担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

力積とか運動エネルギーとか角運動量とかに関する断想。

2024-05-26 19:10:11 | physics
久々に「力積」という言葉を耳にした。懐かしく感じた。

いわゆる Newton 力学での質点の運動は,Newton 方程式

ma=f

によって記述されるという。

もちろん,これは慣性系においてのみ成り立つ,という但し書きが付く。

いきなりわき道に逸れるが,その「慣性系」とやらの定義は難しいのではないかと思われる。

数学の公理論的な扱いに従うと,「慣性系」というのは無定義語として扱う他ないのではなかろうか。

その話はおいておいて,Newton 方程式に戻ろう。

これは質点の運動の時間発展を記述する微分方程式であるが,そういえば左辺の物理量には特別な名前が無いように思われる。

あと,質量 m の役割は,ここでは同じ力であっても,質点の速度変化に及ぼす影響が質量によって異なる,といった効果をもたらすもの,という観点に立つと,質量の逆数 1/m を前面に押し出した

a=(1/m)f

の形式の方が適当ではないかという気がしないでもない。

この形式ならば,力の大きさが同じであれば,質量が大きいほど質点は加速されにくい,という解釈がしやすいであろう。

ただし,これだと左辺と右辺のどちらにも質点に固有の物理量が散らばり,却って現象を理解し辛くするきらいがあるかもしれない。

実際,現代物理学においては運動方程式といえば最初に提示した方を指すのが普通である。

そして ma は,運動量と特別な名前を与えられた p:=mv の時間変化率と捉えられる。

量子力学に至っては,運動量は位置 r と対をなす基本的な物理量として認識されている。

場の理論に至っては,「場の運動量」なる概念まで現れる始末であるから,「物理学は運動量が大好きなんですね~」と言っても物理屋さんに怒られることはないであろう。

さて,件の力積であるが,質量 m が時間に関して一定であるという仮定の下で,運動方程式の両辺を直に時間変数 t で積分することで,

pafter-pbefore=∫fdt

のように表されることになる。あるいは,微分形で

dp=fdt

のように書き,右辺を時間 dt 内に力が質点に及ぼした力積と名付け,それが質点の運動量の変化量に等しい,と言い表される。

そういうわけで,質点の運動の変化を知りたければ,力の及ぼした力積を求めよ,というスローガンが確立される。

これはベクトル量のまま,微分されたものを積分しただけなので,元の運動方程式と論理的に等価であるといえる。


それに対して,力学的エネルギーの変化量に関する等式を導く操作は,運動方程式の両辺に速度 v を内積してスカラー量に落としてしまってから時間に関する積分を行う。

これを積分手前の微分の等式で表すと

(1/2m)dp^2=f•vdt

となるが,右辺の vdt は変位 dr と書き換えられるため,

d(1/2m)p^2=f•dr

のようになる。ここで,左辺に 1/m がはみ出してきたところが気にならなくもないが,それもここではスルースキルを発揮することとして,左辺には質点の運動エネルギーの変化量という新しい名前が付けられ,右辺には「力の場」の中で質点が dr だけ変位した時に「力が質点になした仕事」という,これまた新しい呼び名が与えられることとなる。

なお,こうした新概念を導入していく行き方は,数学では考えられない事態である。

例えば質点の速度は位置の時間変数に関する導関数であり,加速度は第 2 次導関数に過ぎない。これらに与えるべき特別な名称は数学が提供する語彙には見当たらないのである。

物理学では仕事率と呼ばれる f•v というものも,数学的には単にベクトル値関数 f と,ベクトル値関数 r の導関数との内積であるとしか言い表しようがない。

物理学においてはわざわざ導関数などに特別な思いを込めた名付けを行うことで「物理学的世界観」を色付けしていくわけである。

そしてどういった物理量に新しい「色」を付けるかについては,それが物理学的な世界を記述するのにどの程度有用であるかという指標が当然のことながら重要となる。

現在生き残っている古典物理学の基本的な用語は,特に 18 世紀と 19 世紀の理論の発展の過程で淘汰され,洗練された「物理学語」の結晶であると言えるが,それは同時に,物理学を駆使する者たちに対する足かせともなっていることであろう。それがどの程度物理理論の発展に影響を与えているのかは,こんなことは今初めて思いついたばかりなので,私には何一つわからない。

こんな風に運動方程式をあれこれ数学的に合法な操作でいじっていけば,他にもたくさん物理的に意味のある新しい物理量が見出されるかもしれない,とわくわくしてくる。

そんな物理量の一つは,3 次元 Euclid 空間のみの特権といえる,ベクトルの外積(ベクトル積,クロス積とも呼ばれるが,どうやらクロス積という呼び方が一番無難らしい。だが,ここでは内積と対にしてあえて外積と呼ばせていただく)という計算操作によって見出すことができる。

先ほどは内積を試してみたわけだが,ならば外積はどうだ,というわけである。安直であるが,こういう行き方もまたアリではなかろうか。

外積には掛け算の順序がある。いつの頃からか,r×p のような順番が標準となった。主に Hamilton の四元数の理論から内積と外積の概念を分離・抽出し,19 世紀末にほぼ完成形となっていた古典力学を中心にベクトルを用いた記述を試みた Gibbs あたりが嚆矢であろうと思われる。Heaviside はおそらく力学にはほとんど言及せずに電磁気学の理論の記述にベクトル記法を用いていたのではなかろうか。

位置を運動量の左から外積した L:=r×p は運動量のモーメントという位置付けであるが,それは固有の名称を持ち,角運動量と称される。

ちなみに,日本語では運動量とだけいうが,英語では linear momentum という。角運動量は angular momentum である。なぜ角運動量を <strogn>L と表したりするのかは謎である。それだとどちらかというと linear momentum っぽいではないか。それをいうなら,そもそも運動量をなぜ p で表すのか,そこから反省せねばなるまい。

運動量の方を線運動量とでもいうべきであろうと思うのだが,おそらく日本が欧米に近代科学を学んだ時期にいろいろ邦語での術語が提案されたことであろうが,今では「運動量」としかいわない。

そして憶測に憶測を重ねれば,運動量の方がまず先にあって,角運動量の方はそれから派生した「副概念」という格付けが背景にあるのやもしれぬ。

ところで,モーメントはかつて「能率」という語が用いられていたはずであるが,片仮名で「モーメント」と書かれるのが今や主流と思われる。

ちなみに,能率であろうがモーメントであろうが,私にはいま一つピンと来ない,よくわからない用語・概念である。

それはともかくとして,運動方程式の両辺に r を外積する,というのとはちょっと異なるのだが,どちらかというと r×p を時間変数 t で微分すると,平行なベクトル同士の外積はズィロゥ・ヴェクター (zero vector) になるという特殊事情により,その導関数は元来積の微分規則によって 2 種類の項の和になるはずが,項が一つ消滅してしまい,r×dp/dt だけになってしまう。

これと運動方程式 dp/dt=f とを合わせると,角運動量の時間変化率は力のモーメント N:=r×f に等しい,という「定理」が得られる。

これは,そう,運動方程式と外積や微分といった数学的な計算規則から導き出される数学的な定理なのである。だが,物理学においてはこれは「法則」として認識されているのではあるまいか。

あ,そういえばモーメント類は自由な雰囲気の速度ヴェクターを用いるのではなくて,縛られている感じの位置ヴェクターを使用して定義されるため,「どこを位置ヴェクターの原点に取ったか」という情報も明記しなければならない。つまり,座標原点を取り換える観測者の視点の切り替えに左右されてしまう物理量なのである。

そもそも力なるものも,実際には「作用点」に働く作用であるはずだから,なんとなく自由ではなくて束縛されている感じのヴェクター量に思えるのだが,着目している質点に突き刺さっている,もしくはそこから生えている力 f は,観測者が座標原点の位置をずらしたとしても,ある意味質点に張り付いたまま一緒に平行移動するため,座標原点のずらしの影響を受けないと考えるもののようである。

物理学者のいうヴェクターというのは,数学の線型代数に出てくるヴェクターほど単純な代物ではなく,ある意味,複雑怪奇な概念に思えて仕方がない。そのため,位置ヴェクターやら速度ヴェクターやらと,やたらと「ヴェクター」を使うのはやめて,単に位置,速度と言い表した方が良いように思う。

そこら辺も高校でヴェクターを習って以来,ずーーーーーーっともやもやし続けているので,死ぬまでに一度は本気で交通整理を試みたいテーマである。

そういう意味では,Hamilton の四元数の Lectures あたりに一度は目を通す必要があるように思っている。と思いながら全然読んでいないのだが。

運動エネルギーの変化率と力のした仕事の関係を得たときは内積でベクトル量をスカラー量に落としたため,ベクトルに内在した「向き」という情報が完全に欠落した。

角運動量などのモーメントを考える際も,位置ヴェクターに平行な成分の情報は落とされる。

ところで,ちょっと気になることなのだが,運動エネルギーと角運動量を知れば運動量が完全に再現されるであろうか,ということである。

ところが,残念なことに,

・運動エネルギーは,運動量と運動量の内積の情報で出来ている。

・角運動量は,位置と運動量の外積で出来ている。

という状況であって,どちらも素材に運動量を用いているものの,内積するヴェクターと外積するヴェクターとして別のものを用いてしまっている。

これは実に遺憾である。もはや物理から離れて数学的な整合性のみを重視するならば,

運動量&bullet;運動量,

運動量×運動量

などにすべきであるが,後者は常にズィロゥ・ヴェクターであって,無意味になってしまう。

ぐぬぬ・・・。

では,

位置&bullet;運動量,

位置×運動量

としてはどうであろうか?

前者の物理学的な意義は不明である。せっかく運動エネルギーが座標原点の取り換えに関して不変であったのに,その利点を失うこととなってしまう。

運動エネルギーと角運動量を同格の物理量として再定義しようという試みはあっさりと潰えてしまった。

これはこれで悔しいし,残念なことである。

運動方程式から派生した運動エネルギーの変化率と角運動量の変化率に関する「定理」から,逆に運動方程式を再生する試みについては,まだ全然真面目に考えていないので考察はここまでである。

こういった観点で力学の基本法則を見直してみるのもまた一興ではないかな,なんて考えてみたり,みなかったり。

あと,これら以外の運動方程式の「いじり方」があるのかないのかについては,解析力学や,そういった枠組みの中で変分原理によって浮かび上がる Noether の定理という奥深い理論が(おそらく完全な)解答を与えてくれるに違いない。
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エネルギーと力のモーメント。

2024-05-05 21:08:44 | physics
産総研が配布している SI 単位系の布教パンフレットをざらっと眺めていたら,力のモーメントの単位は SI では N・m であって,これはエネルギーの単位 J と次元が同じだけれども,力のモーメントの方を J と書くことはありません,みたいな注意が書かれていた。

確かに!

言われてみればそうかも~!

物理量としての次元が同じであったとしても,出どころというか,使いどころというか,両者は別物だもんねぇ。

これはベクトルで考えるとしっくりくる。というか,ごまかせそうである。

力がどういった意味でベクトル量なのか私は最近わからなくて悩んでいるのだが,それはともかくとして,それが動点から生えているとして,動点から生えているもう一つのベクトルである変位と力の,いわば互いに平行な成分同士の積が力学的な仕事であり,それをなすのに必要なエネルギーである。それに対して,物体の回転運動にもたらす力の効果を表す力のモーメントの方は,変位と力の互いに直交する成分同士の積に相当する。前者がいわゆる内積であり,後者はいわゆる外積とかベクトル積とかクロス積と呼ばれるアレである。

前者は余弦で後者は正弦,あるいは Hestenes らの幾何代数 (geometric algebra) でいうところの正射影 (projection) と反射影 (rejection) である。つまるところ,ヨコ成分を使うか,タテ成分を使うかの違いがあるのである。

物理量たちが作る代数系についても不勉強でまるでわかっていないのだが,こういったそもそもの物理量としての平行成分と垂直成分のような区分も単位演算の体系に取り込めないものだろうか。それとも,それは単位の体系ではなく,物理理論本体の方で展開すべき事柄であろうか。

なお,同じ単位に属する量の間には加法というか,和が定義されるのが普通である。同じ次元の量同士の積も,力学理論に限っても当然のように現れる。問題なのは,掛け算までしかできない環 (ring, algebra) なのではなくて,除法も当たり前のようにじゃんじゃん現れる体 (field) だということである。結構独特な数学的構造を醸しているように思われるので,私にはよくわからないのである。

ところで,反射影 (rejection) という用語に対しても思うところがある。否決とか拒絶といったキツい意味を連想させる rejection ではなくて,もっと柔らかい cojection「余射影」なんかの方がよかったんじゃないかなぁ。cojection なる単語は造語である。だからこそよい,という感覚は一時代前の日本人のそれであろうか。
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教え方の参考になりそうな資料。

2024-05-05 20:28:13 | Weblog

新興社啓林館の河合塾・大竹先生による先生方のための徹底入試対策講座は実に 139 回分もの記事が掲載されていて,いろいろと参考になりそうである。

 

そのサイトは高校数学における複素数の極形式とはどういうものかを確認しようとあれこれ調べていた際にヒットした。

 

学生の指導の仕方というか,教え方というか,学生に分かってもらえるような話し方などについては,大島利雄先生の大学における数学教育の問題点と工夫という論説も最近見つけた。こちらは冒頭から読み続けるのが辛くなってくるようなエピソードに満ち満ちていて,読んでいて辛くなってくる。だからあまり読み進めていない。最初の部分は大島先生ご自身の学生とのやりとりの例があれこれ出てくるのだが,似たような経験は私もたくさん心当たりがあるので,読んでいて「わかりみ~」と共感しか覚えないのだが,そういった現実をあらためて突きつけられるのが辛くもある。

そういう意味ではファインマンさん本のどれかに書いてあったブラジルの学生の物理の学び方についての感想や,深谷賢治先生の『数学者の視点』で語られているアメリカの大学で教鞭をとった際の体験談(3 クッキングコース)など,ある時代の海外の一大学の実態とはいえ,直視するのが辛い現実の報告の例であり。似た話は現在では枚挙に暇がないであろう。

 

この記事を書くにあたって大島先生の資料を再検索したところ,相転移 P 氏のアーカイブコンテンツに,彼自身が体験した思い出と共に紹介されているのを見つけた。

 

彼とはもうかれこれ二十年は会っていないのだが,元気でやっているだろうか。ぜひともそうであって欲しいものだ。

そういえば,肝心の極形式というのは,複素数 z を z=|z|cis(arg(z))

のような形式で書いたものだそうだ。|z| を r,arg(z) を θ のようにおなじみの記号で書けば z=r(cosθ+i sinθ) のことである。この括弧の中身をコンパクトに cisθ と表すのは,私が知らないだけかもしれないが,日本では全く見かけない。19 世紀前半のアイルランドでは Hamilton がその著書だか論文だかで「この頃は cisθ のように書くことがある」みたいなことを述べているそうなので,このセンス抜群の略記法は Hamilton よりも前の世代に遡れるものらしい。19 世紀の前半以前であれば Cajori の本でカバーされているはずなので,機会があったら探してみよう。日本で cis を導入するとしたら高校の「複素数平面」の単元しかない。大学に進学するとたいてい 1 年次の微分積分学の講義で Taylor 展開やら MacLaurin 展開を習った際,Euler の公式も紹介されるであろうから,それ以降は極形式を z=re と書けば済む話となり,cis の出番がなくなってしまう。

電気回路理論においては z=r∠θ のようにも書くそうだ。これは極座標を,2 つの実数の組だということで,数学の正規の記法に従い,(r,θ) と記すより好ましいと思う。ちなみに,角を表す記号 ∠ は日本の初等教育で使われているが,世界標準を謳う ISO やそれを翻訳しただけの JIS では扇形みたいな見かけの記号を使うことになっている。それは Unicode に取り入れられているのだが,こうしてブログで書こうとすると環境依存の記号扱いになってしまう。古いブラウザだったりすると ∢ は表示されないのかもしれない。扇形というよりもヒトの顔を横から見たときの目にそっくりである。目玉のおやじは瞼がないので,目玉のおやじの横顔とは似ても似つかない。

ところで,r∠θ という記法はすぐれていると思うのだが,ISO 流に偏角として負の角である単位円の下半周と,正の角である上半周を合わせた -π<θ≦π の方を採用すると,θ に符号がつくときにどう書くのか,ちょっと気になるところである。√3 ∠ -π/3 なんていう書き方はアリなのかなぁ。電気工学で偏角をどのような一周にとるのか気になるところである。

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イプシロンではなくてエプシロン。

2024-05-04 14:25:05 | mathematics

大学以上の数学ではギリシャ文字をよく使う。

 

もちろん,物理学や化学など,他の理学分野でも多用される。

 

春先の新入生を悩ませるのが,それらギリシャ文字の,読み方よりもどちらかというと書き方である。

 

漢字には筆順という概念があり,小学校でひらがな,カタカナを含め,筆順が指導される。

 

ちなみに,漢字の故郷である中国でどの程度筆順が重視されているのか,非常に興味があるところであるが,全く知らない。

 

ともかく,日本ではそういった教育的な背景があり,英語のアルファベットも筆順を含めて指導を受けているはずである。

 

したがって,ギリシャ文字の書き方が気になるのは自然なことである。

 

現在は YouTube でネイティヴによるギリシャ文字の発音を音声で確認できるし,実際に筆を動かして書いている姿を動画で観ることができる。

 

私はちょうどコロナ禍の頃に,数学記号の世界標準を規定した ISO 80000-2:2019 で,自分が担当する科目においてなるべくそれに準拠した記法を用いるよう心掛けると共に,ギリシャ文字の読み方も英語読みではなく,ネイティヴに近いものを志向するようになった。

 

ちなみに,ギリシャ文字の字形や筆順は,私の手元にある日本人による 2 冊の解説書を見ても流儀の違いが見られる。最近になって YouTube でネイティヴの解説動画を数本視聴したが,やはり統一が取れていない。

 

したがって,新入生諸君に向けたアドヴァイスとしては,黒板に教員が書いたり,スライド資料やテキストで観るような活字に近い字体になるように意識して少しゆっくりめに丁寧に書き記せばそれで十分だとお伝えしたい。

 

活字の太字を手書きで再現するのが難しいため,アルファベットに数本,線の飾りを付け足して通常の細字体と区別する,いわゆる blackboard bold も,現在では LaTeX のみならず,Unicode で提供されたりして,活字の世界に逆輸入されている。

そちらについても,ヴェクターを高校で習ったばかりの,アルファベットのアタマに矢印 → を乗っけるスタイルではなく,旧態依然とした太字体を大学教員が使いたがるものだから,手書きのなんちゃって太字を上手に描くにはどうしたらいいですか,なんて質問も学生から受けることがある。

それもググれば日本人の先輩方がブログ記事等で手書きの太字アルファベット一覧の画像付きで解説してくれているので,そういったものを自分で探して参考にしていただければよい。ただ,私はさすがに Richard P. Feynman 氏のように「自分独自の記法を発案してもいいですよ!」(<a href="https://www.feynmanlectures.caltech.edu/II_02.html" target="_blank">You can invent your own!</a>) と学生にけしかける気はしないのだが。なお,Feynman 氏はヴェクターを活字では太字で,手書きで黒板に書いた際は上に矢印を付けていた。活版印刷の時代は,太字は活字フレンドリーであったが,矢印の方が手書きフレンドリーであった。Feynman 氏は上に矢印を付ける流儀を手書き用と考えていたようである。確かに,19 世紀末に Gibbs 氏と Heaviside 氏が現在も使われている形にヴェクター解析の記法を確立して以来,ヴェクターを表す活字は太字であって,それをわざわざ細字体の上に矢印を付す記法に変更する必要はなかったであろう。上に矢印の記法の方が,先に手書き界から活字界に逆輸入されたものと思われる。こういった記法の変遷についても Crowe 氏の ``A History of Vector Analysis'' に書かれているかもしれないが。

 

ギリシャ文字の発音の話に移ろう。

 

少なくとも,古代ギリシャ語風の発音,現代ギリシャ語の発音,そして英語風の読みの 3 種類がある。もちろん,他の言語独自の読みもあるに違いない。

 

そこで,ネイティヴの発音にこだわった場合,古代読みか現代読みのいずれに焦点を当てるべきかが悩ましい。

 

例えば β はかつてカタカナ表記のベータに近い発音だったそうだが,現代はヴィータ (veeta) に変わっている。

 

また,δ はデルタだったそうだが,現在はゼルタに近い,いわゆる濁った th 発音になっている。

 

他に,μ や ν はもともとミューやニューだったものが,ミー (me) と二― (knee) と発音する。

 

このように結構大きな変遷を経てしまっているので,どちらがよいのか悩んでしまう。

 

ところで,ネイティヴ発音の他に英語読みについて触れたのは,国際会議などにおいて英語で発表する際には英語読みに従った方が自然であろうという考えが背後にあったからである。

 

そのような配慮をした場合は,古代か現代かの問題に煩わされずに済むし,現在国際的に広く受け入れられていると思われる英語読みを身に付ける方が現実的であるということになるであろう。

 

こんな風に考えている最中であるため,私のギリシャ語の読みに関してはどうするかまだ方針がブレブレで定まっていないのである。

 

ただ,一つだけ強く主張したいことがある。

 

それは,日本独自の読みは控えようという提言である。

 

ε はエプシロンであってイプシロンではない。

 

いまだに初学者向けの入門書で ε の読みを「イプシロン」と表記している書籍が新たに出版され続けているが,微分演算子の &prime; をダッシュと読む旧弊と共に,令和の時代のうちに完全撤廃できないものかと画策している。

 

今のところ私にできることといえば,自分の教え子たちにそのことを訴え続けることしかできないが,高校の 2 年間ほどしか「ダッシュ」を使っていないはずにも関わらず,「プライム」読みへの改宗には全くと言ってよいほど成功していない。

 

けれども,あきらめることなく,希望を持ち続けて布教活動に勤しもうと決意を固くする次第である。

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