担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

<読書感想文1701>夏海公司,なれる!SE,2週間でわかる?SE入門

2017-11-20 21:13:07 | 
夏海公司,なれる!SE,2週間でわかる?SE入門,電撃文庫 (2010).


世の中に,この手のジャンルがあるということは十年ほど前から気づいてはいた。

しかし,腰を据えてちゃんと一冊通してラノベを読み通したのは,これが初めてである。

この歳で,いまさら学園ものだの,厨二病全開の世界系ファンタジーだのを読む気にはあまりなれないが,この作品の主人公は大卒でスルガシステム(株)というマイナーな中小企業で先輩にしごかれながらどうにかこうにか業務をこなしていく,といった,オトナ向けの物語のようなので,近所の図書館に置かれていたこともあり,試しに読んでみた。

主人公の桜坂工兵のOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)を担当する,いわば直属の上司は,どう見ても少女にしか見えない年齢不詳の女性,室見立華(りつか)である。Ixy 氏のイラストが表紙やカラーイラストに載っているのだが,うん,中高生の女の子にしか見えない。そしてどうしても『とらドラ!』の手乗りタイガーとダブってしまい,作中での立華のセリフも,私の脳内では釘宮理恵さんの声で再生されてしまう。

文章も,これがラノベか!という感じで,過去に目にした漫画やアニメの一シーンをもじったような光景を目に浮かべさせるような表現ばかりであり,もう,漫画化か,いっそアニメ化してくれたらと思うほどである。もし自分がアニメ業界の関係者で,資金も潤沢に持っていたとしたら,1クールだけでもいいから,この作品のアニメの制作指揮を執りたいものである。

内容については,ストーリーものである手前,ネタバレは最小限に抑えたいのでほとんど触れるつもりはないが,二つ感想を述べておく。

まず一つ目は,「働くって,大変だね」という,まあ,当たり障りのない感想である。現場で次々と発生する想定外のトラブルを,己のスキルや機転で辛くも乗り越えていく。その様は,緊急医療現場の医療スタッフや,窮地に陥った戦線の兵士さながらである。目まぐるしく変化する状況の中で,集中し,全身全霊をもって適応し,問題を解決していく。そんな暴れ馬みたいな現実に日々もまれ続けていたら,若くともすぐに消耗してしまうだろうが,戦いの場でこそ自分が生きていることを心の底から実感できる,という境地は,特に少年マンガではよく取り上げられる話ではある。このように,そうした境地に共感する癖がついているため,この作品をも好意的に受け入れることができるのだろう。

二つ目は,この作品に手を出した直接の動機ではあるが,SE,特にネットワークエンジニアの業務についてちょっぴり理解が進んだかな,ということである。といっても,自分がいま自宅で使用している屋内 WiFi でさえ,ルータのコンフィグ(設定)を自分で作ったわけでもなんでもなく,ただ単に電源を入れてケーブルをつないだらいつの間にか普通に使えていた,というド素人丸出しの体たらくなので,「SEの仕事,俺,わかっちゃったかも!」なんていうのはおこがましさを通り越して,犯罪の域に達しようとしているともいえるのであるが。

私はこの歳になるまで(この歳になっても)一般企業に勤めた経験がないため,疑似職業体験をさせてくれる,本作のような読み物は非常に貴重である。2010年にこの第一巻が刊行されてから,現在では第十二巻まで出ているようなので,ぼちぼち続きを楽しんでいこうと思っている。

ていうか,知り合いに SE を志望している就活生がいたらまっさきに薦めたいね,この本。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1601> ヒラノ教授の線形計画法物語

2016-10-20 23:37:55 | 
今野浩,ヒラノ教授の線形計画法物語,岩波書店,2014.


最適化や数理計画法,線形計画法に興味がわいたので,手当たり次第にいろいろな教科書に当たっている。調べているうちに今野浩氏が日本を代表する数理計画法の専門家の一人であることが分かってきたので,図書館の検索サービスで氏の著作リストを見たところ,この本に行き当たった。線形計画法の優れた入門書は多数あり,いずれか一冊にじっくり取り組めば基礎的な理論は一通り概観できそうであるが,1970年代から現在に至るまでの線形計画法の発展の軌跡を,著者の実体験を織り交ぜながら平易に解説している本書は,それらの本格的な教科書の副読本として,この分野に進もうと思っている方々にぜひとも一読を薦めたい珠玉の一冊である。この分野におけるもっとも重要と思われる基本事項が10ものコラムで簡潔に紹介されているのも,この分野の概要をつかむのに大いに助けになると思われる。

失礼な表現ととられるかもしれないが,むしろ心よりの信愛を込めて言い表せば,「おじいちゃんの昔語り」といった趣の本である。森口繁一,伊理正夫,線形計画法の創始者 Dantzig など,名前は聞いたことがあるが詳しい業績や人物像は一切知らなかったスーパースターたちの逸話が盛りだくさんで,ミーハーな私にはたまらない内容だった。そして線形計画法や関連する分野に関する大まかな概観を得ることができたのは非常にありがたいことである。特に双対定理という重要な定理の由来に関するくだりがあったのは嬉しかった。誰が何をしたか,といった歴史的な側面にも強い関心があるので,こうした記録を書き残してくれているのはとてもありがたいことである。もちろん,本書に登場したさまざまな研究者たちの人物像や評価は,この著者という一個人から見た一面に過ぎないので,すべてを鵜呑みにするのは危険であろうが,貴重な資料であることに変わりはない。

ところで,一松信氏の『偏微分と極値問題』(現代数学社)の第7章に,人間の食事に関して線形計画法で最適解を探したらとんでもない献立が出来上がって大笑いになったといった話が書かれており,具体的にはどんな内容だったのか気になって仕方がなかったのだが,元ネタは本書の第4章で紹介されているエピソードかもしれない。

線形計画法という分野は何度か「線形計画法は終わった」と言われた時期があったそうだが,その度にブレイクスルーが起こり,今に至るまで発展を続けているようである。しかし,本書を最後まで読んで,正直なところ「やはり線形計画法はもう終わったのではないか」という感想を抱いてしまった。これは線形計画法を必要としている応用の現場を全く知らない門外漢が抱いた誤った印象であろう。現場に身を投じれば,今野氏が言う通り,解決すべき難題は山積していることを肌でひしひしと感じるに違いない。とはいえ,私の興味のあり方は氏が随所で批判している経済学者や日本の数学者と同じようなものであって,実務に役立つ具体的な問題には全く興味がないので,既存の理論のごくごく基本的なところを学ぶだけで十分満足できてしまいそうである。
ただ,この本を読むと,若かりし頃の氏にならって Dantzig の分厚いテキストを読破したらどんなに素敵だろうかと夢想してしまうが,あくまでも憧れであって,夢見るだけで終わることだろう。読破したいと夢見た本はこれまでもたくさんあったが,どれ一つとして読破した試しがないからである。

あと,この分野における古典というべき文献をこの本を通じて何冊か知ることができたのもありがたかった。ミーハーなので「定評」に弱いのである。

また,子供の頃に耳にしたことのある「カーマーカー特許」という騒動の一部始終をこの本で初めて知った。そういうわけで,個人的には,前々からうすぼんやりと気になっていた疑問をいくつも解決してくれた,読み応えのある一冊であった。さらには企業で数学の理論がどう活用されているのか,雰囲気をうかがい知ることができたのも収穫であった。実質的に線形代数を必修科目として学ばされる工学系の学生たちにも推薦したい書である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書の秋,ですね・・・。

2014-10-04 00:28:14 | 
10月に入って,今日でもう4日目。

昨日は室温が32℃にまで上昇する夏のような暑さだったが,季節は秋。そう,読書の秋,である。

毎年企画してはぽしゃるのだが,今年も懲りずに志を立てよう。


年内に10冊,なんでもいいから本を読む。


折よく,今まで図書館で何度も借りてきては読み切らずに返却していた本を一冊,一念発起して購入したばかりである。

それはさっそくその10冊のリストに入れておく。

残りの9冊も先ほど選定したが,選定の基準は

・現時点でそこそこ読む気があり,

・一週間もがまんすれば読み通せるはずのあまり薄くもなく,難しくもない本

という,かなり弱気なものである。

我ながら,ここまでハードルを下げているのに完遂できるかはなはだ心もとないが,これから約90日間のチャレンジを開始したいと思う。

っていうか,さっそく寝る前に少しでも読み始めるようでないと絶対無理だよなぁ。

よ,よし。さっそく1ページ読むか・・・!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ショウペンハウエルの言葉。

2012-09-19 23:51:33 | 
高校生くらいの頃だったろうか,何かのきっかけで19世紀ドイツの哲学者ショウペンハウエル (Arthur Schopenhauer) の『読書について 他二篇』(斎藤忍髄訳,岩波文庫)を読んだことがある。最近読み返したくなって手に取ってみた。

訳者のあとがきも含めて112ページほどの薄い本である。訳は十分に読みやすいし,内容は明快である。しかし,決して読みやすい本ではない。

どういうことかというと,書かれている言葉がどれも強烈に辛辣で,ぐさぐさと胸に突き刺さるため,さらさらと読み飛ばすわけには行かず,いちいち引っかかるのである。

ただ,それは辛いというよりも,逆に心地よいくらいである。

あまりにも爽快なので,最初に収められている「思索」の冒頭 (p.5) をここに引用してしまおう。

数量がいかに豊かでも,整理がついていなければ読書の効用はおぼつかなく,数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが,知識の場合も事情は全く同様である。いかに多量にかき集めても,自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で,量では断然見劣りしても,幾度も考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り,一つの真理をものにするといっても,それを他のさまざまの知識や真理と結合し比較する必要があり,この手続きをへて始めて,自分自身の知識が完全な意味で獲得され,その知識を自由に駆使することができるからである。我が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。だが知るといっても真の意味で知られるのは,ただ既に考えぬかれたことだけである。

この数行に,僕がここのところ頓(とみ)に実感していることが凝縮されている。

たぶん一ヵ月ほど前から南雲道夫氏の「正ノ量ト実数トニ関スル一考察」(全国紙上数学談話会 246 号 1086)を解読しようと試みている。そこでは全部で12の定理が述べられ,いくつかのものは証明を完全に省略されているものの,大半の定理にはきちんとした証明がつけられている。それらは6つの公理(内ひとつは公理として挙げなくても良いような性格のものなので,実質的には5つ)から導かれるものなので,なるべく証明が目に入らないように気を付けつつ,公理と定理をルーズリーフに書き写し,用事で出かける際には常に持ち歩いて定理に自力で証明をつけようと努めた。その手の話にはある程度の経験を積んでいるので,自分の実力を試す良い演習になると考えたからである。その時は Suppes 氏の似たテーマの論文を並行して読んでいたが,そちらの定理は18個と南雲氏の定理の数よりは多いが,すべて証明を考えるのに二日もかからなかった。しかし,南雲氏の論文は,独自の理論を展開する後半が僕にとっては非常に難しく,あれから一ヵ月ほど経った今でさえ,あと一つの定理の証明がなかなか完結しない。

このように,たった11ページほどの論文でさえ容易に読み終わらないのであるから,定理をいちいち練習問題だと思って自分で証明しようなどいう悠長なことをしていては効率が悪いように思えてきた。しかし,自分はこの論文で一体何を学び取りたいのか,そこのところをよくよく考えてみると,あながち非効率なやり方ともいえない。

僕はこの手の話のプロになろうと心に決めているので,単に南雲理論を知識として仕入れるだけでなく,やはり自力で証明を付けられるくらいにならなければならない。そうしてようやく南雲理論の何たるかがおぼろげにわかってくるのである。実際,この一ヵ月の取り組みで,南雲氏のやり方とは少し違った形で同じ目的を達成できることに気が付いた。その見通しに立った上で得られた定理8の証明は,Archimedes の原則だけではなく,それより強力な連続の公理を必要とするものであったが,Archimedes の原則だけで十分だという南雲氏の証明の方が優れていたため,気落ちしたこともあった。しかし,ざっと南雲氏の証明を眺め,きちんと理解しないまま放置し,二週間ほど経過したころにもう一度自力での証明を試みたところ,南雲氏は背理法によって示していたところを,背理法によらない直接的な証明を見出すことができた。その一方で,定理10の証明は以前に考えた実数の積が可換であることの証明と全く同じ考え方が通用するのではないかと気づき,その目論見は成功したが,それは1971年に発表された南雲先生の論文の英語版の Proposition 3.2 の証明とほとんど同じで,しかも南雲先生の証明の方が僕のより少しすっきりしていたため,またがっかりした。

ちなみに,南雲先生は独創的な理論を考案し,いろいろな命題を構想し,しかも実際に証明して見せたわけであるから,そういった他人の考えた理論体系を眺めているだけの僕とは雲泥の差がある。だからこそ,その差を少しでも埋めるべく,証明くらいは自分の頭で考えたいのである。

