担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

動詞の活用形。

2015-09-01 01:21:02 | 学習法
日本の国語教育について思うところがある。話題は動詞の活用形である。

断っておくが,古文の話をしようというのではない。中学校で習う現代日本語の動詞の活用形のことである。

五段活用,上一段活用,下一段活用,カ行変格活用,サ行変格活用といった活用の型に関する分類や,未然形,連体形,終止形,仮定形,連用形,命令形といった用法による活用形の違いに関する分類を教えること自体にはさほど異議はない。

しかし,「次の文中において,傍線部の動詞の活用の種類と活用形の名称を記せ」といった識別問題はやらせる必要がないと思う。ややこしいのが連体形と終止形の区別である。

次の例文を見てほしい。

甲「あんまり速く話すので皆さんついていけません。」

乙「こうやってゆっくり話すのがポイントです。」

この二つの文にはどちらも『話す』という動詞が使われており,どちらも原型のままのように見える。

けれども,おそらく両者の活用形は異なるものと分類されると思われる。

甲は,

「速く話す/なのでついていけません」

というように,文の意味を損なわずに区切りを入れて二つの文に分割することができる。

したがって,こちらの『話す』は終止形ではないかと思われる。

他方,乙は

「話すコトがポイントです」

と書き換えられる。つまり「話すのが」の「の」は体言の役割を果たしている。したがってこちらは連体形である。

このように,「話す」の後に来るのが「ので」なのか「のが」なのかで活用形が異なるわけだが,その区別を中学生にさせるのは少々酷な気がする。そもそも義務教育としてそういう能力を育てることが必須なのか疑わしい。古文とは異なり,日ごろから慣れ親しんでいる現代語なので,動詞の活用形が何かなど全く意識せずとも文の意味は正しくつかめるわけだから,動詞の活用形の詳しい分析など全く不要である。

それよりも,

「彼は自分のことについてはほとんど話○ない。」

「これから私の生い立ちについて話○うと思います。」

「待て,話○ばわかる。」

「特に話○ことはない。」

「二人でいろいろなことについて話○た。」

「黙っていないで,何でもいいから話○。」

などの文において『話す』という動詞の正しい活用形を答えさせるという問題の方がよっぽど実用的ではないだろうか。

「話さ」や「話し」が未然形なのか連用形なのか正しく分類できなくとも中学生のその後の人生においてなんら差支えないだろう。それに対し,様々な動詞の適切な活用形を使用できるかどうかは日本語で他者とコミュニケーションをとる上では重要である。


要するに僕が主張したいことは,


・生きた言語においては適切な語形変化を適用する能力を高めることが重要であるが,

・古文など遺された文献を正しく解き明かすことが必要な場合は,すでに書かれた文における各語の活用形が何であるかを分析することが重要である

ということである。そして,学習者のどんな能力を高めたいのか,合理的な目標を定めたうえで語学の演習問題は作成すべきである。


こんなつまらないことで世の中学生に国語を嫌いになってほしくないと切に願う。


【補足】

国語教育や日本語文法に関しては全くの素人なので的外れかもしれないが,五段活用の未然形について気付いたことがあるので記しておく。

古文で,「アウ」という読みが「オウ」に変化する場合があることを学んだ。

それを踏まえると,


「よまない」

「よもう」

という,五段活用の未然形に現れる二通りの活用の謎が解決する。

つまり,

「よもう」

は元来

「よまう」

であって,語尾の「まう」の読みが「もう」に変化したと考えられるのである。

ひょっとするとこのことは的外れではなく,むしろ常識なのかもしれないが,今更ながらにそんなことに気付いた次第である。


【もう一つの補足】

あと,促音便と撥音便はおぼろげに覚えていたのだが,イ音便というのもあることはすっかり忘れていた。習った記憶がないが,そんなはずはないだろうから自分が忘れていただけだろう。
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勉強量を表す公式。(試論)

2014-11-06 23:36:15 | 学習法
勉強量 Q を表す簡単な公式を考案した。

コンピュータ科学などで耳にする「リソース(資源)」という用語を学習活動に当てはめてみると,リソースとして真っ先に思い浮かぶのは時間である。そこで,勉強の量は勉強に費やされた時間 T に比例するものと考えることにしよう。

しかし,疲れていたり,眠たかったりしているのに無理してダラダラしてしまったり,楽しみにしていることや心配事があってソワソワして気が散っていれば勉強の質は落ちるであろう。勉強の質は集中力,もしくは集中度 C にも比例するとみなすことにする。さきほどのリソースの話に即して言えば,集中度とは取り組んでいる勉強のためにどれだけ脳 (CPU) の機能を振り分け,働かせているかといった指標に相当する。

ところで,一日のうちにヒトが発揮できる集中力には限度があるらしい。つまり集中力は使うほどに消費されてしまうわけで,そういう性質もリソースといった言葉にしっくりくる。

以上の考察により,勉強の量を表す公式は次のようになる:

Q=CT.


