担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

数理論理:全称命題と存在命題の否定命題を作る際の注意事項。

2024-09-03 13:47:10 | mathematics
何か全体集合 X が与えられており,その要素 x に関する,真か偽かを判定できる条件(述語函数)p(x) を考える。

この述語 p(x) を真にするような X の要素をすべて集めた,X の部分集合を P とおく。

このような集合は,確か高校数学では述語 p(x) の真理集合とか読んでいたような記憶がある。

この状況を内容的な記法で

P={x | p(x)}

のように書き表すが,よくよく考えてみると,x∈X ごとに p(x) が真であるか,あるいは偽であるかが定まるわけであるから,各 x に対する p(x) の真偽値を返す函数(写像)を value(p(x)) などと書き,真であることを簡単に value(p(x))=1;偽であることを value(p(x))=0 などと書くことにすると,

P=[x | value(p(x))=1}

と書くのがより正確なのではないかという気がする。

ちなみに,x が集合 P に属しているならば 1 を,そうでないならば 0 を返す函数は集合 P の特性函数(指示函数ともいうかもしれない)といって,通常ギリシャ文字の χ を用いて χP(x) などと書いたりするが,これはちょうど上で定めた value(p(x)) に他ならない。

そしてこのような集合 P の定め方を顧みると

P={x | x∈P}

と言っているようにも見え,これではどこぞの国の政治家の答弁の受け答えのような,実質的な内容が全くない無意味な等式に行き着く。

記者「集合 P の定義は何ですか?」

政治家「性質 p(x) を満たすものの集まりです。」

記者「では,性質 p(x) を満たしているかどうかはどうやって判断するんですか?」

政治家「それは x が集合 P に属しているかどうかで判定できます。」

記者「????」

これは完全に詭弁の類であって,対話をしている相手,ひいては国民全体を愚弄しているとしか思えない所業である。

脱線はこのくらいにして,集合 X の要素 x に関する 2 つの性質 p(x), q(x) と,各々の真理集合 P,Q が定まっているものとして話を進めよう

P に属する任意の x について q(x) も成り立つ,といった主張は数学において極めて基本的なもののひとつであるといってよいであろう。

このことは

∀x∈P q(x)

のように書かれるのが普通であるが,ここで使われている

∀x∈P

という記法は曲者である。

これは,元来 2 つの数の間の関係として定められているはずの不等号 ≦ をダラダラと続けて

1≦2≦3

と書くのと似たようなものであって,何の説明も無しにいきなり持ち出してはならない代物である。

不等式の場合は,1≦2 かつ 2≦3 と切り離して書いたものが正式な言明であって,これらの不等式をちょうど 2 のところで重ねて繋いでしまったものが 1≦2≦3 である。

ちなみに,x≦y=z のような書き方も見かけることはあると思うし,私は使っているようにも思うが,

1≦3≧2

のような書き方はちょっと見たことがない。実は意外と便利かもしれない記法であるが,常識的な感覚からするとやり過ぎだと判断されるのであろう。

また脱線が長引いてしまうが,2 次不等式 x2<1 の解は x>-1 かつ x<1 を満たす実数 x すべてであって,これら 2 つの不等式を真ん中の x で重ねて繋いだ

-1<x<1

という書き方は標準的であろうが,2 次不等式 x2>1 の解は x<-1 または 1<x であって,これら 2 つを x のところで重ねて 1<x<-1 と書いてしまっては大間違いである。

この後者は 2 つの過ちを犯している。まず一つは「または」で結ばれている 2 つの不等式を結合してしまったことである。例えば -1<x または x<1 という 2 つの不等式を結合したものは -1<x<1 となってしまうが,これは先に述べた通り,世間的には -1<x かつ x<1 のことだと受け取られ,-1<x または x<1 という条件とは異なるものである。

なお,-1<x または x<1 であるような実数 x はどんなものかというと,それはどんな実数でもよい。

こういったことを高校で 2 次不等式の単元できちんと教わる高校生はどれくらいいるかわからないし,x<-1 または 1<x をなんでまとめて 1<x<-1 と書いてはいけないか,その理由を説明できる高校生(以上の人々)がどれくらいいるかもわからないが,おそらくほぼ皆無であろう。

もう一つの過ちというのは,1<x<-1 というのは常識的には 1<x かつ x<-1 のことであると了解され,そしてこれは実数 x に関する非常識な主張になっている点である。

大小関係の推移律により,1<x かつ x<-1 ならば 1<-1 でなければならないが,これは不合理である。したがって,このような実数 x は存在し得ない。


それでは ∀x∈P という書き方の解きほぐしに入ろう。

条件への書き換えと真理集合への統一の二つの方向性のどちらも可能であるが,ここでは真理集合への書き換えを行うことにする。

∀x∈P q(x)

は,集合 P のどの要素 x も性質 q(x) を満たしている,という主張であるが,x が性質 q(x) を満たしているということは,x が述語 q(x) の真理集合 Q に属していると言い換えることができる。

したがって,お題の論理式は,集合 P のどの要素も集合 Q に属する,と言い換えることができるが,それはつまり集合 P は集合 Q の部分集合であるということに他ならない。

そしてその P⊂Q ということの定義を論理式で表したものは,通常

∀x (x∈P ⇒ x∈Q)

であろう。

ここで着目していただきたいのは,∀x と x∈P という文字列がちょうど隣接しているところである。先ほどの 1≦2 かつ 2≦3 を縮めて 1≦2≦3 としてしまったように,

∀x (x∈P

を ∀x∈P のように縮めてしまったというわけである。

ところが,ここでは意味上の区切りを明確にするために必要な ( の存在を無視している。また,⇒ の記号もなぜだか勝手に消されている。

そういえば,1≦2 かつ 2≦3 というのも,不等式の間に書かれた論理結合子「かつ」もどこかへ消え去っており,こちらもなかなかに乱暴な省略が行われていたわけである。

それでは,

∀x (x∈P ⇒ x∈Q)

を集合記述ではなく述語記述に改めよう。それは容易で,

∀x (p(x) ⇒ q(x))

となる。ところがこれだと ∀x と隣り合っているのが p(x) であって,これらを「x を重ねて繋ぐ」わけにはいかなくなる。

もっとも,これは述語を p(x) のように,述語名 p を対象 x の左側に置く左置き記法,あるいは前置記法を採用したから生じただけの形式上の問題点に過ぎず,これを (x)p あるいは xp のように後置記法にしてしまえば,ちょうど x∈P のときと事情が同じになって,

∀xp xq

のように略記が可能になるといえば,まあ,ならなくもない。

こうして,

∀x∈P q(x)

は,「正しくは」

∀x(x∈P ⇒ x∈Q)

もしくは

∀x(p(x) ⇒ q(x))

のことであったと自覚的に認識するに至った。

ここで重要なのは,重ねて繋げた略記法ではどこかに消えてしまっていた論理結合子 ⇒ が潜んでいたことである。

このことをきちんと認識していないと否定命題を作る際におかしなことをしてしまいかねない。

というか,実際におかしなことをしてしまっている学生をこれまでに何人も見てきたことが,このような問題を考えるきっかけであった。

それでは,∀x∈P q(x) の否定命題を作ってみよう。2 つの命題 s と t が論理的に同値であることを s≡t と記すことにする。

∀x∈P q(x) は ∀x(p(x) ⇒ q(x)) のことである,という述語記法の方が式変形が見やすいので,そちらでいく。

¬(∀x(p(x) ⇒ q(x)))

{全称記号と存在記号に関する de Morgan の法則}

≡ ∃x¬(p(x) ⇒ q(x))

{ ⇒ の書き換え}

≡ ∃x¬(¬p(x)∨q(x))

{de Morgan の法則}

≡ ∃x ¬¬p(x)∧¬q(x)

{二重否定の法則}

≡ ∃x p(x)∧¬q(x).

さて,p(x)∧¬q(x) というのは,x が集合 P の要素であるが,集合 Q には属さない,ということなので,いわゆる差集合 P\Q のことであるが,Q の補集合を Qc と表すとして,

∃x p(x)∧¬q(x)



∃x (x∈P ∧ x∈Qc)

とみれば,これは要するに積集合 P∩Qc が空集合でないことに他ならない。というわけで,

¬(∀x∈P q(x))

とは,

p(x) は充たすが q(x) ではないような x が存在する

ということであって,集合だけで記述すれば

P∩Qc

に相当する。

こうして,

P⊂Q

の否定が

P∩Qc≠Ø

であることがついでに分かったが,否定がこうなる理由は,P の要素のうちで,Q には属さないものがあること,いわば「反例」が存在すればよいわけであるから,わざわざ論理式を論理法則に従って同値変形せずとも直ちに了承されるはずの常識的な事柄であった。

なお,結果として得られた

∃x (x∈P ∧¬q(x))

を x を重ねて繋げる記法で書くと

∃x∈P ¬q(x)

となり,

∀x∈P q(x)

の否定は,∀を∃に書き換え,q(x) のところをその否定である ¬q(x) に書き換えればよい,という処方が得られる。

良く見受けられた間違いは,∀x∈P の書き換えのところを ∃∉P としてしまうものであるが,これは私の率直な感想としては致し方ない気がするのである。

実際,¬∀ は ∃¬ に書き換え,何がしかの論理式 s については,¬s は論理結合子の部分は de Morgan の法則で適切に書き換え,論理結合子で結ばれた,それ以上分解できない単項は各々その否定で置き換える,といった否定命題への書き換え規則を当てはめた場合,

¬∀x∈P q(x) を ∃x∉P ¬q(x)

と書き換えるのがむしろ規則に忠実な姿勢というべきではないだろうか。

こういった否定命題への書き換え規則まで含めて数理論理の初歩の初歩を学んだ経験を持つ大学初年級の学部学生あたりを対象に指導するとしたら,私はここで述べたような解説が妥当ではないかと考えている。

なお,このような極めて基本的かつ教育的な記法の解説が記された日本語の書籍としては,とりあえず

竹内外史:数理論理学―語の問題―(数理科学シリーズ 7),培風館 (1973)

の pp.1-2 を挙げておく。確か,これよりもっと後,つまりもっと最近書かれたもので一言注意を述べているものがあったようにも思うが,いま思い出せない。

竹内氏の本にも書かれていることであるが,私の解説を補足しておくと,

∃x∈P q(x)

というのは,

∃x (x∈P ∧ x∈Q)

もしくは

∃x (p(x) ∧ q(x))

の意味であり,p(x) であるような x の中に,さらに q(x) をも充たすものがある,といったニュアンスであって,真理集合のみで記せば

P∩Q≠Ø

ということである。先ほどは ∀x∈P q(x) の否定を考察したため,q(x) のところが ¬q(x) になったり,真理集合 Q のところがその補集合になってしまっていたわけである。

ついでに否定についても述べておくと,

∃x∈P q(x)

の否定は

∀x∈P ¬q(x)

であって,「p(x) を充たす x のうちに q(x) をも充たすものがある」ことの否定は「p(x) を充たす x のうちには,q(x) をも充たすようなものは一つもない」であることから,容易に了承されるであろう。


最後に練習問題を挙げておこう。


問題

∀x≦0 x≧-1 の否定命題を作れ。


解答

∃x≦0 x<-1

否定を作る前の命題の方は偽であり,否定命題の方は真である。

どちらにしても鍵を握っているのは -1 よりも小さい数の存在であって,そのような数の一つ,例えば -2 は否定前の命題の方が偽であることを論証する際の反例の役割を果たし,逆に否定語の命題が真であることを裏付ける物的証拠である。
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正の量に関する南雲理論。

2024-08-28 19:26:48 | mathematics
南雲道夫氏本人は 1944 年に出版されたと記載しておられるので,実際そうだったのであろうが,全国誌上数学談話会のバックナンバーを見ると『正ノ量ト實數トニ関スル一考察』は昭和 17 年,すなわち 1942 年の 246 号に掲載されているという記録なので,私は 1942 年として扱うことにしている。

この辺の,論文が受理された日付と,雑誌に記載された年号と,実際に出版された年とのどれを参考文献リストにおいて採用すべきか,研究者としては基本中の基本の必須マナーな知識であろうが,私にはルールがよくわからない。

例えば Patrick Suppes 氏の処女論文と思しき ``A set of independent axioms for extensive quantities'' は Portugaltae Mathematica 誌の Vol. 10 に掲載されたが,それには 1954 と記されている。ところが,論文の表題には Received, November 1951 とあり,Suppes 氏の文献を公開している公式サイトではこちらの年号をこの論文の刊行年としているようだ。

話はズレるが,公刊された論文でタイトルや著者名に誤植があった場合,引用時にどうするか悩む。現在は各雑誌の公式サイトで論文の書誌情報が確認できるが,そっちが間違っているとか,論文のスペルミスがそのままになっているとかで,自分の参考文献リストを頼りに文献検索する読者のことを考えた場合は,公式サイトにある通りに記載するのが最も便利だろうとも思う。

この問題は案外深刻で,論文に綴りミスがあったり,論文や本のタイトルの引用が微妙に改変されたものになっているとかのズレがあると,いかなインターネット時代とはいえ,お目当ての文献をうまく掘り起こせないことがあって,要らぬ苦労を強いられた経験は少なくない。

とまあ愚痴はおいといて,と。

そういえば James Clerk Maxwell は,Clerk-Maxwell となっていることもあって,どうしたらいいのかなぁ,とか。

それは名前じゃねーよ!って部分まで名前であるかのように認識されて著者名に繰り込まれちゃっているとか。

とまあ文句はおいといて,と。

南雲 1942 理論は,加法が定義されたある体系 S というものを考え,S の任意の元 x, y, z に対して

x+y=y+x,

(x+y)+z=x+(y+z),

x+y≠x

が成り立つ,という要請をする。

最初の 2 つの加法の規則は,一番目の方が交換法則,二番目が結合法則であって,これらをみたすような,S×S から S への写像(演算)+ が定まっているとき,S は可換半群であるという。

そして三つ目の要請はこの可換半群 S に単位元というか零元が存在しないという要請になっている。これと関連して,さらに次の要請を課す。

x≠y であるとき,ある w∈S があって,x+w=y であるか,または x=y+w であるかのいずれかが成り立つ。

この公理は後の 1946 年に河田ゆき義氏が全国誌上数学談話会誌において『Euclid ノ比ノ拡張ニ就イテ』と題する論文において「一次元ノ公理」と呼んでいるものである。

南雲氏はこの公理に基づき,x+w=y であることを x<y と記すことにして,S に全順序 < を導入する。

さらに連続の公理として Dedekind の切断を導入する。その述べ方はやや独特である。

S を,いずれも空でない 2 つの集合 A,B に分かち,任意の x∈A と任意の y∈B に対して x<y が成り立つとすれば,ある s∈S で,任意の x∈A と任意の y∈B に対して x≦s かつ s≦y であるようなものがちょうど一つ存在する。

これのどこが独特なのかというと,x≦s かつ s≦y という s の特徴付けの部分である。これは高木貞治氏の『續數學雑談』の「無理數」で述べられた切断の公理そのままではない。なお,このような s は互いに素な 2 つの集合 A と B の両方に同時に属することはできないので,x≦s と s≦y の等号は同時に成立することはなく,実際には

任意の x∈A および任意の y∈B に対して x<s かつ s≦y となるか,

または

任意の x∈A および任意の y∈B に対して x≦s かつ s<y となるか,

のいずれかが成り立つ,ということになる。

ちなみに,山崎圭次郎氏は数学セミナー 1978 年 5 月号の「特集/私の数学観」に寄せた『量と数,移動と写像』と題する記事において,

なお,簡単のため,数は整数を出発点とし,量は対称性をもつものだけをとりあげる.
(余談ながら,対称性をもたない量を扱って,負数の意味やその演算の意味をあれこれ論ずる風潮は賛成しかねる.(以下略))

という意見を表明している。山崎圭次郎氏は当時初等幾何学に関する解説記事を連載されていたらしく,その記事をめぐって誰かと何かひと悶着あった様子がこの記事で匂わせているが,そちらの連載記事の方は未確認のため,詳細はわからない。

ただし,岩波の基礎数学講座において 1976 年に『環と加群』(後の 1990 年に岩波基礎数学選書として分冊をまとめて再販されている)の項を出版しており,その第 1 章 序説においてしょっぱなに「量と数」と題する節を設けて,量の加法と大小について簡潔に論じている。ただし,山崎氏は最初から零量を導入しているので,x+w=y であるとき x≦y であると定めている。

そしてさらに量の自然数倍を定義し,量に対する演算を媒介として自然数同士の積の結合法則や交換法則が得られることをさらりと述べ,除法,もしくは比へと進んでいく。それは量同士の比である。とはいえ,代数の入門書を企図した書物であるから,比を実数の範囲まで拡張する議論は省略している。

その後,「ベクトル量としての実数」として,数直線上での右向きの矢印が正の実数とすれば,逆向き,すなわち左向きの矢印が負の実数であると述べ,実数同士の和は平行移動の合成であるという。

ここでは,実数を量や実数自体に対する作用を引き起こすものという観点が導入されている。

南雲 1942 理論に話を戻すと,そこでは量の体系 S において自然な形で積の概念を導入しようという試みがなされている。

ただし,それは代数的な導入法というよりも解析的な導入法というべきであろうか,S 上の加法的な写像の全体 ℤ なるものを考え,それと S とが全順序可換半群として同型であることを示すことを最終目標とする。

ここで,加法的な写像というのは,任意の x∈S と任意の y∈S に対して λ(x+y)=λ(x)+λ(y) となるような,S の元を S の元に写す写像 λ のことである。

そもそもこんな加法的な写像なるものが存在するのか,私のような素人には不安なことこの上ないが,南雲氏はこのような写像の例として,x にその自然数 n 倍 n・x を対応させる写像があることをさらっと指摘する。

なお,このような写像に要求される加法性を表す等式は,古来有名な Cauchy の函数方程式と呼ばれるものであって,それは必ずしも単純な形をした写像とは限らないことが 20 世紀初頭あたりに判明しているが,南雲理論においてはいわば λ(x) は正の値しか持たないということに相当する要請を課していることとなり,そういった条件を課すと加法的な写像は連続であって,「正比例」に限ることが保証されるのである。

南雲論文をそのあたりまで読んだ一読者である私としては,加法的な写像全体がどのような構造を持っているのかを調べるのではなくて,S の元 u を固定し,S の他の元 x が u の何倍かを直接測りに行く「1 次元的測定」の理論構築へと進んでいきたい欲求が抑えられなかった。それはちょうど山崎圭次郎氏のプランと同じ路線といえよう。

初めに x の自然数(ここでは正の整数のこと) n 倍が自然と導入される。

そして,連続の公理を用いて x の 1/n 倍に相当する,方程式 n・y=x を満足する y∈S が存在することを示す。
ピッタリ等号が成り立つような解 y の存在をいうには Archimedes 性だけでは不十分であるような気がするのだが,そこらへんの追究まではしていない。(つまり,詰めは甘い。)

そうすると x の有理数 m/n 倍が定義できる。

このように S の元に掛けられる數を正の整数,正の有理数と拡張していき,さらには Dedekind の切断の力を借りて,正の実数倍へと到達する。

南雲理論との関連を言えば,S 上の加法的な写像の集合というのは,とどのつまり,S の元を実数倍する作用に他ならない,といったオチとなる。

だがそのようなシナリオは南雲氏が意図したストーリではないであろう。

私にとっては,1 次元的な量を実数で測るカラクリを,今回初めて自分の頭で真面目に考えた経験ができて満足である。

それは,S の中に先ほど述べたように「単位量(標準量)」u を一つ定め,任意の x∈S が u の何倍かであるかを正の実数 ξ を用いて測る,すなわち,x=ξ・u と表すという考え方であって,S を 1 次元ベクトル空間のように考え,任意の x を「基底」u の「1 次結合」で書き表せることを示すことに他ならない。

さらに別の言い方をすれば,基底 u を定めることで S 全体を正の実数で座標付けできることを示したに過ぎない。

実はこれはそもそも高木貞治氏が考えていた路線ではないかという気がしないでもない。

だが,『数の概念』においては自然数,おそらく正の整数ということであろうが,それから出発するのではなくて,初めから負も含めた整数全体を出発点にとるという立場へと移行している。それは山崎圭次郎氏と同じ観点に立っているといえよう。ただし,『数の概念』は 1949 年に出版されているので,影響云々の妄想をするなら,こちらが山崎氏に影響を与えた可能性はあるかもしれない。

なお,河田氏は南雲氏の考察した加法的な写像は「中野博士ノ Dilatator ノ特別ナ場合ニスギナイ」と指摘している。

ここで新しいキーワード,dilatator なるものが出てきてしまった。

ここにでてきた中野博士とは中野秀五郎氏のことで間違いないであろう。

急遽,中野氏の著作にいくつか当たってみたが,確かに dilatator なるものがほぼ必ずといってよいほど顔を出している。

南雲氏自体,加法的な写像全体なるものを持ち出してきたあたりがとても位相解析的というか,函数解析的な香りを漂わせているのだが,中野氏の著作に至ってはまさに函数解析のとある専門的な一部門のテキストや論文であって,それに取り組まなければならないのかと途方にくれているところである。

また,南雲氏が 1979 年に『数学セミナー』誌に寄せた「量と実数(下)」で,正の量の体系を負も扱えるように拡張する方法である「ベクトル化」なる手法を,慶應義塾大学の丸山徹氏から教示してもらったと一言断り書きを入れている。

件の丸山徹氏についても慌ててネットで検索してみたところ,数理経済学の大家で,変分法など,関数解析的な手法を駆使して多価写像に支配される微分不等式(というか,微分包含式?)などの解析で多くの業績を上げておられる方であった。

そんな中で,丸山氏が修士課程に在籍中,カリフォルニア大学に留学している最中の 1973 年に三田学会雑誌という,英語名が Keio journal of economics である雑誌に発表された『効用函数の論理的基礎』という論文があることが分かり,公式サイトにて無償でその全文が入手できるありがたさに喜びで打ち震えつつも,思わぬところで utility の話と繋がってしまったと恐れおののいているところである。

河田氏が,結局のところは Euclid の原論第 5 巻の比の理論の焼き直しに過ぎないといった捉え方をしているが,「例ヘバ確率論的量トカ経済的量トカヲ考ヘル場合ニハ,全然無用ノモノデハナイデアラウ」と釈明してもいて,ちょうど von Neumann と Morgenstern のゲームの理論が出た頃でもあり,量の測定に関する数学的理論が効用 (utility) の研究という形で経済学者を中心に盛んになった。それがこういう形で邂逅したということであろう。

ちなみに,数学セミナーの『量の問題をめぐって』の論客には竹内啓氏という数理経済学の碩学の一人もあって,どんな見解を述べているのか調べねばなるまい。竹内氏は 1979 年に『数の構造』と題する著作も出しておられ,そちらで数の体系を自然数辺りから始めてどのように実数まで拡張しているのか,議論の筋道を確認しておきたいとも思うのである。

あと,これはあまり建設的とは言えない,下世話な興味ではあるが,Dedekind の切断の述べ方,ないしは表現は案外いろいろな形式があるように思えるので,これまでに内外で膨大な数の実数論の入門的な叙述があって,それらすべてを調査するのは絶望的に無理なのだが,ぼちぼち調べてみたいと思っている。そんなことを思いついたのは南雲氏の述べ方が私の眼には独特に映ったことと,全く別件でパラパラと中身を見ていた Kleene 氏の Metamathematics の入門書の初めの方に実数論が書かれていたのに驚いたこととが契機となっている。

もう一つ,高木氏の『数の概念』の序で「カントルの条件」という言葉が出てくる。丸山氏の論文にも「カントールの条件」という言葉がある。きっと間違いなく両者は同一のものを指しているであろうから,そのことをきちんと確認する必要もある。
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南雲道夫『正ノ量ト實數トニ関スル一考察』(1942 年)

2024-08-26 21:19:03 | mathematics
大阪大学数学教室が昭和 9 年から昭和 24 年にかけて主宰し,発行していた全国誌上数学談話会は宝の山のような,何か人をワクワクさせるような魅力に満ちた雑誌である。

森毅氏の『位相のこころ』(ちくま学芸文庫版)は一般位相の素養がまったくない私にはまるで歯が立たない本なのだが,数学的な内容はわからなくとも,その語り口を楽しむためにパラパラとページって(©高木貞治)みることがある。

最も読み易いのは数学がほとんどカンケーナイ「文庫版あとがき」で,そこには森氏の若かりしころの思い出の断片的がしたためられている。

その同書 p.327 の一番下らへんから p.328 にかけて次のような一文があった。

そのころには,たぶん阪大が中心で『位相数学』という雑誌があった.ガリ版の同人ミニコミ誌みたいな『全国誌上数学談話会』では
小平邦彦さんがノイマンの作用素環を紹介したりしていた.東京では考へ方研究社の『高数研究』という雑誌があって,
中野秀五郎さんや矢野健太郎さん,それに小平さんなんかも書いていた.

初めに挙げられている『位相数学』というのは私は実物を見たことはない。Web で現在公開されているのは「ガリ版の同人ミニコミ誌みたいな」方である。

南雲道夫氏の一番のご専門は,なんといってもやはり偏微分方程式論であろう。上智大学数学講究録の栄えある第 1 号は,寺阪英孝,南雲道夫,守屋美賀雄といった錚々たる方々の定年退職を記念したいわゆる最終講義録であり,南雲氏が選んだテーマはやはり偏微分方程式論であった。偏微分方程式の解の一意性の研究を振り返り,ご自身が考えられたアイデアや,当時次々と発表された新しい結果を織り交ぜられており,講演を直接聞いたとすればさぞ臨場感に溢れた内容だったであろう。ちなみに,南雲氏の講演の記録の後には森本光生氏の手になる詳しい解説があり,内容がわからなくとも目を通しておくべきだろうと思ってはいる。

この他に全編英語の ``Mitio Nagumo Collected Papers'' という論文集もあるが,そこに収められた論文の 9 割以上は解析学の高度な専門的話題に関するもので,``Quantities and real numbers'' (1977) という,全国誌上数学談話会に正の量の体系に関する考察を投稿してから 35 年ほど経過して改めてまとめられた考察は,論文集の中でもひときわ異彩を放っている。

南雲氏は 1976 年 3 月をもって上智大学を定年退職されており,Quantities の論文は Osaka Journal of Mathematics にて 1976 年 7 月 13 日に受理とのことなので,教務や本職の微分方程式論などの研究で時間が取れず,なかなかじっくりと再考する機会が持てなかったところ,退職して自由な時間ができたので改めてまとめ直した,といった経緯が伺える。

その論文が誰かの目に留まり,月刊誌『数学セミナー』の 1979 年 1 月号と 2 月号の 2 囘に渡り,当時誌上で盛んに繰り広げられていたシリーズ連載「量の問題をめぐって」の執筆者の一人として南雲氏に嚆矢が向けられ,再び日本語による「量の南雲理論」の解説が世に出る運びとなった。

前置きが長くなったが,それほど多くの予備知識がなく,じっくり取り組めば内容が理解できそうだと考え,今から 13 年前の 2011 年 8 月ごろ,夏休み期間を利用して『正ノ量』を解読しようと試みたことがあった。

といった話は,過去の自分のブログ記事をざっと読み返して,「うわあ,あれからもう 13 年も経っちゃってたのか~」と打ちひしがれたような気になりながらおぼろげな記憶をたどったものであるが,件の過去ログを見るに,南雲論文の最後らへんで当時の自分は挫折したらしい。代わりに Patrick Suppes の 1951 年(1954 年?)の外延量の測定に関する簡潔な論文に手を出し,それには一応目を通したようであるが,その記憶はすっかり抜け落ちていた。

それはともかく,南雲論文に出会ってからずっとやってみたかったことの一つである,その LaTeX による清書計画を,これまで時折思い出しては冒頭の数行を入力してすぐに立ち消えてしまっていたところ,今年はお盆まっさかりの 8 月 15 日から取り組み始め,今日,8 月 26 日にようやく全文を入力し終えて一区切りついた。

そのことを書き残しておきたくて本稿を書いたわけである。

ここ数年,とある職場でご一緒する機会の多い,物理量や単位に関する理論に造詣の深い物理学者の M 先生から,かつて日本の近代数学の黎明期に,高木貞治氏が『新式算術講義』(ちくま学芸文庫版あり)で量の概念から出発して無理数論を打ち立てる試みをしていた話を伺い,南雲氏がその書の存在をご存じだったかどうか,といった趣旨の疑問を呈されたことがある。

1905 年生まれの南雲氏は東大で学ばれたので,当然高木氏の講義を受けたこともあったであろう。森氏は 1928 年生まれで,やはり東大に学んだが,『位相のこころ』の文庫版あとがきによると,氏が東大に入学したころに高木氏は定年で,ちょうど入れ違いだったようだ。

ところで,1905 年といえば高木氏の『新式算術講義』が出版された 1904 年の翌年である。何か奇妙な符合を感じずにはいられない。

南雲氏は『正ノ量』の冒頭で高木氏の『数学雑談』(共立出版から復刻されている)にある無理数論を引き合いに出しており,その精神を引き継いで,正の量の中には和はあるが積がない,ということで,正の量同士の積を導入しようと試みている。

ただし,残念ながらそれ以上の動機は明らかにされていない。これも私の勝手な妄想であるが,南雲氏は若かりし頃に『雑談』に触れたことがあり,また,大学で教鞭をとるようになって実数の連続性について講義する際,高木氏の問題意識について自分なりに深く考察しようとされたのではないか,と思うのである。

Cauchy しかり,Dedekind しかり,連続性だの実数だのの解析学の基礎に想いを馳せるのは,それを教える義務を課された若き数学教員たちなのであるから。Bourbaki にしてもそういったところがあるだろう。

さて,これからは南雲理論三部作の次,英文の方に取り組まなければならないが,最近,数学史家の高瀬正仁氏が高木貞治氏の評伝等をいくつか出しておられ,ちくま学芸文庫に収録された高木氏の著作にも大変参考になりそうなありがたい解説を書いておられるので,そちらについても調査をしていきたいところである。高木氏の場合は,大学院生時代に著したという『新撰算術』,次が『新式算術講義』,それから南雲氏が参照された『雑談』中の無理数の話,そして最後が『数の概念』と,こちらは四部作である上,最初の 2 冊は短い論文ではなく,結構な長さの単行本であるから,読むのはそれほど簡単ではないかもしれない。

ただ,ひとまずは入力した南雲論文の校正をし,原文に忠実に,漢字は旧字体のところはそのままに,また,地の文は現在のようなひらがなではなく,カタカナで書かれているので,それもそのまま書き写してあるので,『新式算術講義』の出版社の編集方針を参考に,カタカナを平仮名に改めたり,現代仮名遣いに直したりしたバージョンを作成したいと思っている。

また,自分で証明を考えつつ清書したわけだが,特に最後の方の定理の証明は,私はさっさと有理数倍から実数倍へと進む道に逃げてしまい,南雲氏の証明とは筋道がずれてしまったので,自分の証明もそれなりにまとめておきたいところである。

ところが,である。

南雲氏は識者の御教導を切願しつつ『正ノ量』の執筆を終えたわけだが,その後全国誌上数学談話会にそれを受けた論文が掲載されているか,目次をざっと調べた限りでは,河田敬義(ゆきよし)氏の論文,ただ一篇のみであった。ただし,それは表題からして私が選んだ方針と,ひょっとすると全く同じ方向性かもしれないので,まずはそちらに取り組むべきかもしれない。

その他,南雲氏の最初の方の定理の証明と,Hilbert の Grundlagen der Geometrie の乗法の可換性に関する証明,Edmund Landau の解析学の基礎として実数や複素数の基礎を論じた冊子,そしてもちろん高木氏の著作との間に類似点が見られるかどうかといった下世話な調査もしていきたい。
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人名の読みとか字体とか。

2024-08-15 19:26:30 | Weblog
世界的に著名な物理学者である田崎晴明(別名 Hal Tasaki)さんの名字は本当は「たざき」と読むのだということを,かなり前に(そしてここ一年ほど顔を合わせていない)友人の gk 氏から教わった。

よく似た話は歌手の浜崎あゆみさんが「はまざき」であるとか,高校の同級生に中島(なかしま)さんと中島(なかじま)さんのどちらもいたとかで経験していた。

こうなってくると山崎あたりも「やまざき」と「やまさき」のどちらか気を付けなければならないといった話になってくるが,一番いいのは失礼を承知でご本人に直接伺うことであろう。そのような手間を掛けずに勝手に間違った呼び方をする方がより失礼度が高いと考えれば,恥を忍んで訊くのが正解である。

この夏休みという名の超長期間のダラケモード期間に,ふと以前から疑問に感じていた,年の近そうな,かつ,私にとっては比較的身近な(つまりどちらとも面識のある)2 人の学者 T 先生と O 先生の実際の年齢的な序列について調べようと思い立った。

その際に田崎晴明さんが T 先生の年齢を「おそらく一つ歳上みたいだ」と推定しているブログ(?)記事が発掘されたので,では Hal Tasaki 氏のご年齢は,と Wikipedia の記事を見に行ったわけである。

そしてこれが本題なのであるが,晴の字は正しくは晴だということを知り,「たざき」読みを知った時を遥かに超える衝撃を受けた。


マジかー,そういうこともあるのかー。


今後何かの機会に Hal Tasaki 氏のフルネームを漢字で書く機会があったら,ちゃんと思い出してそう書くことにしよう。


ちなみに,田崎晴明さんは 20 世紀(から 21 世紀初頭にかけて)の(私なんぞでも御高名を存じ上げている)数理物理学界のレジェンドである Elliot Lieb 氏の旧来の知己だそうだが,Lieb 氏のことを「リーブ先生」と記しておられ,それによって,なんとなくドイツ語風の読みで「リープ」と読んでしまっていたのを,これからは「リーブ」にしていこうと己を矯正中である。


あと,上述の方々とは全く関係がないが,別件で夏休みの自由研究課題として行っている作業に関連して,20 世紀前半の日本数学界のレジェンドである髙木貞治氏の古い著作である,『數學雑談』(正・續)およびちくま学芸文庫で現代仮名遣いに改められ,かつ横組みに変更されてグッと取っつきやすくなった『新式算術講義』(1904 年)の原本,それに先立って著された『新撰算術』(1898 年)の PDF ファイルを,無償で全文を一般公開している国会図書館デジタルコレクションから入手したのだが,表紙を見ると「高木」ではなくて,「はしごだか」の方の「髙木」となつてゐる。

これも以前に同じ文書を見て驚いたことがあつたかもしれないが,とりあへず数日前にやつと気付いたやうな気がするので,其の驚きを玆に書留ておく。

段々と明治の文体に引摺られてゐく心持ちがしてきて,其ノ内片仮名デ書クダケデハ飽キ足ラズ,縦書ヲ試ミ度クナル氣ガシテナラナイカラ,ココ等デ筆ヲ擱ク事トス.

[追記:2024 年 8 月 17 日]
ふと不安に駆られて東京博文館刊の『新撰算術』の奥付を確認したら,著者名に明朝体の活字で普通の「高」が用いられていた。
はしごだかは扉用の特別仕様の字体だったのかもしれない。
どうやら私の早合点であったようだ。
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2 次方程式の解の公式を次元の観点から検証する。

2024-08-11 20:00:36 | mathematics
与えられた 3 つの数 a, b, c に対する未知数 x に関する 2 次方程式

ax2+bx+c=0

について考えてみよう。

方程式の右辺が 0 であることから,定数 c は無次元量 (adimensional quantity) と見て差し支えない。

x の次元を d とおく:dim x=d.

そうすると b の次元は d-1 で,a の次元は d-2 と定まる。

これらの係数を用いて解 x が

x=-b/2a±√(b2-4ac)/2a

と表されるのは周知の事実であるが,これは次元的に正しいかを検証してみよう。

もっとも,この式に到達する代数的な式変形(平方完成,移項,両辺の平方根を取る操作)は等式の両辺の次元を等しく保つ「合法的な」操作であるため,解の公式の右辺の次元が左辺 x の次元 d に等しいことは端から保証されているのではあるが。

まあ,覚え方というか,思い出し方というか。

まず b/a の次元は d-1/d-2 で,確かに d に等しい。

また,根号の中身,いわゆる判別式については

dim b2=d-2,
dim ac=d-2d0=d-2

であるから,その平方根の次元は b の次元に等しく,d-1 となる。

あるいは,a が無次元量で,b と x とが同じ次元を持ち,c がその 2 乗の次元を持つ,という設定でもよい。

そちらの方が次元に負冪が現れない分,上述したような次元の釣り合いが把握しやすいであろう。

また,解と係数の関係も,x と b の次元が等しいことから,b が 2 つの解の和で表せそうであることや,c が 2 つの解の積で表せそうなこともわかる。

ちなみに,最近の持ちネタの一つであるが,Taylor 無限級数展開も次元の観点を導入すると成り立ちを理解しやすいのではなかろうか。

式が見やすいので MacLaurin 展開で説明する。

変数 x の次元を d とおくと,函数 f の微分係数は,それを x で割った商に相当する次元を持つので,d-1 となる。

こう考えると,f の n 次微分係数の次元は d-n となる。

そして,x=0 における高次微分係数 f(n)(0) を用いて f(x) の値を表すためには,最低限,次元を揃える必要があろう。

そこで,d-n だけ下がった次数を回復するため,xn を掛けるのだ,と考えるわけである。

すなわち,MacLaurin 展開の n 次の項は f(n)(0)xn の定数倍でなければならない。

これが最近私が考える次元の要請から見た函数のべき級数展開の要件となる。

それに対し,Fourier 級数は三角関数をそもそも無次元量と見るべきと思われるため,Fourier 係数がすべて函数の出力 f(x) と同じ次元を持つものとみなすこととなる。

これは,量を基底の線型結合として表した場合,係数が次元を担うのか,基底が次元を担うのかの解釈を考えた場合,基底は無次元で係数のみが次元を担うことに相当する。

ところが,先ほどの MacLaurin 展開では x が無次元量でない限り,そのべき xn たちのは次数 n が異なれば次元も異なるため,係数にその差異を解消するような次元を持たせなければならないこととなる。これは基底の役割を担うべきたち xn が次元を持つとすると話がややこしくなることを教えてくれる例である。

なお,Taylor 展開などのように入力変数の無限次のべき級数展開ができるためには,函数の入力変数 x は無次元量でなければならない,という主張がなされることがあるが,そのような立場しか許されないのかどうか,つまり,入力変数 x が次元を有する量だった場合に整合性のある解釈が不可能なのかどうかについて,今の私の気持ちは揺らいでいる。

もともと,三角函数や指数函数などの入力変数は無次元量でなければならないと素朴に考えていたのだが,微分された階数分だけ x のべきを掛けて次元を整えるという考え方も捨てがたいと思うのである。
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量,単位,次元。

2024-08-10 16:13:57 | physics

夏休みの自由研究



夏休み期間に行う自由研究の一つとして物理量と単位,次元の世界常識を学ぶことにした。

参考文献



参考文献として,まずは公的機関が発行している次のような文書を一次資料として使用する。


  1. 日本産業規格の一つ,JIS Z8000-1 : 2014.
  2. ISO/IEC Guide 999:2007.
  3. SI Brochure 9th edition 2019.
  4. IUPAC Green Book 第 3 版.
  5. IUPAP SUNAMCO Red Book 1987 (revised 2010).


文献 [1] は日本産業調査会 JISC というサイトで会員登録すれば無償で閲覧できる。

文献 [2] は日本規格協会グループ JSA GROUP が邦訳を提供しているようだが,英語の原典が 92 ページのところ,邦訳は 224 ページ,お値段も 1.7 倍となっている。
そのサイトをよく見ると英語の原典が無料でダウンロードできる。こういうのは無償では手に入らないと勝手に思い込んでいただけに大変ありがたい。

文献 [1] を眠気をこらえながら歯を食いしばって読み解こうとすると,やたらと文献 [2] が引用されているのが鼻につく。それで文献 [2] にも手を出そうと考えたわけだが,文献 [1] の p.39,参考文献リストにそれが載っていないのがマジで意味わからん。本家の ISO 80000-1:2022 で参考文献リストがどうなっているのか確認したいが,それは約 2 万円で購入しなければならなさそうなので,とりあえず諦めることとする。12 ページまで閲覧できるサンプルを見たところ,物理量の表記法で 6 番目の文献を参照しているらしいのだが,それが何なのかとっても気になるお年頃である。

なんて諦めかけていたら,PDF のサンプルではなくて,HTML 版のサンプルにバチコリ参考文献リスト (Bibliography) が掲載されている。それは物理量の単位や次元の理論の開祖ともいえる James Clerk Maxwell の A Treatise on Electricity and Magnetism であった。しかも初版の 1873 年と記されているということは,現在普及している第 3 版ではなくて,という特別な意図が込められていると考えてよろしいか?版を変えるごとに本文がどう変遷したのかほとんど知らないけど,初版第 1 巻の p.28 の末尾で Maxwell は大いにためらいながら (with great diffidence),ベクトル場の回転のことを the curl もしくは the version と呼ぶことを提案していたのに,1881 年の第 2 版第 1 巻 p.29 の半ばでやはり大いにためらいつつも the rotation と呼ぶことに変更するという,結構影響力の大きい修正を加えているのだが,つまりそういうことですね?

文献 [3] は英語版は国際度量衡局 (BIPM) の公式サイトにて無償で配布されている。日本語訳が産業総合研究所(産総研,AIST)の計量標準総合センターのサイトにて無償で配布されている。第 5 章に物理量の表し方に関する解説があるが,SI での規約が述べられているだけで,量とはなんぞやとか,次元がどうたらといった話は書かれていない。

IUPAC の Green Book [4] は化学徒が全員従うべき化学分野における量や数学記号の書き方の細かい規則の解説である。ISO と IUPAC のどっちが先か歴史的なことは知らないが,相互に参照しあって足並みをそろえようとしているのは確かなように思われる。

IUPAP の Red Book [5] なるものは,以前に量の理論や単位に詳しい物理学者の M 先生から噂を伺っていたかもしれないが,ちゃんと現物を確認しようとしたのは今回が初めてである。ググったら IUPAP の公式サイトで公開されているかどうか不明なものの,2010 年に改訂されたらしい 1987 年版の PDF ファイルを入手した。JIS Z8000-2(ISO 80000-2:2019 の日本語訳)で 2 階のテンソルをアルファベットの大文字の上に右向きの矢印を 2 段重ねで記す記法が推奨されているのを見て重たい記法だなぁと気に食わなかったが,文献 [4] では推奨する活字の字体が使用できなければそうしてもよい,といった合理的な但し書きが付いている。そしてその記法をさらに高階のテンソルまで適用しようとするとbecomes awkward なので,そういう場合は添え字の記法で切り抜けるべしと提案している。今の ISO 80000-2 にはその配慮が欠けており,むしろ後退した感がある。


とりあえずの疑問



文献 [1] ではスカラー的な物理量の話がメインと記しているが,随所でベクトル量やテンソル量の場合について補足している。

それはそれとして,速度ベクトル v を,その大きさ(ノルム)である速さ v と向きを担う単位ベクトル e の積に分解(極分解表示)したとすると,速度の次元はどちらに受け継がれるのだろうか,というと,それは当然速さ v のみに,であろうが,このとき単位ベクトルは無次元量というわけである。ではそれが「単位の大きさを持つ」ということの意味はなんであろうか?

これが目下のところ私が抱えている大きな疑問の一つであるが,それと多少関連するところもあるのが次の疑問である。

速度はベクトル量なため,話が込み入りそうなので速さ v について考える。単位系を SI とすると,次のような感じになるのだろう。

速度 v
単位 m/s
次元 LT-1

次元はサンセリフ体のローマン体(直立体?)で表すのが ISO 流なのだが,ボールド体のローマン体で代替した。

そして,v=9.8 m/s であるとき,その数値部分を抜き出す作用素(演算子)は { } を用いて表され,

9.8=v/(m/s)={v}

のような関係が成り立つ。

他方,v の単位だけを抜き出す作用素は [ ] で表され,

[v]=m/s,

v={v}[v]

などが成り立つ。

また,次元を抜き出す作用素は dim で表され,

dim v=LT-1

のように記す。

さて,ここで問題が一つ。

かつて Maxwell は Treatise の冒頭で,例えば長さならばその数値を l で表し,長さの単位を [L] として,実際の長さは l [L] で表されると述べた(Treatise 第 1 巻の p.3.)

なお,Maxwell は単位を表す記法と次元を表す記法を区別せずに混用している。

それでは誰が単位と次元の区別を明確に行うようになったのだろうか。

また,物理量の数値部分を {v} のように表すことにしたのは誰なのか。

さらには物理量の次元を dim v と表すことにしたのは誰が最初か。

鍵は,やはりこの道の専門家である M 先生から教わった Handbuch der Physik の Band 2 にあると思われる。そこで単位系や次元の解説を担当した J. Wallot が 1922 年に書いた物理量の次元に関する論文 (Zur Theorie der Dimensionen) に v={v}[v] に相当する式がお目見えする。Wallot は Tatyana Ehrenfest-Afanassjewa の論文を参照しているので,もしかするとそちらですでに使われている可能性もあるが,Tolman の the principle of similitude に阻まれて,まだ全容は明らかになっていない (注)。

なお,Wallot の Handbuch の記事を見た限りでは dim 作用素は確認できなかった。


ひとまずのまとめ



とりあえずここまでで私が理解した範疇での「物理量」の認識としては次のようなものとなる。

物理量には「名称」,「数値部分」,「単位」,「次元」の 4 つの属性がある。「名称」は物理量そのものの構成要素としてみなすべきではないかもしれないが,種類の異なる物理量同士を識別するための識別子として不可欠な要素であるとも考えられる。

SI のパンフレットにも書かれているが,力のモーメント(トルクと書かれているが)と力学的仕事(というかエネルギー)は同じ次元を持つが,これらは異なる物理量として取り扱われる。そもそも力のモーメントはベクトル量であり,エネルギーはスカラー量であるから,両者の和はデータ型の観点からしても不合理である。仮に力のモーメントをスカラー的に扱えたとしても,力のモーメントとエネルギーの和はやはり物理的に無意味であろう。

なかなかに量の体系なるものはごちゃごちゃしていて闇が深そうに思えるのである。


(注) Physical Review の公式サイトで Tolman の論文をダウンロードしたところ,12 ページの空ページになっているという,意図的なのか意図せぬ不具合なのかさっぱり分からない事態で詰んでいた。Tolman の 1914 年の The Principle of Similitude を引用している Bridgman の論文が 1916 年にやはり Physical Review に掲載されたが,それは公式サイトで閲覧可能である。なのでおそらく電子書籍化した際のミスであろう。Bridgman 論文は archive.org でも閲覧可能であることを知り,それを頼りに archive.org に Physical Review の他のバックナンバーがないか祈るような気持ちで探したところ,見つかりましたよ,ハイ。

内容は詳しく見ていないけど,異なる単位系間での物理量の変換規則に関する考察っぽい。そして,{ } だの [ ] だの dim だのの記号は全く出てこないっぽい。

ちなみに,1916 年の Bridgman の記法に関して気になる点があるんだけど,それはまた機会を改めて取り上げることにする。

Norman Robert Campbell (N. R. C) の著作や Bridgman の Dimensional Analysis,Buckingham の有名な定理を述べたものを含む数編の論文もざっと眺めたけど,出てきてもせいぜい [ ] 止まりで,単位と次元の区別もどのていどはっきりつけているものか怪しい。Wallot や Ehrenfest-Afanassjewa もそういう感じがしないので,4 元単位系を提案した Giovanni Giorgi あたりも調べるべきかな,と思う。
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データの大きさ。

2024-08-10 13:26:53 | 情報系
まったくもって今さらの話ではあるが,JIS Z8000-1 で量と次元,単位について学んでいる。

これは夏休みの課題といったところである。

原本は JISC 日本産業標準調査会のサイトで,自分の個人情報を受け渡せば(?)無課金で閲覧できる。

関連のある話題として SI の規格も参照しようと考え,産総研 (AIST) にて無償配布されている SI 文書第 9 版 (2019) の日本語訳も入手した。

AIST の SI 関連の情報を記載したサイトで,PDF ファイルのリンクに MiB なる見慣れない文字列が目に付いた。

それは JIS Z8000-1 : 2014 の 9 ページ,3.17 単位の倍量の項の注記 2 にちょうど書かれていた,210=1024 倍に関する接頭辞だそうだ。

まず B はバイトで,たぶん 8 ビットのことである。そして,

1 MiB = (210)2 B = 1 048 576 B

で,1 バイトの約 100 万倍のデータサイズというわけである。

1 MiB は「1 メビバイト」と読む。

文書や画像データは MiB メビバイト程度の大きさであるが,動画やストレージは GiB,TiB の時代であり,それぞれギビバイト,テビバイトという。

これらの接頭辞を私は今日初めて知ったくらいだから,誰かがそう言っているのを聞いたことがないが,今後はこれらの表記ならびに読み方が普及していくことを期待したい。


ちなみに,桃太郎がお腰に付けて持ち歩いていたのは Kidng(キビ団子)であった。

それらを少なくとも 3 匹の配下に下賜したそうなので,3 Kidng 以上を携帯していたのは確実であろう。

とすると,1 dng あたりの重量や大きさは非常に小さかったのではないかと思われる。

Web で検索したところ,茶碗一杯の米粒は約 3 000 粒 = 3 Ktb だそうだ。

仮にコメ粒とキビ粒が同じ大きさだとすれば,茶碗一杯のモチキビが 3 Ktb あることになるので,それを三等分したものをこねて団子にすればちょうど三個になる。

したがって,どうやら 1 Kidng というのは,キビ粒を 1 024 個ほどまとめてこねた団子 1 つに相当すると思われる。1 ダースとか 1 mol とか,そういうのと似たような役割を果たしている。
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集合論の簡単そうな問題。

2024-08-07 18:56:49 | mathematics
ふたつの集合 A と B の間に全単射が存在するとき,A と B は対等であるといい,そうであることを |A|=|B| と書くことにする。

ここしばらく私が気になっていることは,自然数の集合 N が「最小」の無限集合であるかどうか,ということであるが,Azriel Levy の ``Basic Set Theory'' によると,選択公理の下では任意の無限集合は可算集合を部分集合に持つとのことである (p.79, 1.18Ac Corollary.)

そうすると,選択公理を仮定した場合,どんな無限集合の濃度も ℵ0 以上になるため,濃度が ℵ0 よりも小さい無限集合は存在し得ないこととなる。

ふむ。

もう一つ私が気になっていることは,X が無限集合であるとき,X を,互いに素であり,かつ,対等な X のふたつの部分集合 A,B の和に分解できるか,というものがある。

自然数の集合 N であれば,Galileo が提示した無限のパラドックスの発想に従い,偶数全体 E と奇数全体 O に分割するという具体的な分割法が提示できる。

実数全体はというと,それは正の数と負の数という分け方があるので,非負の実数全体 PZ と負の実数全体 N の和に分割するといった具体案が提示できる。ただし,その際は PZ と N が対等であることを示さなければならないが,それはいわゆる Bernstein の定理で保証するか,あるいはその特別な場合の演習問題として,0 入りの半直線 [0,∞) と 0 抜きの半直線 (0,∞) とが対等であることを証明しておく必要がある。

この方法はちょっとズルいような気がしなくもない。どういうことかというと,例えば正の実数全体を濃度の等しいふたつの部分集合に分割するにはどうしたらよいか,と考えると,符号による分類は通用しないからである。

符号による分類は数直線が点 0 に関して対称であるという幾何学的な性質を利用する発想と言えよう。

実は正の実数全体についてもそれと似たような「対称性」を利用した組み分けが可能である。

正負の分類が実数の加法に根差した組み分けであったところを,正の実数については,符号を反対にする「反数」ではなく,乗法の逆元をとる「逆数」を利用する方法が考えられる。

数直線における,点 1 に関する反転 (inversion) を考えるわけである。

実数の表現を考えた場合,非負の実数と負の実数を分けるのは「符号ビット」が 0 か 1 かの区別であり,1 未満の正の実数と 1 以上の実数とを分かつのは,整数部分が 0 であるか正であるかの区別であるといえる。

このような実数の仕分け方は,任意の(空でない)集合 X のべき集合 P(X) を等濃度のふたつの部分集合に分ける方法に帰着できるように思うのである。

P(X) の要素は,X の要素 x をひとつ選んで固定すると,x を要素に持つか,持たないかで類別できる。そして x を要素に持つ要素と,そうでない要素とが,もれなく,重複なく対応することも容易に示せる。

そうすると,無限集合 X が,何らかの無限集合 Y のべき集合であるとき,すなわち X=P(Y) なる集合 Y を持つならば,X を等濃度のふたつの互いに素な部分集合 A と B に分割できることになる。

では,任意の無限集合 X はそれを生み出す母体,すなわち,X=P(Y) となるような集合 Y を持つのだろうか。

ところで,Y が有限集合である場合,P(Y) もまた有限集合に留まってしまう。

したがって,もし N=P(Y) をみたすような集合 Y が存在するとしたら,Y は無限集合でなければならない。

ところが,Cantor の定理によって,Y と P(Y) は対等ではありえず,P(Y) の濃度は必ず Y の濃度よりも大きくなる。

つまり,このような無限集合 Y があったとすると,その濃度は ℵ0 よりも小さくなければならない。

自然数の集合よりも小さな無限集合というのは存在し得るのであろうか。

このような思考を経て,本記事の冒頭に掲げた「自然数の集合は最小の無限集合であるか」という問いに至ったのである。

集合論のテキストではこのような低レベルな疑問をいじくりまわしているだけで先に進まないようではまずいであろうが,この程度の話題をぐちぐちネチネチとこねくり回す一般向けの数学読み物があってもよいのではないか,などと考えている。

集合論の初歩を一般向けに解説した書物は海外まで目を向ければ相当数あるであろうから,とっくの昔にそんな読み物が著されている可能性は極めて高い。ただ単に私がその存在に気付いていないだけであろう。

一般の無限集合を等濃度のふたつの部分集合に分割できるかという問題の答えを私はまだ知らないのだが,当初,私は答えは肯定的なもののはずだと軽く考えていた。

ところが,前掲の Levy の Chapter III を「ページって」いると,無限集合は必ずしもそれ自身と等濃度の真部分集合を含むとは限らないっぽいのである。

頑張って Levy の本を Chapter III(の少なくとも §2)までじっくり学べばこれらの疑問が解消するかもしれないし,しないかもしれない。
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日本語にしてみると・・・。

2024-07-28 18:19:00 | Weblog
ドイツ人の Sommerfeld は

Sommer 夏
Feld 野原

なので,夏野さん,もしくは夏原さん。

Einstein は

ein 一つの
Stein 石

だから,一石さん。


こんな調子でヨーロッパの苗字を日本語(というより,漢字)に変換してみる,という遊びを時々やる。


Taylor は仕立て屋だそうだから,さしずめ服部(はっとり)さんといったところか。

そういえば幼馴染に服部くんがいたし,ちょうどマンガやアニメで『忍者ハットリくん』というのもあったし,中学か高校の頃にユニコーンが『服部』というアルバムを発表したりと,「服部」を「はっとり」と読むことにすっかり慣れ親しんでいて,なぜそういう読みが充てられているのかという疑問はもっとずっと大人になってからようやく湧き出してきた。

便利なインターネットで検索してみると,古代日本で布を織る機織りの職を司る一族に「服部」という名が与えられたという。

「はたおり」が「はっとり」に変化し,それが「服部」という漢字表記の苗字の訓に使われたわけである。


それはさておき,先ほどフランス系と思しき人の名前 Clément を見かけた。

ネットで調べたところ,clément という形容詞は「慈悲深い」とか「寛容な」といった穏やかなイメージの単語らしい。

その名前の持ち主が男性であれば,さしずめ寛(ひろし)といったところであろうか。


苗字ではなくて名前の方の漢字翻訳を考えたのは今回が初めての体験であるが,その気になって探せばちょくちょくあるかもしれない。


話は逸れるが,ちょうど今はパリ五輪が開催中で,各国の選手のカタカナ表記にたくさんお目にかかる絶好の機会となっている。


最近興味があるのはオランダ人の苗字で,私が勝手にそうだろうと決めつけているものに,

Vandermonde ヴァンデルモンド(特別な形をした行列式で有名),

van der Waerden ファン・デル・ヴェルデン(Noether や Artin の代数学の講義を整理してまとめたテキストの著者として有名),

van der Waals ファン・デル・ヷールス(理想気体の状態方程式を実在気体にも当てはまるような補正をした状態方程式で有名)

などがある。この van der 系の苗字は多いようだ。


実のところ,テレビもないし,オリンピックそのものにほとんど興味がないけれど,オランダ選手のニュース記事を見かけたら名前のレパートリーを増やそうと考えている。
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デジタルではなくて,ディジタル。

2024-07-21 20:05:45 | Weblog
もう世の流れを改めることは叶わないであろうが。

「デジタル」のもとは英語の digital である。

綴りを見ればわかると思うが,"di" を "デ" と読む余地などない。

それとも,「イ」と「エ」の発音を区別できないお土地柄だとでもいうのであろうか。


そしたら何かね。

di に「デ」という読みを充てるのであれば,次の gi はどうするというのかね。

「デゼタル」もしくは「デジェタル」とでもしないと筋が通らないのではないかね。


digit という,桁を意味する関連語はどう読むというのかね。


「デジット」だとでもいうのかね。


これはやっぱりディジットでしょう。


digital を「デジタル」と表記するのは,さかのぼればかなり古そうであるが,「ディ」という表記が一般的でないか,公式に認めれていなかった時代に由来するのかもしれない。


いつの間にやら,「地上デジタル放送」だの,「デジタル庁」だの,お上までもが堂々と「デジタル」表記をして憚らない事態になってしまった。


そのことが最も残念である。そういう言語感覚の連中に行政を任せていてよいのだろうか。先行きが不安で仕方がない。
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