ちょうど一週間前に,雑誌「数学セミナー」のバックナンバーを調べて,「量の問題をめぐって」というシリーズ連載に出会ったことについて書いた。これはその続報である。
あれから一週間経つものの,まだちっとも肝心の文献を読んではいないが,ちらりと田村二郎氏が連載の結びとして書かれた「それでも量と数は違う」という太字の文言が目に飛び込んできて,この一週間の間,ずっと違和感と共に頭の中をグルグルしていたが,今日,図書館で借りてきた単行本「量と数の理論」の「はしがき」に目を通したとき,ようやく理解できた気がした。
そうだ,量と数は違う!
今では僕は違和感ではなく,心からこのスローガンに賛同している。
ちょうど一ヵ月ほど前に僕が達したある一つの理解は,まさにこの言葉に集約されているということにようやく気づいたのである。
ある性質を持った「量」たちに「実数値」を割り振る。それがその量の「測定」という行為に他ならない。
こう書くと実に当たり前のことだが,今まではこの事実を表面的に理解できていた(つもりな)だけだったことに気づいたのである。やっと腑に落ちたという気がする。
そして,ある「量」があったとき,それらを実数化することが出来るか(その「量」たちからなる集合から,実数の集合へのある種の同型写像があるかどうか),というのが測定の問題なのである。
このとき,それらの「量」が満たすべき性質,もっと具体的にいえば数学的な「公理」をどう規定するかが重要な問題として現れる。
これも当然と言えば当然だが,それらの性質が実数の性質と相性がよければ,それらの量を矛盾なく実数へと変換することが出来るが,相性が合わなければ整合性のある仕方で測定値を割り振ることは不可能になる。
こうした理論は,例えば量子力学における測定の概念とも関わりのあることだが,話は物理学に限ったことではない。ヒトの持つ主観的な観念なり感覚なりをどう数値化するかという,人文系の学問とも関連のある話である。
そういった意味で,量の理論は数学ではないというのが僕の到達した見解である。それは科学ですらない。
量の理論は数学や物理学,社会学や心理学などの学問領域の外,あるいは辺縁に位置するものであって,量の理論を研究するのは,科学基礎論というか,科学哲学というか,科学そのものの外にある,別の学問領域の範疇であるという気が強くしてきたのである。
このような理解があながち間違いでないことは,「量と数の理論」の「はしがき」において,H. Weyl の「数学と自然科学の哲学」という本について言及されていることからもなんとなく裏付けられているように思われる。
ちなみに,この本は持っているのでちらりと見てみたところ,今すぐ読まなければならないと思えるほどに,最近僕が気になっていることに密接なつながりがある話題に満ちているようだったが,そういえば,この本を数ヵ月前に手に取ったときは,読むのを先延ばしにしようと敢えて決意したことを思い出した。
(カッコつけてそんな決意をわざわざしなくとも,怠け者の僕はどうせ読みはしないのだが・・・。)
なぜそんな決意をしたかというと,ほぼ似たような話題を扱っていると思われる Poincaré の三部作(あるいは,せめて「科学と仮説」だけでも)を読むべきだと考えたからである。
どういうことかというと,どうせなら相対性理論の出現前に書かれた Poincaré や Mach の本と,出現後に書かれた Weyl の本を比較したいと,余計なことを考えたのである。
それならば時系列順に読む方が面白かろうということで,未だにろくに手をつけていない Poincaré の本を優先することにしたのだった。
ところが,よく考えてみると,Poincaré も数の話を深く取り上げているが,Dedekind の「数について」というエッセイに基づいた解説がなされているようなので,上の論理に基づけば,Poincaré よりも先に Dedekind を読まなければならないことになる。
それでもし Dedekind を読んだならば,今度は和製「量の理論」の道をたどることも可能になる。
それは,高木貞治の「数学雑談」(15年前に共立出版から復刻版が出版された;まだ入手可能かどうかは知らないが)の第4章「無理数」である。
そしてそれらをベースに南雲道夫氏による「南雲理論」が作られ,それは最終的に田村二郎氏の「量と数の理論」にも大きな影響を与えたとのことである。
これでようやく寄り道から本題に戻った。
南雲理論とは独立に,「数学セミナー」1977年7月号の特集をきっかけとする小島理論の展開があり,それら双方の影響を受けた田村理論を学ぶには,Weyl の本も経由しなければならないらしいので,なかなか道のりは遠い。
もちろん,小島理論を学ぶには,小島順氏の「線型代数」の教科書にも目を通しておくことが望ましいだろう。
と,ここまで書いてきて,ろくに数学の本や記事が読めない僕にとって,このような学習計画は全くの机上の空論だということに気がついた。
まあ,それはそれとして,こういう計画を立てているときが一番楽しいというのは世の中の真理の一つであろうから,もう少し続けることにする。
「数学セミナー」のバックナンバーの目次を公式サイトで調べてみたところ,少なくとも前回挙げたリストに次のものを付け加えなければならないことがわかった。
- 江沢洋,物理量ノート,1979年7月号,10月号と1980年2月号;
- 倉田令二朗,量の理論と諸問題,1980年5月号~8月号。
倉田令二朗氏の連載がこのシリーズの最後なのかもしれない。
壮大な内容のようなので,締めくくりにふさわしかったのだろうか。
またそのうち時間を作ってもう少し調べてみようとは思うが,問題提起からすでに丸3年が経過しているので,量の問題自体への関心が薄れて下火になってしまった可能性は高いと思う。
ただ,江沢氏と倉田氏は量子力学や熱力学などの物理理論における量について考察しているようであって,話題が広汎になりすぎて収拾がつかなくなったのかもしれない。
けれども,量と数の関係は科学の根底に横たわる基礎理論に関わる問題であるから,現代科学を担う我々にとっても無関係ではないし,むしろより考察を進めて発展させていくべき課題の一つであるように思われる。
そういうわけで,とても大きな風呂敷を広げられるところまで気分がノッて来たので,このテンションでもってすでに膨大な量になった文献を読破していきたいものである。
何しろ,前にも書いたかもしれないが,海外では Hölder を始祖の一人とする量と測定の理論の伝統があり,その流派に属すると思われる Suppes によれば,こうした話は Newton にまで遡れるというのだから,だんだん話はヤバくなってくるのである。
あるいは,ドイツ系の人々の理論の思想的な母体は Kant 哲学にあるようなので,Kant も読まなければならないという話に広がっていく。
これら,先人たちの業績も踏まえた上で,21世紀の「量の理論」を構築するのが,今では僕の壮大な夢の一つである。