担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

知らなかった。

2011-09-30 23:26:48 | 
今の今まで知らなかった。

というか,気づかなかったというべきか。

哺乳類の手や足には基本的に指が5本あるのだと思っていた。

もちろん,コウモリやイルカ,クジラなどの例外はある。
けれども,例えばコウモリの羽は,いわば大きな手のひらであって,5本の指に相当する骨があると聞いたことがある。

また,偶蹄目であるウシなどは実質的に指が二本だけなのかとも思っていたし,ウマは中指だけで体を支えているようなものであり,だから競走馬は脚が折れやすいのだと聞いたこともある。

指が5本なのは哺乳類だけではない。ヘビはおいとくとして,カエルやトカゲなどは5本指のイメージがある。

そういった断片的な知識はあったものの,最も身近な動物に関する知識がすっかり抜けていたことを思い知る出来事があった。


寝床に横になっていると,よく猫が踏んづけて通り過ぎたり,踏んづけたまましばらく動かないでいたりする。
寒くなってきたので毛布を使い始めたのだが,毛布のふわふわした感触がお気に入りらしく,うっとり目を細めてゴロゴロ喉を鳴らしながら,ふみふみと毛布を揉むランちゃんやしゅろの姿をよく見かけるようになった。

猫たちはだいぶ爪が伸びてきたようで,踏んづけられるとチクッと刺さるし,ふみふみしているときに毛布に爪がひっかかるのもあたりまえのことになってきた。

そういうわけで,今日,とりあえず寝床の周りに転がっている猫たちの爪をいっせいに切ることにした。
普段は前足の爪だけしか切らないのだが,今日はやる気に満ちていたので,後ろ足もチェックした。

すでに数匹の爪を切り終え,次のラディ子でいったん終わりにするかと前足の処理を済ませ,後ろ足にさしかかったときである。


あれ,ラーディ,後ろ足の指が4本しかないよ。どうしたの。


猫の爪を切るのにはコツがいる。普段爪がひっこんでいるので,指の先端を少し押して爪を出さなければならない。
特に前足の親指は他の指のように突き出ていないので爪を出すのが一苦労である。

ところが,後ろ足は妙に苦労が少ない。
何かおかしい(というか,物足りない)と思ったら,後ろ足には親指がなかったのである。


いやー,知らなかったァーーーーー!


念のため他の子を調べてもやはり同じであった。

猫の足の指は,前足が5本で後ろ足は4本なのである。

猫を飼い始めてちょうど7年目に入ったところであるが,これまでさんざん後ろ足で踏みつけられてきたし,後ろ足も何度も目にしてきたし,後ろ足の爪を切るのは今回が初めてだったわけでもないのに,全然気がつかなかった。

猫は前足の親指を結構器用に使いこなすのだが,その親指は後ろ足にはない。


トカゲやウマなどに関する知識を確認するために検索したところ,Wikipedia に「指」という項目があり,そこに書いてあることは大変勉強になった。

哺乳類に限らず,爬虫類や両生類も指の数は5本が基本なのだそうだ。
なぜそのように指の数が同じなのか。
また,なぜ足の数も4本なのか。

こうした,身体のつくりに共通性が見られるのは,共通の祖先から進化したという進化論で説明が付くが,例えばなぜ目は2つで足は4本なのか,ということに対する答えは進化論からはすぐにはわからないように思われる。
昆虫は足が6本だし,カニは8本である。ムカデやヤスデにいたってはもっとたくさん足がある。

そもそも生物の体はそうなっているのだから,なぜそうできているかを考えても仕方がないのかもしれないが,力学的に見てこういう点が生存に有利だとか,そういう視点から説明をつけようとするのはそれほど悪くはあるまい。
(実際,生物学者にはそういうことを研究している人たちがいるようである。)


まあ,うちの猫たちに言わせれば,僕らヒトの方がよっぽど奇妙に見えるに違いない。

あら,どうしてお顔の毛がそんなに少ないの?(猫みたいにピンと張り出した)ヒゲはどうしちゃったの?

とか,

尻尾はどうしたの?なくしちゃったの?
(うちの猫はほとんどが尻尾が極端に短いから,これは言われないかもしれない。)

とか,

瞬膜(しゅんまく:目を覆って保護する膜。まぶたとは別物。)はないの?

