担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

1日遅かった。

2010-12-22 23:37:27 | 爺ネタ
冬至の今日,雲ひとつない夜空に煌々と輝くまん丸なお月様を見て,満月かと思ったけれど,月齢は16.876だそうだ。1日遅かった。もっとも,昨晩はひどい雨だったので月見はできなかったのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1010>数学の流れ30講・下

2010-12-22 22:14:16 | 
志賀浩二,数学の流れ30講 下 ―20世紀数学の広がり―,朝倉書店,2009.


本稿は,1月31日に書こうとしたらしい。
そういえば今年最初に読了した本だったような覚えがある。
しかし,ブログの下書きにタイトルを書き込んだだけで筆が止まってしまった。
その理由は,本書をもう一度読み返して,しっかりした感想文を書こうと思ったからである。
しかし,それから11ヵ月ほどが過ぎたが,いまだに読み返してはいない。
というわけで,当時,本書に刺激を受けて想起したことを携帯電話にメモとして残しておいたので,それを書き連ねておくことにする。
いずれ機会を見つけてじっくり感想文を練りたい。

本書は,それ以前に比べて爆発的に分野が拡大し,また各分野における理論も個人でカバーすることが困難なほど深みを増した20世紀数学を30講に分けて解説しようという,壮大な試みである。
20世紀数学の全体像を特徴付けるにあたり,著者が導入した視点は「ユダヤの数学」という観点だった。

このような視点の導入は僕には衝撃的だった。

なるほど,確かに20世紀の初頭に代数の抽象化や位相空間論,関数解析などの発展に寄与した数学者の多くはユダヤ系の天才たちである。
また,アインシュタインの相対性理論あたりに始まる理論物理学もユダヤ系の物理学者が多大な貢献をなしている。

著者は17世紀から19世紀末ごろまでの,主にヨーロッパで発展した数学は,解きたい問題があり,その問題を解く努力が原動力であったと分析する。
ところが,20世紀に入ると数学は自律的に成長を始めたように見え,その原動力となったのはユダヤ的な思想ではないかというのである。

ユダヤ的なものの考え方というのは結局僕にはよくわからないが,ニュートン,ライプニッツ,オイラー,ガウス,コーシーなどが培ってきた数学に比べて,カントールが創めた集合論や,ハウスドルフがほぼ独力で基礎理論のほとんどを作り上げてしまった位相空間論は,確かに異質な「数学」である。
それは大学で習ったときに感じていた違和感そのものである。
その違和感を僕は自分で追求しことはなかったが,こんな形で見事に分析されているのを目の当たりにして,感動すら覚えた。

さて,「ユダヤの数学」という視点を導入するということは,数学理論の作り手たちの思想的・文化的背景に注意を払うということでもある。
数学も人間活動の一環であり,文化の一つである。個々の定理の裏にひそむ,定理の発見者の「人間性」の臭いを嗅ぎ取ることは普通は絶望的に無理であるが,定理の集合として浮き彫りになる理論体系には,理論形成に携わった人々の「人となり」が垣間見えるのではないだろうか。
つまり,数学理論を前にして,その理論にかかわった人々や,その人々が生きた時代に思いを馳せることもできるのではないだろうか。

数学をこのように「人の血が通ったモノ」として見る観点は,僕もうすうす気づいていたところである。
無機質に見える数学といえども,生身の人間が作り出したものに違いはないのである。
数学を文化として捉えるという考え方は森毅氏の著作に触れたときから知ってはいたものの,その意味が実感としてわかるような気がしてきたのは比較的最近のことである。
しかし,本書のように国,あるいは民族という集団が織り成す数学という観点は盲点だった。

北欧の数学,イタリアの数学,スペインの数学,南米の数学,イギリスの数学,ソ連の数学,中国の数学,アジアの数学,アフリカの数学,オーストラリアの数学などなど,地理的な区分で分けた各地域それぞれにおける数学の特徴というものがもしあれば,それをくっきりと見出してみたいという気になった。
インターネットを通じて世界中の誰とも情報を瞬時にやり取りできるし,飛行機で簡単に世界中のいたるところに移動できる現代においては,こうした地域単位による数学文化の区分は意味をなさないかもしれないが,検討してみる価値はあるかもしれない。
そうした仕事は,我々若い世代が取り組むべき課題なのではないかと思っている。

よく考えてみると,各国の数学史をまず研究すればいいんじゃないかという気もしてきた。


あとは箇条書きでメモを残しておく。

・人に感動を与える数学を。
・数学とは,芸,または道ではないだろうか。
・「日本的」とは何か?(文化人類学・比較文化論的な意味で。)
・時間の観念は東洋的なものなのだろうか?
・芸としての数学。精緻を極める技芸としての数学。思想に立脚するのではなく。(それを日本の目指すべき数学としてもいいんじゃなかろうか。)
・ヨーロッパ数学とユダヤ数学の融合,ないしは歩み寄りが20世紀の最後の四半世紀の数学の流れではないか。
・この時代にしか作れない数学を作り,発展させる。(時代という時間軸による区分で数学を特徴付ける。しかし,この時代にしか作れない数学とは一体どんなものなのだろうか?)
・確率論や有限数学,情報数学等の発展について,本書を補完できないものか?
・抽象代数はイデアの数学であって,具体的なもののみに関心を持つユダヤ思想とはそぐわないのではないか?


時には,「数学全体の流れ」という,とても全容を見渡すことが出来ない壮大なテーマに心を馳せることも大事かもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1009>すべて僕に任せてください

2010-12-22 21:04:41 | 
今野浩,すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇,新潮社,2009.


「モーレツ」なんて言葉は死語じゃないかな,という気がしないでもないが,しかしこのサブタイトルは本書のメインテーマを見事に要約している。

本書は,工学部出身のエンジニアとして,経済・金融という文系の学問に取り組んできた著者が教授として勤めた東工大で出会った,将来が嘱望される優秀な若手研究者・白川浩氏の「大学人」としての生き様を描いた記録である。
これを読むと,大学の工学部というのがどういうところなのか,その一面の「裏側」がよく分かる。
そして,読み終わると「大学の先生っていろいろと大変なんだなぁ」と嘆息するばかりである。

国立大学の専任教員ともなると,年に4500時間(年50週,週5日,一日8時間労働だとすると年2000時間だから,その2.25倍)もの労働をものともせずにタフに業務・研究をこなさなければならないらしい。

そいういう現実があるとわかると,このままのほほんとしていられる方がよっぽど幸せかな,という気にもなってしまう。

そんな風に小さくまとまっているだけで幸せ,なんて思ってしまう僕は,企業も取りたがらない「覇気のない若者(もう若者ではなくなりつつあるが)」なのだろうけど。

とりあえず,第一線で活躍している工学系の研究者たちの実際の仕事ぶりを知りたければ,この本の一読をお勧めする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<読書感想文1008>ホームレス博士

2010-12-22 20:31:46 | 
水月昭道,ホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院,光文社新書,2010.


最初に断っておくが,「ホームレス博士」とは「ホームレスに詳しい人」のことではない。
博士号を持ちながら,大学の専任教員になれず,自身が積み上げてきた学問的なキャリアとは無関係なバイトをしながら,その日暮らしを強いられている人々のことを指す。

僕もこういった業界に身をおいているので,興味があって,著者の前著「高学歴ワーキングプア」を一年前に買ったものの,途中まで読んでほったらかしにしていた。
図書館で本書のタイトルを見たとき,思ったとおり,「高学歴ワーキングプア」と同じ著者だった。

内容は第I部,第II部と座談会の三部構成である。

第I部を読んでいると,ホームレス博士を大量生産する元凶である,文科省の旗振りで実施された「大学院重点化」という政策の有害さに辟易する。
また,専任教員の給料に比べて格段に安い給与で非常勤講師を雇って人件費を削っている大学の実態もあけすけに暴露されている。
専任教員の給与を減らせば,学生の授業料も減らせるだろうし,非常勤講師の給与を上げて大学教育の充実も図れるのだろうという感想を抱いたが,人間は既得権益を自ら捨てることはめったにしないので,この構想は全くもって「絵に描いた餅」以外の何ものでもない。

生活に困窮する不遇の「博士」の例をまじえ,なぜ現在の日本はこのような状況なのか,そのカラクリを解説した第I部に続き,第II部の前半では,著者がなぜ「高学歴ワーキングプア」を書くことになったのか,いきさつが詳しく語られる。自己のことを語っているせいか,筆致は妙にノリノリで,ところどころでそのノリにちょっとついていけないような気になってしまうのが正直なところである。
そんなノリノリの前半に比べ,第II部の後半では,社会からあぶれてしまったホームレス博士たちがしぶとく生き抜くためにはどうすればよいのか,その心構えを説いているのであるが,読んでいると,お坊さんの説教を聞いているような気分になった。

もし僕が自分の研究室を持っていて,そこで指導している学生が博士課程に進学したいと言ってきたら,「踏み絵」としてこの本や「高学歴ワーキングプア」を薦めることだろう。
それらの本を読んで,進学後の自分の人生がどんなものになるのか,それを知った上で,進学するか否かの最終判断を下してもらいたいからである。

本書の内容の一端を知りたければ,著者のブログを覗いてみるとよいだろう。

僕も,自分の今後の人生についてよく考えなければならない気がしてきた。
このままのほほんと生きていれば,あと十年もしないうちに生活が破綻するだろうし,何より老後のビジョンが全くない。

そろそろ現実をしっかり見据えるべき時がきたようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やったことはありませんが。

2010-12-22 13:06:45 | もじりあーの。
ありがちなネタで恐縮ですが。

22世紀からやってきたドラ○もんなら,きっとひみつ道具として持っているはずのもの。

ミョミョミョミョン。

「コスプレー!」

ドラ○もん,それなあに?

これはね,○び太くん,なりたいキャラクターをつよく念じながらシュッとかけると,たちまちそのキャラクターになりきることができるんだ。

わあい,いまの時代にぴったりだね!
ぼく,ほしかったんだ,こういうの。


いや,別に,僕はいりませんが。
ドジっ子かつメガネっ子かつダメっ子の○び太くんが言いそうなセリフを書いただけですが,何か?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする