担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

こんなクジラがいたら嫌だシリーズ。

2011-05-31 10:13:43 | もじりあーの。
こんなクジラがいたら嫌だ。

・タレナガスクジラ

一体何を・・・?とにかく,早急にやめて下さい!


・ハッコウクジラ

発光鯨?
いや,フツーにいるでしょ,光る鯨くらい。
全身は無理だとしても,鼻先とか,ほんの一部分くらい光るよ,たぶん。深海に棲む鯨とか。

・・・え?字が違うって?

は,発酵鯨?
それって,生きてんの・・・?


鯨の種類を全然知らないので,これくらいしか思い浮かばないや。
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すでにして。

2011-05-30 23:56:44 | 爺ネタ
関東地方は27日ごろに入梅していたらしい。
気象庁によると,昨年より17日も早いそうだ。
洗濯し辛いのに汗をたくさんかくという,困った季節がきてしまった。
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雨の中で。

2011-05-29 21:06:19 | Weblog
田植えの体験をしてみた。

田んぼに入ったのは初めてである。

何度もゴム長靴が脱げそうになり,バランスを崩して転びそうになった。

足を抜くときは,かかとから,だそうだ。
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<読書感想文1107>日本の弓術

2011-05-28 00:34:31 | 
オイゲン・へリゲル述,柴田治三郎訳,日本の弓術,岩波文庫青661-1,第40刷(2010年)。


学習という行為を考える際に,日本における「道」を説いた書物が参考になるのではないかということに思い至り,岩波文庫で「風姿花伝」が出ていることは前々から知っていたので,それを求めに本屋に行ったら,本書に出会った。

当時ドイツの若手哲学者であったヘリゲル氏が東北帝國大学に招聘された折,阿波研造という当代随一の弓道の大家の下での五年にわたる修行の体験談が語られている。かねてより宗教的な神秘説に興味を抱いていたヘリゲル氏は,禅の精神を学ぶために,禅の精神が体現されている武道を修めようと考えたらしい。
阿波範士はそのような目的にとってまさにうってつけの先生だったようだ。

ヘリゲル氏は,言葉によって思考し,言葉を尽くして他者を説得するという西洋の哲学スタイルを徹底的に身につけた学者だったわけだが,日本における禅の思想はこのような態度とは正反対であり,思弁には重きをおかず,ただ実践あるのみというスタンスであった。

つまり,ある種の精神状態は,言葉では他者に伝えることは出来ず,それを知るにはただ当人が実際に体験するより他にないという,至極もっともな態度である。

ところが,西洋においては言葉ですべてを理解尽くそうという理念が根底にあるため,西洋人にはそのような日本的な考え方は非常に理解に苦しむものだったらしい。
ただ,ヘリゲル氏はマイスター・エックハルト (Meister Eckhart) という中世ドイツの神秘家の名をたびたび挙げており,氏はマイスター・エックハルトの思想は奥底で禅の思想と相通ずるものがあるとみていたようである。

本書は,ヘリゲル氏のドイツでの講演原稿の翻訳だそうだが,全部で三章に分かれている。

第一章はいわば序文であり,ヨーロッパ人にとっては弓術とは的を射るという競技,あるいはスポーツの一種に過ぎないが,日本においてはそうではなく,肉体的な鍛錬よりも精神的な鍛錬を目的としており,射るべき的は,離れたところに用意された物理的な的ではなく,射る人それ自身,つまり「己」であるという,難解な解説が述べられている。
ただし,ここに書かれていることは,現代日本に生まれた我々であっても,さまざまな機会に耳にしたようなことばかりであり,そういう意味では慣れているため,それほど奇異に感じない。
ところが,ヘリゲル氏はこのような考え方に全く不案内な聴衆に何とか雰囲気を伝えようと,言葉による分析を詳しく述べている。

しかし,そこには大きな矛盾がある。

それは,言葉では到底伝えられないとわかっていることをどうにか言葉で伝えようとする試みであり,極めて逆説的な行為なのである。ヘリゲル氏の胸中には大きな葛藤があったのではないかと推察される。

第三章は,第二章で述べられた体験談の総括であるが,これも僕にとっては難解な内容であった。
とにかく字面を目で追うものの,いたずらに時間が過ぎるだけで,内容はさっぱり頭に入ってこなかった。

このように第一章と第三章は難しかったのだが,第二章は阿波範士とのやり取りを中心とした稽古の様子を述べたものであり,これは非常に読みやすく,かつ楽しい内容であった。

「弓で矢を射る」という行為を理屈で理解し,スポーツとして習得しようとしてしまうヘリゲル氏に対し,阿波範士は謎めいた精神的なアドバイスしか与えてくれない。
なかなか範士に認めてもらえるような「離れ」が出来ないヘリゲル氏は,何度も暗礁に乗り上げる。
そうした紆余曲折を経てもなおあきらめずに修行を続けていくさまが,全くの門外漢が苦労してある道を習得していくという非常に興味深い学習プロセスの例を提供してくれており,一つの教育実践例として研究すべき題材ではないかと思われるのである。

そういう意味では,道を修めるという体験談から学習法について学ぶという僕の目的にはうってつけの本であり,この本とめぐり合えたことは嬉しいことであった。

さて,本編はページ数にして53ページしかないのだが,著者のヘリゲル氏や,師匠である阿波範士のその後が気になった。
そんな読者のためを思ってか,旧版,新版それぞれにたいする訳者後記が情報を提供してくれる。

また,ヘリゲル氏と阿波範士との間の通訳を務めた小町谷操三氏の述懐は,本編第二章を補う貴重な資料であると同時に,大変読みやすく,二人の師弟愛というものを感じさせる胸温まるエピソードもあり,読んで楽しかった。

そこで紹介されたエピソードの一つに,ヘリゲル氏が阿波範士に聖フーベルツスを題材にした絵を贈ったとあり,本書の67ページにその絵の図版が採録されている。
"Hubertus" で画像検索をするとカラーの図が見つかった。
大変神秘的で美しい絵画であり,二人の師弟愛の深さが偲ばれ,この絵を見ると胸が熱くなって涙が出そうになる。

結局のところ,本書を読んで胸を強く打ったことは,神秘説,禅,弓道,哲学や,修業の苦労話といった内容ではなく,師弟の関係,あるいはその関係に見られた真心や優しさといったような人間性のようである。

そうして読後感として胸に残るのは,人の温かさであった。

それは,小町谷氏の文章と訳者後記から強く感じた印象ではあるが,それらをふまえた上で本編であるヘリゲル氏の真摯な,しかし冷静で淡々とした論述を振り返ってみると,かえってその感が強くなった。

なんというか,美しく,温かい一冊であった。
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やってみたいこと。

2011-05-26 23:17:20 | Weblog
バイクの免許を持っていないが,もしバイクに乗れるなら,やってみたいことがある。

アメリカンのバイクには,ノーヘルで髪をなびかせながらまっすぐな道を走り抜けるというイメージがないだろうか。

日本だったら,半ヘルにサングラスが定番だと思う。


そこで,である。


レーサーレプリカに乗るときのようなフルフェイスのヘルメットを被って「ど」アメリカンな単車に乗るのはどうだろう。
さらにレーサーが着るようなウェアにすれば完璧である。


こんなくだらないことを思いついたのは昨日のことだったと思うが,今朝,実質的にフルフェイスといってよいようなヘルメットを被ったアメリカンバイク乗りを見かけてしまった。


すでに実践している人がいるようでは面白みは半減してしまう。

なので,オフロード車用の装束でアメリカンに乗るという夢に変更しようと思う。
ちゃんとひじやすねなどにプロテクターをつけてね。
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内積や外積の割り算について。(外積編)

2011-05-25 23:41:46 | mathematics
外積の場合は,a×x=1 という方程式を考えようにも,右辺の "1" が何を意味するかが不明である。
左辺はベクトルだから,右辺の "1" も何らかのベクトルを表すはずだが,どんなベクトルだろうか?

なお,外積においては,数の掛け算における数字の1や,行列の積における単位行列に相当する「単位元」は存在しない。
すなわち,どんなベクトル a に対しても必ず a×e=a となるようなベクトル(「右単位元」) e は存在しないのである。(もちろん e×a=a が必ず成り立つような「左単位元」 e もない。)

ところが,授業である問題を扱ったとき,あるアイデアがひらめいた。

その問題とは,次のようなものである。

a と b がいずれも単位ベクトルで,互いに垂直であるとき,c=a×b とおくと,b×c=a が成り立つことを示せ。

ここで示せといっていることは,
b×(a×b)=a
であることである。

これは,不正確な言い方ではあるが,「a に b を外積したものにさらに b を外積すると a に戻る」ことを意味している。
(ちなみに,上の等式から,d×(b×a)=a を満たすベクトル d としては,-b があることがわかる。)


これは外積の逆元を考える上で大きなヒントを与えてくれることに(問題を解説しているときに)気づいた。

つまり,普通の数においては s-1(st)=t という等式が常に成り立つことを考えると,外積についても,例えば,任意の a に対して u×(b×a)=a を成り立たせるようなベクトル u が,b の「外逆(そとぎゃく;外積に関する逆元を仮にこう呼ぶことにする)」であるとみなしてよいだろう。
そうすれば,例えば方程式 a×x=b を解こうと思ったら,a が外逆を持てば,それを c とおくとき,c×(a×x)=x なので,方程式の両辺の左から c を外積して x=c×b と解けることになる。

この問題に関する考察はまだ途中であるが,現時点では次のことまではわかった。

b と a はどちらも零ベクトルではなく,しかも平行ではないとき,
c×(b×a)=a
を満たすベクトル c の一例として,c=a×(b×a) がある。
しかしこれは a の要素までも含んでしまうので,「b の逆元」と呼べるようなシロモノではない。
その点に不満が大いに残るので,a を含まない表現があるかどうかを調べるのが今後の課題である。
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内積や外積の割り算について。(内積編)

2011-05-25 01:04:30 | mathematics
内積にしろ,外積にしろ,どちらも零ベクトルではないのに,積の結果が 0 や零ベクトルになってしまう『零因子』があるため,普通の数の割り算のような意味での除法というのは定義できないと思われるが,除法もどきはいろいろ考えられるかもしれない。

数の除法(割り算)は,乗法(掛け算)の逆の計算であるが,そもそもそれはどういう意味なのかをちゃんと反省しておく必要があるだろう。


ここでは,0 でない数 a の逆数とは方程式 ax=1 の解 x のことであり,
「a の逆数をかける」=「a を掛けることの逆の操作」=「a で割る」
ということだと了解することにしよう。


この,数の世界における逆数の概念をベクトルの世界にも導入しようとすると,方程式 ax=1 の右辺の 1 に相当するものは何か,という難しい問題が生じる。


まず内積について考えてみよう。

内積の場合は,方程式の右辺を,ふつうの数の 1 にしてしまうというのが一つの考え方かもしれない。

零ベクトルではないベクトル a に対し,方程式
a•x=1
を満たす x を a の「内逆(うちぎゃく)」とでも呼ぶことにしよう。

もちろん,このような x は,もしあったとしても1つだけではない。
たとえば,ベクトル b が a•b=1 を満たすとき,a と垂直なベクトル c について,
a•(b+c)=a•b+a•c=1+0=1
となるので,b+c も方程式 a•x=1 の解になってしまう。

そういうわけで,できれば x にもう少し条件を課して一つだけのベクトルに絞りたいのであるが,そのような方法として思いついたことが2つあるので紹介しておく。

1つめは「条件」とは違うが,よくよく考えると,a•x=1 の自明といっても良い解がすぐに見つかり,それは x=a/|a|2 なので,これを内逆と定義するというやり方である。

2つめは,a•x=1 の解 x のうち,|x| が最小のものだけを内逆と呼ぶことにする,というやり方である。
ただ,このアイデアについては全く吟味していないので,|x| が最小となるような x が複数あるという不具合があるかもしれないし,このような x は実は a/|a|2 に限るということが示せてしまい,結局,上に1つめのアイデアとしてあげたものと同じことになるというオチかもしれない。

ところで,ここまで書いておいてなんだが,
「a で割る」=「a の内逆を掛ける」
という意味に解したとき,a の内逆を掛けるというのは,内積なのか,だとしたら何に掛けるのか,というような疑問が噴出する。
a で割るという操作が必要とされるのは,0 でない実数 b に対して,方程式 a•x=b を解くというシチュエーションかもしれない。
この両辺を『割って』x=○○○ のように答えが出てくる,という計算を期待しているわけである。

例えば a の内逆を a/|a|2 と定義する流儀であれば,この方程式を
(a/b)•x=1 と変形した場合,x は a/b の内逆だから,
解は x=(a/b)/|a/b|2=ba/|a|2 となる。

この答えは,方程式を a•(x/b)=1 と変形したと思って導かれる x/b=a/|a|2 という計算過程によってもたどり着く。

とうわけで,内逆を何にどう掛けるかというと,内逆のベクトルを方程式の右辺のスカラーにベクトルとして掛ける(ベクトルのスカラー倍の計算という意味に解釈する)ということに落ち着いたわけである。


このような除法にどれほどの実用的な価値があるかどうかは不明だが,僕に思いつくのはこの程度の内容だけである。
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<読書感想文1106>「あっ、忘れてた」はなぜ起こる

2011-05-24 19:58:36 | 
梅田 聡,「あっ、忘れてた」はなぜ起こる 心理学と脳科学からせまる,岩波科学ライブラリー133,2007.


この本のことを忘れることはできないだろう。
なぜなら,この本を入れたカバンをうっかり電車の網棚に置き忘れたという苦い経験をしたからである。


ある時刻にあることをしなければならなかった。そのことは前もってわかっていたはずなのに,そのときに思い出すことができなかった。
その後でそのことを思い出し,「あっ,忘れてた!」と思う。

そんな経験は誰しもしたことがあるに違いない。

それほどまでに身近な経験を研究テーマにするというのは非常によい目の付け所だと思う。

ただし,身近だからといって簡単なわけではなく,結局のところ,こうした『想起の失敗』のメカニズムはまだ完全に解明されてはいないようである。

本書はこの現象をめぐる研究に関する最新の結果の報告である。


本書の中で「最も役に立つ」のは第5章であろう。
そこにはし忘れを防ぐための心得がいくつか述べられている。

とはいえ,「し忘れ」や「ど忘れ」の『目からウロコ』な分析から始まり,非常に面白い最新の研究結果が紹介されている第1章から第4章こそが,やはり本書の「最も役に立つ」部分ではないかと思う。

第1章では,思い出すという行為に関するエラーを,「し忘れ」,「し間違い」,「ど忘れ」などに分類し,それぞれのエラーの違いについて目からウロコな分析が披露されている。
各エラーの違いを際立たせるために,本章の記述はかなり工夫されている。
その説明は初め読んだときには見事な手品を見せられた気分で,非常に感心したと同時に腑に落ちないもやもやした気持ちにとらわれたが,少し考えたおかげで「タネ」を見抜くことができた。
ただ,その手品は鮮やかで実に楽しい体験であった。

この本で取り上げられるのは,必要なときにすべきことを思い出せなかった「し忘れ」である。
それは未来にすべきことに関する記憶,すなわち「展望記憶」に関するミスである。

第2章で,展望記憶に関する詳しい分析がなされる。
なぜ人はすべきだったことを正しいタイミングで思い出すことが出来るのか?
心理学者による「意図が生み出す緊張」という概念や,ツァイガルニーク効果というものは初耳で,面白そうであった。

また,心理学者のウィリアム・ジェイムスが提唱したとされる身体反応先行説,つまり,悲しいから涙が出るのではなく,涙が出るから悲しいのだという,日常感覚とは真逆な説も初めて知った。これまでの生理心理学の研究結果や,最近の脳科学の研究結果により,この説は裏付けられつつあるとのことで,広く学界で受け入れられているそうである。それは全く知らなかった。

ただ,僕が思うに,感情が実際に表出する方が身体反応や脳の反応よりも時間が掛かるため,これらの元となる反応は同時に生じるのだが,検出されるのが身体・脳の反応が先で,その後に感情の表出という順番になってしまうため,あたかも涙が出るから悲しいと感じるというような因果関係があるように見えるだけなのではないだろうか。
もっとも,こういう仮説を立てるのは自由だが,大事なことはその仮説を支持するような実験結果を得ることであって,そのような裏付けなしにはこの説はなんの価値も持たない。

なお,展望記憶は経験で培われた「スキル化された記憶」が担う側面も多く,また,手帳などの記憶補助を効果的に使うことにより,年齢を重ねても衰えないそうである。
コツは,『定期的に』スケジュール帳をチェックすることだそうだ。
何かの予定を調べるついでに他の予定も調べるのではなく,例えば昼休みに必ず予定を確認したり,帰り際にも確認したりというような,定期的なスケジュールのチェックが「し忘れ」防止に効果的らしい。

これらの点は,展望記憶というものが,何かを暗記するといった記憶力とはかなり質のことなるものだという思いを強くさせる。


第3章が本書の中心と言えるだろう。
「し忘れ」を科学的に分析するためには実験が欠かせない。
では,「し忘れ」を理解するために役立つような実験をどうデザインすればよいか?
これは難問であると同時に,うまい実験を工夫するというのは研究者の腕の見せ所でもあるだろう。
つまり,「し忘れ」という現象を浮き彫りにするようなよい実験を考案することが,研究の醍醐味ではないだろうか。

実験を考案するためには,「し忘れ」現象の何を見たいのか,ターゲットを絞る必要がある。
それには,「し忘れ」とは何なのか,改めてよく考える必要がある。

この章で筆者は「し忘れ」とは「存在想起の失敗」と「内容想起の失敗」の2種類がある,という分析を紹介している。
つまり,ある予定が実行できなかったというのは,予定そのものをすっかり忘れていたのか,何かをやるんだったかは覚えていたが,何をするのだったかを思い出せなかったのか,そのいずれかに分けられるというのである。

言われてみれば確かにそうであり,これら2つのミスは質も違うように思われる。
最近僕は部屋に入ったときに何を取りに来たのか忘れることが多く,「内容想起の失敗」をよくするようになった。
これは一体何が問題なのだろうか。それはそれで気になるところである。

おそらく,これは脳のリソースが問題なのだと思うのだが,どうだろうか。
つまり,他ごとに気を取られていると,思い出すタイミングや内容を忘れてしまうのではないか,ということである。
ある事柄に集中していたら,当然他ごとを思い出すのは難しいだろう。
こういった点も「し忘れ」研究に必要な視点だと思われる。

それにしても,なぜ「あっ,忘れてた!」と思うのだろうか。
この感覚はかなり強い,独特のものである。
「あっ,なるほど!」という強い納得とどこかよく似ている。
この感覚を味わっているときの脳の様子も,誰か調べてくれないだろうか?
「あっ,しまった!」という感情でもよい。

なお,脳をシステムととらえる立場では,何かが入力(刺激)となってすべきことが思い出される(ポップアップする)という「ポップアップ現象」が起こると考えるわけだが,その刺激が何かがわからないとのことである。
その刺激は外から受けるものではなく,脳の内部で入力が突如出現したものなのかもしれない。
しかし,もしそうだとすると,それ自体,つまり入力そのものがポップアップしたわけで,ではそのきっかけとなった入力はなんだったか,といういたちごっこが始まってしまう。

というわけで,僕はタイマーのような機能が脳に備わっているのではないかと考えている。
あるいは,脳を入力に対して出力するシステムととらえるのではなく,もっと別の機構として捉える必要があるのではないかと思う。

ともかく,脳がシステムだとしたら,何が入力なのかがよくわからないところが,入力と出力をコントロールして現象を捉える『実験』という手法にそぐわず,そのことが「し忘れ」を実験的に再現する困難の原因とのことである。


第4章ではfMRIなどによる脳の解析からのアプローチが検討されているが,「個性のわかる脳科学」で出てきたVBM解析という解析手法も取り入れたらどうなるのだろうか。面白そうだと思うのだが。

脳の損傷による健忘症の人たちと認知症の人たちの間に見られる展望記憶の障害の性質の違いを実験的に調べることにより,存在想起と内容想起をそれぞれ担う脳の部位が異なることが示唆されたとのことである。

フォールスメモリというものの研究が紹介されているのだが,そこでは意識的には間違いに気づいていなくても,脳自身は間違いに気づいているという非常に興味深い現象が述べられており,脳というのはすごいなぁとつくづく感慨にふけった。
「第1感」の話と何らかの関連があるのではないだろうか。
説明はできないのだけれど,何かがおかしい。違和感がある。
それはつまり,気づいている脳と,気づいていない意識との間のずれが違和感として認識されているということなのではないだろうか。
脳は意識しているよりも多くのことを判断しているということである。
そしてその判断は必ずしも意識に上るわけではないし,その判断がそのまま意識に上るわけでもないようである。
これは意識研究の面からも非常に興味深い研究テーマではないだろうか。

記憶力回復のためのリハビリテーションにおいてとられるアプローチのうち,4種類が紹介されていて興味深かった。
その中に「誤りなし学習法」という,学習訓練において有効な手法がある。
僕の宿題の問題などは逆に「謝りだらけ学習訓練」なので効率が悪いらしい。
それはちょっと無視できない問題なので,きちんと対策をとらないといけないだろう。

タルヴィングという人が1983年に提唱したという「検索モード」という概念は面白そうだ。



面白い実験のアイデアをひっさげてこの分野に参入できたらきっと爽快であろう。
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<読書感想文1105>個性のわかる脳科学

2011-05-24 18:52:59 | 
金井良太,個性のわかる脳科学,岩波科学ライブラリー171,2010.


題名に惹かれて読んでみた。
本書は,新進気鋭の若手脳研究者による最新の脳研究成果の紹介である。

3ヵ月ほど前に読んだ本なので,もうだいぶ内容は忘れてしまった。


第1章では,意識の研究を専門としてきた筆者が,いつの間にやら社会神経科学にシフトしていたという,研究遍歴の分析が述べられる。
筆者のこれまでの研究の単なる振り返りに過ぎず,正直なところどうでもよい話であった。
筆者が意識を研究していようが,脳の社会性を研究していようが,素人の一読者である僕には何ら関係ないからである。
『幸せはいつもちょっと先にある』という気になる題名の本について言及されているが,機会があれば読んでみたい。

第2章では,顔の認識が出来なかったり,計算が出来ないといった障害を持つ人たちの脳について述べられている。
ここでは,最近の脳研究で主流であるというMRIではなく,灰白質の量の違いを調べるVBM解析という手法が紹介されている。
これは脳の作りの細かい差異を見るのではなく,どの部位がよく発達しているかというおおまかな区別を見いだすための手段のように思われる。
このような分析手法を使って,効果的な学習方法の研究をすべきではないかということも考えた。
あることが上手な達人の脳と似た特徴を持った脳を育てるようなトレーニング法を編み出すために,学習者の脳をVBM解析等でモニタリングしてはどうかということである。
ペーパーテスト等の目に見える形でのアウトプットだけではなく,脳の部位の発達具合もトレーニング効果を計る指標に組み入れるべきではないだろうか。

第3章では,脳のMRI画像等を見ただけで,その脳の持ち主の性格などがわかるかという面白い問題提起がなされている。
最初の授業の最初の30秒だけで,教師の良し悪しが判別できてしまうという話のソースとして『第1感―「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』という実に面白そうな本が紹介されていたので,こちらは買ってしまった。せっかく買ったのにもったいなくてまだ読んでいないので,そろそろ読もうっと。

第4章では,脳に電気刺激等を外部から与えることにより,記憶力などの脳の機能を高めることに関する最新の研究結果が紹介されている。
まだまだ一般人が気楽に利用できるレベルにはほど遠いようだが,このSFのような話もそう遠い未来のことではないのかもしれない。
刺激の仕方として,電気刺激と磁気刺激があるというのは興味深い話であった。


第5章では意識とメタ認知に関する最新の研究が紹介されている。
僕が中学生のとき,数学の教師が「リンゴが赤いというが,僕が感じている赤と,君たちのいう赤とが同じものかどうかは確かめるすべはない」という趣旨のことを言っていた。このように,人それぞれが感じている「赤い色」のようなものをクオリアというそうである。その話を聞いた後だったか,それともそれより前だったかは忘れたが,僕が見ている親の顔や自分の顔が,他の人から見たら他の形に見えているのかもしれないと考えたら,とてつもない孤独感を覚えたものである。
僕が感じていることを100%他人に伝えることはできないし,逆に誰かが感じている感覚を僕が100%理解することは不可能なのだと気づくということは,自分と,その周りの世界との間の深い溝の存在をくっきりと浮かび上がらせるため,強い孤独感を生み出すのだろう。

自己評価の際によく見られる「平均以上効果」というものがあるという話は面白かった。

第6章では睡眠の効能に関する最新の知見が語られている。
僕は寝るのが好きなので,今後も有効な理論武装としてこの章の内容はよく勉強しておきたいものである。

第7章では孤独感について述べられている。
ここでいう孤独感というのは,客観的に見てその人が社会的に孤立しているかどうかとはあまり関係のない,その人本人が自分が孤独であると感じているという,主観的な感覚のことである。
孤独感が強いと,人はチョコレートのような脂質の多い食べ物を摂ってしまいがちなのだそうだ。気をつけないといけない。

第8章では,社会性と脳について書かれている。
自分が自分に対して抱いている自己像と,他者が自分について抱いているイメージとのギャップを明らかにする「ジョハリの窓」という面白そうな話があった。


全体的に,最新の研究成果をさも確立された科学理論のように紹介するのではなく,どのような条件下で得られた実験結果なのか,といったきちんとした制限もはっきりわかるように良心的に書かれているため,面白そうなことばかりを集め,しかもそれらが確立された事実であるかのように誇張するような書き方ではないので,勢いというか,面白みにかける憾みはあるが,そのような執筆姿勢は悪いわけではなく,むしろこのような最先端の研究成果を紹介する書物としてはそうあらねばならない態度であろう。
そのような堅実かつ慎重な筆致ではあるものの,研究分野そのものがもっている魅力によって,各章に1つくらいは,もっと知りたいと思うような面白そうな話題を見つけることが出来た。
巻末には本文で紹介された実験の原論文が参考文献としてあげられているので,脳科学をこれから専攻しようという人たちにとっては,ネタ帳として本書が役に立つかもしれない。


ぜひこのような脳科学の最新の動向を踏まえた学習理論も創始され,発展していくことを期待したい。
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梅雨は近い。

2011-05-24 11:02:28 | Weblog
昨夜からずっと雨が降り続いている。梅雨はもうすぐそこまできているようだ。

昨日通りがかった民家の壁に小さなカタツムリがいた。
これからしばらくは彼らの季節であるが,『カタツムリ』という字を見ると,どうしてもそれに呼応して『龍族の天才児』という言葉を思い出してしまう。一体なんのビョーキだろうか。
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