本記事では,自然数といえば 1 以上の整数のことを意味するものとする(日本の小中高における自然数の定義と同じ)。
九九の表を眺めれば,一桁の自然数同士の積が可換であることに気づく。
その事実を基礎にすえて,任意の整数同士,分数同士,有限小数同士の積が可換であることの証明を試みたい。
九九の表を基礎に据える以上は,なぜ 3×7 と 7×3 が共に 21 という数になって一致するのかの理由を述べなければならないが,その説明の仕方はいろいろあるだろう。
3 や 7 が単位を持った「量」であると,3×7 と 7×3 の意味づけは異なり,両者が一致することは自明なこととは言えなくなるというのが僕の考えであるが,そうした意味づけには目をつぶり,マスの個数のようなかけ算の意味づけに基づけば,
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という図の縦横を変えて
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という図に書き換えても,実際に数えてみれば,■の個数はいずれも21個で,(たて)×(よこ)という式の立て方において,たてを 3,よこを 7 と置こうが,数字を取り替えてたてを 7,よこを 3 と置こうが,どちらも■が21個並んだ図を指すことに変わりなく,3×7=7×3 が成り立つことが了承される。
教育的には,九九に現れる全ての積において同じことが言えることを(子供一人に全てを確かめさせるのはさすがに退屈なので,班に分かれて分担するなど工夫して)確かめさせることが望ましいと思う。
さて,これだけでは整数同士の積の可換性すらおぼつかない。
足し算の順序を変えてよいことと,足し算とかけ算の間に成り立つ分配律を認めなければならない。
足し算の順序が変えられることも,■のようなタイルの取り扱いで容易に子供たちは理解できるだろうが,分配律はどうであろうか。
それは,例えば計算の順序も導入したうえで,
(3+4)×6=7×6=42,
3×6+4×6=18+24=42
などの具体例をいくつか示し,子供にも確かめさせたうえで,普遍的な計算法則らしい,という観念を子供の頭の中に印象付ける必要があるだろう。
ただし,九九を覚えるのについていけない子供は掛け算 7×6 や 3×6 でつまずくだろうし,繰り上がりのある足し算が苦手な子は 18+24 の計算でつまずくだろうから,クラス全体の子供達がこの話を理解するためには,粘り強い指導が欠かせないかもしれない。
このような実験を経て,次の一般規則を導入する:
これは仮定であって,命題ではない。九九の表に収まる例の範囲(k+m が1桁の数に収まらなければならないので,例の総数はかなり限定される)で成り立つことが観察された事実をもって,一般の整数の掛け算を定義するための法則として勝手に導入するのである。
そのような計算規則を立てることの正当性は,なんらかの別の原理から論理的に保証されるわけではなく,その計算規則の有用性が,のちのち算数のみならず,他のいろいろな分野で経験的に確立されていく過程で了承される性格のものである。したがって,このような計算規則の導入は天下りにならざるを得ない。
一桁の自然数同士の掛け算を二桁以上の自然数に拡張するという過程は,人類が知識を広げる上で欠かせない知的活動の典型をなしていると言える。そのような観点からみると,掛け算を教えることは非常に重要であり,かつやりがいのある仕事である。
そしてもう一つ,ここで試みようとしている証明は,位取り記数法,あるいは,もっと具体的に言うと十進法という自然数の表現法に強く依存したものであることを明らかにせねばならない。
自然数 9 の次の数は 10 と書く。
これはもちろん位取り記数法に則った表記である。
これで準備は整ったので,2×35 を例にとって証明の指針を述べよう。
まず前提として,35 という数は 35=3×10+5 と分解できることがわかっていなければならない。
このような分解の仕方はとても大事なことであるが,小学生はもちろんのこと,大人でさえもこの事実を必要に応じて適切に使いこなせる人はあまり多くはなさそうである。
十円玉が3枚と五円玉が1枚で,あわせて35円になることがわかるというのは日常生活で必須の能力で,それが備わっていない大人はそれほど多くはないだろうが,このことを金銭のやり取りなどの具体的な場面以外で広く一般に有効に使えるかというと,それは怪しいのではないかと言っているのである。
ともかく,35=3×10+5 と分解できることがわかっていて,拡張された分配律も受け入れると,次のような展開が可能になる:
2×35=2×(3×10+5)=2×30+2×5=60+10=70,
35×2=(3×10+5)×2=30×2+5×2=60+10=70.
よって 2×35 と 35×2 は共に同じ数 70 になるので,2×35=35×2 が成り立つことがわかったことになる。
ここまでの説明を読んでくださった読者の中には,鋭い方もおられるだろう。
上の計算にはとんでもないインチキが含まれているのである。
それは二箇所ある。
2×30=60 と 30×2=60
の部分である。これらは,上にくどくどと導入してきた計算規則だけからは説明のつかない計算である。
要するに,これまでの説明に不十分な点があったのである。
もう一つ,重要な仮定を導入しなければ証明にはならない。
それは,
という計算規則である。
あまりきちんと考えを練っていないので,わかりづらい表現になってしまった。
言いたいことは,
30×2 というのは,30 の 3 の後ろの 0 を無視して,先頭の数字 3 を 2 倍して (3×2)0=60 というように計算してよい,
ということである。
これを 2×30 に当てはめると,2×30=(2×3)0=60 となる。
これらの変な数式((2×3)0 など)を使わずに標準的な言い回しにすれば,10 や 100 といった 10 のべきは積に関して可換である,と言ってもよい。
つまり,
30×2=(3×10)×2=3×(10×2)=3×(2×10)=(3×2)×10=6×10=60
という計算をしてよいということでもある。
ただし,この説明法では掛け算の結合律 (a×b)×c=a×(b×c) を用いているので,それもあらかじめ導入しておく必要がある。
なお,二桁以上の自然数同士の掛け算には,30×400 などのような計算も出てくるので,これらは「0 を飛ばして」先頭の数同士を掛け合わせて,あとに 0 を出てきた分だけ付け足す,という計算規則で計算できるということにもしておかなければならない。
「0 を出てきた分だけ付け足す」というのは,先に 10×100=1000 などの 10 のべき同士の掛け算についてきちんとした意味づけを行っておく必要があるだろう。
このように,10 のべきや,その自然数倍同士の掛け算について特別な計算規則を導入する点が,十進法に依存する,と先に述べたことの真意である。
説明もずいぶん長くなったから,3桁と2桁の掛け算の例と,分数や小数の掛け算について簡単に述べて尾張にしよう。
326×57 と 57×326 は次のように計算する:
326×57=(300+20+6)×(50+7)
=(300+20+6)×50+(300+20+6)×7
=300×50+20×50+6×50+300×7+20×7+6×7
=15000+1000+300+2100+140+42
=18582.
57×326=(50+7)×(300+20+6)
=(50+7)×300+(50+7)×20+(50+7)×6
=50×300+7×300+50×20+7×20+50×6+7×6
=15000+2100+1000+140+300+42
=18582.
