高橋誠,かけ算には順序があるのか,岩波科学ライブラリー180,2011.
※ 2011年9月5日に明らかな誤植を訂正し,積分定数さんからいただいたコメントをふまえた注などを追加した。
小学校に通う子供が,『6×4=24』という式を書いてバツをつけられている答案を持って帰る。
それを見た親は驚く。「えっ,何で正しい等式なのにバツがついているの?」
問題文を読み違えたせいなのか?
問題文は『6人のこどもにみかんを4個ずつ配ります。みかんはいくついるでしょう。』である。
親はますます首をかしげる。「これなら 6×4=24 でいいじゃないか。なぜ先生はバツをつけたのだろう?」
納得のいかない親は小学校に問い合わせる。
すると,先生から衝撃的な事実を知らされるのである。
掛け算には順序がある。この問題の場合は 4×6=24 と式を書くのが正しいのであって,6×4=24 は誤りである。
親は自分の子供時代にそんな風に教わった覚えはない。
そもそも掛け算には順序などないというのは常識ではないか?
少なくとも日常生活においてこれまで掛け算の順序に気をつけた覚えはないし,それで何か問題が起きたことはない。
だから,4×6 だろうが,6×4 だろうが,答えはどちらも正解の 24 に等しいのだから,4×6 はマルで 6×4 はバツなどと区別するのはおかしい。
このように,親の常識と小学校の常識とがぶつかり合って,掛け算の順序がネットで最近よく話題に上るらしい。
この話は一箇月ほど前に友人から聞かされていたので,先週,近所の図書館で本書を発見したときは驚いた。
こんな本が出ているのか。
なんとタイムリーな出会いであることか!
(その友人に本書のことを教えたのは言うまでもない。メールの返事は来なかったけど・・・。)
[注1.このブログを書いた後にその友人に会ったら,本書を買ったと言っていたような気がする。]
あとがきを読むと,ネットで話題になったことが書籍になるという,現代的な本の作られ方の典型的なコースのようで,友人が閲覧していたサイトは本書の著書が関わったサイトだったのかもしれない。
本書の第一章では,上に述べたような問題について,僕がほぼ無批判に心酔する遠山啓氏や森毅氏らの考えを批判的に検討しながら議論を進めていくので,感情的に抵抗があり,つい意地悪く批判的に読む姿勢をとってしまったが,そうやってじっくり読むと,ツッコミたいところもいくつかあるものの,全体的にいろいろなことに気づかせてくれ,教えてくれ,考えさせてくれる,最高に刺激的な本であることを素直に認める気持ちになった。
(どれくらい刺激的なのかは,本書のタイトルで検索してヒットする書評のブログの多さを見れば想像つくだろう。)
そういう意味で,人に薦めたい本である。
なんだか人に読むように本を薦めることは今までほとんどなかったが,本書は僕がおすすめする貴重な一冊となった。
というわけで,本書に刺激されていろいろなことを考えたのだが,とてもまとめきれないので,いつも通り,考えたことをだらだらと列挙しておく。
友人にこの問題を持ちかけられたとき,僕はほぼ反射的に「親」と同じ反応で,『6×4=24 にバツをつけるなんてナンセンス!それどころか子供を算数嫌いにするきっかけを作ったかもしれないから,むしろ害である』という意見を述べた。
しかし本書を読んで,これは反射的に回答を出すべき問題ではなく,いろいろなことを考え合わせてじっくり検討すべき問題だと,認識を改めた。
この子供が小学何年生なのか,ということがひとつの重要な鍵となる。
もし掛け算を習いたてなのであれば,考え方を固定するために便宜的に掛け算に順序があるという立場で教えるのはよいというのが僕の立場である。
小学校で掛け算はまず上に例としてあげたような日常的な具体的な状況設定の下で導入されるらしい。
つまり,掛け算に出てくる数字はただの数字なのではなくて,単位のついた「色付き(あるいはフダ付き)」の数字なのである。
そのことをふまえて,上の問題であれば,
4個/人×6人=24個
のように,記号 "×" の左側には「1あたりの量」を,右側には「いくつ分」を書くというように式の書式を固定してしまう。
そうすると教えやすく,学ぶ側も理解しやすいということなのであろうか?
この段階で不用意に
6人×4個/人=24個
と書いても同じことですよ,と言ってしまうのは教育的に危険なのだろうか。
それは僕自身に実践経験がなく,現場の先生方のレポートを読んだことがないため,現時点では僕には全く判断がつきかねることであるが,ここが問題の核心なのである。
思うに,まず,掛け算を導入したてのころはまだ掛け算の順序が入れ換えられるかどうかなどについて全く知識がないだろうから,じっくり例を積み重ねる前から順序交換が可能であるというドグマを子供たちに押し付けるのは教育上良くないだろう。
また,そのようなドグマを押し付けた場合に懸念される弊害は,将来的に子供が線形代数などで交換法則が成り立たない『積(もどき)』に出会ったときに,それらの概念を受け入れるのが非常に困難になるかもしれないことである。
後者のような心配は,そうした非可換な数学的対象をいやというほど知っている大学の先生が抱く一種の杞憂であろう。小学生の大半はそうした数学とは一生関わらないだろうから,心配を置くポイントが少しずれているように思えるのである。
しかも,僕などは,結局足し算も掛け算も計算順序は変わらないということしか覚えていない状態で行列の積等を習ったが,積が可換でないという事実を受け入れるのに困難を覚えたかというとあまりそういう気はしない。(靴下を履いてから靴を履くのと,靴を履いてから靴下を履くのとでは結果が違う,というよく知られたたとえを学んだとき,非可換性に対する違和感が当時僕にあったとしても吹き飛んでしまったと思われる。)
そして,ある程度精神が熟していれば,計算規則をきちんと覚えて正確に適用することは容易に習得できる技能だと思われるので,高校や大学でのことを心配する必要はないと思う。
むしろ中学校で習う文字式において ab と書こうが ba と書こうが同じこと習うが,このような文字式の段階での積の可換性の方が,文字式の計算が主となる高校や大学の数学においては影響力が強いと思う。
つい,ab+ba という式を見ると,a や b がどのような数学的な量を表しているのかにかかわらず(というかそのことをすっかり忘れて),ab と ba が『同類項』に思えて 2ab とまとめたくなってしまうのである。
つまり,小学校段階の数の掛け算の順序交換可能性より,中学校段階の文字式の掛け算の順序交換可能性の方があとあとまでたたるのではないか,というのが僕の見解である。
また,むしろ不思議なのはなぜ足し算や掛け算で計算に順序がないのか,ということであって,自然数同士の足し算や掛け算ではいくつかの例で具体的に確かめられたとしても,小数や分数まで扱う数を広げたときに,やはりまだ足し算や掛け算が可換であるということはどう説明されるのだろうか。そこが大いに気になるのである。
(森毅「数の現象学」(ちくま学芸文庫)所収の『次元を異にする3種の乗法』でも「なぜここで交換法則が成立するかが問題である」という注意を述べている。なお,このエッセイで取り上げられている新聞の投書は,本書の第一章でしっかりと出典も明らかにされた上で紹介されている。上に挙げた例はその投書の問題そのものである。)
本書では掛け算の可換性は「常識である」という立場であって,その成立する理由を掘り下げていないが,高学年で小数や分数の掛け算を導入するときに可換性をどう扱うのかについても視野に入れて論じる必要があるだろう。
p.44 では,(1あたり量)×(いくつ分)だろうが,(いくつ分)×(1あたり量)だろうが、同一の事態を同一に解釈して立てた式であるから,両者は等しい,というような主張が述べられているのだが,これは等式の意味の拡大解釈であって,よくない気がする。
つまり,これは積が可換であることは定理ではなくて定義であるとする立場ではないだろうか。
式の意味を考えると
(1あたり量)×(いくつ分)=(いくつ分)×(1あたり量)
と書いてもいいですよね,という取り決めを述べたものであって,1あたり量やいくつ分が具体的な数値として与えられたときに左辺と右辺の値が一致するかどうかは,このような考察からは何一つわからない。
このあたりの論理的な欠陥は見直す余地があると思われる。
なお,(1あたり量)×(いくつ分)に固定するか,逆にするかはどちらも正当な理由がつけがたく,実質的に好みの問題だと思うが,漢数字は(いくつ分)×(1あたり量)の順だという指摘にはなるほどと思った。
例えば三百五十二というのは,「三つの百と,五つの十と,二つの一」で,三×百+五×十+二×一という発想で出来た表現だというのである。確かにそうかもしれない。
さて,ここで論じている問題の最大の問題点は,親と学校の先生の間に挟まれて困惑する小学生の子供に対するケアであって,文部科学省だか教育委員会だかの回答のように,親と学校の間でよく話し合うということがやはり一番重要ではないかと思う。なぜバツをつけたのか,先生が理由をきちんと説明し,親の言い分にもちゃんと耳を傾け,先生の立場をしっかり説明して親に納得してもらう,というプロセスが当事者としてはもっとも大切であろう。
子供は大人の間でどちらが正しいか判断がつかずに揺れ動き,つらい思いをするかもしれない。それが一番気をつけるべきことである。
親も教育のプロとしての学校側の見解を尊重すべきだし,先生も家庭における教師としての親の意見をよく聞き入れるという姿勢が必要である。
さて,もう一度僕の立場を述べておくと,掛け算導入の初期段階であれば,6×4=24 はサンカクである。
なぜこのような式を書いたのか,子供に真意を聞かなければならない。
これは教育のチャンスであるととらえるべきである。
習った通りなら 4×6=24 と書くべきであったことを説明すればよい。
また,これは,6×4 でも答えが同じになること,つまり積の可換性について注意を促すよい機会である。
そして,最初に単位をつけて式を書くように指導しておき,
6人×4個/人=24個
ならマルで,
6個/人×4人=24個
ならバツにした,と説明すればよい。
ただ,単位という「色付き」の数字をいずれは単位なしの「色なし」の数字として扱えるようにしなければならないし,あまり単位を強調しすぎると,x
2 と x は単位が異なる(例えば x が長さを表すなら,x
2 は面積だから長さ x と足すことは意味がない)からという理由で生徒が中世以前の人類の数学レベルから進展できなくなる弊害が生じるかもしれない。
なお,先ほど中学校で習う文字式のことを話題に出したが,ついでに中学校で習う比例や一次関数のことを考えると,y=ax の右辺のように「変化の割合」という「1あたりの量」a を左に,「いくつ分」に相当する x を右側に書くという慣わしがある。
ただし,この順序は「数値を左に,文字を右に」という文字式の書き順より弱いようで,x=2 のとき y=4 だった,という条件を式で表すときは 4=2a のように書くようになってしまい,掛け算の順序に対するこだわりは文字式の書き順という別のこだわりの前になりをひそめてしまうのである。
それにしても,掛け算に順序があるという話は,小・中学校の各学年において,生徒がどれくらいの割合で覚えているのか,きちんとした統計データをとって検証すべきであろう。
また,人間は演算をつい可換だとしてしまうのか,それとも順序にあらかじめこだわる性癖があるのか,どちらなのかが非常に気になっている。
掛け算を習う前に,足し算の可換性は習っていることだろう。
そうすると,自然と(短絡的に,無批判に,自動的に)新しく習ったばかりの「新顔」である掛け算に対しても,数字を書く順番はどうでもよい,という風に「勝手に拡張」をしてしまうのかもしれない。
あるいは,単純に掛け算の式の書式にまだ慣れていない(覚えていない)せいで,習ったのとは違う順番で式を書いてしまうのかもしれない。順序を意識するなどという細かい区別を身につけるのはなかなか大変なものである。
(絶対値の場合分けが正しくできない学生がいかに多いことか!あらかじめ決められたルールをしっかり見につけて正しい式変形を行うという技術はなかなか習得できるものではない。)
いずれにせよ,掛け算の順序を守れるかどうかは,教わったことがきちんと身についているかどうかを見分ける指標となり得るはずなので,[教えた通りの順序で式を立てているかどうかを評価の対象とするのは妥当だと思う。]
[注2.ここは文を書き終わっていないという致命的なミスを犯していたので,[] 内に文章を補った。あのころの自分はたぶんこんなことを言いたかったのだと思う。書きっぱなしで推敲してないのがバレバレですな・・・。]
長くなったが,なぜ長くなったかというと,この問題は,掛け算の学習のどの段階における出来事なのか,などといった算数・数学教育全体の流れの中に位置づけて論じるべきことであって,親の立場だけから一方的に結論を出してよいものではないからである。
そして,この問題を議論する際に忘れてはならないのが,どのように掛け算を導入するのが子供にとって学びやすいのか,という点である。
6×4=24 をバツにされた子供が本当に算数嫌いになるのか。掛け算を習得できなくなるのか。
そういった実践的な効果もきちんと考え合わせた上で判断すべき問題だと思う。
もちろん,学校教育の内容と世間一般の常識に大きなズレがある場合は,家庭内で子と親のコミュニケーションに支障をきたすおそれがあるので,親に対する学校側からの十分な説明があるべきである。
掛け算という算数の単元にひそむ学校と世間の認識のギャップというのを浮き彫りにし,書籍という形で世間に問題を知らしめたのは本書が持つ大きな意義である。
同じようなギャップは,算数だけでなく,他の科目にもあるかもしれない。そうしたことはやはり公にして世間の目にさらすことによって議論を促し,よりよい教育のあり方の探求の糧としていかなければならないだろう。
そしてもっとも恐れるべきことは,積の順序を固定するという「教育上の便宜」が,その後の成長段階でいつまでも解除されずに「教条化」ないしは「絶対化」してしまうことであろう。
そういう凝り固まったルールを反省もしないで絶対化させてしまった子供が将来教師になったときに,自分が刷り込まれ,信奉してきた考え方以外を認めようとしない硬化現象を防止するような対策を講じる必要もある。
と,まとめめいたことを書いた後で言うのもなんだが,気になったところをいくつか指摘して第一章の感想文を締めよう。
まず,p.40 に『現在の数教協(の一部)の「式の順序へのこだわり」』という語句があるのだが,これは事実に基づくことなのだろうか?本書にはこの一文を裏付けるような記述や資料の提示がなかったので,非常に気になるところである。
もしかすると著者はネットで数教協(数学教育協議会)を名乗る人物の発言を見たり,そうした人物とやり取りをしたのかもしれないが,そういった本書外の経緯を知らない僕のような者にとっては信憑性に欠ける記述である。
それ以外の記述は必ず情報のソースを挙げているだけに目立つのである。
[注3.本記事への積分定数さんのコメント『カード式』(2011-09-05 15:03:46) に情報あり。
本屋で数教協などが出している月刊誌等を見かけたことがあったので,それらは授業の実践状況を教育関係者以外の者が知るための重要な情報源だと思っていた。
なので,本書もそうした機関誌の記事の分析もふまえて書かれるべきではないかと思っていたのだが,著者(ハンドルネーム「メタメタ」さん)はやはりきっちりチェックを入れておられたことがわかり,ほっとした。
ただ,それならそれで参考文献に挙げておいてくれればよいのだが・・・。それとも,単にこちらの見落としか・・・?]
あと,どんな掛け算も(1あたり量)×(いくつ分)という掛け算の順序とみなすことができる,という主張は,子供心を失っていないと自負する僕にはとうてい受け入れがたいヘリクツである。
「カード配り型」とかなんとかという遠山氏の説明は「わざわざ間接的にマワリミチした」(森,前掲書 p.68)もってまわった技巧的なものであって,アタマの硬い子供である僕には到底受け入れがたい。
また,p.43 で,ハンドルネーム「積分定数」さんが文科省[
国立教育政策研究所]への電凸の際に
3時=3km/(km/時)
とみなせばよい,と思いつきで(?)言ったエピソードを取り上げて絶賛しているが,永遠の子供である僕にはこれも全く受け入れることはできない。
3km/(km/時) って何?
『1人あたり4個』という日本語は理解できるが,『1km/時あたり3km』とは一体なんのことなのか?
日本語として意味をなしていない。僕のように固い頭ではきわめて理解しづらい量である。
正直,ただの言葉遊びでしかないようにさえ思える。まさにヘリクツである。
[注4.ここで紹介した電話による問い合わせのエピソードは,正しくは相手が文科省の国立教育政策研究所だったとのことで,積分定数さんご本人からのご注意(本記事へのコメント『はじめまして』(2011-09-05 10:20:13))に従い修正した(修正箇所は赤字で示してある)。さらに,『思いつき』ではないかと憶測を述べたことと,『言葉遊び・ヘリクツ』呼ばわりに対する積分定数さんからの注意については,それに続く一連のコメントを参照のこと。]
そもそも「1あたり量」とは「外延量/外延量」というのが基本形ではなかろうか。
それを「外延量/内包量」とするのは極めて捕らえづらい。
小学校低学年の掛け算の授業が話題になっているということを忘れてしまってはいないだろうか?
あとは誤植について。
p.19 の第1行に書かれた式は,正しくは
7人×7匹/人×7匹/匹×7本/匹×7合/本=16807合
である。
p.31 に
『英和数学字彙』という辞書の "multiplicand" と "multiplier" の訳語を引用しているが,それにささいな間違いがある。
『英和数学字彙』の p.135 に,"multiplicand" の意味として
被乗数(或ハ実ト称スルコトアリ)
(漢字はほぼすべて旧字体なのだが,ここでは表現できなかった。)
とあるのだが,本書では「実ト」の「ト」がひらがなの「と」になっているという,実に些細なミスがある。同じことは "multiplier" の意味の引用でも見られる。コピペのせいだろうか。
なお,この辞書を探したときに近代デジタルライブラリーという便利なサービスがあるのを知ったのは大きな収穫であった。
"multiplier" の説明文もほとんど同じである。ただし文中に「事」というのを省略しているような字があり,たぶん「コト」の省略形だと思われるものの,正確な読みがわからず悩んでいた。
手元の『言海』という古い国語辞典でもしょっちゅう使用されているが,その文字の説明は見当たらない。
ネットで検索してみたが,参考になるのは
Yah○○!知恵袋のある質問のみであった。
余談だが,ベストアンサーでない回答者は
参考になるサイトを
いくつか紹介してくれているので,僕としてはその人がベストアンサーである。
第二章・第三章についても感想を述べておこう。
第二章は日本の算数・数学教育における九九の歴史を論じたものである。
僕は九九の名の由来を知らなかったが,この章を読んで知った。
著者は和算の本も出しているためか,古代中国や平安時代から昭和初期に至るまでの数学書のみならず他ジャンルの書籍をも引用・分析しながら,昔の日本の九九がどういうものであったかをじっくりと解説する。
九九にこんなに種類があるとは知らなかった。
また,「乳母の草子」という面白そうな古典を知ることもできて有意義であった。
『算法全能集』という本にある九九の表の
web プレビュー画面のURLが紹介してあったので,入力してみたら確かに閲覧できた。
archive.org にはホントお世話になってます。
ロドリゲスの「日本文典」という本もちょっと見てみたいなぁ。
第三章は,「なぜ2時から5時までは3時間で,2日から5日までは4日間なのか」という疑問について分析する。
鍵は離散量と連続量という量の区別にあるという。
僕は「そんなん,計算の仕方の決まりだからしゃーないやん」と思ったが,本書の解説を読んで目からうろこが落ちた。
合理的な説明が可能だとは。
著者は時間は午前0時から始まるが,日は1月1日からで,0月0日ではないということを指摘しているが,同じ話は森毅「指数・対数のはなし[新装版]」(東京図書)の p.29 にも見られる。
ちなみに,本章の冒頭で,「分離量(離散量)」と「連続量」という用語は世間にそれほど知られていないだろうから,算数・数学を教えている人でもこれらの用語を知らなくても恥ではない,という趣旨のことが述べられているのだが,このような気遣いは第一章 (p.5) で何の断りもなしにさらっとこれらの用語を登場させたときにすべきではなかったのだろうか?
あるいは第三章でこれらの用語について少し詳しく述べる旨を脚注ででも読者に案内すると親切だろう。
このような構成のちぐはぐさは,著者が書き溜めてきた文章の一部をまとめて本書が出来たという事情(「あとがき」参照)によるものかもしれない。
ぜひ本書が版を重ね,その過程で上に指摘した誤植や少々問題と思われる箇所を修正し,ロングセラーとなることを願ってやまない。