担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

まぜっかえす。

2011-01-31 23:53:46 | Weblog
「それはなんの役に立つのですか?」と聞かれたとき,次のように切り返すことに決めた。

「逆に問いますが,その質問に対する答えを何にどう役立てるおつもりですか?」
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すごい試合だった!

2011-01-30 02:36:25 | 爺ネタ
最後の最後まで冷や冷やさせられる超展開の試合運びだったけど,実にきれいなダイレクトボレーシュートでスカッとした。
守護神も神がかり的なファインセーブを連発し,見応えのあるゲームだった。

今夜は寝つけそうにない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうじきキックオフ。

2011-01-29 23:50:03 | 爺ネタ
ここまで来たからにはぜひ優勝して欲しい。

眼がしょぼしょぼするけど,テレビを観て応援しようっと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直円錐の展開図。

2011-01-28 23:42:54 | mathematics
直円錐とは,頂点から底面に下ろした垂線の足が底面の中心に一致するような円錐のことである。
円錐において,頂点と底面の円周の一点とを結ぶ線分を母線という。

直円錐は小学校の算数または中学校の数学でお馴染みの図形だが,展開図についてふといくつかの疑問が浮かんだ。


【疑問1】

直円錐の側面を母線に沿って切り広げると平らな扇形になるが,それは何故だろうか?

この疑問はふたつに分けられる。ひとつは,「側面を切り開いて平にのすことができるのは何故か」ということであり,もうひとつは「切り広げた形はなぜ扇形なのだろうか」というものである。

前者は決して自明ではないと思う。なぜなら,直円錐の側面は曲がった曲面であるため,平らに広げようと思っても凸凹(でこぼこ)になってきれいに平坦にならせない可能性があるからである。
むしろ,曲面を切り開いたときには平らな形にのせないのが普通だと思われる。
例えば蜜柑の皮をむいて広げると,どうしても中央付近が膨らんでしまい,平らにすることはできない。
この問題は『曲面の曲率』に関係があると思うのだが,曲率に関する知識がないため,現時点では保留にせざるを得ない。

後者は解決した。
いま,直円錐の頂点をA,底面の中心をOとし,底面の円周上の任意の異なる2点をP,Qとおくと,二つの三角形AOPとAOQは,角AOPと角AOQが共に直角で等しく,辺 AO は共通で,辺OPと辺OQは共に底面の半径に等しいので,二辺とその間の角がそれぞれ等しいので合同になる。
したがってこれらの斜辺APと斜辺AQは等しく,それは直円錐の母線の長さに等しい(母線の長さは一意的に定まることを証明したことにもなっている)。

したがって,一本の母線と底面の円周に沿って切り開いたとき,底面の周と一致していた側面のへりの点は,すべて頂点から等しい距離にある。
よって,側面が平にならせることを認めれば,切り広げた側面の,底面と接していたへりの曲線は,頂点を中心とし,母線の長さを半径とする円周の一部分となることがわかる。そのような図形が扇形に他ならない。

なお,母線の長さが一定であることから,直円錐の頂点を中心とし,母線の長さを半径とする球面は,直円錐の底面の周にぴったり接することもわかる。


【疑問2】

直円錐を習った際に,必ず直円錐の表面積や体積を求める問題を解かされる。
表面積を求める際に,特に則面積を求めるため扇形の面積を求める必要があるが,扇形の面積は中心角に比例するという事実が使われる。ところで,それはなぜだろうか?よくよく考えてみると証明を習った覚えはない。
例えば,円を三等分や四等分すると中心角と面積のいずれも三等分や四等分されるというのは,図を描いてみれば素直に納得できることである。
しかし,たったそれだけの限られた例で成り立つからといって,いきなり『扇形の面積は中心角に比例する』と言明するのは,論理が飛躍しすぎているのではないだろうか。
小学生のときや中学生のときは疑問に思わずその事実を暗記しても仕方がないかもしれないが,大人になった今,その事実を証明できるものなのだろうか。それとも,やはりただ人の言うことを鵜呑みにするしかないのだろうか。

そのように自問してみたとき,どうしたものかと途方に暮れたが,すぐに次のような説明に思い至った。
ここで紹介する証明では,理系の大学生になって初めて習う「重積分」を使用する。

xy 平面において,中心が原点で,半径が R,中心角がαであるような扇形を D とする。
より具体的には,D の点 (x,y) について,x=rcosθ,y=rsinθとおいたとき,0≦r≦R かつ 0≦θ≦α(≦2π) であるという設定である。
D 上で恒等的に 1 という2変数関数を重積分すると,積分の値は D の面積に一致する。
(重積分の値は D を底面とする高さ1の柱状の立体の体積になるから,体積が底面積×高さであり,高さが 1 であることから体積の値と底面積の値が等しいことがわかるだろう。)
そこで,積分の変数変換を使うと dxdy=rdrdθ となるので,