余計な説明が少し長くなってしまったが,このような状況にあると,上に引用したショウペンハウエル氏の言葉が身に沁みてよくわかるのである。僕の場合は,ショウペンハウエル氏の言うところの「知識」は定理や証明に該当する。僕の状況にフィットするようにアレンジすれば次のようになるだろう:

いくら定理を多量にかき集めても,自分で証明を考えぬいた定理でなければ,その価値は疑問である。証明を幾度も考えぬいた定理であればその価値ははるかに高い。

もちろん,最先端の理論を展開していく上では,必要な定理の数は極めて膨大なため,証明をすべて自力で考えるわけにはいかない。それではいくら時間があっても足りなくなる恐れがある。けれども,できるだけそのような姿勢で学ぶよう努めるべきであろう。そうしなければ「使える知識」は手に入らないのであるから。

自分のやり方に少し迷いを感じていたが,ショウペンハウエル氏の言葉は実にタイムリーに僕の心に響き,迷いを吹き飛ばしてくれた。焦ることなく,地道に考え抜く作業をこつこつ続けていかなければならないと,思いを新たにした次第である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1202>鳥のように

2012-02-18 00:09:01 | 
志村五郎,鳥のように,筑摩書房,2010.


著者の志村五郎氏は数学界ではおそらく名前を知らぬ人はいないだろうというくらい有名な方である。

1930年生まれだというから,現在ちょうど82歳になろうという人の自伝的エッセイである。回想録という言葉がぴったりなのかもしれない。

実はこれはその回想録の第二弾で,第一弾は『記憶の切絵図』(正しくは「絵」は旧字体になっている)で,それとこの『鳥のように』と,さらに中国説話文学を解説した『中国説話文学とその背景』を同時に図書館で借りた。
いずれも筑摩書房から出版されている。よほど筑摩書房に気に入られたのだろう。
その他,中国古典文学に関する本がもう一冊出ているが,それは僕の身近な図書館には置いてないので,当分読む機会はなさそうだ。

感想文を書くなら,まず『記憶の切絵図』の方から始めるのが順序だろうが,正続の二冊を同時に拾い読みしているうちに,比較的筆致がより軽やかで,また分量も少ない『鳥のように』の方を先に読み終わってしまったので,こういう順序になってしまった。

読む順番も,なんとなく心惹かれた章を拾い読みするという調子で,著者の配列に従わなかったので,読んだ感想もろくにまとまっていない。だから感想文というほどのものを書けるわけではないが,全体としてのおおまかな感想は,「文章が非常に読みやすく,読んで面白かった」という,あまり書く価値もないような平凡な一言に尽きる。
文章の読みやすさは,著者の頭の明晰さをそのままよく反映しているかのようであり,すらすらと読めた。
ただし内容に関しては,著者は相当な知識人であって,絵画,西洋古典音楽はもとより,中国の古典にも精通しているようで,昔の思い出とからめて自身の好きであったものを中心にそれらの知識がふんだんに披露されるので,その方面の常識に乏しい僕などにとっては,たとえ著名な画家や音楽家の名であっても,ただの記号としてなんら実感も伴わずに眺めるだけで終わってしまった。
それは旅行の思い出として挙げられているさまざまな場所に関する思い出話についても同様であって,その点に関しては著者の叙述を十分に味わうことが出来ないのがつくづく残念である。

そうか。インターネットを駆使すれば,絵画のいくつかはもちろん,音楽を実際に聞いたり,地図サイトのサービスで海外の国の町並みをコンピュータの前で楽しむことも出来たのか。
まあ,僕はそこまで徹底する性質ではないので,せっかくの思い付きではあるが,実際に実行するつもりはほとんどないが。
そういう楽しみ方も今のご時勢では可能なので,「残念である」の一言で片付けるのは少々簡単すぎたかなとちょっと反省してみたかっただけである。

実は,志村氏の著書に手を出したのは,少々動機が不純で,「怖いもの観たさ」という感情からであった。
前著の『記憶の切絵図』が,一部の数学者の間でかなり評判が悪いらしいのである。

『記憶の切絵図』の感想文を書く機会があれば(少なくとも今は書くつもりでいるが)そちらで引用すべきであるが,とりあえず足立恒雄氏の批評があることを書き記しておく。

足立氏はかなり激しい調子で憤っているが,それは知人について辛らつなことが書かれているのが我慢ならなかったのだろう。
また,足立氏は数学基礎論に強い学問的な関心を寄せておられるが,その分野の開祖ともいうべき Hilbert に関する志村氏の批評も腹に据えかねたようだ。

そして足立氏は「若い人には読んでほしくない本である」とさえ述べているが,僕はその「若い人」に入っているのかどうか。世間的に見ると,僕はオッサンとも言えるし,若造とも言えるきわめて微妙なお年頃なので,ちょっとよくわからない。
仮に僕が「若い人」のカテゴリーに入るとしたら,足立氏のツィートを読んで,書き手の意図に反して,志村氏の著書を是が非でも読みたいという気になってしまった人がいるということは,書き記しておく意味があるかもしれない。

そういうゴシップ的なものを期待して興味本位でめったに行かないある図書館まではるばる借りに行った次第である。

ただ,借りて数日間は,寝る前に本を手に取り,もし読んで気分が悪くなって眠れなくなったら困るなと心配して,なかなか読む勇気が出なかった。
けれども,ある日なんとはなしに読み出したら,とりあえず出だしは特に何か感情を刺激するようなことは全く書かれておらず,すいすいと読めたので,少し安心して読み進めるようになった。

と,こんなことはやはり『記憶の切絵図』の(まだ見ぬ)感想文の方に書くべきであるから,この辺でやめておく。

『鳥のように』に話を戻すと,まず表題と同じ題の章がある。それはペルシャ時代の陶器にまつわる思い出を述べたもので,どうやらそこに書かれている,ある陶器に描かれた鳥の絵が,著者の内面をよく表しているという趣旨のことが書かれており,それはぜひとも見てみたいと思ったが,「あとがき」に陶器の写真が本のカバーに使われているとある。
それには困った。図書館の本によくあるように,カバーが外されてしまっていて,写真を確かめようもないのである。

そんなときこそインターネットである。書名で検索すると,ただちに Amaz○n のサイトで表紙の写真を確認することが出来た。
本当に,恐ろしいくらいに便利な世の中になったものである。