これは勉強以外にも頭を使う仕事にも共通の公式である。

身体のトレーニングにも同様の公式が成り立つと期待されるが,その場合は上で述べた集中度を精神的な集中力と身体の疲れを表す疲労度として分離して扱った方がより現実に即しているであろう。


よく「勉強は量より質だ」というフレーズを耳にする。以前は量を単純に勉強に割いた時間とし,それに効率の良し悪しを表す質なるものをかけた

量×質

が学習の効果だと考えていたが,学習の効果というのが要するに実質的な勉強量というべきものではないかと考え,さらには質とは具体的に集中度のこととみなすことにして上のような式を立てたわけである。改めて見直してみると「質」と呼んでいたものを「集中度」という異なる言葉に置き換えただけのようにも思えるが,分析が少し詳しくなったつもりでいる。

ところで,Q が C と T のそれぞれに「比例する」と決めつけるのは単純化し過ぎではないかと思われるかもしれない。Q は,C の増加関数 f(C) と T の増加関数 g(T) との積 f(C)g(T) として表される,あるいはもっと譲歩して,一方の変数を固定したときに他方の変数の増加関数になっているような2変数関数 h(x,y) を用いて Q=h(C,T) と表せるといった方がより穏当であろうか。そう考えた場合,上で示した式は Q の 1 次近似といった意味合いになるだろう。
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その場でなんとかする。

2013-06-05 23:34:34 | 学習法
ふだん JR によく乗る。車両によっては,トレインチャンネルという運行情報や CM などの映像が見られることがある。トレインチャンネルには気に入った番組がいくつかあるが,そのうちの一つは日本気象協会が提供している気象情報である。

僕は空模様を気にする性質なので,電車の中で天気予報が見られるのはありがたい。しかも,天気予報だけではなく,番組の終わりの「おてんき豆ちしき」のコーナーが楽しみで,これまでにもいろいろ学ばせてもらった。

昨日そのコーナーで取り上げられていたのは,地球の自転速度である。日本付近は音速よりも速く秒速 380 m ほどで回っているらしい。

この数値はどうやって導かれたものなのだろうか。

その場で自分でその数値を算出できるだろうか。

状況設定を明確にしよう。

運よく椅子に座っている状態だとする。紙と鉛筆も持っているが,普通の電卓や関数電卓は持っていない。あとは普通の大人が持っていてもおかしくない常識と思考力,そして計算力を持ち合わせているとしよう。

そのような設定の下で,秒速 380 m に近い数値をはじき出すのが目標である。

計算に必要そうなデータは次のようなものである。


(1) 地球は1日で一回転する。1日は何秒か。

1日は24時間であり,1時間は60分,そして1分は60秒であるから,1日を秒に換算すると

24×60×60 秒

となる。


(2) 日本は地球が一回転すると何 m だけ移動するか。

言い換えると,日本が載っている緯線の長さは一周何 m なのかということである。

地球の半径を R m とする。日本の緯度は北緯35度とみてよい。日本から地軸に垂線を下すと,その垂線の長さは

R×cos35°m

である。緯線の一周分の長さはこの半径の円周の長さに等しいから,

2πR×cos35°m

である。

これが1日当たりの日本の移動距離であるから,これを1日の長さで割れば速さが得られる。


この長さを求めるには,R の値と cos35°の値が必要である。

ところが,必要なのは 2πR,すなわち地球一周分の長さである。ここでいう一周分とは赤道の長さのことである。

もともとメートルという長さの単位は

「地球一周の長さの 4万分の1 を 1km とする」

と定義されていた。現在は別の定義が採用されているが,赤道の長さは 4万 km だとみて差し支えない。

したがって,2πR の値は

40,000×1000 m

である。

問題は cos35°である。30°の回りで cos を Taylor 展開して近似値を求めるというのも一つの手だが,手計算でやるには少々面倒である。もっと手軽に線形補間で大体の値を見積もることにしよう。