とか,ラーディからしたら僕の方にこそ問いかけたい疑問がきっとたくさんあるだろう。


ちなみに,猫は体が柔らかいせいか,腹の方まで念入りに毛づくろいをしている姿を日常的に見かけるが,ああいう毛並みの手入れはどのくらいのサイズの動物までが行うのだろうか。
犬もときどき腹部を舐めているような気がする。

あと,犬のお座りの姿勢はどれくらいの種類の哺乳類に見られるのだろうか。
猫はよく座った姿勢でいるが,同じネコ科であるライオンなども座っている姿をテレビで見かける。
しかし,ウマやウシは捕食される立場にいるからか,お座りをしたり横に寝っ転がるのは,病気のときなど,特別な場合しかしないようである。

どんな仕草が種を超えて普遍的に見られるものなのか,というテーマは,個々の種の特殊性に着目する視点に比べて,遜色ない,また違った面白さを含んだテーマであろう。

普遍的に見られる構造と,個別に現れる特殊な構造という二つの大きな柱の間を行き来することで,物事の理解は深まるものである。
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ドキッとする音。

2011-09-29 22:54:18 | 爺ネタ
午後7時ごろ,携帯電話から緊急地震速報のアラームが鳴り響いた。
久しぶりに,不安な心持になった。
福島で地震があったので警戒しろというメッセージが表示されており,福島でまた大きな地震があったのかと,暗い気持ちになった。
実際,震度5強の地震があったそうで,現地の人たちは相当な恐怖を感じたことであろう。

それ以上の地震が当分起こらないことを祈るばかりである。
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他で苦労をして,楽をする。

2011-09-29 22:54:18 | mathematics
大学で習う線形連立方程式の解法に掃き出し法というのがある。

連立方程式の解法は中学で代入法と消去法を習うが,掃き出し法というのはその消去法のことである。
ただ,中学のときと異なるのは,許される式変形の「ルール」を明文化するところである。
いわゆる「基本変形」,あるいは「基本操作」と呼ばれるもののことで,そうした名前をつけるところが,中学とは異なり,新鮮なところである。

また,式の書き方も,未知数の x や y などを省略して係数のみを加工するという視点をはっきりと打ち出し,行列の形に数字を並べて基本変形を施していく。
ただし,この方式では,各基本変形で実際には変形されない行もコピーして書き写して行くため,ちょっと行列のサイズが大きくなると,ノートのページをあっという間に消費してしまうところが難点である。
もっとも,実際の計算は現代ではコンピューターにさせればよく,更新しないデータはそのままメモリに保持させておくだけで済むので,コンピューターにうってつけの計算手続きであるといえよう。

大学で学ぶ線形代数の初等的な部分は,行列の定数倍や,行列同士の和や積の計算規則と,連立方程式の掃き出し法による解法である。

両者はきわめて異質な計算手法であって,例えば基本変形の規則が行列の和や積と関係があるとは到底思えない。

ところが,行列の正則性というのは積に関する逆元,つまり逆行列があるかどうかという,積という演算にかかわる概念であるが,それが連立方程式の可解性の指標である『階数』と密接な関連があるという話が出てくる。
もっとも,逆行列の成分を具体的に求めるということは,連立方程式を解くことに他ならないということに思い至れば,積の演算に由来する正則性と掃き出し法の世界に出てくる階数との間に深い関係があるのは,むしろ当然のことと思われてくる。

行列の積と掃き出し法という二種類の計算法は,このように正則性という概念を仲介にして結びつくが,実はこういう媒介なしで直接関連付けることができるという話も習うはずである。

掃き出し法というのは,ある一つの行列の『内部』での成分の書き換え規則である。例えば,行列の第1行に,第2行の -3 倍を加えてたものを新しい第1行として置き換える,というような,行同士,あるいは列同士の間で行う変形である。

それに対し,積というのは,二つの行列の間で行う演算であって,ある行列に対して,その『外部』から別の行列を作用させて,新しい第三の行列を生み出す,という性格を持っている。