(D の面積)=∬[D]dxdy=∫[θ=0→α]∫[r=0→R] rdrdθ=αR2/2

となり,扇形 D の面積が中心角αに比例することがきちんと証明された。

ちなみに,中心角に比例する量として有名なものに扇形の弧の長さがあるが,こちらは証明すべきことがらではなく,角の大きさの定義,つまり弧度法の原理そのものなので,定理ではなく定義である。

なお,直円錐の体積が,同じ底面を持つ円柱の体積の3分の1に等しいということも重積分を用いて証明することができる。また,球の体積や表面積の公式も重積分を使えば容易に導くことができる。


子供の頃に鵜呑みにしていた事柄で,大人になってからようやくその事柄が成り立つ理由が正しく理解できるような事はたくさんある。今回の話はそのほんの一例に過ぎない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近読んだマンガ。

2011-01-27 23:52:33 | もじりあーの。
日頃大変お世話になっている方に,最近話題のマンガを貸していただいた。

タイトルは,え~っと

惨劇の巨人

だったかな?いや,内容は確かに悲惨だけど,なんか違う。

三匹の巨人

かな?いやいや,むしろ遠のいたぞ。
これじゃ有名な童話みたいじゃないか。
そもそも巨人を数えるときに『匹』でいいのかも疑問だ。
『人』も変だから,「巨人を三体捕捉!」みたいに『体』を使うのが普通っぽいな。

寸劇の巨人

じゃあ,少し戻ってきたけど,学芸会とか宴会の出し物みたいだな。

衝撃の巨人

お,すごく近くまで来た感じがする。

親切な巨人

そう,優しい力持ちで,いつもみんなのことを助けてくれて・・・って,これじゃ,話の内容と真逆じゃないか。

反撃の巨人

っぽい気もするが,巨人に反撃されるより,むしろ反撃するという話だったような・・・。

激震の巨人

上の階でゲームに夢中で飛んだり跳ねたりされたら,そりゃ,地震かと思うわな。
いやいや,そうでなくて,攻め込んでくるぞ!みたいな感じの言葉で・・・。

侵略の巨人

は,内容的にはあっていると思うんだけど,なんか他のとごっちゃになっているような気がする。

進撃!イカレ娘

ああ,これと似た響きのアニメが最近あったでゲソ。それと間違えたんじゃなイカ?

・・・もうだめだ。今日のところはこの辺にしておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地形の変化。

2011-01-26 23:50:48 | Weblog
ある豪雪地帯に日帰りで行ったときのこと。

夏場によく使っていた道が突然行き止まりになっていたため,ルートの変更を余儀なくされた。
その結果夜の雪道をさまよう羽目となり,高速バスのバス停にたどり着いたのは,発車時刻から20分も経過した後だった・・・。

車道の脇には雪が2mほどの高さに積まれ,まるで迷路の壁のように視界を遮る。

さながら,季節によってルートが変化するゲームのようだ。

やむなく現地で一泊して翌朝帰路に発つと,昨晩歩いた自分の足跡は,その上に降り積もった20cmほどの雪に完全に覆われていた。

雪国を甘く見ていたわけではないが,これほどまでとは思わなかった。

雪国,恐るべし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1102>オイラー、リーマン、ラマヌジャン

2011-01-25 17:42:51 | 
黒川信重,オイラー、リーマン、ラマヌジャン 時空を超えた数学者の接点,岩波科学ライブラリー126,2006.


本書を貫いているのは「素数」という大テーマである。
ピタゴラスの数学から話が始まり,「ゼータの統一」という壮大な夢が語られて話は終わる。

ゼータというのはゼータ関数と呼ばれる関数のことで,素数と密接な関係があることが知られている。
著者は「ゼータ研究所」で日夜ゼータを研究している,日本,否,世界で屈指のゼータの専門家である。
著者の紹介文を見ると趣味は夢想だそうで,ゼータに関する壮大な野望(ゼータ統一のさらに先にある絶対数学の夢まで)が語られる。

表題は3人の著名な数学者の名前で,ゼータに関する彼らの研究のほんの一端が紹介されている。

著述のスタイルは基本的に平易なのだが,後半には「鑑賞」する他ない数式がいろいろ出てくる。
僕をはじめとする一般の読者にとっては,「はあ,そーゆーのもあるんかね」くらいに了承するしかないようだが,細部にこだわらず,「ゼータの旅」を楽しもうという心がけに徹すれば,これらの数式を理解できないことを苦痛に思う必要はなく,「すげーな,こんな風に数式に表せてしまうのか!」とか,「数学者はこんな式からあんな事実を引き出してしまうのか!」などと,おのぼりさん気分で気楽に楽しんでしまえばよい。

というか,気になる行間を埋めようなどとまじめに考えてしまうと大変なことになるだろう。

とはいえ,意欲的な高校生ならば理解できるだろうという程度の内容については,証明や比較的簡単な計算が本文中に示されていたり,付録で詳しく解説されているので,ただの鑑賞では物足りない読者をも満足させるような配慮もなされている。

本書で紹介されている数式はどれもこれもとてつもない数学的センスで導かれているものばかりである。それらの一部の証明を見ると,見事としか言いようがない。とても等しいとは思えない二つの数が,思いもかけない方法で等しいことが示される様は,まるで魔法を見せられているようで,僕などは,感動どころか戦慄すら覚えるほどである。

この本を手にした人は,そうした高度な数学理論に感嘆するだけでなく,「ゼータは生き物だ」という『トンデモ』な主張に出会って面食らうことだろう。

僕も数年前にその手の主張に初めて出会ったときには「何ぶっ飛んだことを言ってるんだろう」と強い違和感を抱いたものだが,本書を読み終えて,「ゼータは生き物」というとらえ方が少し理解できた気がした。

僕の仕事は数学を教えることだが,数学が出来ないと嘆く学生が数学が出来るようになる秘訣は何だろうかと,あれやこれやとよく考えている。そして最近編み出した秘訣は「数学のことを四六時中考えること」である。
某サッカー漫画に「ボールはトモダチ」という名セリフがあるが,それと一緒で,数学のことを『肌身離さず』常に考え続けていれば,しだいに数学のことが少しずつわかってきて,その結果,数学に親しみも湧くだろうし,慣れてくるだろう。
ただのクラスメートであれば名前どころか顔すらほとんど覚えられないものだが,友達になって四六時中一緒にいれば相手のことがよくわかってきて親しみが増し,名前や顔(だけでなく,もっと細々とした個人データまでも)を苦もなく覚えてしまうものである。

それと同じで,数学をわかりたければ,数学に対する『親密度』をアップするのが効果的ではないか,と思うのである。
そして,「ゼータが生き物である」という表現は,まさに,ゼータ関数の全てを知りたくて日夜ゼータのことを考え続けた結果芽生えた『親密感』から生まれ出たものなのではないだろうか。

逆に,ゼータのことを眺める新しい視点を編み出すことによって,ゼータの理解がより深まる可能性もある。そこで,「ゼータは○○である」という構文を利用して新機軸を生み出そうということなのかもしれない。

いずれにせよ,著者は持てる夢想の力の全力でもってしてゼータ関数を理解しようとしているのだろう。

数学とのつきあい方というのは人それぞれであり,各々が思い思いの方法で数学とつきあっていけばいいのだ,という『自由かつ柔軟な精神』を目の当たりにできることこそが,本書の最大の魅力かもしれない。


最後に,本書 p.32 に掲載されている

0≦x≦1/2 のとき 1/(1-x)≦10x が成り立つ

という不等式の,高校の数III風証明を以下に(白字で)記しておく。
エレガントな証明は本書の付録にあるから,完全なる蛇足なのだけれど。


【証明】
f(x)=(1-x)10x とおくと,
f ' (x)=10x((1-x)log10-1).
ここで x の範囲に注意すると 1-x≧1/2 であり,10>32>e2 だから log10>2.
ゆえに (1-x)log10>1 なので f(x) は単調に増加する。
よって f(x)≧f(0)=1.
これより示すべき不等式が得られる。
なお,等号は x=0 のとき,またこのときに限り成立する。q.e.d.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1101>岡潔 数学の詩人

2011-01-25 17:00:02 | 
高瀬正人,岡潔 数学の詩人,岩波新書1154,2008.