数直線において,35 は 30 と 45 の間を 1:2 に内分する。つまり,

35=(2/3)×30+(1/3)×45

である。

この関係を用いて

cos35°≒ (2/3)×cos30°+(1/3)×cos45°

と見積もることにする。cos のグラフは 35°の付近で上に凸であるから,実際の cos35°の値は右辺よりも少し大きいはずであるが,右辺の値で代用することにする。

cos30°と cos45°はそれぞれ √3/2,√2/2 という正確な値を知っているが,小数に直さなければここでの目的にはそぐわない。そこで,さらに大雑把に

√3≒1.7,

√2≒1.4

と,やや小さめの近似値で代用することにする。そのおかげで計算はずいぶん楽になり,


cos35°≒0.8

というキリの良い近似値が得られる。


以上により,日本の移動スピードは

0.8×40,000,000 /(24×60×60) m/s

となることがわかった。

こういう計算は,まず可能なかぎり約分し,最後に渋々割り算を実行するにかぎる。その結果,結局 10,000÷27 を計算すればよいことになる。これは 370.370370... のように循環節 370 を持つ循環小数になる。

ともかく,このような大雑把な計算で

秒速 370 m

という数値が得られた。北緯35度の緯線の長さを見積もる際に小さめの近似値ばかりを使用したので,正確な値よりも小さめのはずである。したがって,秒速 380 m よりもやや小さい数値になったものの,十分に満足の行く結果が得られたといえよう。


こんな風に,自分が今その場で使える知識だけである数値を見積もることができるか?と,あれこれ考えるのはよい頭のトレーニングになる。
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センター試験・生物I に挑戦。

2013-03-30 01:10:30 | 学習法
思うところあって,今年は高校生物(ただしそのうち,旧課程の『生物I』のみ)を勉強しようと思い立った。

平成25年度のセンター試験が行われたころに,とりあえず平成24年度の本試験問題にチャレンジしてみた。

試験時間は60分であるが,50分ちょっとで解答が完了した。物理Iと化学Iは比較的最近に解いた経験があるが,生物分野のセンター試験に挑戦したのは,これが人生初である。

細胞の各部分の名称や植物の分類,花の各部分の名称など,小中レベルの生物の知識すらほとんどない。もちろん過去に習ったはずだが,ほとんど記憶に残っていない。名称を覚えるという暗記物は大の苦手である。それはもう,胸を張ってそうと言えるほどである。エッヘン。

ただし,高校一年の一年間は生物を学んだ。母校の方針で,物理・化学・生物・地学の理科全分野を生徒全員に学ばせることになっていたのである。ちなみに,地学もほとんど覚えていない。地震に P 波と S 波の二種類があることと,モホロビチッチ面という,一度覚えたら容易に忘れることのない用語だけは記憶に残っている。地学も鉱物や断層の名称,古代の時代区分など,暗記物だったという印象しか残っていない。だから記憶にないのは当然である。エッヘン。

というわけで,僕の生物に関する知識がどの程度のものなのか,ある程度の見当はついたことと思う。ただ一つ付け加えておくと,高校の生物の先生から聞いた,当時流行っていた R. ドーキンスの「利己的遺伝子説」に非常に興味を覚えて関連書籍を少しだけ読んだことがあること,社会生物学という分野にも興味を覚え,E.O.ウィルソンの本の翻訳の背表紙を図書館で眺めていつか読みたいとため息をついていたことも付け加えておこう。あ,あとローレンツの『ソロモンの指輪』にも強く憧れたものである。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』もたぶん読んだ。今西錦司の「今西進化論」は気になっているものの,ちゃんと勉強したことはない。そういえば,大学に入りたての頃に『ゾウの時間・ネズミの時間』の著者である本川達雄先生が担当された NHK 教育の人間講座だったかなんだかを受講して,課題のレポートを添削していただいたことがあったのを思い出した。懐かしい思い出である。オパーリンの唱えた生物の起源のイメージはよく夢に出てきたし,原始地球の大気組成で放電によってアミノ酸を合成したというミラーの実験も強く印象に残っている。オカルトにはまっていた少年時代は,カール・セーガンの宇宙人の存在確率の導出公式にも興奮を覚えたものである。科学小説『コンタクト』が映画化されるよりも前に地球外知的生命体探査計画の SETI は知っていた。子供の頃は昆虫博士を自認していたが,ファーブル昆虫記は読まずじまいだった。シートンの動物記も名前は知っているが手に取ったことはない。ダーウィンとウォレスの代表的著作の翻訳が岩波文庫で出ていることを知って買ってはみたものの,全然読んではいない。NHK の世界生き物紀行とかいう感じのタイトルの,野生生物の生態を紹介する番組は大好きなテレビ番組の一つだった。シュテュンプケの『鼻行類』は人に薦めたい本の一冊である。

案外,生物学に関する思い出をたどり始めたら,次から次へといろいろなことが思い出されてしまって,一つだけ付け足すつもりが,そうではなくなってしまった。

実は結構本気で生物学を専攻しようかと思っていたころもあったような,ないような。心理学を補完するサル学にも興味があったし,生命の起源や進化論にも強い関心を抱いていた。日高敏隆氏の著作も何冊か面白く読ませていただいた。

ともかく,僕は生物学は好きなんだけど,学校の授業はからっきしダメ,という残念な生徒であった。生物学から離れて二十年ほどが経過した今,当時残念な学生だった人間がどのくらいの学力を保持しているのか。これぞまさしく真の実力試験である。もちろん,試験勉強などは一切していない。

もったいぶるのはここまでにして,自己採点結果を述べよう。

ジャジャーン!

平成24年度本試験の自己採点結果は,41点でした。

大学入試センターの公式発表によると,平均点は 64.00 点だそうなので,全然ダメな感じである。

問題を解いていたとき,知らない用語ばかりが出てきて何度投げ出しそうになったことか。特に,物理Iでは第4問までしかないのに,生物Iでは第5問まである。そのことに気づいたときは絶望感に襲われた。

どの選択肢を選べば良いかわからない不安におびえなければならない時間はいつまで続くというのか・・・!


それから二カ月が経過した。やはり何の準備もしないまま,今度は平成25年度の本試験にチャレンジした。50分そこそこで解き終わった。

自己採点結果は 47 点。

僕の実力はセンター試験 40 点台だということは,これでほぼ確定である。50点には届かなそうである。

平均点は 61.31 点とのことで,平均点が平成24年度よりも悪かったにもかかわらず,僕の得点は上がったわけである。まあ,これはたまたまだろう。


物理Iの経験から,センター試験の理科は教科書をしっかり読み込めば対処できると信じている。そこで生物Iの教科書をとある大学の図書館から借り,四日間かけて平成25年度の問題に関する箇所を勉強した。だが,期待は裏切られた。教科書にセンター試験の問題の正解がすぐにわかるような「そのまんま」の記述はあまりなかったのである。いくつかの文章で述べられている事実を組み合わせて正誤を判断しなければならない問題がほとんどであった。そういう意味では,教科書をただ読んでいるだけではだめで,そこから得た知識を組み合わせて正しく推論し,判断する能力も要求されることがわかった。センター生物は思ったより手強いのである。

なお,用語の意味がわかっていないと正解できない問題など,知識があるかないかが問われる問題の正答率は当然のごとく低いが,実験結果の表やグラフを読み解く問題は生物の知識がなくとも論理的な思考さえできれば正解できるものなので,そうした問題には楽しめた。グラフを読み解くのは子供の頃は苦手だったが,機会があるごとに意識して訓練するようにしてきたおかげで,その手の問題は逆に得点源になっていたようだ。あとは以前よく視聴していた健康番組から学んだ知識もときおり役に立った。

要するに僕はこれまでの人生で培ってきたことを総動員して試験問題にアタックしたわけである。その結果が得点 4 割だったというのは,高いんだか低いんだか,それとも,まあそんなもんなのか,全くわからないが,教科書からごく一部のトピックスに関してだけとはいえ,知識を仕入れた今,他の年度の試験を解いてみて,50点以上を取ることができたら,学習の成果の表れだと言ってよいだろうと思う。

近いうちにその機会をもちたいものである。
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お手本だけではなく。

2013-01-23 20:07:55 | 学習法
何がしかの技術を身につけようとするとき,完全なる自学自習では習得に多大な労力と時間がかかることがある。

しかし,そのように煮詰まっている人が,その技術を持っている人にちょっとお手本を見せてもらうだけで,すぐに習得できることがある。

これはおそらく,すでに何度も試行錯誤を積み重ねてきた結果,お手本を見ただけでコツをつかみ,さらにはそのコツに従って自分のすることを修正する能力も身についていたというだろう。

そして,

・自分自身で試してみたことがない人に,いくら達人がお手本を見せたとしても,できるようにはならない。

・いろいろと試行錯誤をして失敗を繰り返したからといって,その行為が無駄だったわけではない。

ということが言えるのではないだろうか。

また,お手本からコツを読み取ろうとする意志や,なぜそうするとうまく行くのかという理論を自分なりに理解していることも大切な要因であろうと思う。

人に物を教えることを生業としている僕としては,教える相手の内部状態を「お手本からコツを吸収できるような状態」に仕上げるにはどうしたらよいか,方法を考えていろいろと工夫しなければならないところである。

こうした問題は,なかなかすぐにはうまいやり方が見出せる性質のものではないだろうから,ずっとあれこれ考え続ける姿勢が大事であろう。また,他の人が考案したよさげな方法を知ることも大事だから,そういった情報収集にも努めなければならない。

昨日味わったコマ回しの体験から,こんなことを考えた次第である。
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本当の「お茶の間留学」。

2012-04-19 20:41:44 | 学習法
ある有名語学教室の画期的な商品として知られる「お茶の間留学」。

時代は,本当に海外の大学の授業をインターネットを通して受講できるような段階に来ている。
しかも,無料で受講できるものがあるという。

それは Coursera というプロジェクトである。

今日初めてネットのニュースで知り,さっそくいくつかのコースについて,簡単な解説を視聴してみた。

Jackson 教授と Shoham 教授の "Game Theory" というコースの紹介ビデオの冒頭では,アメリカ式のジャンケンを見ることができて興味深かった。
"Three, two, one!" の掛け声で同時に手を出していたが,石,紙,はさみ(グー,パー,チョキ)の手の形は日本のものとほとんど同じだった。ただ,Jackson 教授のパーの出し方は,掌を下に向けているようだった。また,指は開かずに出すようだった。

Sedgewick 教授の "Introduction to Analytic Combinatorics, Part I" というコースは,名前に惹かれて見てみたが,どうやら50年ほど前に Knuth 氏によって始められた algorithm の分析的な研究のことを指すらしい。
コース内容は,母関数 (generating functions) などの組み合わせ論で用いられる基本ツールの紹介のようである。

級数を自分の授業で扱う際に,収束だの極限だのという話だけでなく,母関数という側面も紹介すべきかもしれないという気になってきた。母関数としてのべき級数の応用面を思い出すことができて,よかった。

その他,Genesereth 教授の "Introduction to Logic" というコースの紹介も覗いてみた。
Prerequisites として,高校程度の数学の知識が要求されている。といっても,基本的な文字式の計算ができたり,簡単な代数方程式を解ける程度でよいらしい。ただし,集合,関数,関係という概念を理解していることも必要とのことである。残念ながら自分の授業で関係についてまで言及している時間的な余裕はないので,これは断念しようかと思う。

あと,Ghrist 教授の "Calculus: Single Variable" は,自分の授業の参考にするため,ぜひとも受講したいコースである。
科学や工学のさまざまな分野に微分積分を応用できるようにするために,すでに学生が習ったことのある微分積分の知識を,考え方に重点をおいて見直すのがコースの目的であるとのことである。

計算は,電卓やコンピュータソフトに任せるのではなく,鉛筆と消しゴム,紙,そして自分自身の頭を使ってやるように,とのことである。アメリカではグラフ電卓を用いて数学の問題を解かせるのが普通らしいので,学生は計算力がほとんどないのかもしれない。この姿勢に僕は強く賛同する。

「微分積分は,数学の他の分野と同じく,習得するにはそれなりに時間と労力がかかるものです。覚悟を決めて,課題に一所懸命取り組むのであれば,こちらとしてもそれに応えて,微分積分のココロを可能な限りわかりやすく (clearly) 説明するよう努力します。」というようなメッセージが書かれている。このコメントと全く同じ気持ちを僕も抱いている。

なるほど,こういうことについてはっきりしたメッセージとして発信するべきなのか,ということを学んだ。

ただ,こうした授業に対する心構えは一緒であっても,取り上げる題材や,取り上げ方などはおそらくかなり違うのだろう。特に,Ghrist 教授は,数学のいろいろな分野と,科学や工学のさまざまな分野の,全く新しい組み合わせを提案して多くの成果を挙げている方のようなので,そうした知見や経験,発想法がふんだんにちりばめられているだろうから,知的に大変面白い内容ではないかと想像している。そういう観点は僕には全くなかった(というか,ない)ので,受講生の知的好奇心を刺激する度合いは,間違いなく圧倒的に Ghrist 教授の方に軍配が上がるだろう。

うーん,今年度は「数学の使い方」という観点を導入しようと漠然と意識していたのだが,他の学問領域に応用するという意味での「使い方」を意味していたわけではないので,僕が考えていることと Ghrist 教授がやっているだろうこととは,似ているようで,その実は全くの別物といえるかもしれない。