こうやって数式をずらずら並べるととても見にくいが,何のことはない,掛け算の筆算の原理そのものである。
逆に言えば,上に述べたようなことをグダグダ言わずに掛け算の筆算の計算手順を天下りに導入してしまえば,自然数同士の掛け算の順序交換が可能なことはほとんど自明なこととなる。
分数同士の掛け算については,分子同士,分母同士を掛け合わせるだけで済み,そしてそれらの掛け算は順序が入れ替えられるということが既に確立されているので,分数同士の掛け算の順序が入れ替えられることは自明である。
最後に有限小数については,筆算の観点からすると,小数点という「ゴミ」がついているだけで,実質的に自然数同士の掛け算となんら変わる事はないから,有限小数同士の掛け算の順序が入れ替えられることも自明である。
ただし,根底にあるのは,やはり 10 のべきに関する特別な計算規則であることを忘れてはならないだろう。
つまり,特別な形の小数について,0.3×0.04 は「0 を無視して 3 と 4 をかけたもの (12) の,0 が出てきた個数 (1+2=3個分) だけ小数点をずらす」ことによって 0.012 になる,だとか,0.1×0.01=(1/10)×(1/100)=1/(10×100)=1/1000=0.001 になることだとかを暗に明に計算規則として意識する必要がある。
なお,この一文を書いた目的は,自然数,分数,有限小数(要するに有理数)の範囲においては掛け算の順序が入れ替えられることは,九九の表に現れるものなど,いくつかの特別な形の数の間での掛け算の順序が入れ替えられることと,足し算の可換性,結合律を組み合わせれば証明可能だという事実を指摘したかっただけのことであり,実際の教育現場でこの通りに教えるべきだと主張したかったわけではない。
(むしろ逆にそんなことはすべきではないと反対したいところでさえある。)
数の計算規則というのは人類が長い年月をかけて築いてきた「仮定」なのであって,これらが天与の絶対無二の計算規則というわけではなく,限られた経験から一般規則を想定して新しい計算規則を獲得するというプロセスが背後にあることを注意したかったのである。
筆算の原理ひとつとっても,すんなり受け入れるわけにはいかない原理がいろいろと背景にあるのだということを認識しておくことは,教育者にとっては大事なことだと思われる。
いざ子供に「どうして掛け算はそういう風に計算するの?」などと根源的なことを聞かれたら,話せば長いことだけど,これこれこういう風に考えると,掛け算の計算規則はこんな風に作ればいいことがわかるんだよと説明できる大人でありたいものである。
そのような説明の一例を述べたまでである。
<おまけ>
円周率のような数はここで扱った数の範囲から逸脱しているので,掛け算がそもそも定義できるかどうかも自明なことではない。
ましてや,そうした数の間で掛け算の順序が入れ替えられるかということも,きちんと説明しようと思うと途方に暮れてしまうような大問題である。
学校教育でそのような問題にどう対応しているかというと,この点に関しては公理論的な立場を採用しているものと思われる。
つまり,「そもそも実数とは,掛け算が定義されていて,しかも掛け算の順序は無条件に交換できるものである」という前提を暗黙のうちに置いており,この性質は証明すべき性格のものとは考えていない。
そうすると,小学校低学年で足し算や掛け算を,身の回りを取り巻く現実世界の現象から抽象した数の計算規則として,実体験になるべく即した形で導入していくという「積み上げ式」の取り組み(「構成的な立場」と言ってもよい)をしていたはずが,円の面積の公式などが出てくる小学校高学年あるいは中学校においては公理論的取り扱いという,「天下り式」の取り組みにいつのまにかすりかわっていることになる。
こうしてみると,知識の構築の仕方に関して180度異なるこれらのアプローチの違いが,算数は得意だったが数学は苦手になった,といった数学学習におけるつまずきの遠因の一つではないかと夢想される。
<おまけ2>
中学校で導入される平方根の掛け算について,
√a×√b=√(a×b)
という公式は,証明されるべきことか,それとも定義なのか,どちらなのだろうか?
どちらかというと,これは定義であろう。
この計算規則を定義だと思うと,
√2×√3=√(2×3)=√6=√(3×2)=√3×√2
となり,√2 と √3 の掛け算の順序が交換できることが示される。
そして,論理的には順序がおかしいとは思うが,この定義が「まとも」でありそうだというのは,次のように確認することが出来る。
もともと√6 という数は「2乗したら 6 になる正の数」というのが定義であるから,√2×√3 や √3×√2 がちゃんと2乗して 6 になるかどうかを検証する必要がある。
その際,√2 と√3 などの掛け算の順序の入れ替えが自由にできないと,何一つ計算は進まない。
あともちろん結合律も成立することが前提となる。
(√2×√3)(√2×√3)=(√3×√2)(√2×√3)
=√3×(√2×(√2×√3))
=√3×((√2×√2)×√3)
=√3×(√4×√3)
=√4×(√3×√3)
=2×3
=6.
これは結局のところ,√2×√3=√(2×3) という定義はそもそもの平方根の定義と矛盾はしないよ,という状況証拠のようなものであって,この計算規則はまともそうだな,という確証を強める証拠固めに過ぎないであろう。
これとは異なり,√2 などの「中身」に迫って説得するという方法も考えられる。
つまり,√2 などの(十進)小数による展開を利用して,平方根同士の計算規則を見出そうという,「積み上げ式」のアプローチである。
1.4<√2<1.5,
1.7<√3<1.8
なので,不等式の性質により,
1.4×1.7<√2×√3<1.5×1.8,
つまり
2.38<√2×√3<2.7
となるが,
2.38 の2乗は 5.6644,
2.7 の2乗は 7.29 であるから,
まあ,かなり荒い近似だが,√2×√3 は √6 に近そうではないか,と考えていく方法である。
もう少し近似の精度を上げないと説得力は増さないし,√6 には近そうだけど,本当に等しいと言ってよいのだろうか,という気持ちの悪さがいつまでも残りそうである。
これは不等式に基づく考察なので,等式に基づく「きっちり」とした論証より印象が悪いのである。
しかも,不等式の扱いに習熟していないと議論についていけない。
そして最終的には極限の概念を避けては通れないため,理論としてもかなり高度な内容になる。
中学で導入する平方根の記号は,まさにそうしたどろどろとした「実数の本性」をすっぽり覆い隠す便利な覆いである。円周率をπというギリシャ文字で置いてしまうのも同じ精神のなせる所業だろう。
ところが,中学までは仲良く連携していた数学と理科とが,高校では平方根の取り扱いで齟齬を見せ始める。
例えば,数学では √3 という記号を書けばそれで正解ということになっているのに,物理や化学では有効数字なるものを考慮に入れた上で,小数の形で 1.73 と答えなければ不正解にされてしまう。
中学数学の大きなテーマの一つは「文字式の取り扱いに習熟すること」があるだろうが,その路線でのみ平方根を取り扱うという偏った取り扱いが,「数の実際の大きさ」という側面を完全に忘れさせてしまい,数学と自然科学との間のリンクを断ち切ってしまっているように思えてならない。
このことはどうやら少なくとも日本の数学教育が抱える重大な問題点の一つであると思われる。
このことに配慮してか,公式の単元とは言えないようだが,「数の整数部分と小数部分」というテーマが式の計算の単元で取り扱われてはいる。大学入試問題でもよく取り上げられるが,しかし高校数学のメインテーマではなさそうである。
実数の整数部分とは,要するのその実数の整数の範囲での近似値であり,小数部分は誤差である。
だから,円周率の整数部分は 3 である,という言明は,円周率の近似値はおよそ 3 である,という意味である。
しかし結局は式の計算の一応用という位置づけの演習問題としてしか取り扱われることはない。
東大あたりは円周率や自然対数の底の近似値について問う入試問題を近年好んで出題しているように思われるが,中学・高校の6年間ですっかり数学における「実数」の取り扱いと,その「大きさ」や量としての役割とが乖離してしまっている受験生には盲点過ぎてたまったものではないだろう。
基本的な数の計算規則を確立するために,小学校で現実世界の「量」と数を結びつけて一所懸命教え込まれたとしても,それに続く中学・高校でその路線を継承しないのであってみれば,小学校での取り組みが子供の成長と共に花開くことは見込めないので,まるで徒労に終わってしまうかのようである。
日本の算数・数学教育の大きな問題点のひとつは「量」と「数」の深刻な乖離にあるのではなかろうか。
九九の表を眺めれば,一桁の自然数同士の積が可換であることに気づく。
その事実を基礎にすえて,任意の整数同士,分数同士,有限小数同士の積が可換であることの証明を試みたい。
九九の表を基礎に据える以上は,なぜ 3×7 と 7×3 が共に 21 という数になって一致するのかの理由を述べなければならないが,その説明の仕方はいろいろあるだろう。
3 や 7 が単位を持った「量」であると,3×7 と 7×3 の意味づけは異なり,両者が一致することは自明なこととは言えなくなるというのが僕の考えであるが,そうした意味づけには目をつぶり,マスの個数のようなかけ算の意味づけに基づけば,
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という図の縦横を変えて
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という図に書き換えても,実際に数えてみれば,■の個数はいずれも21個で,(たて)×(よこ)という式の立て方において,たてを 3,よこを 7 と置こうが,数字を取り替えてたてを 7,よこを 3 と置こうが,どちらも■が21個並んだ図を指すことに変わりなく,3×7=7×3 が成り立つことが了承される。
教育的には,九九に現れる全ての積において同じことが言えることを(子供一人に全てを確かめさせるのはさすがに退屈なので,班に分かれて分担するなど工夫して)確かめさせることが望ましいと思う。
さて,これだけでは整数同士の積の可換性すらおぼつかない。
足し算の順序を変えてよいことと,足し算とかけ算の間に成り立つ分配律を認めなければならない。
足し算の順序が変えられることも,■のようなタイルの取り扱いで容易に子供たちは理解できるだろうが,分配律はどうであろうか。
それは,例えば計算の順序も導入したうえで,
(3+4)×6=7×6=42,
3×6+4×6=18+24=42
などの具体例をいくつか示し,子供にも確かめさせたうえで,普遍的な計算法則らしい,という観念を子供の頭の中に印象付ける必要があるだろう。
ただし,九九を覚えるのについていけない子供は掛け算 7×6 や 3×6 でつまずくだろうし,繰り上がりのある足し算が苦手な子は 18+24 の計算でつまずくだろうから,クラス全体の子供達がこの話を理解するためには,粘り強い指導が欠かせないかもしれない。
このような実験を経て,次の一般規則を導入する:
どんな自然数 k, m, n に対しても,(k+m)×n=kn+mn,n×(k+m)=nk+nm が成り立つ。
これは仮定であって,命題ではない。九九の表に収まる例の範囲(k+m が1桁の数に収まらなければならないので,例の総数はかなり限定される)で成り立つことが観察された事実をもって,一般の整数の掛け算を定義するための法則として勝手に導入するのである。
そのような計算規則を立てることの正当性は,なんらかの別の原理から論理的に保証されるわけではなく,その計算規則の有用性が,のちのち算数のみならず,他のいろいろな分野で経験的に確立されていく過程で了承される性格のものである。したがって,このような計算規則の導入は天下りにならざるを得ない。
一桁の自然数同士の掛け算を二桁以上の自然数に拡張するという過程は,人類が知識を広げる上で欠かせない知的活動の典型をなしていると言える。そのような観点からみると,掛け算を教えることは非常に重要であり,かつやりがいのある仕事である。
そしてもう一つ,ここで試みようとしている証明は,位取り記数法,あるいは,もっと具体的に言うと十進法という自然数の表現法に強く依存したものであることを明らかにせねばならない。
自然数 9 の次の数は 10 と書く。
これはもちろん位取り記数法に則った表記である。
これで準備は整ったので,2×35 を例にとって証明の指針を述べよう。
まず前提として,35 という数は 35=3×10+5 と分解できることがわかっていなければならない。
このような分解の仕方はとても大事なことであるが,小学生はもちろんのこと,大人でさえもこの事実を必要に応じて適切に使いこなせる人はあまり多くはなさそうである。
十円玉が3枚と五円玉が1枚で,あわせて35円になることがわかるというのは日常生活で必須の能力で,それが備わっていない大人はそれほど多くはないだろうが,このことを金銭のやり取りなどの具体的な場面以外で広く一般に有効に使えるかというと,それは怪しいのではないかと言っているのである。
ともかく,35=3×10+5 と分解できることがわかっていて,拡張された分配律も受け入れると,次のような展開が可能になる:
2×35=2×(3×10+5)=2×30+2×5=60+10=70,
35×2=(3×10+5)×2=30×2+5×2=60+10=70.
よって 2×35 と 35×2 は共に同じ数 70 になるので,2×35=35×2 が成り立つことがわかったことになる。
ここまでの説明を読んでくださった読者の中には,鋭い方もおられるだろう。
上の計算にはとんでもないインチキが含まれているのである。
それは二箇所ある。
2×30=60 と 30×2=60
の部分である。これらは,上にくどくどと導入してきた計算規則だけからは説明のつかない計算である。
要するに,これまでの説明に不十分な点があったのである。
もう一つ,重要な仮定を導入しなければ証明にはならない。
それは,
20 や 400 のように,一桁の数の後に 0 が続く特別な数については,それらに一桁の数をかけるという計算は,先頭の数をかけた数倍するという計算だと思ってよい
という計算規則である。
あまりきちんと考えを練っていないので,わかりづらい表現になってしまった。
言いたいことは,
30×2 というのは,30 の 3 の後ろの 0 を無視して,先頭の数字 3 を 2 倍して (3×2)0=60 というように計算してよい,
ということである。
これを 2×30 に当てはめると,2×30=(2×3)0=60 となる。
これらの変な数式((2×3)0 など)を使わずに標準的な言い回しにすれば,10 や 100 といった 10 のべきは積に関して可換である,と言ってもよい。
つまり,
30×2=(3×10)×2=3×(10×2)=3×(2×10)=(3×2)×10=6×10=60
という計算をしてよいということでもある。
ただし,この説明法では掛け算の結合律 (a×b)×c=a×(b×c) を用いているので,それもあらかじめ導入しておく必要がある。
なお,二桁以上の自然数同士の掛け算には,30×400 などのような計算も出てくるので,これらは「0 を飛ばして」先頭の数同士を掛け合わせて,あとに 0 を出てきた分だけ付け足す,という計算規則で計算できるということにもしておかなければならない。
「0 を出てきた分だけ付け足す」というのは,先に 10×100=1000 などの 10 のべき同士の掛け算についてきちんとした意味づけを行っておく必要があるだろう。
このように,10 のべきや,その自然数倍同士の掛け算について特別な計算規則を導入する点が,十進法に依存する,と先に述べたことの真意である。
説明もずいぶん長くなったから,3桁と2桁の掛け算の例と,分数や小数の掛け算について簡単に述べて尾張にしよう。
326×57 と 57×326 は次のように計算する:
326×57=(300+20+6)×(50+7)
=(300+20+6)×50+(300+20+6)×7
=300×50+20×50+6×50+300×7+20×7+6×7
=15000+1000+300+2100+140+42
=18582.
57×326=(50+7)×(300+20+6)
=(50+7)×300+(50+7)×20+(50+7)×6
=50×300+7×300+50×20+7×20+50×6+7×6
=15000+2100+1000+140+300+42
=18582.
こうやって数式をずらずら並べるととても見にくいが,何のことはない,掛け算の筆算の原理そのものである。
逆に言えば,上に述べたようなことをグダグダ言わずに掛け算の筆算の計算手順を天下りに導入してしまえば,自然数同士の掛け算の順序交換が可能なことはほとんど自明なこととなる。
分数同士の掛け算については,分子同士,分母同士を掛け合わせるだけで済み,そしてそれらの掛け算は順序が入れ替えられるということが既に確立されているので,分数同士の掛け算の順序が入れ替えられることは自明である。
最後に有限小数については,筆算の観点からすると,小数点という「ゴミ」がついているだけで,実質的に自然数同士の掛け算となんら変わる事はないから,有限小数同士の掛け算の順序が入れ替えられることも自明である。
ただし,根底にあるのは,やはり 10 のべきに関する特別な計算規則であることを忘れてはならないだろう。
つまり,特別な形の小数について,0.3×0.04 は「0 を無視して 3 と 4 をかけたもの (12) の,0 が出てきた個数 (1+2=3個分) だけ小数点をずらす」ことによって 0.012 になる,だとか,0.1×0.01=(1/10)×(1/100)=1/(10×100)=1/1000=0.001 になることだとかを暗に明に計算規則として意識する必要がある。
なお,この一文を書いた目的は,自然数,分数,有限小数(要するに有理数)の範囲においては掛け算の順序が入れ替えられることは,九九の表に現れるものなど,いくつかの特別な形の数の間での掛け算の順序が入れ替えられることと,足し算の可換性,結合律を組み合わせれば証明可能だという事実を指摘したかっただけのことであり,実際の教育現場でこの通りに教えるべきだと主張したかったわけではない。
(むしろ逆にそんなことはすべきではないと反対したいところでさえある。)
数の計算規則というのは人類が長い年月をかけて築いてきた「仮定」なのであって,これらが天与の絶対無二の計算規則というわけではなく,限られた経験から一般規則を想定して新しい計算規則を獲得するというプロセスが背後にあることを注意したかったのである。
筆算の原理ひとつとっても,すんなり受け入れるわけにはいかない原理がいろいろと背景にあるのだということを認識しておくことは,教育者にとっては大事なことだと思われる。
いざ子供に「どうして掛け算はそういう風に計算するの?」などと根源的なことを聞かれたら,話せば長いことだけど,これこれこういう風に考えると,掛け算の計算規則はこんな風に作ればいいことがわかるんだよと説明できる大人でありたいものである。
そのような説明の一例を述べたまでである。
<おまけ>
円周率のような数はここで扱った数の範囲から逸脱しているので,掛け算がそもそも定義できるかどうかも自明なことではない。
ましてや,そうした数の間で掛け算の順序が入れ替えられるかということも,きちんと説明しようと思うと途方に暮れてしまうような大問題である。
学校教育でそのような問題にどう対応しているかというと,この点に関しては公理論的な立場を採用しているものと思われる。
つまり,「そもそも実数とは,掛け算が定義されていて,しかも掛け算の順序は無条件に交換できるものである」という前提を暗黙のうちに置いており,この性質は証明すべき性格のものとは考えていない。
そうすると,小学校低学年で足し算や掛け算を,身の回りを取り巻く現実世界の現象から抽象した数の計算規則として,実体験になるべく即した形で導入していくという「積み上げ式」の取り組み(「構成的な立場」と言ってもよい)をしていたはずが,円の面積の公式などが出てくる小学校高学年あるいは中学校においては公理論的取り扱いという,「天下り式」の取り組みにいつのまにかすりかわっていることになる。
こうしてみると,知識の構築の仕方に関して180度異なるこれらのアプローチの違いが,算数は得意だったが数学は苦手になった,といった数学学習におけるつまずきの遠因の一つではないかと夢想される。
<おまけ2>
中学校で導入される平方根の掛け算について,
√a×√b=√(a×b)
という公式は,証明されるべきことか,それとも定義なのか,どちらなのだろうか?
どちらかというと,これは定義であろう。
この計算規則を定義だと思うと,
√2×√3=√(2×3)=√6=√(3×2)=√3×√2
となり,√2 と √3 の掛け算の順序が交換できることが示される。
そして,論理的には順序がおかしいとは思うが,この定義が「まとも」でありそうだというのは,次のように確認することが出来る。
もともと√6 という数は「2乗したら 6 になる正の数」というのが定義であるから,√2×√3 や √3×√2 がちゃんと2乗して 6 になるかどうかを検証する必要がある。
その際,√2 と√3 などの掛け算の順序の入れ替えが自由にできないと,何一つ計算は進まない。
あともちろん結合律も成立することが前提となる。
(√2×√3)(√2×√3)=(√3×√2)(√2×√3)
=√3×(√2×(√2×√3))
=√3×((√2×√2)×√3)
=√3×(√4×√3)
=√4×(√3×√3)
=2×3
=6.
これは結局のところ,√2×√3=√(2×3) という定義はそもそもの平方根の定義と矛盾はしないよ,という状況証拠のようなものであって,この計算規則はまともそうだな,という確証を強める証拠固めに過ぎないであろう。
これとは異なり,√2 などの「中身」に迫って説得するという方法も考えられる。
つまり,√2 などの(十進)小数による展開を利用して,平方根同士の計算規則を見出そうという,「積み上げ式」のアプローチである。
1.4<√2<1.5,
1.7<√3<1.8
なので,不等式の性質により,
1.4×1.7<√2×√3<1.5×1.8,
つまり
2.38<√2×√3<2.7
となるが,
2.38 の2乗は 5.6644,
2.7 の2乗は 7.29 であるから,
まあ,かなり荒い近似だが,√2×√3 は √6 に近そうではないか,と考えていく方法である。
もう少し近似の精度を上げないと説得力は増さないし,√6 には近そうだけど,本当に等しいと言ってよいのだろうか,という気持ちの悪さがいつまでも残りそうである。
これは不等式に基づく考察なので,等式に基づく「きっちり」とした論証より印象が悪いのである。
しかも,不等式の扱いに習熟していないと議論についていけない。
そして最終的には極限の概念を避けては通れないため,理論としてもかなり高度な内容になる。
中学で導入する平方根の記号は,まさにそうしたどろどろとした「実数の本性」をすっぽり覆い隠す便利な覆いである。円周率をπというギリシャ文字で置いてしまうのも同じ精神のなせる所業だろう。
ところが,中学までは仲良く連携していた数学と理科とが,高校では平方根の取り扱いで齟齬を見せ始める。
例えば,数学では √3 という記号を書けばそれで正解ということになっているのに,物理や化学では有効数字なるものを考慮に入れた上で,小数の形で 1.73 と答えなければ不正解にされてしまう。
中学数学の大きなテーマの一つは「文字式の取り扱いに習熟すること」があるだろうが,その路線でのみ平方根を取り扱うという偏った取り扱いが,「数の実際の大きさ」という側面を完全に忘れさせてしまい,数学と自然科学との間のリンクを断ち切ってしまっているように思えてならない。
このことはどうやら少なくとも日本の数学教育が抱える重大な問題点の一つであると思われる。
このことに配慮してか,公式の単元とは言えないようだが,「数の整数部分と小数部分」というテーマが式の計算の単元で取り扱われてはいる。大学入試問題でもよく取り上げられるが,しかし高校数学のメインテーマではなさそうである。
実数の整数部分とは,要するのその実数の整数の範囲での近似値であり,小数部分は誤差である。
だから,円周率の整数部分は 3 である,という言明は,円周率の近似値はおよそ 3 である,という意味である。
しかし結局は式の計算の一応用という位置づけの演習問題としてしか取り扱われることはない。
東大あたりは円周率や自然対数の底の近似値について問う入試問題を近年好んで出題しているように思われるが,中学・高校の6年間ですっかり数学における「実数」の取り扱いと,その「大きさ」や量としての役割とが乖離してしまっている受験生には盲点過ぎてたまったものではないだろう。
基本的な数の計算規則を確立するために,小学校で現実世界の「量」と数を結びつけて一所懸命教え込まれたとしても,それに続く中学・高校でその路線を継承しないのであってみれば,小学校での取り組みが子供の成長と共に花開くことは見込めないので,まるで徒労に終わってしまうかのようである。
日本の算数・数学教育の大きな問題点のひとつは「量」と「数」の深刻な乖離にあるのではなかろうか。
数の言葉ヒフミヨ(1234)は、3・4次元で閉じているのを絵本で・・・
もろはのつるぎ
(有田川町ウエブライブラリー)