写真は解像度があまりよくないが,どんな絵が描かれているかを知るにはそれで十分である。
なんだか虫のようなくねっとした鳥が描かれている。「あ,なんだかかわいらしい」というのが,僕の第一印象である。
「美しいか」と誰かに問われれば,「美しい」と答えるだろうが,自分から「美しい」という言葉を使って感想を述べることはなかったであろう。
なぜだか僕には「美しい」という言葉にアレルギーがあって,うまく使えないのである。
たぶん,あまりに主観的過ぎる言葉なので,使うのをためらってしまうのだと思う。
人が「これこれは美しい」といくら熱弁をふるっても,自分の中でその言葉がしっくりこなければ肯定するわけにもいかない。また,何が美しくて何がそうでないかの基準がいくら考えてもよくわからず,やはり個々人が持っている固有の価値観に過ぎないという気が強くするのである。
よく数学でも「美しい」という表現が使われることがあるが,あなたはそう思っているようだが,私にはピンと来ませんな,という反応しか感じたことがない。
その人が何を美しいと思うのは勝手だが,同意を求められても困る。正直言って,僕にはその美しさがわからないのである。
そういう「美しさ音痴」なところは,僕に数学者としての素質がない証拠の一つなのかもしれない。

他に気の付いたことといえば,『記憶の切絵図』の第十章でイニシャルのみで名を挙げられている「M氏」というのは,おそらく本書の第十一章で批判している丸山眞男氏のことであろう。
なお,その第十一章に,「正しく物事を視ることが出来るというのは重要な能力」であるという著者の信条が述べられている。本書と『記憶の切絵図』には,そういったメモをしておきたくなるような大事な言葉が時々出てくるので,文字通りなるべく拾ってメモに残しておこうと思う。
本を返却する前にちゃんとやろう。

その丸山眞男批判にしてもそうだが,著者は,ある種の「教祖」とでも言うべき,周囲の人々から神様のようにあがめられているような大物に対してかなり辛らつに筆をふるうことがしばしばある。
その一例が上に触れた Hilbert 批判でもある。
「なんだか知らないけど偉いから」という理由で盲目的にその教祖を神格化して持ち上げているのが我慢ならないのだろう。その教祖たちが実際にどういった人物だったのか,良い点,悪い点をひっくるめて冷静にちゃんとおのおのの頭で判断すべしという考えなのかもしれない。よく知りもしないで権威に媚びへつらうなという箴言とも取れる。
もっとも,著者が実際にそう述べているわけではないので,僕がそう感じたというだけのことであって,著者の思いとは異なるかもしれない。

ちょっと僕にはわかりにくいが,著者は独特の(というか,非常に洗練されたというべきか)ユーモアのセンスを持っているようで,ときどき笑い話が引用されているのだが,それを読んでみても笑いどころがよくわからないのは寂しい気持ちがした。
ちょうど,周りがどっと受けているのに,自分だけその笑いがわからず取り残されたような,そんな気持ちである。

ただ,『記憶の切絵図』の第九章のタイトルが「いかに学んだか」であり,『鳥のように』の第三章のタイトルが「いかに学ばなかったか」という,それをもじったタイトルになっているという遊び心くらいには気がついた。
もっとも,これは明々白々すぎて誰でもわかることだろうから,いかにも自分ひとりの手柄のようにこう書いたのは自分の程度の低さを露呈する以外の何物でもないが。

僕は気に入った文章に出会うとすぐにそれに影響されてしまうので,この感想文もちょっと「志村調」を意識して書いている。

志村氏の著作を三冊ばかり眺めて目に付いたのは,「も少し」という言い回しである。「もう少し」ではなくて「も少し」という表現を使うのは志村氏の特徴といってよいと思う。
もう一つ,「一ヵ月」あるいは「一ヶ月」とよく書かれるところを,「一個月」のように書くのもこだわりを感じた。
これはどうでもよいつまらない話ではあるが,気付いたことの一つとして記しておいた。

あと,第十二章の「夜明け前」は,有名な島崎藤村の小説から取ったタイトルで,前半部分にその「ネタバレ」のようなものが書かれていたのは,読むときに抵抗があった。
要するに僕はまだ藤村の『夜明け前』を読んだことがなかったので,「夜明け前」とは何をさす言葉なのか,という解題を先に読んでしまうことに躊躇したのである。
まあ,結局は読むことにしたのだが,いつか『夜明け前』を読むときには,そこに書かれた「志村説」を検証するような気分で読むことになるだろう。
おそらく,そうしたところで「志村説」がやはり正解かもしれないな,という感想を持つのだろうと予感がある。その説は十分に説得力があると感じたし,何より僕こそは権威に弱い人間の一人なのだから。

なお,p.88 にある「わからない話」に対する僕の見解を白い字で下に書いておく。
わさびは,西洋わさびの替わりに料理に使うつもりだったのではないだろうか。日本のわさびと西洋わさびは風味が違うが,ねりわさびのチューブを大量に買っていった男は日本のわさびが気に入っていたのかもしれない。あるいは,日本料理屋や寿司屋の仕入れだったのかもしれない。それらはいかにもありそうな話だと思うが,どうであろうか。

本書と『記憶の切絵図』は,著者もまえがき等で述べているように,戦前,戦中,戦後といった時期を中心に,昔の日本の様子を記録にとどめたという側面が非常に大きいので,数学や数学者などの話は置いて,その時代の風俗について何か知りたいという人がいたら,読むとよいと思う。著者は,他書には記述が見られないからここに書き残しておく,といったような断りを随所で述べているので,そうした箇所の内容は当時を偲ぶ際には大いに参考になるのではないかと思う。
僕は歴史に全く疎いので見当違いの意見かもしれないが,そうした時代の記録として,これら二書は十分な価値があるのではないかと思う次第である。

僕は結構回想録の類が好きなので,そういう意味で本書も楽しんで読むことが出来た。
著者の人物評はいろいろ異論もあるだろうが,まあ,そういう物の見方・考え方もあるのだな,という心構えで読めば,さして毒になるような話でもないように思えた。
もちろん,自分が親しくしている人がズバズバと切られていたら,心中穏やかではないだろうが・・・。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1201>あなたの勉強法はどこがいけないのか?

2012-02-12 23:53:05 | 
西林克彦,あなたの勉強法はどこがいけないのか?ちくまプリマー新書105 (2009).


きっかり四年前に,同じ著者の『「わかる」のしくみ』という本の感想文を書いた。
時期が全く重なるというのは偶然であるが,春休み期間というのは僕にとってこの手の本を読みたくなる時期なのかもしれない。

近所の図書館の蔵書検索機能で数学教育関係の本を探しているときに目を引いたのがこの本のタイトルである。

ある日,時間を作って図書館に借りに行ったら,ちょうど他の人が借りてしまったあとのようで,少しじらされてしまった。

学習心理学や認知心理学の知見をベースに,物事を学ぶ際の心構えといったようなことに関する著者の主張を述べた本である。

「知識」を覚えただけでは物事を理解したことにはならない。
その「知識」を関連する事柄にあてはめたとき,「わからない」ことが生じる。
その「わからない」ことがわかるように,持っていた「知識」を変化させる。
そうしてわからなかったことがわかるようになり,その知識は他の事柄を理解することにも役立てられるようになる。

大まかに言えば,著者のいう「知識」や勉強の質といったものは,そうした一連の学習過程のことである。

例として,三角関数の公式群を挙げている。
三角関数の分野は,高校数学の中で最も公式の種類が多い分野であるが,それらを全部覚えているだけでは,三角関数を用いた実際の問題にはあまり役に立たない。
むしろ,核となる事実(例えば加法定理だけ)をしっかりと覚えておき,二倍角や半角の公式,あるいは和を積に直す公式や積を和に直す公式は自分でいつでも導けるという人の方が,それらの公式を必要とする問題を後々まで解ける力が残っているものだそうだ。

したがって,たくさん暗記していることよりも,それらの使い方が身についているかどうかが重要なのである。

著者は例として小学校の割り算と掛け算についてもページを割いて解説している。
「1あたりの量」という統一的な視点に基づけば,割り算と掛け算を統一的に理解でき,具体的な文章題で割り算を使うのか,掛け算を使うのかを見分ける有効な視点も身につけられるということを力説するのである。
小学校でなぜ掛け算の順序についてうるさく言うのかについての著者の見解も述べられている(95ページ)。僕はその説は説得力があると感じている。

これは僕の見解であるが,文章を簡略化したのが数式だという観点に立つと,数式の意味する内容を文章に起こせなければならない。
その際,日本語の構造と相性の良い「語順」ならぬ「記号順」が生じるのは自然なことではないだろうか。
それは,どことなく「右利き」と「左利き」と同じようなものであって,順番の決め方に必然性があるというものではなく,文化によって決まる「好み」のような型である。
数式の意味,ないしは解釈もこみで掛け算は導入しなければ実際の生活で役に立てられないのであるから,掛け算の式にもおのずと文章による解釈がつきまとう。その際,読み方を何らかの形で固定しておかなければ初学者は混乱してしまうのではないだろうか。

おっと,いけない。つい本書とは異なる話で熱くなってしまった。

本書は,新書のシリーズの雰囲気からして,中高生あたりを読者に想定しているのだろうが,「はじめに」を読む限りでは,僕のような(?)大人の読者も視野に入れているようだ。

(47ページに中高生の英語の成績に関する統計データをグラフで図示してあるのだが,『相関関係』と言われても中高生にはちょっとわからないのではないか,という点が気になった。かくいう僕にもこのグラフの読み解き方はさっぱりわからない。)

確かに,大人が読んでもハッと気づかされるような刺激的な話がたくさんある。
そうした話は,主に理科から題材を選んで第四章にぎっしり詰め込まれているが,一番面白かったのは,自分で簡単に実験して確かめることができた第二章 2節に述べられた実験である。

そこに載せられた例題は,ブランスフォード他『頭の使い方がわかる本』というのに載っているものとほぼ同じだそうだ。

11個の短い文章が書かれている。

それらは,次のような型の文章ばかりである。

A. イケメンの男が
B. フライパンを持っていた。

こういう,A と B の結びつきがいまいちよくわからない文章が11も並んでいて,それらを読んだ後,B の部分を隠して,A の男が何をしていたのか思い出せるかという問題である。

問題の意味を理解した瞬間,僕は「あ,無理だな,こりゃ」と,早々に諦めてしまった。

ページをめくると,なぜ A である男が B という行為に及んだのか,11例すべてにやや詳しい解説がなされている。

ここで挙げた例で言うと,

C. イケメンの男は,これからの時代は顔だけではモテないと考えて料理教室に通い始めました。これからフライパンを使った料理の実習が始まるところです。

というような,A と B の間をつなぐような解説がつくのである。

そうすると,とても覚えきれないと思っていた11個の文章の後半が,解説を一読しただけですべてきれいに思い出せたではないか!

あまりの快挙に,笑い出してしまった。

いやー,びっくりした。

なお,A と B をつなぐ「のり」は,実は C だけではなく,C がちゃんと「のり」の役割を果たすには,すでに我々の中にある『既存知識』というものが必須だというのが,その後に展開される議論である。
僕がこしらえた例で言うと,解説 C を読んでもピンとこなければ,A と B との結びつきは依然として不明なままであり,C は記憶の助けにならないのである。

なぜ「料理が出来る」ということが「モテる」ことにつながるのか?

料理が出来れば本当にモテるのかどうかは,考えてみると我ながら怪しい気がしてくるのだが,現代日本の風潮を鑑みれば,まあ,そういう話もなくはないんじゃないかな,と多くの人に賛同してもらえるのでは・・・ない,かな?

そういう共通認識(あるいは常識)といったものが,ここでいう「既存知識」に相当するわけである。


さて,もちろん第四章に挙げられたいくつもの例も大変面白かった。
初めてわかったように思える話が多く,目からうろこがボロボロ落ちてきた。

国語からの題材は最後に三好達治の詩が一篇引用されているだけだが,詩を読んだ後に理解度を試す問題がきっとあるぞと,話の流れから身構えて,あらかじめいろいろなことを考えながら詩を注意深く読んだところ,詩は平易なようでいて案外謎めいていて,少し気をつけて読んだおかげで,いろいろなことに気づくことができた。
ただ漫然と眺めただけでは決して到達し得ないような,やや深い詩の理解ができた(気がした)のも貴重な体験であった。

理科の題材の磁石の話は,もうちょっとよく考えてみたいと思った。あるいは自分でも実験しようという気になっている。

ちなみに,凸レンズや凹レンズの仕組みに関する話題もあるのだが,自分で書いた『「わかる」のしくみ』の感想文を見ると,その本に書かれていた凸レンズの話が気になったので,凸レンズを買いに行ったと書いてある。

・・・あ,あれ?いったいどんな話が載っていたんだっけ・・・?

すっかり忘れてしまった。ただし,もちろん,凸レンズを買ったことは覚えている(それを購入したホームセンターはその後まもなく閉店して全く別の店がそのしばらくして出来たという思い出も込みである)。

同じ著者の『わかったつもり』も,確か買って読んだような気がするのだが,どうだったっけなぁ・・・。


それはともかく,この本で学んだ「学び方」についての知見を,どうにかして自分の授業のあり方に反映させたいものだと強く願っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1112>数学者の視点

2011-12-31 18:47:09 | 
深谷賢治,数学者の視点,岩波科学ライブラリー35.


著名な数学者の手になるエッセイ集である。

特に印象に残ったことを二三述べるにとどめる。

「3. クッキングコース」では,著者がアメリカで実際に教えた経験を元にアメリカにおける大学教育の問題点を浮き彫りにされているのであるが,戦慄を覚えるような衝撃的な内容である。

「4. 遥かなるブルバキズム」の脚注2に,ブルバキの『数学原論』の位相の巻は専門書ではないと述べられているのには違和感を覚える。僕にとっては位相の専門書にしか思えないのだが。これを専門書と言わずに,どんな本なら位相空間論の専門書だと言うのだろうか・・・?

「5. 評価は客観的であってはならない」を読んで,『評価』なるものを数値化するという話が出てきたのでハッとした。
これは最近特に興味のある「量と数」の理論の課題の一つなのである。

「補遺―あとがきに代えて」に,薩摩順吉氏から『数学セミナー』紙上でコメントをいただいたとのコメントがあるが,その記事がいまだに見つからない。もしかすると1995年3月号の記事にあるのかなぁ。今度調べてみることとしよう。


さて,2011年内にはっきり読みきったと言えるのはこの12冊のみである。
例によってつまみ食いして部分的には読み進めている本が何冊もある。
新年の目標はいつも通り,まずは読みかけの本を読み終えること,となりそうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1111>大学教授という仕事

2011-12-31 18:18:46 | 
杉原厚吉,大学教授という仕事,水曜社,2010年。


杉原先生のご講演を聞いてからというもの,僕はすっかり自称杉原教の信徒である。

この本は,正直なところ,一般の人が読んでも大して面白くはないかもしれない。
ところが,著者と同じ理系の大学の関係者にとっては非常に貴重な一冊なのである。
特に,これから専任教員として大学業務に携わろうとする若手研究者にとってはバイブルだと言っても過言ではないと思われる。

そもそもこの本を知ったきっかけは,敬愛する先輩の一人であるA木先生がこの本に杉原先生からサインをもらっていたのを目撃したことであった。
その先輩は大学の講師になって数年で,まさにこの本を読むべき人の一人なのであった。

その後すぐさま図書館で借りて読んだところ,実に面白い。とても参考になる。
興奮した僕は友人の gk 氏に強く売り込んだところ,彼はさっそくこの本を購入してくれたが,実は二冊目だったことが発覚し,一冊を僕にくれた。ありがたいことである。

もう一人,大学の教員に決まった大学の同期がいて,彼にも売り込んだが,売り込み方が甘かったように思われるので,春に顔を会わせる機会があったら,改めて薦めてみるつもりである。

こんな風に人に本を薦めることなどめったにしない僕をそうまでさせるのであるから,この本のインパクトたるや,いかほどであろうか,ちょっと察してもらいたい。

さて,もっと若い読者の場合はどういう興味を持って本書に向き合えるか,ちょっと考えてみたい。

例えば大学を受験しようという受験生は,7章の「入学試験」が,入試を課す側は何を考えてどんな風に取り組んでいるのか,舞台裏が垣間見えて興味深いだろう。

あるいは,学部生ならば2章「講義の担当」を読めば,講義を行っている大学の教員が一体どんな思いで教壇に立っているのか,心情の一端を知ることが出来よう。
また,卒業研究を指導されている四年生などは,3章「研究と学生指導」あたりが気になるだろう。

この本に述べられた話のほとんどは,懇親会などで話好きの大学教員と一緒になったら話して聞かせてくれるであろう内容である。
逆に言うと,そういう機会がなければ耳にすることのない話がてんこもりなのである。

そして,ここが非常に大事な点だと思うのだが,ゴシップや悪口の類は一切ない。本書の筆致は,著者の人柄を偲ばせるような紳士的な態度で貫かれているのである。
ステレオタイプな物言いを許していただければ,理系の,それも特に工学系の研究者らしく,簡にして要を得た叙述なのである。
しかし堅苦しい報告文というわけではなく,大変読みやすく,時にはユーモアさえ感じさせる,とても柔らかい文章である。
なぜそのような文体が可能なのかという点に関しては,著者自らが5章「論文の生産」や12章「著作活動」で秘密を開示しておられるので,興味のある方はぜひ目を通してみてもらいたい。
僕は本書を読んだころ,漠然と著者のと非常によく似た考えに到達しており,そのような主義をこのような大先生が明確に主張していることに目からうろこが落ちる思いがしたのと同時に,わが意を得たりと快哉をあげたものである。

かくて,本書は僕にとって忘れられない書の一冊となったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1110>思考の整理学

2011-12-31 17:40:18 | 
外山滋比古,思考の整理学,ちくま文庫(1986年発売以来の超ロングセラー!らしい。)


読み終えたのはいつだったかもう覚えていないが,まだ残暑の厳しいころだったと思う。
大晦日も日が暮れてから大慌てで溜まっていた読書感想文のノルマを果たそう。

この本はエッセイ集である。

冒頭は「グライダー」という,「思考」だの「整理」だのとどう関係があるのかさっぱりわからない不思議な題名のエッセイである。
なぜグライダーなのかは読めばわかる。そしてこのエッセイが先頭におかれている理由もついでに痛いほどよくわかるであろう。

本書では主に著者自身が実践してきた思考の整理法が具体的に開陳されている。

僕の友人 gk 氏は手帖なぞ古いと言っておったが,僕は尊敬するある先輩を真似して小さいノートに計算やアイデアを書き付けるという試みを数年前から始めていたので,手帖の使い方の解説は大いに参考になった。
というより,ここまでの手間はなかなかかけられないぞ,というのが正直な感想であるが。

「醗酵」だの「寝さす」だのの項に書かれたことは,自分の今の状態だからこそ共感を持って読めるように思われた。もっと若いときにはピンとこなかったかもしれない。

ただ,「寝さす」という語は僕の耳には新奇に響く。「寝かす」の方が通りがよいように思うのだが,どうだろうか。
もっとも,文学者の著者のことであるから,なんとなく自然にほったらかすというニュアンスのこもった「寝かす」よりも,より意図的に強いて放置するという意味をこめて,使役の意志がはっきり感ぜられる「寝さす」を選んだのだろう。
そして,「寝さす」という,僕にとっては耳慣れない用語が頻繁に使われているからこそ,強く印象に残ったという効果も重要である。