というわけで,内輪でぐるぐる計算を回す掃き出し法と,外から破壊的な攻撃を受けて別の行列に作り変えられる積の演算とは全く異質なものとみなすのは当然のことであろう。

これほどかけ離れた二つの演算の間に,一体どんな直接的な関係があるというのだろうか。

実は,基本変形の操作ひとつひとつに対して,基本行列と呼ばれる行列が対応するという驚くべき事実が知られているのである。

例えば,第1行と第2行を入れ換えるという基本変形は,適当なサイズの単位行列にその変形を施して得られる行列を,対象とする行列に左からかけるという計算にぴったり対応するのである。

この事実を初めて習ったとき(正しくは最近学び直したとき,というべきか?),僕は大いに驚いた。

掃き出し法は,行列の積を用いて表現できてしまうのである。

あまりに衝撃的な事実だったので,すっかり基本行列のファンになってしまった。
さしずめ,『基本行列万能教』の信者といったところであろうか。

ただし,『基本行列万能教』といっても,僕の実際の立場はきわめて中途半端で,まず行列の階数の理論を,掃き出し法を生(なま)で用いて確立した上で,それを利用させてもらう,という「いいとこ取り」であって,階数の理論を基本行列と和や積の演算だけから確立するというようなものではない(だいたいそれは具体的にはどうやって理論を構築していくことを意味するのか,自分で書いていてさっぱりイメージが思い浮かばない)。

では基本行列はどんなときに使うのかというと,今のところ,二つの使い道が見つかっている。

具体的に述べると,まず,正方行列 A に対して,A と同じ正方行列 X があって AX が単位行列になるとき,A と X は可換で,XA も単位行列になる,という,逆行列と元の行列の積が可換であることを基本行列を利用して示すことができる。
ただし,基本行列はいずれも正則であるという事実は既知とする(証明は簡単で,元に戻す逆の基本変形に対応する基本行列が,もとの基本行列の逆行列になっていることを実際に積を計算して示すのである)。

他に,積の行列式が行列式の積になるという定理を,基本行列を利用して証明することができる。

一つめについては,単位行列を E で表すことにして,例えば A を二回の基本変形で E に変形できたとするとき,それぞれの基本変形に対応する基本行列を P,Q とすると,
QPA=E
が成り立つということだから,X=QP と置くと XA=E である。また,A=P-1Q-1 が成り立つこととなり,この等式の両辺に右から X=QP をかければ AX=E となることが直ちに示される。

二つめについては,行列式というのは,行列を行単位に分解し,それらに関する多変数関数として定式化することができるが,その結果,やはり行列を行単位や列単位に分解して計算を施す基本変形と非常に相性がよいことがわかり,基本行列との関連性が生じることが背景にある。

ここでも,基本行列の行列式の値は具体的な計算を通じてわかっているものとして,その結果を利用する。

例えば行列の第3行の成分を k 倍する操作に対応する基本行列を R とおくと,RA は行列 A の第3成分だけが k 倍されたものだから,行列式の性質によって,|RA|=k|A| である。
一方,具体的な計算によって |R|=k であることが簡単に確かめられるから,|RA|=|R||A| が成り立つこととなる。このような考え方で,基本行列を利用した積の行列式に関する定理を証明することができる。
(今その証明をあらためて考えてみて,どんな行列も基本変形で上三角行列に変形できるという定理と,上三角行列の行列式は対角成分の積に等しいことを考え合わせると,いちいち基本行列を持ち出さなくとも,基本変形のみを用いて直接証明ができる可能性に気がついた。なので,ここに述べたやり方はちょっと回りくどいように思えてきた。)

ともかく,行列や行列式に関する基本的な事柄を,授業で習ったり,自分が持っている教科書に書いてあるものとは違った観点から見直して別証明を考えてみるというのは,理論をより深く学ぶにはよいやり方である。
上に述べたのは,そうした試みのほんの一例である。

それにしても,基本変形を表す基本行列の概念は,一体誰が見出したのだろうか。
また,行列式の重要な特徴が深く研究されたのはいつごろで,どのような人たちが取り組んだのか,気になるところである。
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一体何が少ないというのか。

2011-09-28 23:57:27 | Weblog
生協の食堂に,水やお茶を淹れてくれる機械が置いてある。

例えばお茶には二種類のボタンがあり,「少なめ」と「適量」(だったっけ?)というラベルがついている。

どちらのボタンも何度か利用したことがあるが,量に差が無いように思えて仕方がない。

湯飲みを二つ使って量を直接比較したわけではなく,そんな簡単な実験ではっきりすることではあるが,まだ確かめていない。

だから,仮の話なのであるが,もし本当に二つのボタンで量に差が無いのだとすれば,一体何が「少なめ」で,何が「適量」なのだろうか?

この間昼食を取ったとき,ふとそんなことを考えて,二杯目は「少なめ」にしてみたが,心なしかお茶の色が薄いように見えた。

・・・まさか,これら二つの選択肢は,お茶の成分の多寡についてのものだったのか・・・?!

ちゃんと比較実験をしてこの疑惑について検証せねばなるまい。
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すべてはつながった。

2011-09-28 23:57:27 | Weblog
相変わらずネットサーフィンに明け暮れる日々を送っているが,そろそろ終焉が近づいてきたような気がしている。

と思ったら,単にもうじき9月が終わりそうで,セミもまだツクツクボウシやアブラゼミが鳴いてはいるけど,早くも彼岸花はもう散り始め,キンモクセイの香りが漂い,暗くなるのがずいぶん早くなって,昼間がまだ少し暑いからと半そでを着ていると夜に肌寒くなって後悔するようになり,夏の終わりをひしひしと感じているというだけのことかもしれないが。

ここ一ヵ月,自分の頭で考えたことはほとんどなく,調べもの(といっても資料を集めることが中心で,集めた資料に全く目を通していない)ばかりしてきたが,ようやく落としどころがはっきり見えてきた。


要するに,今僕が一番興味があることは『数』のことらしい。

量を表すものとしての数の役割については,ここ数ヵ月関心を持ち続けていることである。
物理量としての数,そしてそれを測定するという行為,測定できるような量だけしか物理量として認めない操作主義的な立場など,物理学基礎論や科学基礎論,ひいては科学哲学などに関連する話題にかなり興味が出てきた。
ちょうど一年半前に始まったある雑誌の連載記事が気にかかっていて,ちゃんと読んでいるわけではないのだが,最近は量についての現代的な見解が紹介されており,僕としてはきわめてタイムリーな話題に感じられる。

また,Archimedes の性質を満たすような順序をもち,ある種の代数構造も入っているような数学的対象は,つまるところ実数であり,順序関係から自然に定まる位相なんてものがあるのかと知って驚いたが,実数の位相が順序構造に基づいて定義されていることを思い起こせば,すでによく知っているはずのことであったと今更ながらに気づいた。

どうやら,ここしばらくは,過去百年くらいの哲学,物理学,数学の発展を貫く一本の太い糸である『実数論』をある側面にスポットを当ててたどり,僕の中に新たな知的基盤をはぐくむべき時期であるらしいことがわかってきた。

こつこつ集め続けた論文はすでに500編を超え,あまりに膨大な資料の山の前に何をすべきかわからなくなり,己を見失いかけていたが,『数』について学ぶのだという大きな方針がはっきりわかったので,やっと我を取り戻すことができたように思う。


よく知らない分野,全く未知の分野などの勉強がまだまだ続きそうだが,ときどき小さな発見があることを期待して,気長に取り組んで行くとしよう。

全てを知るには人生はあまりに短いが,逆に,残りの人生でどこまでの深みに到達できるのか,そいういう風に考えて挑戦するようにすれば,人生の短さを嘆くには及ばない。
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超光速。

2011-09-26 23:07:44 | physics
ニュートリノの速さが光速をちょっぴり超えたという実験結果のニュースを読んだ。

今日は4月1日,ではない。

今後また同じ現象が観測されたら,光速超えは揺るぎのない科学的事実となる。
そうなると,実験結果をどう解釈するのか,世界中の物理学者が頭をひねる事態になるだろう。
この問題をめぐって論文も量産されるに違いない。

既存の知識で実験結果を解釈できるのか,それとも,光速度一定の大原則を見直すことになるのか。
もし光速を超えることが可能なのだとしたら,速度に上限はあるのか,ないのか。

この実験事実が確定した暁には,物理学者はそこにどんな自然法則を見出すのだろうか。
楽しみなことである。

なんというか,こういう事態に直面した物理学者たちの受け止め方に興味があるのであって,自分でこの実験結果を理論的に検証しようと真っ先に思わず,一歩引いてしまうところが,僕が物理学者ではないということの何よりの証であるように思えてならない。