記念すべき2011年の最初の一冊。
とはいえ,昨年末から年末年始をはさんでようやく読み終えたというのが実情である。

本書は多変数関数論(複素変数の多変数)で世界的な業績を上げられた,岡潔氏の研究人生を紹介した本である。

岡潔氏は生前膨大な研究ノートを残しており,それらの資料から,氏の代表作である十編の論文の成立過程が浮き彫りにされている。

それらの大量の資料が作成された時期の推定や,当時の岡潔氏を取り巻く情勢や岡潔氏の心情の分析を述べた書籍なのだが,史実になるべく忠実にあろうというスタイルであり,叙述はなんとなく物足りなかった。
ブラウン管越しに他人の人生をただのぞき見ていただけのような感じであり,読んでいてどきどきするようなスリリングな筆致ではなかったからである。それはもちろん,本書の性格からいって当然のことであり,僕が述べたことは一読者の全くもって身勝手な感想に過ぎない。

それに,どうにか読み終えたものの,漠然とした読後感しか残っていない。
原因としては,岡氏の研究内容が専門家ではない僕にはさっぱりわからなかったことと,さまざまな出来事の時系列的な相互関係がつかみきれなかったこととが挙げられる。

岡氏の重要な業績は「上空移行の原理」「不定域イデアルの理論」といった印象的な言葉でまとめられているが,多変数関数論を全くかじったことのない僕には何のことやら全く想像がつかなかった。

また,僕は文章中に現れる年号(のみならず,数字一般)が極めて苦手で,しかも歴史に弱いため,「昭和十六年」などと言われてもどんな時代だったのかよくわからないため,情景を想像しながら読むこともできなかった。

いずれも読み手である僕の側の問題であり,またもや身勝手な感想を述べてしまったわけであるが,年号の問題については,親切にも巻末に付されている年譜の助けを借りればずっと読みやすかったかもしれない。ただ,本文では年の表記に元号と西暦の両方が使われていたので,せめて元号に必ず対応する西暦もつけるといった配慮があれば,僕のような困難を抱えている読者にもやさしかったのではないか,とも思うのである。

なお,本書を読んでも岡潔氏の「詩人」たる側面があまり伝わってこなかった気がするのだが,氏の詩人ぶりを堪能したければ,やはり氏の著作を読む他はなさそうである。
本書をきっかけにして,岡潔氏のエッセイを読んでみたいと思っている。

なにやら不満ばかり書き連ねてしまったような気がするが,20世紀という激動の時代を独特のスタイルで生きた類い希なる数学者の生き様を学べる本書のような本は貴重である。数学者たちの面白いエピソードだけを集めたような数学史の本だけでなく,本書のような本格的な数学史の本が今後も多く現れることを願っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古風に表現してみる。

2011-01-24 02:08:17 | 食べ物,アニメ,資格試験・検定,株
昨今のアニメはタイトルが気になるものが多い。

今期のアニメにも気になるタイトルのものがあるが,そのうちのひとつをもじってみた。

『兄上のことなど全く好いてはおりませぬぞえ』

それは残念でござる。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫のかわいがり方。

2011-01-23 19:21:14 | Weblog
猫の世界では相手の目をじっと見据えるのは特別な意味があるそうだ。
じっと目を見詰め合っているとき,場はピリピリとした一触即発のムードに包まれるのである。

我が家でも,よく猫と目が合う。
目が合うと,僕はじっと相手を見据える。

「なんだ?その目は・・・。」

必至に目を細めたり瞬いたりして友愛の情を示してくる相手の猫を見据えたまま,僕は手を出さずにはいられない。

十分近づくと,僕は猫の顔に向けてシャッと素早く両手を繰り出す。

ニャシッと猫の顔を両手で挟み,固定する。

「そんな目で俺を見るんじゃねぇ!」

独り言をつぶやきながら,僕は指を猫の目めがけて突き出す。

目頭の気になるアイツを爪で軽く引っかくと,ぽろっと取れる。
時々,ネットリしたゲル状のものの塊が「釣れる」こともあるが,とにかく目ヤニがあると気になって仕方がないのである。

どの猫も必ず目ヤニをつけているわけではなく,目ヤニがほとんど出ない猫と,毎日のように目ヤニをつけている猫とは決まっているので,個体差があるようだ。猫は前足で顔を「洗う」という毛繕いをして目ヤニや耳垢を掃除しているのだが,毛繕いのマメさにも大きな個体差があるので,目ヤニのありなしにはそれも大きく関係しているだろう。

「よーし。これで美人に(かっこよく)なったぞ。」

目ヤニを取り終えると,頭をなでて猫にこう声をかける。
次の瞬間,ある見過ごせない問題点に気づいた僕の顔は,満足そうな猫の表情とは裏腹に,ピキッと凍りつく。

「なんだ,鼻の穴のところのその黒いのは。そんな鼻でスピスピ鼻息を鳴らしてるんじゃねぇ!」

鏡を見て外見をチェックしたり,毎朝顔を洗ったりする習慣をもたない猫の顔を見ると,いろいろ見過ごせないことが出てくることであることよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする