担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

ちょっとした誤解。

2011-08-31 23:41:21 | Weblog
Wikipedia のアカウントを取得してから,まだ何も活動していない。

最近見かけた小さな間違いを修正しなければ,とは思っている。

それは略字について解説した記事の脚注18である。

辰吉丈一郎氏はプロレスラーではない。ボクサーである。

なお,「吉」と「丈」は正しい字ではないことを初めて知った。
辰吉氏の公式サイトを見ると,本物は確かに違う。


来週にでも修正しようと思う。
それまでに編集の仕方を学ばなければ・・・。
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<読書感想文1109>かけ算には順序があるのか

2011-08-31 20:43:15 | 
高橋誠,かけ算には順序があるのか,岩波科学ライブラリー180,2011.

※ 2011年9月5日に明らかな誤植を訂正し,積分定数さんからいただいたコメントをふまえた注などを追加した。


小学校に通う子供が,『6×4=24』という式を書いてバツをつけられている答案を持って帰る。
それを見た親は驚く。「えっ,何で正しい等式なのにバツがついているの?」

問題文を読み違えたせいなのか?
問題文は『6人のこどもにみかんを4個ずつ配ります。みかんはいくついるでしょう。』である。
親はますます首をかしげる。「これなら 6×4=24 でいいじゃないか。なぜ先生はバツをつけたのだろう?」

納得のいかない親は小学校に問い合わせる。
すると,先生から衝撃的な事実を知らされるのである。

掛け算には順序がある。この問題の場合は 4×6=24 と式を書くのが正しいのであって,6×4=24 は誤りである。

親は自分の子供時代にそんな風に教わった覚えはない。
そもそも掛け算には順序などないというのは常識ではないか?
少なくとも日常生活においてこれまで掛け算の順序に気をつけた覚えはないし,それで何か問題が起きたことはない。

だから,4×6 だろうが,6×4 だろうが,答えはどちらも正解の 24 に等しいのだから,4×6 はマルで 6×4 はバツなどと区別するのはおかしい。


このように,親の常識と小学校の常識とがぶつかり合って,掛け算の順序がネットで最近よく話題に上るらしい。


この話は一箇月ほど前に友人から聞かされていたので,先週,近所の図書館で本書を発見したときは驚いた。
こんな本が出ているのか。
なんとタイムリーな出会いであることか!
(その友人に本書のことを教えたのは言うまでもない。メールの返事は来なかったけど・・・。)

[注1.このブログを書いた後にその友人に会ったら,本書を買ったと言っていたような気がする。]

あとがきを読むと,ネットで話題になったことが書籍になるという,現代的な本の作られ方の典型的なコースのようで,友人が閲覧していたサイトは本書の著書が関わったサイトだったのかもしれない。

本書の第一章では,上に述べたような問題について,僕がほぼ無批判に心酔する遠山啓氏や森毅氏らの考えを批判的に検討しながら議論を進めていくので,感情的に抵抗があり,つい意地悪く批判的に読む姿勢をとってしまったが,そうやってじっくり読むと,ツッコミたいところもいくつかあるものの,全体的にいろいろなことに気づかせてくれ,教えてくれ,考えさせてくれる,最高に刺激的な本であることを素直に認める気持ちになった。
(どれくらい刺激的なのかは,本書のタイトルで検索してヒットする書評のブログの多さを見れば想像つくだろう。)

そういう意味で,人に薦めたい本である。
なんだか人に読むように本を薦めることは今までほとんどなかったが,本書は僕がおすすめする貴重な一冊となった。

というわけで,本書に刺激されていろいろなことを考えたのだが,とてもまとめきれないので,いつも通り,考えたことをだらだらと列挙しておく。


友人にこの問題を持ちかけられたとき,僕はほぼ反射的に「親」と同じ反応で,『6×4=24 にバツをつけるなんてナンセンス!それどころか子供を算数嫌いにするきっかけを作ったかもしれないから,むしろ害である』という意見を述べた。

しかし本書を読んで,これは反射的に回答を出すべき問題ではなく,いろいろなことを考え合わせてじっくり検討すべき問題だと,認識を改めた。


この子供が小学何年生なのか,ということがひとつの重要な鍵となる。

もし掛け算を習いたてなのであれば,考え方を固定するために便宜的に掛け算に順序があるという立場で教えるのはよいというのが僕の立場である。

小学校で掛け算はまず上に例としてあげたような日常的な具体的な状況設定の下で導入されるらしい。
つまり,掛け算に出てくる数字はただの数字なのではなくて,単位のついた「色付き(あるいはフダ付き)」の数字なのである。

そのことをふまえて,上の問題であれば,

4個/人×6人=24個

のように,記号 "×" の左側には「1あたりの量」を,右側には「いくつ分」を書くというように式の書式を固定してしまう。

そうすると教えやすく,学ぶ側も理解しやすいということなのであろうか?

この段階で不用意に

6人×4個/人=24個

と書いても同じことですよ,と言ってしまうのは教育的に危険なのだろうか。
それは僕自身に実践経験がなく,現場の先生方のレポートを読んだことがないため,現時点では僕には全く判断がつきかねることであるが,ここが問題の核心なのである。

思うに,まず,掛け算を導入したてのころはまだ掛け算の順序が入れ換えられるかどうかなどについて全く知識がないだろうから,じっくり例を積み重ねる前から順序交換が可能であるというドグマを子供たちに押し付けるのは教育上良くないだろう。

また,そのようなドグマを押し付けた場合に懸念される弊害は,将来的に子供が線形代数などで交換法則が成り立たない『積(もどき)』に出会ったときに,それらの概念を受け入れるのが非常に困難になるかもしれないことである。

後者のような心配は,そうした非可換な数学的対象をいやというほど知っている大学の先生が抱く一種の杞憂であろう。小学生の大半はそうした数学とは一生関わらないだろうから,心配を置くポイントが少しずれているように思えるのである。

しかも,僕などは,結局足し算も掛け算も計算順序は変わらないということしか覚えていない状態で行列の積等を習ったが,積が可換でないという事実を受け入れるのに困難を覚えたかというとあまりそういう気はしない。(靴下を履いてから靴を履くのと,靴を履いてから靴下を履くのとでは結果が違う,というよく知られたたとえを学んだとき,非可換性に対する違和感が当時僕にあったとしても吹き飛んでしまったと思われる。)

そして,ある程度精神が熟していれば,計算規則をきちんと覚えて正確に適用することは容易に習得できる技能だと思われるので,高校や大学でのことを心配する必要はないと思う。
むしろ中学校で習う文字式において ab と書こうが ba と書こうが同じこと習うが,このような文字式の段階での積の可換性の方が,文字式の計算が主となる高校や大学の数学においては影響力が強いと思う。
つい,ab+ba という式を見ると,a や b がどのような数学的な量を表しているのかにかかわらず(というかそのことをすっかり忘れて),ab と ba が『同類項』に思えて 2ab とまとめたくなってしまうのである。
つまり,小学校段階の数の掛け算の順序交換可能性より,中学校段階の文字式の掛け算の順序交換可能性の方があとあとまでたたるのではないか,というのが僕の見解である。

また,むしろ不思議なのはなぜ足し算や掛け算で計算に順序がないのか,ということであって,自然数同士の足し算や掛け算ではいくつかの例で具体的に確かめられたとしても,小数や分数まで扱う数を広げたときに,やはりまだ足し算や掛け算が可換であるということはどう説明されるのだろうか。そこが大いに気になるのである。
(森毅「数の現象学」(ちくま学芸文庫)所収の『次元を異にする3種の乗法』でも「なぜここで交換法則が成立するかが問題である」という注意を述べている。なお,このエッセイで取り上げられている新聞の投書は,本書の第一章でしっかりと出典も明らかにされた上で紹介されている。上に挙げた例はその投書の問題そのものである。)

本書では掛け算の可換性は「常識である」という立場であって,その成立する理由を掘り下げていないが,高学年で小数や分数の掛け算を導入するときに可換性をどう扱うのかについても視野に入れて論じる必要があるだろう。

p.44 では,(1あたり量)×(いくつ分)だろうが,(いくつ分)×(1あたり量)だろうが、同一の事態を同一に解釈して立てた式であるから,両者は等しい,というような主張が述べられているのだが,これは等式の意味の拡大解釈であって,よくない気がする。
つまり,これは積が可換であることは定理ではなくて定義であるとする立場ではないだろうか。
式の意味を考えると

(1あたり量)×(いくつ分)=(いくつ分)×(1あたり量)

と書いてもいいですよね,という取り決めを述べたものであって,1あたり量やいくつ分が具体的な数値として与えられたときに左辺と右辺の値が一致するかどうかは,このような考察からは何一つわからない。
このあたりの論理的な欠陥は見直す余地があると思われる。

なお,(1あたり量)×(いくつ分)に固定するか,逆にするかはどちらも正当な理由がつけがたく,実質的に好みの問題だと思うが,漢数字は(いくつ分)×(1あたり量)の順だという指摘にはなるほどと思った。
例えば三百五十二というのは,「三つの百と,五つの十と,二つの一」で,三×百+五×十+二×一という発想で出来た表現だというのである。確かにそうかもしれない。

さて,ここで論じている問題の最大の問題点は,親と学校の先生の間に挟まれて困惑する小学生の子供に対するケアであって,文部科学省だか教育委員会だかの回答のように,親と学校の間でよく話し合うということがやはり一番重要ではないかと思う。なぜバツをつけたのか,先生が理由をきちんと説明し,親の言い分にもちゃんと耳を傾け,先生の立場をしっかり説明して親に納得してもらう,というプロセスが当事者としてはもっとも大切であろう。

子供は大人の間でどちらが正しいか判断がつかずに揺れ動き,つらい思いをするかもしれない。それが一番気をつけるべきことである。

親も教育のプロとしての学校側の見解を尊重すべきだし,先生も家庭における教師としての親の意見をよく聞き入れるという姿勢が必要である。


さて,もう一度僕の立場を述べておくと,掛け算導入の初期段階であれば,6×4=24 はサンカクである。
なぜこのような式を書いたのか,子供に真意を聞かなければならない。
これは教育のチャンスであるととらえるべきである。
習った通りなら 4×6=24 と書くべきであったことを説明すればよい。
また,これは,6×4 でも答えが同じになること,つまり積の可換性について注意を促すよい機会である。
そして,最初に単位をつけて式を書くように指導しておき,
6人×4個/人=24個
ならマルで,
6個/人×4人=24個
ならバツにした,と説明すればよい。

ただ,単位という「色付き」の数字をいずれは単位なしの「色なし」の数字として扱えるようにしなければならないし,あまり単位を強調しすぎると,x2 と x は単位が異なる(例えば x が長さを表すなら,x2 は面積だから長さ x と足すことは意味がない)からという理由で生徒が中世以前の人類の数学レベルから進展できなくなる弊害が生じるかもしれない。

なお,先ほど中学校で習う文字式のことを話題に出したが,ついでに中学校で習う比例や一次関数のことを考えると,y=ax の右辺のように「変化の割合」という「1あたりの量」a を左に,「いくつ分」に相当する x を右側に書くという慣わしがある。
ただし,この順序は「数値を左に,文字を右に」という文字式の書き順より弱いようで,x=2 のとき y=4 だった,という条件を式で表すときは 4=2a のように書くようになってしまい,掛け算の順序に対するこだわりは文字式の書き順という別のこだわりの前になりをひそめてしまうのである。

それにしても,掛け算に順序があるという話は,小・中学校の各学年において,生徒がどれくらいの割合で覚えているのか,きちんとした統計データをとって検証すべきであろう。

また,人間は演算をつい可換だとしてしまうのか,それとも順序にあらかじめこだわる性癖があるのか,どちらなのかが非常に気になっている。
掛け算を習う前に,足し算の可換性は習っていることだろう。
そうすると,自然と(短絡的に,無批判に,自動的に)新しく習ったばかりの「新顔」である掛け算に対しても,数字を書く順番はどうでもよい,という風に「勝手に拡張」をしてしまうのかもしれない。
あるいは,単純に掛け算の式の書式にまだ慣れていない(覚えていない)せいで,習ったのとは違う順番で式を書いてしまうのかもしれない。順序を意識するなどという細かい区別を身につけるのはなかなか大変なものである。
(絶対値の場合分けが正しくできない学生がいかに多いことか!あらかじめ決められたルールをしっかり見につけて正しい式変形を行うという技術はなかなか習得できるものではない。)

いずれにせよ,掛け算の順序を守れるかどうかは,教わったことがきちんと身についているかどうかを見分ける指標となり得るはずなので,[教えた通りの順序で式を立てているかどうかを評価の対象とするのは妥当だと思う。]

[注2.ここは文を書き終わっていないという致命的なミスを犯していたので,[] 内に文章を補った。あのころの自分はたぶんこんなことを言いたかったのだと思う。書きっぱなしで推敲してないのがバレバレですな・・・。]

長くなったが,なぜ長くなったかというと,この問題は,掛け算の学習のどの段階における出来事なのか,などといった算数・数学教育全体の流れの中に位置づけて論じるべきことであって,親の立場だけから一方的に結論を出してよいものではないからである。
そして,この問題を議論する際に忘れてはならないのが,どのように掛け算を導入するのが子供にとって学びやすいのか,という点である。
6×4=24 をバツにされた子供が本当に算数嫌いになるのか。掛け算を習得できなくなるのか。
そういった実践的な効果もきちんと考え合わせた上で判断すべき問題だと思う。

もちろん,学校教育の内容と世間一般の常識に大きなズレがある場合は,家庭内で子と親のコミュニケーションに支障をきたすおそれがあるので,親に対する学校側からの十分な説明があるべきである。

掛け算という算数の単元にひそむ学校と世間の認識のギャップというのを浮き彫りにし,書籍という形で世間に問題を知らしめたのは本書が持つ大きな意義である。
同じようなギャップは,算数だけでなく,他の科目にもあるかもしれない。そうしたことはやはり公にして世間の目にさらすことによって議論を促し,よりよい教育のあり方の探求の糧としていかなければならないだろう。

そしてもっとも恐れるべきことは,積の順序を固定するという「教育上の便宜」が,その後の成長段階でいつまでも解除されずに「教条化」ないしは「絶対化」してしまうことであろう。
そういう凝り固まったルールを反省もしないで絶対化させてしまった子供が将来教師になったときに,自分が刷り込まれ,信奉してきた考え方以外を認めようとしない硬化現象を防止するような対策を講じる必要もある。

と,まとめめいたことを書いた後で言うのもなんだが,気になったところをいくつか指摘して第一章の感想文を締めよう。

まず,p.40 に『現在の数教協(の一部)の「式の順序へのこだわり」』という語句があるのだが,これは事実に基づくことなのだろうか?本書にはこの一文を裏付けるような記述や資料の提示がなかったので,非常に気になるところである。
もしかすると著者はネットで数教協(数学教育協議会)を名乗る人物の発言を見たり,そうした人物とやり取りをしたのかもしれないが,そういった本書外の経緯を知らない僕のような者にとっては信憑性に欠ける記述である。
それ以外の記述は必ず情報のソースを挙げているだけに目立つのである。

[注3.本記事への積分定数さんのコメント『カード式』(2011-09-05 15:03:46) に情報あり。
本屋で数教協などが出している月刊誌等を見かけたことがあったので,それらは授業の実践状況を教育関係者以外の者が知るための重要な情報源だと思っていた。
なので,本書もそうした機関誌の記事の分析もふまえて書かれるべきではないかと思っていたのだが,著者(ハンドルネーム「メタメタ」さん)はやはりきっちりチェックを入れておられたことがわかり,ほっとした。
ただ,それならそれで参考文献に挙げておいてくれればよいのだが・・・。それとも,単にこちらの見落としか・・・?]

あと,どんな掛け算も(1あたり量)×(いくつ分)という掛け算の順序とみなすことができる,という主張は,子供心を失っていないと自負する僕にはとうてい受け入れがたいヘリクツである。
「カード配り型」とかなんとかという遠山氏の説明は「わざわざ間接的にマワリミチした」(森,前掲書 p.68)もってまわった技巧的なものであって,アタマの硬い子供である僕には到底受け入れがたい。
また,p.43 で,ハンドルネーム「積分定数」さんが文科省[国立教育政策研究所]への電凸の際に

3時=3km/(km/時)

とみなせばよい,と思いつきで(?)言ったエピソードを取り上げて絶賛しているが,永遠の子供である僕にはこれも全く受け入れることはできない。
3km/(km/時) って何?
『1人あたり4個』という日本語は理解できるが,『1km/時あたり3km』とは一体なんのことなのか?
日本語として意味をなしていない。僕のように固い頭ではきわめて理解しづらい量である。
正直,ただの言葉遊びでしかないようにさえ思える。まさにヘリクツである。

[注4.ここで紹介した電話による問い合わせのエピソードは,正しくは相手が文科省の国立教育政策研究所だったとのことで,積分定数さんご本人からのご注意(本記事へのコメント『はじめまして』(2011-09-05 10:20:13))に従い修正した(修正箇所は赤字で示してある)。さらに,『思いつき』ではないかと憶測を述べたことと,『言葉遊び・ヘリクツ』呼ばわりに対する積分定数さんからの注意については,それに続く一連のコメントを参照のこと。]

そもそも「1あたり量」とは「外延量/外延量」というのが基本形ではなかろうか。
それを「外延量/内包量」とするのは極めて捕らえづらい。
小学校低学年の掛け算の授業が話題になっているということを忘れてしまってはいないだろうか?

あとは誤植について。

p.19 の第1行に書かれた式は,正しくは

7人×7匹/人×7匹/匹×7本/匹×7合/=16807合

である。

p.31 に『英和数学字彙』という辞書の "multiplicand" と "multiplier" の訳語を引用しているが,それにささいな間違いがある。

『英和数学字彙』の p.135 に,"multiplicand" の意味として

被乗数(或ハ実称スルコトアリ)

(漢字はほぼすべて旧字体なのだが,ここでは表現できなかった。)
とあるのだが,本書では「実ト」の「ト」がひらがなの「と」になっているという,実に些細なミスがある。同じことは "multiplier" の意味の引用でも見られる。コピペのせいだろうか。

なお,この辞書を探したときに近代デジタルライブラリーという便利なサービスがあるのを知ったのは大きな収穫であった。

"multiplier" の説明文もほとんど同じである。ただし文中に「事」というのを省略しているような字があり,たぶん「コト」の省略形だと思われるものの,正確な読みがわからず悩んでいた。
手元の『言海』という古い国語辞典でもしょっちゅう使用されているが,その文字の説明は見当たらない。

ネットで検索してみたが,参考になるのはYah○○!知恵袋のある質問のみであった。

余談だが,ベストアンサーでない回答者は参考になるサイトいくつか紹介してくれているので,僕としてはその人がベストアンサーである。


第二章・第三章についても感想を述べておこう。

第二章は日本の算数・数学教育における九九の歴史を論じたものである。
僕は九九の名の由来を知らなかったが,この章を読んで知った。
著者は和算の本も出しているためか,古代中国や平安時代から昭和初期に至るまでの数学書のみならず他ジャンルの書籍をも引用・分析しながら,昔の日本の九九がどういうものであったかをじっくりと解説する。
九九にこんなに種類があるとは知らなかった。
また,「乳母の草子」という面白そうな古典を知ることもできて有意義であった。

『算法全能集』という本にある九九の表の web プレビュー画面のURLが紹介してあったので,入力してみたら確かに閲覧できた。

archive.org にはホントお世話になってます。

ロドリゲスの「日本文典」という本もちょっと見てみたいなぁ。


第三章は,「なぜ2時から5時までは3時間で,2日から5日までは4日間なのか」という疑問について分析する。
鍵は離散量と連続量という量の区別にあるという。
僕は「そんなん,計算の仕方の決まりだからしゃーないやん」と思ったが,本書の解説を読んで目からうろこが落ちた。
合理的な説明が可能だとは。

著者は時間は午前0時から始まるが,日は1月1日からで,0月0日ではないということを指摘しているが,同じ話は森毅「指数・対数のはなし[新装版]」(東京図書)の p.29 にも見られる。

ちなみに,本章の冒頭で,「分離量(離散量)」と「連続量」という用語は世間にそれほど知られていないだろうから,算数・数学を教えている人でもこれらの用語を知らなくても恥ではない,という趣旨のことが述べられているのだが,このような気遣いは第一章 (p.5) で何の断りもなしにさらっとこれらの用語を登場させたときにすべきではなかったのだろうか?
あるいは第三章でこれらの用語について少し詳しく述べる旨を脚注ででも読者に案内すると親切だろう。
このような構成のちぐはぐさは,著者が書き溜めてきた文章の一部をまとめて本書が出来たという事情(「あとがき」参照)によるものかもしれない。

ぜひ本書が版を重ね,その過程で上に指摘した誤植や少々問題と思われる箇所を修正し,ロングセラーとなることを願ってやまない。
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8月も終わり。

2011-08-31 20:20:56 | 爺ネタ
なんだかグズグズしていたら8月が終わってしまった。

前回の更新から一週間経つが,その間に,もともとその筋の人と関係が深そうだった有名芸能人が突然引退を表明してマスコミが大騒ぎしたり,辞めろと周囲や世間から言われ続けた与党の代表兼総理大臣が退き,人前で泣くような人は党の代表や一国の首相にはさせてもらえないということがわかるなど,芸能界と政界では大きな変動があったものの,僕という一個人の夏休みの課題の進捗ははかばかしくない。

振り返ってみると,ほとんどネットサーフに時間を費やしてしまった。

何を調べていたのかというと,自分的(死語?)に今一番ホット(死語?)な話題(マイブーム:死語?)である物理学における量と測定(計測)の理論に関する情報である。

物理量の数値化というのは科学の重要な側面のひとつであり,人間の近代的な自然認識の典型的な手法である。

量の分類の軸はいろいろあるが,代表的なものは離散(分離)か連続か,という分類と,外延的か内包的かという分類である。

それらのうち,外延的か内包的かというのは,日本においては物理学でそれぞれ「示量的」,「示強的」などという語で言い表されることもある。
このことには高橋誠氏の著書『かけ算には順序があるのか』を読んでいるときに思い至った。

外延的な量というのは,重さと同じような性質をもった量のことである。
重さは,2kg のものと 3kg のものを同時にはかりにのせると 5kg になるので,足し算が考えられる。
また,3kg のものを2つ,3つと増やすと,それに比例して合わせた重さも2倍の 6kg,3倍の 9kg と変化するから,掛け算を考えることができる。
このように,外延的な量は足し算や掛け算と密接な関係がある。

ところが,内包的な量というのは濃度や温度などが代表例だが,これらにおいては,足し算が意味をもたない。
例えば20℃の水と30℃の水をあわせても50℃の水が出来るわけではないし,3%と4%の食塩水をあわせても7%の食塩水が出来るわけではない。

量の間にこのような区別があるという話は大人になってから知った。
初めてこの話を知ったとき,説明になるほどと強く納得するとともに,日常的にかかわるさまざまな量の間にこういった区別があることに気づかされて驚いた。
そのときは気にしなかったが,それからかなりの時が経ち,これらの概念と再会した今では,こうした区別にいつ,誰が気がついたのか,ということが非常に気になる。

外延量と内包量という概念上の区別に人類はいつごろから気づいていたのだろうか?

量についての詳しい分析は遠山啓氏や森毅氏の著作でよく目にしていた(たぶん最初に外延量や内包量の区別を学んだのはそれらの著作のどれかであったろう)から,それらを本格的に分析的に読む時機が到来したようである。
(一時期,近所の図書館に遠山啓氏の数学教育著作集(太郎次郎社刊)がそろっているのを見て全部読もうと夢想したことがあるが,改めて勘定したら1冊あたり280ページほどで,それが14冊あるので約4000ページを,しかもなるべく理解しながら読む必要があるので,腰を据えて取り組む必要がある。)

さっそく遠山氏の著作集の第5巻を手にとって最初の部分を見てみると,大変有用な情報を得た。

もともと,力学における Newton 法則について調べたここ数日のネットサーフィンにおいて,物理量の詳しい分析は19世紀の後半の特にドイツで詳しく行われていたのではないかということまではなんとなくわかってきていた。
そこに出てくるのはエネルギー概念の確立の際に名前を出す Helmholtz や,電磁波の発見で知られる Hertz などの名である。

数学や物理学に対する公理論的アプローチに関する調査がおおもとの動機であったため,物理学などの基礎概念に対する批判的な検証を始めたのは誰か,ということもついでに調査しようとしていたのである。

批判的な研究といえば,近代ドイツ哲学のカリスマ Kant(カント)の著作(のひとつ)のタイトル『純粋理性批判』を思い出す(読んだことはないが,こういう哲学書があるということは常識だろうから存在だけは知っていた)。

というわけで,ひょっとすると Kant までさかのぼるのではないかな,という気はしていた。

前置きはこのくらいにして,遠山氏の著作から得た情報というのは,まず,やはり Helmholtz が数と計測に関する論文を1887年に発表していたという事実である。
そしてそれには P. du Bois-Reymond の先行的な研究の情報もあるとのことである。
さらに遠山氏は Ostwald の『エネルギー』という著作の中にも外延量と内包量に相当する記述を見出す。
そして詳しくは述べていないが,Hegel の『大論理学』にも量について詳しい分析があるようなことを指摘している。

ついにヘーゲルまで出てきたか・・・!

僕にとっては Hegel というのは Kant の後釜の超大物哲学者というくらいのイメージしかない(それも正しいのかどうかわからない)が,やはり哲学の世界においてカリスマ的存在であり,この名がここで出てしまうとは予想しておらず,著作を解読するのは大変そうだな,と気が遠くなるような気がした。
(調べてみると,日本語訳があるそうだが,Hegel の著作は難解なことで知られているそうである・・・。)

どうやら Hegel は現在操作主義と呼ばれるような立場についても述べているようなので,操作主義の草分け的存在なのかもしれない。
こちらもマイブームのひとつなので,Hegel をこそ読まなければならないかもしれない。

何を読むべきか,という方向性はかなりはっきりしてきたので,あとは実際に読むという段階に入るだけである。

こちらはネットで一瞬で済ますというわけにはいかないので,気長に行くとしよう。
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ブログカレンダーアート。

2011-08-31 20:11:48 | Weblog
今月は毎日更新する気満々だったのだが,6日に更新を逃して以来,ずるずると休んでしまった。
9・10・11日に更新したが,12日は忙しかったか,書くことがなかったか,だらけていたので更新しなかった。

そうしたら,ブログのカレンダーにおいて更新ありの日の印が左右対称に並んでいることに気がついた。

そのため,15日には四国旅行のことを書きたいのをぐっとこらえ,その週は17日のみの更新としたのである。

特に何かを象(かたど)ったわけではないが,対称性を保ち,逆三角形の持つ不安定さをモチーフにしたような図柄に仕上げようと企んだ。

いよいよ今日は仕上げの日である。
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進むべき道。

2011-08-25 23:57:55 | Weblog
ある画期的な数学上,あるいは科学上の理論に接すると,その理論を作り出した人が,なぜ,いかにしてその理論を思いつき,構築していったのか,理論を生み出した人の人となりや,その人が生きた時代の文化的な背景など,さまざまな側面がとても気になる。

それは,アイデアの源泉を探るというのが根幹に横たわる動機なのだが,最近はインターネットを通じて簡単に元となった文献にアクセスできるため,調査が極めて容易になった。
ただ,そのおかげで簡単に大量の文献が入手できてしまうため,入手したはいいが,完全に消化不良に陥ってしまっている。

本気で科学史家になろうと考えているわけではないのでほどほどに済ますべきであるが,誤謬を含んだ孫引きや人からの受け売りなどは出来るだけ排除し,原著者たちの生の言葉に耳を傾けたいと思うと,せっかく手に入る資料をないがしろにするわけにはいかない。

こうして過去の人々のことばかり気にかけてしまうと,そうした調査に時間と労力が割かれるようになり,最先端の研究をフォローしたり,推進したりすることが困難になってくる。

しかも最近では基礎的な概念の見直し(いわゆる『基礎固め』みたいな感覚である)に本格的に取り組みたいと思うようになってきた。
もともとそういう思いは抱き続けてきたのだが,一世紀ほど前の重要な文献に簡単にアクセスできることがわかってからというもの,そうしたもので先人たちの考えたことを調査する必要性を強く感じるようになってきた。

もう少し具体的に述べれば,「物理学基礎論」と呼ばれるような分野に本格的にのめりこもうかという気分なのである。

すでに誰かが提出した考えであろうが,例えば「直観物理学」ないしは「有限物理学」などというものが可能かどうかを検証してみたい。
物理学は実験してさまざまな物理量を測定することで理論の正当性を吟味する。
ところが,実験というのは無限に繰り返すことは出来ず,あちこちで追試が行われるとしても,数回程度が関の山であろう。

となると,現在広く流布している現代物理学というのは,その程度の経験的な根拠に基づいて構築された理論であるに過ぎない。

したがって,そのような実情に見合った,有限の立場に立った物理理論というのを構築すべきではなかろうか。

このような考えはいろいろ無茶な点を含んでいるだろうが,ともかく,こんな風に考えて,有限回の実験しか出来ないし,有限桁数の測定結果しか取り扱えないという,すさまじく窮屈な制限の中で,いったいどんな物理理論の構築が可能なのか,考えてみると面白そうかな,と思ったのである。

この有限の立場に立った物理学の構築と表裏をなす研究テーマもあるにはあって,それは「物理理論における選択公理」というものである。

無限を取り扱うことに関する思索によって人類が到達した一つの深い理論的な結果に選択公理というものがあるが,そうした超越的な論法が現代物理学の理論の中で果たす役割を精査したいのである。

こんな感じで,とてつもない大風呂敷を広げることは出来るのだが,これからの人生をつぎ込んでも,その風呂敷のほんの小さなしわを伸ばす程度のことすら出来ないような気がする。まあ,ライフワークってのは大きく構えた方が夢があってよろしいので,うだうだ言っても仕方がない。

僕は現在,成長著しい枝の先端にいるのではなく,もう成長を止めてしまった幹の中ほどか,あるいはすでに枯れてしまった木のどこかにいるようなもので,目は生き生きした最先端や輝かしい未来の先を見つめているわけではなく,どうやら過去に向かいがちである。生きた理論ではなく,死んだ理論の身辺整理に興味があるのである。
そう表現すると我ながらむなしさや閉塞感を覚えるのだが,その反面,自分としては面白いテーマだと思っている。

なぜだか知らないが,そういう話題に強い興味を覚えてしまうのだから仕方がない。

僕の関心は物理学基礎論にとどまらず,それをさらに突き抜けて科学基礎論という科学哲学の一分野に到達したように思われる。

これでようやく自分の所属すべき世界が見えてきたので,そろそろ自分探しを終え,腰をすえて研究に注力できるような気がする。

比ゆ的に言えば,ふらふらするのをやめて,身を固めようという気になってきた,ということである。


まあ,今後も相変わらずふらふらし続けるのだろうが,ここ数日,上に書いたような気分で過ごしているという,そんな夏のひとときの思い出を書き残したまでである。
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Google books の使い方。

2011-08-25 23:57:37 | physics
1985年に出版された小野周他編「エントロピー」(朝倉書店)の「14. エントロピーと情報」という論文で,著者の室田武氏は「一般には入手しがたいクラウジウスの二つの論文のコピー」を入手する際の協力者への謝辞を述べている(268ページ)。

その二本の論文とは,Rudolf Clausius による

Über eine veränderte Form des zweiter Hauptsatzes der mechanischen Wärmetheorie,
Annalen der Physik und Chemie, Band XCIII, No.12, p.p.481 - 506 (1854);

Über verschiedene für die Anwendung bequeme Formen der Hauptgleichungen der mechanischen Wärmetheorie,
Annalen der Physik und Chemie, Band CXXV, No.7, p.p.353 - 400 (1865)

である。

1985年当時はこれらは国内の図書館にあるとは限らず,必要に応じて海外のしかるべき機関に所蔵を問い合わせたり,複写の申し込みをするなど,一世紀以上前の文献を調査するのはそれなりの手間と時間がかかるものであった。

それが今では,特に大学の教員や研究員の資格がなくても,インターネットにつなげる環境さえ整っていれば,これら二本の論文のコピーを手に入れるのは造作ないことである。

手順を紹介しよう。

実は別件で Annalen der Physik und Chemie の他の論文にアクセスした経験があったので,「この文献はネットで手に入るに違いない」という確信が隠れた重要な動機として存在するのだが,それを踏まえた上での手順であることをお断りしておく。


●手順1:Google booksのホームページを開く。

●手順2:
1854年の論文を探す場合は,

Annalen der Physik und Chemie, Band XCIII 1854

のように,雑誌名と巻数,そして刊行された年を Google books の検索窓に入力し,検索する。

●手順3:
そうすると,この雑誌そのものがヒットするので,検索結果のリンクをクリックしてこの雑誌のプレビュー画面を開く。

●手順4:
プレビューの左側にある小さな検索窓は書籍内の検索用なので,そこに例えば著者名の Clausius と書き込むと,検索結果にちゃんと481ページの Clausius の論文の最初のページが出てくるので,それをクリックすればよい。


もう一つのClausius の1865年の論文の方も全く同様の手順でプレビューにたどり着く。もっとも,こちらは手順2において年号を省いたキーワードでいきなりプレビュー画面に到達するので,手順3を飛ばして手順4に行くことができる。


これらの文献は無料で閲覧できるだけでなく,PDF形式のファイルとしてダウンロードすることまでできるので,10分足らずで,席からたつこともなく,四半世紀前には入手に苦労した文献をあっという間に手に入れることが出来てしまうのである。
十数年前までは古い文献は入手しにくかったのに,今では下手をすると新しい論文よりも簡単に手に入ってしまう。特にしかるべき研究機関に所属していない,ただの素人でも自宅に居ながらにして,しかも無料で文献を取り寄せる(つまりダウンロードする)ことが出来てしまう。

これはつくづく恐ろしいまでの変革である。
理想的とまで言っても過言ではないような研究環境が着実に整備されている今,その恩恵をどういう風に研究成果として形にしていくのか,よくよく考えなければならない時期に来ているように思う。


※ こんなことを得意げに書くものではないかもしれないが,Google books の利用法の裏技編も記しておこう。いずれはこういう利用の仕方が出来なくなるか,あるいは逆にこういう抜け穴がどんどん増えていくのか,様子を見ていきたいところである。

ゲーム理論の先駆的な仕事のひとつである von Neumann の1928年の Minimax 定理(その原論文はDigiZeitschriftenという,これまた非常に有り難いサイトで無償で手に入る)は26ページにわたる論文にまとめられているが,Weyl がその定理を初等的な方法で証明したそうである。その論文に興味が湧いたので見てみたかったが,残念なことに Google books ではプレビューに制限のある書籍であったので,一部は閲覧できるものの,間の数ページが落ちており,閲覧できる意味が実質的になかった。

そうして落胆していたのだが,あるアイデアがひらめいた。

Weyl の論文は最初ある論文誌に掲載されたわけだが,その後,Weyl の論文集と思われる冊子に採録されたようで,Google books でその2種類のソースが両方,制限つきのプレビューで閲覧できた。

(興味のある方もいるかもしれないので,Weyl の "Elementary Proof of a Minimax Theorem due to von Neumann" という論文の Google books ソースへのリンクを貼っておく:
ソース1ソース2。)

・・・ということは,もしかして,2つを合わせると完全体(もとい,完全版)が手に入るのではないか?

どきどきしながらそれぞれの抜けているページを比較してみると,かぶっていない。つまり,片方で閲覧できないページがあっても,もう一方のソースでは閲覧できるので補えることがわかったのである。

たいていの大学なら論文誌の出版社と契約しているので,Weyl の論文を閲覧するのは大学の研究室等では簡単なのだが,完全に一般人として家庭でこの手の論文を閲覧することは(数学の場合は)基本的に不可能である。

そこで,その不自由な一般人の身でありながら,どこまで知りたい情報が無償で手に入るか,という,いわば一種のゲームのような感覚でネットサーフをしているわけである。
ここに述べた裏技は,そんな暇人が気がついた余興の一つである。
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中間値の定理の離散版。

2011-08-25 23:33:41 | mathematics
まず最初に記号を準備しておく。

2つの実数 x,y に対して,min{x,y}=x∧y,max{x,y}=x∨y と記すことにする。

次のような予想を立てたが,証明したわけではない。


【予想】

整数から整数への関数 f(n) が,|f(n+1)-f(n)|≦1 を満たすと仮定する。

このとき,b-a≧2 であるような(要するに,a と b の間に少なくとも1つ整数があるような)任意の2つの整数 a,b に対し,|f(a)-f(b)|≧2 であるとき,次が成り立つことを示せ:

f(a)∧f(b)<d<f(a)∨f(b) を満たす任意の整数 d に対し,a<c<b かつ f(c)=d を満たす整数 c が存在する。


<コメント>

上のように数式を用いて定式化すると,なるべくあいまいさを排除するため,慎重な言い回しになり,問題の本質が見えにくくなってしまっているように思えるので,問題の動機を解説しておく。

各段に整数で番号が振られた石段があり,プレイヤーは一秒ごとに一段ずつ上るか,下りるか,あるいはその場にとどまるものとする。

初め,手元のストップウォッチが 0 秒のときにプレイヤーは第785段にいたとして,m 秒後にプレイヤーのいる場所を見てみたら,第1368段だったとする。
そうすると,ストップウォッチが 0 秒から m 秒までを刻むまでの間に,プレイヤーが例えば第1000段にいた瞬間が必ず一度はある,というのが予想の主張である。

このことは常識的な感覚では当たり前のことであるが,そんな当たり前のことをどう証明するか,ということが大事なポイントなのである。
こういう当たり前のことの背後には,整数が持っているどんな特徴が隠れているのだろうか?
普段意識することもなく使っている数の性質がこういう問題の証明には重要な役割を果たすのである。
そういう性質を反省しようというのがこの問題の意図である。


と,えらそうなことを書いたが,僕にはひらめかないので,今のところ,簡単に示せそうにない。

解答が出来たらなんらかの形で紹介するつもりである。
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昨日は何の日?

2011-08-25 20:14:21 | 爺ネタ
最近,G○○gle の検索ページのロゴがホリデーロゴと呼ばれる特別なデザインになっている日が増えているように思う。

昨日も気になる図案だったが,ホルヘ・ルイス・ボルヘス (Jorge Luis Borges) の誕生日にちなんだとのことであった。

そういうことなら,ということで,少し前に買ったものの例によって1ページも目を通していなかった2冊の岩波文庫,「詩という仕事について」と「続審問」を取り出し,これを良い機会として数ページだけだが読んでみた。

古今のさまざまな文学や神学などの著作に基づく膨大な教養をベースに繰り広げられるボルヘスの評論は,そうした教養が皆無な僕のような読者にはとうてい理解の及ぶところではないのだが,それでも評論の内容自体は怪しい魅力に満ちており,不思議な読後感を与えてくれる。

今回読んだのは「続審問」の目次を眺めて一番気になった「パスカルの球体」と題するエッセイである。
字義通りに解釈すれば,想像することが不可能なある球体の定義に関するエッセイなのだが,ボルヘスがさらっと「われわれにはその球体をほとんど想像することも可能である」(中村健二訳)書いている,まさにその通りに,その定義を見たときに,何故かしら,その球体のことがわかっているような気がしていたのである。なぜ,異国の一読者に過ぎない僕でさえほとんど想像することが可能であるとボルヘスにはわかっていたのか。この一文には戦慄すら覚える。
(ここで「ほとんど想像することも可能である」というのは逆説的な印象が強く,「不可能である」の誤訳ではないかという疑念もあったが,英訳も全く同じ表現であることを確認した。本来ならば原著を調べるべきだが,G○○le books ではプレビューができるものがなかったし,そもそもスペイン語がわからないので,原文があって意味がない。)

「神はひとつひとつの被造物の中に在り,そのどれによっても限定されることがない。」(中村健二訳)

この文章によって,なぜ僕が「ある球体」をほとんど想像し得たのか,理由がわかった。
この「神」の解釈を聞いたことがあったからだ。
このような解釈を,いつ,誰に,どのような形で提示されたのか,とんと思い出せないが,いつのまにか刷り込まれていたことは疑いない。

いつの間にやらいろんな考え方を受け入れ,慣れさせられていたことに気づき,今更ながら驚く。

「続審問」には他に「パスカル」と題したエッセイもあるので,ぜひそちらも読もうと思う。


もう一冊の「詩という仕事について」は講演録であるが,第一回の冒頭に,いきなり講演者であるボルヘスの弁明が述べられており,1ページちょっとのその弁明を読んだら満足してしまった。

「皆さんにお伝えできるのは,ただ,さまざまな疑問でしかありません。」(鼓直訳)

このフレーズは,僕の講義用定型句のレパートリーに加えよう。

講演者のこのような正直な告白を初めに聞いておれば,聴衆は講演の内容がそのようなものであるという心構えをもって講演に臨むことができるので,講演者と一緒に詩の謎について思いを馳せようという,まるで冒険にでも出かけるような,わくわくした心持ちで講演を楽しめるに違いない。

こちらの書は特に西洋文学,特に詩の知識が皆無である僕のような輩が読むべき本ではないのだが,それでも,平易な訳文のおかげもあって,わからないながらも,ボルヘスの分析の仕方(考え方)を味わえるのではないか,などという期待を抱いている。

ボルヘス生誕112年を記念した G○○le のホリデーロゴのおかげで,しっかりとボルヘスに思いを馳せることができ,楽しい夏の夕べを過ごすことができた。
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ため息,または深呼吸。

2011-08-25 19:45:13 | 
気温が低いと,うちの猫は冬のときと同じように,夜,僕に寄り添って寝る。
(夏だというのに毎朝必ず僕が目を覚ますとわざわざ寄ってきて寄り添って二度寝するのは,もぐだけに見られる行為である。同じく僕が起きた気配に気づきいて挨拶に来るが,挨拶を済ませるとすぐまたどこかへ消えてしまうのもしゅろ唯一匹だけである。)

投げ出された僕の二の腕を,猫が柔道のように押さえ込んでいる状態を,僕は「腕枕」と呼んでいる。
腕枕の状態では猫の顔と僕の顔が十センチ程度しか離れていないので,猫が顔の辺りから発する音はよく聞こえる。

この間はらでこ(ラディ)が腕枕をしていたときに,スゥっと音を立てて息を吸い込んだかと思うと,フーンと息を吐くのが聞こえた。

きっと,リラックスして居心地がよいときに出る満足感の証であるため息,または深呼吸なのだろう。

最近あまり聞かなかったので,久々に聞けて嬉しかった。
そんなかわゆらしい姿を間近で拝めるのは至福である。


もっとも,らでこはよくその位置でくしゃみをして何かしぶきのようなものをひとの顔にかけてくるので,くしゃみが出るときはちゃんと前足で覆ってもらいたいものだと思わせられることもあり,かわいいだけでは済まないのであるが。
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そこは,ちょっと。

2011-08-25 13:36:23 | Weblog
部屋の網戸にアブラゼミが張り付いて鳴き出した。

夏の感動的なソロライブを独り占め。涙が出そうだ。

そこで

鳴くのは


やめて。
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