それはとこかくとして,まさか,自分が生きている間にこんなスリリングなニュースに出会うとは思っていなかった。
話がどう転ぶのか,しばらく気にかかることである。

僕は傍観者を決め込もうという腹である。
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どちらかといえば和風な響き。

2011-09-25 23:36:06 | もじりあーの。
「あれ,今日のお弁当はカキフライなんだね。おいしそ~。」
「まあ旬のものって感じだからな。」
「一個もらっていい?から揚げ一個と交換。」
「うん。それならいいよ。」
「やったあ!ねえねえ,あのソースはないの?」
「ん?」
「カキフライと言えば,定番の・・・。え~っと,そう,タレタレソース!」
「ああ,あるよ。・・・。ん?ちょっと,今のもう一度いってごらん。」
「え?タレタレソースのこと?」
「あ,やっぱり言い間違えてるよ。『タレタレソース』だと,白いよりも,むしろ甘辛な醤油ベースの和風なタレみたいな感じがするよ。うなぎにかかってそうな。」
「(顔を真っ赤にして)え,ええっ?!うそ,『タレタレソース』じゃないの??」
「うん。コレは普通『タルタルソース』って言うよ。ほら,袋に書いてあるよ。」
「え,ウソ・・・・・・・。ホントだー。知らなかったぁー!!!!」
「これでまたひとつ大人になったね。」
「うん。いや,ホントに。いやー,知らなかったぁー!!!!」


みなさんは,こんな経験,ありませんか。

蒲焼のタレでカキフライを食べたらどうなんでしょうな。
味覚の秋にふさわしいチャレンジではありませんかな。
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悩みどころ。

2011-09-25 23:19:31 | 情報系
ある店で見かけたノートパソコンのデザインが気に入ったので,新しいのを買う気になった。
ただ,値段が3万円ちょっとなので,ネットブックとどこがどう違うのか,さらにはもっと安い店がないかということで,ネットで調べることにした。

今使っているのはバッテリーが使えない状態のノートパソコンである。
その,今使っているのと欲しいのとで性能を比較しようと思って,今使っているノートパソコンのメーカー名と型番をキーワードに検索してみた。

すると,口コミ情報により,同じパソコンを使っている人たちが同じ電源トラブルで困っていることがわかった。
保証期間が過ぎていても無料で修理をしてくれるとのことだが,原因は解明されておらず,対処も確実なものではないようで,直るとは限らないらしい。

どうやらBIOSをアップデートするというのがその対処法らしいので,メーカーの公式サイトで見つけたアップデートソフトをダウンロードしてインストールしてみた。

心配だったのでデータのバックアップをしてからとも思ったが,大容量のデータを外付けハードディスクにコピーしようとしたら,一日以上経っても処理が終わらなさそうだったので,途中でやめてしまった。

もともとBIOSのバージョンは 1.01 だったのが,最終的には 1.28 にまで上がった。
一気に 1.28 に上げても良かったのかもしれないが,念のため公開されている6段階のバージョンアップに沿って順に更新してみた。

更新が完了した後,満を持して古いバッテリーを付け直してみたところ,一応,87%の残量だとの表示があり,ほんの少しだけ改善されたような気がする。
ただ,「充電していません」と表示されており,普通なら自動で勝手に充電するくせに,充電をサボっている。どうすれば充電してくれるのかがわからないので,結局「使えない」という結論になった。

もしこれでバッテリーの問題が解決したなら,ディスプレイはバッチリ使えるので,メモリを増設したり,内蔵ハードディスクを取り替えたりと,グレードアップしてもう少し使おうかと思っていたのだが,思惑通りにはいかなかった。
新しいバッテリーにしたとしても,電源の問題が解決するとは限らず,もし駄目ならバッテリー代が無駄になるので,気になる新しい機種を買うか,それともこういう問題に懲りて信頼性の高い別のメーカーの高いノートパソコンにするか,悩むところである。

いくら安くても,一年くらいしかもたないようでは結局費用がかさむような気もするし。
でも,3万円なら,一年で買い換えても,一月あたり2,500円だと思えば大したことはないかなぁ。
もちろん,急なトラブルで大事なデータを失ったら,その損失は計り知れないんだけどね。
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微分と積分の概念の双対性。

2011-09-22 00:00:50 | mathematics
台風にちなんだ豪雨の被害について思いを馳せていたら,微分と積分のことが思い浮かんだ。


豪雨のとき,外に出かける際に関心があるのは,いまどのくらいの激しさで雨が降っているかということである。

雨の激しさというのをどう数量的に表現するかというと,一番ぴったり来るのは「ある時間内にどれだけの雨が降ったか」ということである。
ここで「ある時間内に」と書いたが,要点は観測時間をそろえるところにある。
同じ240ミリの雨が降ったとしても,一日を通じてなのか,一時間に降ったのかでまるで雨の激しさは異なる。
観測時間の間隔を一時間にそろえるなら,一日に240ミリの雨量というのは,換算すると一時間に10ミリということであり,一時間に240ミリに比べれば大したことはないという印象を受ける。

このように,雨の激しさは「単位時間当たりの雨量」によって表現されると考えられるわけだが,「単位時間当たりの雨量」というのは割り算で計算する。

もっと一般には,引き算で変化量を求め,求めた変化量同士で割り算をすることによって「平均変化率」が求められる。それが変化の激しさの指標であり,割る方の変化量を 0 に近づけるという極限操作で,平均変化率のある種の理想化を行うのが微分の考え方である。


それに対して,積分も「ある時間内にどれだけの雨が降ったか」を量る一つの指標であるが,こちらは「激しさ」という感覚と結びついているのではなく,「実際にどれだけ溜まったか」という全体量を取り扱う概念である。

一時間に100ミリという激しい雨が降る瞬間もあったが,ほぼ一日中晴れの日もあった。けれども,三日間で合計1000ミリを超える雨量があった,などというときに,雨が止んでしまっていれば,外にちょっと出かけるときにもう雨の激しさを心配する必要もないので,雨のことなど忘れてしまうが,山に振った大量の雨水によって,土砂災害が起きたり,河川の増水による災害が起きたりと,別の種類の問題が生じることとなる。

そういうわけで,豪雨という自然災害ひとつをとっても,自分が濡れることを心配するときの「微分的」な雨の激しさと,人力ではなすすべもない大きな災害を引き起こしかねない「積分的」な総雨量の多さという,概念的に異なる二つの視点をもって備えるべきという大事な教訓を『微分積分』という言葉から引き出すことができるのである。

なお,積分量というのは観測している時間間隔ごとの雨量を足し合わせることによって求めるわけだが,足し合わせる雨量自体は,通常 「変化率」×「観測時間」というような積で求められることが多い。

したがって,「引いて割る」という計算に基づく微分に対し,「掛けて足す」という計算に基づくのが積分だと言うこともできる。

日本の高校では微分の逆として不定積分を導入するが,微分とは無関係に定積分を導入してから「微分積分学の基本定理」と呼ばれる定理によって微分と積分を結びつけるという理論の構成の仕方もある(というより,微分積分の理論の学問的な取り扱いではそちらの方が主流であろう)。

そのような理論構成の場合は,きちんとした取り扱いでは「微分積分学の基本定理」を数学的に証明すべきだが,「引いてから割る」という微分計算の逆は「掛けてから足す(※)」という積分計算なのだと,言葉の上でのことだけではあるが,なんとなくわかったような気になれる捕らえ方もあるのではないだろうか。
こういう対応にはこの記事を書いていて初めて気がついたのだが,こういう観点に立って「微分積分学の基本定理」を見直してみるのは意義のあることかもしれない。

※ 「靴下を履く」→「靴を履く」の逆は,当然「靴を脱ぐ」→「靴下を脱ぐ」なわけだから,A に続いて B を行うという操作の逆は,B を解除してから A を解除するという順番になる。

また,なんとなく感覚的にではあるが,微分では時間間隔を狭めて瞬間の状態を考えようという短期的な意識の動きを感じるのに対し,積分では時間間隔を広げて,個々の瞬間の状態にはこだわらず,「それで結局どうなったの?」という全体的な傾向を問題にするという感じがある。