そういうことも自分の授業に取り入れられないか,検討を続けていかなければならないと,思いを新たにした次第である。
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ビジネス書に学ぶ学習法。

2012-04-17 01:26:49 | 学習法
『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』というタイトルの本があるそうな。

その本の写真を見ると,帯に「目標は実現しましたか?」という類の,耳に痛い問いかけが並んでいる。

その本の趣旨から話は逸れるが,「それをやって,本当に~ができるようになったのか」と自問自答するのは,非常に大切なことである。

何で聞いたかは忘れたが,日本人が外国人に「英語は苦手で・・・」といつもの決まり文句を言ったら,「英語を話せるようになるために,あなたはどんな努力をしたんですか?」と言われたという話を聞いたことがあり,身のすくむ心地がした。

僕は,一体,これまでの人生で,苦手なことを克服するために,何か真剣に取り組んだことがあっただろうか?

そういう厳しさというか,真摯さというのは僕がもっとも苦手とするところであるが,そういう問いかけは,無視したり忘れてしまうにはインパクトがありすぎた。

そこで,僕は,新学期に自分の授業に出てくれている学生を励ますつもりで,そういう問いかけをするように心がけている。

あなたは,苦手だと思っている数学に,真剣に向き合い,苦手を克服しようと試みたことはありますか?


また,単に勉強しろ,勉強しろと発破をかけるだけではほとんど意味がないとも思っている。

もっと突っ込んで,「効率のよい勉強の仕方」というものを意識してほしいとお願いしている。

何か新しいことを習得するには,それなりの時間と労力を必要とするだろうが,ただ漫然と時間を浪費してしまってはもったいない。

できるだけ,「これをこうしたらこうなれるはず」という戦略を立てて取り組んでもらいたいのである。

問題に取り組むにしても,その問題から何をつかみとればよいのか,自分なりにトレーニングの意義を少しでいいから考えて取り組めば,何も考えずに取り組むより,はるかに多くのことを学び取れるのではないだろうか。

大事なのは,意識改革というか,物事の捉え方を転換することである。

意識改革というのは,人にそうしろと強制されてできるようなものではない。必要性をはっきり自覚して,だんだんとそういう考え方を受け入れ,自発的にいろいろと試みるようになるのを待つほかはない。

だから,僕の目指す意識改革を実現するための即効性のある方法はないだろう。できることといえば,ことあるごとにここに書いたようなことを話して,自分の学生を刺激し続けて行くことだけである。


なお,誤解しないでほしいのは,別に何事に対しても戦略的であれといいたいわけではないことである。
自分の好きなことだったら,ただその「好き」という思いを燃料にして,思う存分,好きなようにその好きなことに熱中してくれればそれでよいと思う。

ここで書いた処方箋は,苦手意識があるが,やらないわけにはいけないことにどう取り組むか,というような状況に向けた話である。また,一所懸命やっているつもりなのに,ちっとも成果が上がらないというときに,それまでのやり方を見直すときに意識してチェックしてほしいようなことでもある。

まあ,ここで述べたことは心構えに関する抽象的な事柄であって,具体的な実践方法とは異なるので,具体的なやり方は個々人で工夫してもらうしかない。

できれば,そういう模索や試行錯誤すらも楽しんで取り組んでもらいたいところである。

いやいややっても身につかないが,あえて楽しもうと気持ちを切り替えるだけで,不思議と効果が上がるかもしれない。

何か,「これは楽しめそうかな」というとっかかりを自分で探す,あるいは自分で決めてしまうとよいかもしれない。それが何で楽しいのか,人に説明できなくてもかまわない。
他の誰もがつまらないと思っていることであっても,自分にとってなぜか楽しいのであれば,それで十分である。
人と楽しさを共有できないのは寂しいことではあるが,そういうこともあるのだと割り切って,自分の感性を大事にするしかないというのが僕の考えである。
自分の感性を大事にできるのは,他ならぬ自分だけしかないのだから。

そうやって,少しずつ自信をつけていけば,いろいろと楽しめるようになっていくのではないかと思う。

もちろん,うまく行かないこともあるだろう。
そういうときは気持ちが落ち込むだろうが,何がしか気分転換を経た後,また新たなスタートを切ればよい。
「自分はたくましくなろう」と思い込んで,再び前を向いて取り組んで行きたいものである。

おそらく,もっとも苦しいのはつまずきながら前に進もうとしているときではなくて,何もしないで立ち止まっているときである。

とにかく,何かに手を付けてみる。「動く」,あるいは「動かす」,「動かそうとする」ことである。
実際にそうやって動き始めるのがなかなかできない人もいるだろう。僕もそういうタイプの人間である。
だから実際に動き始めるということがどれほど難しいかもよく知っている。

けれども,実際に動き始めることが大事なことに変わりはない。やはり自分を信じて(無理やり信じ込んで)やっていくしかない。

一旦決意して,実際に作業に取り掛かってみると,心の重荷がとれて気が軽くなる。それは間違いない。
なるべくなら気分良く生きて行きたいものである。
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大学生の勉強時間。

2012-04-07 20:30:14 | 学習法
大学における勉強について,新入生に向けて語りたいことをつらつら書き綴ったら,A4サイズの用紙に7ページほどの分量になってしまった。これは多すぎる。

初回の授業でガイダンスを兼ねて演説したとしても,4~50分間ほどもしゃべり続けることになりそうなので,断念せざるを得ないかもしれない。内容を削ると迫力が損なわれてしまいそうなので,あまりやりたくはない。とはいえ,推敲の余地はあると思うが,推敲に費やせる時間がない。

演説の原稿を書く際,大学の1単位は何時間の学習を想定しているかの基準について確認したくなったので,検索してみた。

件の内容は大学設置基準の第二十一条第二項に書かれている。
それによれば1単位あたり「45時間」の学修を要するとのことである。

巷では1コマ90分の授業が大学設置基準でいう「2時間」に相当するという解釈がまかり通っているようだ。
ついでに言えば,試験時間は授業に含まれるのかどうかということで,試験も含めて半期15週必要なのか,試験は別で15+1週の16週なのかという極めて大事なことすら曖昧らしい。

正直,あきれて開いた口が塞がらない。

こういったわけのわからん基準に振り回されている大学というのは実に哀れなものである。大学の教員といえば,そのほとんどが最先端の研究に従事して国の国際競争力の向上に貢献している,いわば国家の財産である。そうした頭脳が明晰で優秀な人材がこんなつまらないことに頭を悩まされているというのは,明らかに国益に害をなしていると思うのだが,そういうことには当局は考えが及ばないのかねぇ。

さらについでに言えば,高校の学習指導要領で一次変換が周期的に出たり入ったりするのもいい加減やめてもらいたい。複素数と一次変換の不毛なせめぎあいは一体なんなのだろうか?


話を大学の単位に戻そう。1単位の科目であれば,15週の授業で「45時間」のうち,「30時間」を授業で費やすことになるから,残り「15時間」を授業外,つまり自宅学習にあてなければならない。
まあ,90分=「2時間」ということなら,「1時間」=45分なのだから,日ごろの予習・復習や,課題に取り組む時間,そしてテスト勉強を合わせれば

15×45/60=11.25時間,つまり11時間15分

くらいならあっという間に消費してしまうことだろう。

問題は,2単位の科目である。

2単位の科目の場合は,「90時間」を学修に割り当てなければならない。
そのうち,授業で消費されるのは

「2時間/週」×15週=「30時間」

だけであるから,残りの「60時間」=45時間を自宅学習に割り当てなければならない。
予習に90分,復習に90分かけるとちょうどよい計算になる。

そういうわけで,建前に忠実に従った場合,2単位の授業があれば,さらに2コマ分の自宅学習が必要になることになる。

多くとも一日5コマ=7時間半,どんなに頑張っても6コマ=9時間が限度だろうが,一日に2単位の科目が2コマあるだけで,影の「自宅コマ」がその2倍の4コマあるわけだから,限界の6コマに達する。

一日2コマの授業を週五日受けたとして,半期で10単位取得できることになる。
そうすると,一年間で20単位,四年間で80単位ということになる。

まあ,まじめに大学設置基準とやらに沿おうと考えるとそういうことになるのだということは,大学生ならば知っておいてよいと思う。他人ごとどころか,まさに当事者なのだから。


興味のある方は「大学設置基準」というキーワードで検索するとよいでしょう。
参考になるサイトが多数ヒットします。
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使える数学を意識する。

2012-03-17 00:54:52 | 学習法
志村五郎氏の自伝を読んだ上で,ちょっと前に買って読まずにいた,同じ著者の『数学の使い方』(ちくま学芸文庫)を最近ページっているのであるが,ようやく志村氏からの強いメッセージである「数学の使い方」という言葉の意味がわかってきた気がする。

「使う」という言葉は,「(それを)何に,どう使うか」という,目的や具体的な方法が付加情報としてついていなければ,それ自体ではほとんど意味がない言葉であるから,「数学の使い方」という言葉は,何に数学を使いたいかによって「使える数学」とは何かという判断基準が変わるため,そのことも明確にしないと何を言いたいのかよくわからないスローガンに過ぎない。

けれども,「数学をどう使うか」という,数学の使い方を意識することは,学習段階においてもきわめて有効なのではないかと思うようになってきた。

例えば高校で三角関数を習ったとして,いろいろな演習問題をやらされる。そういった問題を解くときに,問題の解法をただ単に身に付けようとするだけでは,応用力はあまり培われないのではないだろうか。

そうではなくて,問題を解いたり,解法を学ぶときには,それまでに習った三角関数のどういった重要事項が利用されているのか,という,知識の使い方を強く意識するようにすれば,重要事項の活きた使い方が身につきやすいのではないかと思うのである。

例えば,y=sin2θ+2cosθ-1 の最大値と最小値を求めよ,という典型的な問題を考えてみよう。

右辺の関数は sinθ と cosθ の混じった形をしているので,どのような変化をするのか,そのままではさっぱりわかりそうにない。

ところが,sinθ と cosθ は2乗の和が 1 になるという三平方の定理を満たすので,それを利用して sin2θ を cos2θ で置き換えて,右辺の関数に cosθ のみが出てくるようにすれば,見通しはぐんと良くなる。

こうして,正弦や余弦の2乗を含む式を取り扱うときには,三平方の定理を使って正弦か余弦のどちらか一方しか現れない式を作ればよいのだな,と三平方の定理の使い所がわかるようになるのである。

けれども,y=cosθ+&sinθ の最大値と最小値を求めよ,というように,2乗が出てこない式では三平方の定理を直接使用するわけには行かず,別の手法が必要となる。

なお,この問題に関しては,三角関数を合成して右辺を1つの三角関数で表すのが最も簡便な解法であろう。

それ以外には,右辺を2つのベクトル (1,1) と (cosθ,sinθ) の内積とみて,Cauchy の不等式を適用して最大値と最小値のあたりをつけるというやり方も考えられる。

それとは別に,(cosθ,sinθ) は単位円周 x2+y2=1 上の点だから,その円周上の点 (x,y) に関して,x+y の最大値と最小値を求めるという,図形と方程式の単元の知識を利用した解法も考えられる。

また,三角関数の合成を知らなくても,右辺を2乗すると cosθsinθ の最大値や最小値を求める問題に帰着され,これをさらに2乗して三平方の定理を利用して,正弦だけか余弦だけを使って表される関数の最大・最小問題に帰着することもできる。

以上の解法は,いずれも高校で習う重要事項をうまく使った解法であるから,それらの知識がいかに使われるかに注意して解法を学べば,得るところは大きいだろう。

さらに,知識の使い方を常に意識して問題に対峙すると,「あの公式は使えないかな」と,知っている公式を積極的に使ってみようという意識が生まれ,自力で解法を見出しやすくなるのではないかと思う。

ただ漫然と「これどうやって解くのかなぁ」と,何のビジョンも持たずに受身の姿勢で問題を眺めるのと,「さっき学んだ公式をうまく使って特に違いない。一体どうやって使うんだろう?」と攻めの姿勢で問題に取り組むのとでは,頭の働き方が全く違う。

答えを見て解法を学ぶときも,「ふえー。そんなこと思いつかないよ。」とか,「ふーん。この問題のときはこうするのか。」と受身の姿勢でいるよりも,「なるほど,あの公式はこういう風に使えるのか。この問題にも使えるかなぁ。」とか,「確かにこの公式を使うと解けるけど,じゃああの公式を使っては解けないのかな。」などと,積極的にいろいろなことが思い浮かんで,『その問題の解き方』という狭い知識ではなく,もっと広い知識としての『その公式の使い方』が身についていくことが期待される。

同じ教材を用いて同じ時間をかけて学んだとしても,学ぶときの着眼点,あるいは問題意識の持ちようによって,学習効果は雲泥の差になるのではないかと思うのである。

大事なのは,意識改革なのである。
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どう教えるか,それが問題だ。

2010-10-06 09:57:34 | 学習法
ある知人の方から面白い記事を紹介してもらった。
大学生向けのメッセージだが,大学で教えている僕にとっても,自分の教育に対する考え方・姿勢について考えさせられるような内容である。
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