのもあることはすっかり忘れていた。習った記憶がないが,そんなはずはないだろうから自分が忘れていただけだろう。