両者の関心の向きを矢印で表せば,微分は内に向かう「すぼまり」

→ x ←

であるが,積分は外に向かう「広がり」

← o →

である。

微分はほんのちょっとの変動を増幅して取り上げる「敏感さ」や「不安定感」があるが,積分はほんのちょっとの変動はならしてしまうのでビクともしない「鈍感さ」や「安定感」がある。

実際に,微分積分のさらなる発展形である解析学と呼ばれる理論においては,関数の値の変動の激しさ(振動量)を測るのには微分的な量を用い,激しく変動する関数の挙動を滑らかにならすのに積分を利用している。
電気工学における回路理論にも微分回路や積分回路といったものがあり,電気工学者たちはそれらの回路の特性について,上に述べたのとどこかしら共通するイメージを抱いているのではないかと思われる。


微分積分という思想の応用として,科学技術への直接的な応用ばかりに目を向けるのではなく,こんな風な自然現象の捉え方のような「物事の見方」という側面も意識したいものである。
とは言っても,自分の経験から推し量る限りでは,こういう思想面に関心を持ったり,理解できるようになるにはそれなりの成熟を必要とするので,微分積分を初めて教わるときにあまりこういう話ばかりされてもチンプンカンプンかもしれない。

改めて学び直すときに,「ああ,そういう意味があったのか」と初めて会得できるような,そんな類の極意ではないだろうか。

ちなみに,こういう感想には「なんであのときそう言ってくれなかったんだろう」という恨み言が続くのがお約束だが,これは勝手な言いがかりに過ぎない。なぜなら,「あのとき」そう言ってもらってたとしても,理解できなくて聞き流したり,印象に全く残らず忘れてしまったに違いないから。

ありがたいお話というのは,聞き手に心の準備(あるいはニーズといってもよいだろう)があってようやくありがたみが身に沁みてわかるものである。

むしろ,学校で習うようなことは,こういう「すぐにはわからん」という話ばかりが満ち溢れているのではなかろうか。
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台風で電車が止まる。

2011-09-21 23:37:59 | 爺ネタ
常々,台風の真っ只中で外をうろつくのは愚行以外の何物でもないと思っているのだが,世間の大半の大人たちと同様,やむにやまれぬ理由でうろつかざるを得なかった。

それにしても,文明がこれほどまでに発達しているのに,これだけ大量の人が暴風雨の中をさまよっているのはどうしたわけだろう。
否,文明が発達してしまっているからこその現象なのだろうか。

河川による水害は文明のおかげで昔に比べ被害の程度は抑えられていると思うが,街には簡単に飛んでしまうが人体に当たるとひどい怪我になるようなものが溢れかえっている。
また,都市には下水道が整備されているが,短時間の豪雨の前には無力である。

暴風で,昨日西○で買ったばかりの500円の傘がダメになった。
台風が来るとわかっていて新品をおろしたのは僕が愚かだったの一言に尽きるが,もう少しもちこたえてくれるものだと思っていた。
安物の傘に寄せた過大な期待と,台風の威力を甘く見ていた己の見識のなさを反省している。

強風のために電車が止まってしまうのは,まあ仕方がない。想定の範囲内である。

ところが台風とはおそらく直接は関係のない人身事故で電車が止まってしまったのは想定外だった。

また,飛来物などで電車が一時停止する程度はあっても気にならなかったが,倒木のために一時間以上も立ち往生するとは思っていなかった。
そういうのはよくニュースで聞いた覚えがあるが,自分が乗っている電車が該当したのは始めての体験であった。

けれども,それ以上に被害と呼べるようなものは特になく,実質的に台風が過ぎ去った後に無事家にたどり着けたのは,やはり文明のおかげと言えるかもしれない。

それにしても,倒木の撤去作業や,線路の安全確認など,鉄道関係者が決死の努力で作業を行っているわけだが,強い使命感無しには出来ないことである。劣悪な環境の中で作業にあたってくれた人たちがいるということには感謝しなければなるまい。

台風が過ぎ去った直後に茨城県で震度5弱の地震があったということだが,恐ろしいことである。

空から,地中から天災が起こってしまっては,天と地の境目に這いつくばって生きている我々のような存在にはまったくなすすべがない。

台風や地震の被害がないことを祈るばかりである。
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