「カクテル」,「エディターシップ」,「情報の“メタ”化」などは僕には見えていなかった,研究活動の一側面にスポットライトを当てる内容であって,実に新鮮であった。
そうして学んだものの見方は,現在,僕の中では,新しいものをほぼゼロから創造する「一次的な研究」,見かけの異なる既存の複数のことがらを結び付ける「二次的な研究」といったような,研究行為の分類法として別の名前が付けられている。

「しゃべる」の項目で,ふと思いついた,自分としては面白いと思えるアイデアを,すぐには人に話すなと教え諭しているのだが,どうやら著者の周囲には酷い先輩しかいなかったようで,話されたアイデアを潰そうとやっきになられたトラウマが著者には深い心の傷として残っているらしい。
幸い,僕はそういう全否定に出会ったことがないので,ついついくだらないことでもすぐさま口に出してしまう癖がある。
このことについては,著者に同情を禁じえない。

僕にはそういうお互いに思いついたことをすぐに言いあえる gk 氏のような友人がいるのは,実にありがたいことだと言わなければなるまい。

「垣根を越えて」の項で,思いがけずロゲルギストの名が出てきたのには驚いたが,思いついたことを何でも話し合える良き仲間の大切さを示す「創造的雑談」の一例として挙げられていた。
著者が終にはそれに似た知己を得たというのは読んでいて素直に喜べる話であった。

あと,数年前にある大学教授の口から聞いた「三上」の元ネタはどうやらこの本であったことが判明した。
僕にとっての三上は,ひとつは本家と同じ枕の上,しかも眠るときであって,もう一つはトイレではなく,シャワーを浴びているとき,あと一つは馬上ならぬ電車に乗っているときである。
というわけで,これらはほぼ著者が新たに提案している「三中」と同じものである。

特にシャワー中はくだらないことがたくさん思いついて困る。

ちなみに,僕にとってのもう一つの「中」あるいは「上」は,「枕上」ではなくて,「講義中」がしっくりくるかもしれない。
今年思いついた喩えの一つ,「合成関数は外側から殻をむくように計算していく」というのは,講義中にしゃべくっているときに思いついたものである。
そして,朝シャワーを浴びているときに考えているのはその日の授業のことである。そして電車に乗ってキャンパスへ向かう。

なんのことはない。僕にとって,脳が活性化する大きな「中」とは,「授業期間中」だというだけの話である。

我ながらうまい落ちがついたところで,本稿を締めよう。

ともかく本書はどの項目も知的な刺激に満ち溢れている,面白い書である。
五年くらいおいて読み返してみると,また違った読み方が出来るに違いない。
そういうわけで,五年に一度のペースで読み返したい本のうちの一冊である。

なお,最後の「コンピューター」の項目では,コンピューターに人間が追いやられるのではないかという懸念が記されているが,本書が世に出てから25年ほど経った今,その懸念はあまり問題ではなかったのではないかという気がする。それよりも,きっと当時想像だにできなかったような問題が持ち上がっているのではないかと思う。この項目に関しては,現在の情報化社会が著者の目にどう映っているのか,かなり興味がある。外山氏がそのことに関連する文章を最近書いてないかどうか,しばらく気にかけておこうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

惨憺たる結果。

2011-11-03 23:58:26 | 
今日は一日休みだからというので,どこに出かけるわけでもなく,一日,本を読んで過ごそうと思っていた。

それで「100ページは何かを読む」という数値目標を掲げたのだが,認識が甘かった。

この程度,一時間か二時間も集中して読めば簡単に達成できると思っていたのだが,結果は次のような惨憺たるものに終わった。

自分のためのメモに過ぎないが,せっかくなので,読んだ部分についてだけだが,感想も付けておいた。
どれもこれも刺激的過ぎて,読んでいると頭の中にいろいろな考えが浮かんで本に集中出来なくなる。
そんな本ばかりを選んでしまったのも敗因(?)かもしれない。


▼合計ページ数 0 ページ。

・ヒルベルト『幾何学基礎論』(ちくま学芸文庫),「数の概念について」の冒頭の2ページ。

面白そうだが,読み流せるような内容ではなさそうだったので,序文を読んだだけで一息ついてしまった。


▼合計ページ数 2 ページ。


・森毅『魔術から数学へ』(講談社学術文庫),「1 数量の支配する世界」p.15~p.38(24ページ)。

こちらは魅力的なタイトルで,最近本屋で見かけたので衝動買いしたが,まだ読んでいなかった。
今回,変な企画を立てたおかげで強制力が働き,これでも読んでみるかと読み始めることができたのはよかった。
森氏は量の理論に関するエキスパートなので,この人の本を腰を据えて読む時機がついに到来したと感じている。
森氏の文章は平易ではあるが,書かれている内容は僕にとっては非常に高級であり,難解である。
それでも昔に比べてだいぶ「森節」がわかるようになってきたが,まだまだ勉強不足なため,理解できない部分は相変わらず多いように感じている。
だが,あと十年経てばまたもう少し理解が進むだろうという望みを信じられるようになったため,わからないながらも一通り目を通しておこうと思う。
ちなみに,数量の概念は17世紀あたりに形成されたという見解が述べられているが,僕が最近 Suppes の論文で見かけた,Newton の Universal Arithmetick にまで遡れるという記述とほぼ符合する。
それどころか,Newton よりさらに Descartes にまで遡れるということが示唆されており,そのあたりもきちんと調べる必要性を感じた。
だが,スコラ哲学(ないしスコラ神学)までは,もう完全に僕の手に負えない。


▼合計ページ数 26ページ。


・伊原康隆『志学 数学』(シュプリンガー),III-15~III-17,p.131~p.138(8ページ)。

この本は,以前に読んだ,数学の本を何人かの研究者が紹介しているブックガイドに(確か)挙げられていたもので,そのときから気になっていたのだが,ようやくある図書館で借りることができた。
まだ読み始めたばかりなのだが,ふと開いたときに目に飛び込んできた部分が面白そうで,つい変なところを読んでしまった。
論文を投稿した後の編集者とのやり取りに関する注意事項等が述べられている,本書の一番最後の方の部分である。
実際にはどのページを開いても面白そうなのだが,題材が順番に排列されているので,ちゃんと順番を守って読もうと思う。


▼合計ページ数 34ページ。


・杉原厚吉『どう書くか』(共立出版),「第1章 ちょっとだけ遊び心を」,p.1~p.5(5ページ)。

この本の基調をなす理念を丁寧に解説した入り口の部分である。
この先を早く読み進めたいと思いつつ,一息入れてしまった。


▼合計ページ数 39ページ。

・深谷賢治『数学者の視点』(岩波科学ライブラリー),p.3~p.27(25ページ)。

1章から3章までを読んだ。

「1 見えないものを見るために」では,数学者は高次元の図形が「見えて」いるか,という,とても答えを知りたくなる問題提起をして読者を引き込む。
ここでいう「見えている」というのは,1次的な視覚による知覚ではなく,論理の助けを借りた高次の知覚を指しているのは,わざわざ言うまでもないことだが,そうした分類を真面目に行ったらどうなるかという,面白そうなテーマを思いつくきっかけになった。

「2 ピカソ美術館で考えたこと」を読んで僕が考えたことは,某球団の某ストイックな監督がつきつけた「プロフェッショナルとは何か,どうあるべきか」という問題意識についてである。
某監督は「チームを勝たせることが最高のファンサービス」という理念に基づき,実際にチームをリーグ優勝まで導いているのだから,監督としての手腕は超一流であろうが,勝つことだけに徹底的にこだわって集中するというシンプルな姿勢が,果たして本当に最善のファンサービスと言えただろうかというのは,僕は少し疑問に感じている。もしその結果,試合が,観ていても熱い感動を覚えないような,冷たい,機械的な,つまらないものになってしまったとしたら,プロ野球というスポーツ,あるいはエンターテイメントの持つ魅力を損なうわけだから,もっと違う方向性も必要だという話になる。
それと同じで,定理を見出し,証明をつけるというのが確かに数学者の基本的な仕事であろうが,職人のようにそれだけを繰り返すのだけが果たして数学者の仕事かというと,どうなのだろうと考えずにはいれらない。
そういう職人気質もかっこいいので強く憧れるのではあるが。

「3 クッキングコース」は,著者の深谷氏が一年間アメリカで多変数関数論の講義を受け持った経験を紹介している。
そこに報告されているアメリカの大学生の姿は,現代日本の小中高大学生全てに共通して見られるものと同じではないかという気がする。
僕自身,本などで学んだアメリカの教育スタイルを強く意識して自分の授業にもいろいろなことを取り入れているつもりだが,本当にそれでいいのかということは,簡単に結論を出せることではなく,これからも反省し,悩み続けていくしかないのだろう。


▼合計ページ数 64ページ。


・杉浦光夫(編)『ヒルベルト23の問題』,新井朝雄「第6問題 物理学の諸公理の数学的扱い」,p.57~p.70(14ページ)。

最近のマイブームである物理学の公理化に関する現代物理学における知見をちょうど知ることができるよい解説文であると期待して読んでみた。
ほぼ期待通りで,特に著者の専門分野と思われる量子力学や場の量子論に関してはページ数も少し多めに割いて詳しく解説されている。

他に,思いがけない副産物として,特殊相対性理論や一般相対性理論は,数学的は一言でいうとどういう理論なのかを知りたいと思っていたが,まさにそのことがバッチリ述べられていたのはありがたかった。

こういう記事のありがたいところは,内容はもちろんのこと,関心のある分野への適切な文献案内にもなっていることである。この記事の末尾にも,これから読んでみようと思う本や論文をいくつも見出すことができた。そうした新しい出会いを多く提供してくれる記事は,読んでためになったな,と強く思えるのである。

ただ,1950年代ごろからアメリカで Coleman,Noll,Serrin,Truesdell らを中心にして発展した連続体の力学の公理化である「有理力学」について全く触れていないのは残念である。
このことは,日本の物理学者たちが有理力学についてほとんど知らないことを意味する証拠の一端なのかもしれない。
そんな文句を垂れるくらいなら,自分でそういう記事を書いてみるがよかろう,という批判もあるだろうが,一応,将来的にはそれにチャレンジしてみたいと思っている。ただ,100周年記念は11年前に終わってしまったので,次の節目としたら150周年の2050年だろうか。う~ん,あと39年後にそういう記事が書けるかというと,そもそもこの世からいなくなっているかもしれないし,生きていたとしても健康状態は悪そうなので,そういう節目にこだわらずに適当な時期が来たらまとめてしまうことにしよう。


▼合計ページ数 78ページ。

・Ch. Zylka and G. Vojta, Thermodynamic proofs of algebraic inequalities, Physics Letters A, vol. 152, no. 3, 4, pp.163-164 (1991).

なんかつい読んでしまった。
Lansberg が1978年に発表した1ページの短い論文 "A thermodynamic proof of the inequality between arithmetic and geometric mean" がきっかけとなって,その後,少なくとも20年ほどに渡って細々と人々の関心を引いてきた。
これはそうした人々が書いた論文の一つである。

相加平均と相乗平均の不等式は,数学においては通常,対数関数のグラフが上に凸であるという事実に基づいて証明されるものである。
それを熱力学の第1法則と第2法則を利用して「証明」できるというのが Landsberg の目の付け所であり,正確には不等式の証明ではなく,「相加平均と相乗平均の不等式の熱力学的な解釈」であるが,考え方が面白いので,この方面に関する資料を収集しているところである。

ところで,この論文では,"the theory of majorization" なるものを持ち出して,Landsberg の「証明」が数学的に正しいものだと主張したいそうなのだが,それはちょっと話が違うのではないかと違和感を覚えた。拠り所として挙げている Schur-convex な関数に関する基本定理は,僕の見るところ,証明の極めて容易な凸関数の基本性質に過ぎないのだが,Landsberg の「証明」のポイントは,対数関数の convexity に言及しないで物理法則から不等式を導いてしまうところにあるのだから,関数の凸性に依拠する定理を掲げるのはお門違いではないかと思うのである。

ただ,majorization というのはこの論文で初めて知り,Marshall と Olkin の面白そうな本があることも参考文献リストからわかったので,学ぶところは大であった。新しい理論との出会いというのはとても大事である。

しかも,結局は Landsberg の発想を生かして,

理想気体→相加平均と相乗平均の不等式,
黒体輻射や理想縮退ボーズ気体→相加平均と相乗平均の不等式の一般化といえるHölderの不等式,
スピン系の高温近似(?)→Cauchyの不等式(いわゆるコーシー・シュワルツの不等式)

というように,さまざまな系に関する熱力学的な物理量の関係式から,さまざまな代数不等式を導いており,知らないことばかりで,とても勉強になった。


▼合計ページ数 80ページ。


結局,目標まであと20ページも足りなかったという,とんでもない結果に終わってしまった。
まあ,具体的な目標を掲げたおかげで,普段,なかなか読もうとしない本を開くなど,それなりにプラスの効果もあったので,またときどき企画するのも悪くないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする