日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ばぶる紳士はいつでもいる

2018年05月17日 | Weblog
ばぶる紳士はいつでもいる

今日の新聞にバブル紳士の、その後、が載っていた。

平家物語の昔から栄華の花が咲続ける筈が無いのだが、

バブルのお陰で町がきれいになった。バブルは一つの幻想であり

そこから勢いが生まれた。そのパワーのお陰で古いと感じていた

家や建物を立て替えたり改装したり、金を掛けた。

これは時の勢いに乗っで出来たことだ。当時は誰もが儲かっている気になっていた。

だから財布の紐は緩く築後50年は経とうとする住まいに金を掛けたことは自然なことであった。

こんな田舎でと思われるような地方のちいさな駅前でも、瀟洒なアパートが建っている。

バブル後にたてられた建物はあか抜けしていてきれいなものが多い。
そんな設計になってしまっているから、昔のような文化住宅は建てようがない。戦後の遺物として。


山の麓の奥までブルドウザーが入り込み木々や竹をなぎ倒し

住宅地にしてしまった。バブル経済を立て直すための実需を生み

出すために政府が住宅ローンの金利を下げて住宅建設に力を入れた結果、開発はさらに進んだ。

おそらくその辺りに住んでいた狐狸達は住み難くなったことだろう。


負債の整理がそのまま30年から50年かかるとは思えない。

国民全体が新たなローンを抱え込んだようなものだ。

この返済が生活に重くのしかかって来る。

その重圧が取り除かれたときに日本の経済はもとの元気を取り戻す。
元々こういう実態=実際の価格、とかけ離れた訳の分からないものに投機するというのは健全な考えかたではない

。ばくちは人の生活を破壊し、だめにする。

バブルによって誤った経営をして倒産をした会社が多いし、人生

を狂わせた個人も多い。だが、人は己の過ちを認めたがらない。

認めると自分が惨めに成るだけだから。

欲を深くしないで従来の同じ生活を続けた者にはバブルの恩恵に

浴さなかった代わりに負の遺産を背負い込む事もなかった。

しかし娑婆に生きている人間が金に目もくれないで、座して

バブルのあの熱気見るだけというのは、世捨て人 的感覚の持ち主出なければ出来ないことで,常人には出来ない相談である。

ちょと気の利いた人間は必ずと言っていいほど手を出してやけどをする。

キリングフイールド2

2018年05月15日 | Weblog
 戦争によって荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
 世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。戦争の為にどれほど多くの人が命を失ったことか。
 二十一世紀も近くなり人類はやっとそのことに気づき始めているか、それでも地域紛争は絶えない。ボスニヤでも民族対立から多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が大きな問題となっている。
 そして人々が武器を手にして戦う場合は必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
 ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を考えている場合ではない。
 僕の足下には虐殺の犠牲となった人が着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて土からのぞいている。恐らくこの服の下には遺骨が埋まっているはずだ。つまり僕は墓の上に立っているのだ。踏まないようにどちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに全身が包まれてしまった。
 殺せ。罪のない人を死に追いやった奴は殺せ。それが人が生きて行く上での、世の中のルールである。罪のない人を殺したものが責任を問われる事なく、のうのうと生きている社会は無法社会である。無法社会には正義もなければ人権もない。それは人類が営々と積み重ねて来た血の滴る努力、人類が目指して来た方向に逆行する。歴史の針を逆に進める事、それは人類の進歩に対する挑戦である。殺せ。この地上から抹殺する以外には放置できない。そしてそれが恨みを呑んで死んで行った人の恨みを晴らす方法でもある。異民族ならまだしも、よくもまあ同国人を何百万人も殺したものだ。
僕は全身がかたくなり、心臓がドキドキ早打ちしているのに気づいた。そして覗いている犠牲者の衣服を避けながらそこへ、へたり込んでお経を唱えた。
 今の僕は何が出来る訳でもない。あなた達の無念を晴らす事も出来なければ、身に覚えのないことで命を失った不条理にたいして何をしてあげられる事も出来ないが、ただ一つ祈ることだけは出来る。罪なく地獄の苦しみを味わったあなた達の魂の苦しみを解き放つ事を神や仏に祈り、そのお力で魂を極楽へ誘ってもらうことによってどうか安らかに眠り給え、
僕は心のなかでそう叫んだ。
 カンボジャ。それは日本からは遥かかなたの遠い国である。距離もさることながら、日本人にとっては関心のない国である。歴史的にもたいしたつながりも無ければ、現在経済交流が盛んでもない。


キリングフイールド5-65

2018年05月14日 | Weblog
      
             キリングフイールド
         

 カンボジャの首都、プノンペン市内にある国立競技場のそばを、バイクタクシーで通り抜け、
しばらく走ると人通りはまばらになり、田舎道にでた。田舎道は舗装がされて無く、昨日降った雨のためにどろんこにぬかっていた。バイクの後ろ座席に跨り、でこぼこ道を十分ばかり走ると、道の両側に家が有り、家の前には店が出ていた。店といっても小屋に商品が並べてある程度で、都会の店の感覚ではこれが店かと思ってしまう。市街を抜けて村につくのには一五分くらいかかった。その間、対向する車もなく走ったから危険は感じなかった。 
T字を左に回り、ものの五分も走らないうちに門の前についた。それは門というよりは鉄柵といったほうがふさわしい。鉄の棒を組み合わせてつくった柵の前には門番兼入場者記録係がいて、僕は窓口に置かれているノートに自分のことを記帳して2ドル払った。 
目の前に有る建物は四方ががガラス張りになっていてそのガラスを通して頭蓋骨がこちらを向いている。縦横同じくらいの長さ、たぶん7、8メーター高さが10メーターくらいの建物は中が幾層にも分かれていて、各層ごとに髑髏が四方八方に目をむいている。僕は生まれて初めての経験でじっと見つめることも、面と向かい合うこともできなかった。それは数が多いからではなく、このようにして死んでいった同胞(僕の心の中では世界のあらゆる所に住む、いま生きている人を国が違うということで線引きはしない)の無念の悲しみの大きさに、身のすくむ想いがしたのである。僕はいまにも落ちそうな涙を堪えながら、声もなく後ろ手にしてその御堂をぐるりと回った。しばらくたたずんでいると、韓国人らしい一団がどやどやと入ってきた。威勢良く入ってきた彼らも急に言葉を失い、黙って御堂の回りを歩いていたが、そのうちの一人が机の前においてあった花火のような線香に火をつけて供えた。それを見た僕は我に返り、同じく線香を供え賽銭箱とおぼしき箱に500リエル札一枚をこそっといれた。僕はその場に立ったままでお経を唱えた。仏教国カンボジャの同胞のために。いや、為に祈ったのではない。祈らないではいられない衝動に駆られてお経を唱えたのだ。
 内戦だから仕方がないというのは大雑把すぎる。確かに戦争だから殺しあう事があっても不思議ではない。しかしそれは戦闘員においての話である。無差別に(ポルポトの場合は知識人とそうでない人をより分けてインテリ層を中心に虐殺したという)殺してどんな正当性を主張できるのか。正確な数字は分からないが、全人口が八百万人とか九百万人とか言われる中で、百万人単位という数字は大きすぎる。しかもそれが知識層中心に殺されたとなると戦後復興の力は大きく削がれる事になる。



 戦争によって荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
 世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。戦争の為にどれほど多くの人が命を失ったことか。
 二十一世紀も近くなり人類はやっとそのことに気づき始めているか、それでも地域紛争は絶えない。ボスニヤでも民族対立から多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が大きな問題となっている。
 そして人々が武器を手にして戦う場合は必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
 ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を考えている場合ではない。
 僕の足下には虐殺の犠牲となった人が着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて土からのぞいている。恐らくこの服の下には遺骨が埋まっているはずだ。つまり僕は墓の上に立っているのだ。踏まないようにどちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに全身が包まれてしまった。

アンコールワットのデバター0

2018年05月13日 | Weblog
アンコールワットのデバターは、背丈が1メーターくらいの女神像である。
実在の女官がモデルだったらしい。女は彫像として残った。男は彫像としては何もの
こらなかった。彫刻師である職人たちはたくましく生きて、あっさり去っていった。
回廊や楼門の壁などに、残されたのはおびただしい数のデバター像である。
ガイドブックにはプノンバケンと書いてあるが現地の人はプノンバカイという。ぼく
にはそう聞こえた。
アンコールワットの前の道をバイタクで五分も走れば道の左側に小高い丘が現れる。
それがこの地方の3聖山の 1つ、プノンバカイなのである。
夕日がきれいだという評判で、大勢の人がこの丘に上って、遥かかなたに沈む夕日の
美しさを見ようと待ち構えているのだ。
ところがこの日は、あいにく、雲がかかり美しいはずのサンセットはついに、見えず
仕舞だった。丘の上は宮殿か寺院の跡らしく、石造りの遺構が残っていた。
さあ帰ろう。僕はこれを見納めとばかりに遺構を1周して帰り道に着いた。なんと
言っても今日見学した中ではアンコールワットは圧巻であった。女神であるデバター
の数が多いこと。数ある中には見るデバターあり触るデバターあり祈るものありで
ちょうこくに詳しくない僕にとっては所詮女にしか見えない。女なら見るより触る方
がいいに決まっている。何とかが顔を出し始める。
女性を見るというのであれば、ます顔である。それからボデー・ラインや色の白さな
どに目を向けるだろう。ところが触るとなれば、まず男は(女でもよい)女の体のど
こをさわるか。それは多分乳房が焦点になろう。なぜであろうか。乳房すべての命を
はぐくむ母性の象徴だからである。
三体のデバターの合計、六つのオッパイは黒光りしている。誰かが、先鞭を付けその
後をみんなで、なぞっているのである。どこの国でも男ならやっぱり触るところは同
じか。僕はそう思った。あたりをさっと見渡したが誰もいない。
これを幸いに僕もしっかり触った。
熱帯の太陽に間接的に、てらされてほの温かい。しかし直射日光でないのでやはり石
の冷たさは、残る。
ところが不思議なことに彫像であるにもかかわらずこの女神の、乳房が人の肌の、よ
うに温かく感じられる。変だなあと思っていたらデバターの顔が、真理の顔と二重写
しになっている。
ええっ? ぼくは驚いて、しっかり気を入れて見つめると間違いなく真理の顔だ。真
理の微笑が、そのまま目の前にある。
そして、僕の右手は柔らかい乳房を愛撫している。彼女はじっと、ぼくのなすがまま
に身をゆだねているし、息遣いが伝わってくる。乳房に、触れた手には脈拍が伝わっ
てくる。確かに、人肌のぬくもりである。僕はしばらく目をつぶって彼女の体の感触
を味わった。
人の声がしたので、はっとして、現実世界から遠のいていた意識を取り戻して目を開
けてみると、真理はもうそこにはいなかった。 一重の像が二重になりまた一重に
なった。じっと見つめていると、真理の体は飛天のようにデバターから離れていっ
た。そしてそこに残ったのは紛れもなくアンコールワットの数あるデバターの姿だけ
だった。
でも、触れている乳房は、生温かい。 おお これはこれは。
僕はやっと正気に戻った。アンコールワットのデバターは真理子そのものだったので
ある。

お経

2018年05月12日 | Weblog
         お経

お経は釈迦の教えである。彼がこの世のありとあらゆる体験をして、その後に、宇宙の真理を明らかにし人間の生き方について ノーハウを教えた。お経はそのエッセンスを凝集したテキストである。
あらゆる思索と体験をしてその後に、釈迦が、悟った人生の根本原理と生きがいのある、悔いのない人生を送るための考え方や。実践の仕方それを満載したものがお経である。

 われわれはこれを、誤解して陰気臭いもの、抹香臭いものと思っているが、それはお経の本質や、実態から離れ過ぎたものである。
お経が悪いのではなくお経を読む、現場が悪いのである。我が国ではお経は葬式や法事など死者を弔ったり、死者を忍んだりする時にかぎられて用いられる。
だからわれわれは、お経に対して偏見を持つのである。

人生はどういうものであるにしろ生き方は、個人にゆだねられている。生きがいのある人生か、つまらない人生か。それは、すべて個人にゆだねられ、個人が決めていくことになっている。ということは人生については、各人がおのおのの人生に対して責任を持たなければならないということである。より有意義な人生を送るためのノウハウ、や智慧が経文の中にたくさん盛り込まれている。

もともと、インドで生まれたものであるからインドの、言葉で、書かれておりそれが、玄奘によって、中国語に翻訳され ほとんどそのままの形で日本に、輸入され中国語で書かれたお経にぶっつかるから現代の日本人にとってはとても読みにくく、しかも難解なのである。
 
歴史上の大天才が体験し、思索した物の集大成だからそれは決してやさしいものではないが、日本語でわかりやすく解説すればもっともっと、現代の日本人にも受け入れられるように思われる。

この世に生まれて、生きる目標がたくさんの富を得る事であり、社会的な地位を得ることでありというような世俗的な事ばかりに関心が奪われているような人にはお経は一見して、無用に見えるが、それは全く逆のことで、そういう俗世の確かな物を得るためにも、お経は必要な物なのである。

しかしながら、僕はあらゆる人にとって人生読本だと思うにも関わらず、これが不思議なもので、極少数の人にしか縁のないテキストなのである。
考えてみると、これも縁なき衆生と、縁のある衆生とに分かれていて、縁なき衆生は、とことん縁のないものなのであろうか。

しかし生き甲斐のある人生を送るための、すばらしいアイデア集であり、賢く生きるための知恵の宝庫であるものだと思うから、僕はどなたにも読むようにお勧めしたい。

そのためには何の知識もない一般衆生が、日常生活の中で困った時に問題解決の為の手引き書として、つまり漢字がが判らないときに、漢和辞典を引くように、人生辞典として、いつでも手元で活用できるような、日本語訳が不可欠である。出よ。お経の日本語翻訳者。

嵯峨野漫歩

2018年05月11日 | Weblog
嵯峨野漫歩

 今年の連休は雨が多くて最後近くなってやっと晴れた。目的もなくただぶらぶらと歩くのなら、雨でも晴れでもどちらでもいいのに、まだ雨だ晴れだにこだわっている。
雨には雨の風情がある筈。風情を味わえないのは自分自身の問題
小倉山にも若い命が沸き立っている。それを遠くから見ると緑の固まりがもくっもくっと沸き上がっているのだ。この時期これを見ると、いやがうえにも命の躍動を感じざるを得ない。命のれフレッシュのためにも連休はアウトドアーライフを楽しむべきだ。

手紙から

2018年05月11日 | Weblog
> 僕はピアノは弾けないが作曲が出来ます。読書も好きです。近頃感動した本はグルジ
> ア大統領のシュワルナゼの書いた希望という本ですこの本に貫かれた人間主義が僕を
> とらえてはなしません。文章書く作曲をするそして一人で海外旅行をするこれが今の
> 僕の楽しみです。

作家なのですか? どちらかといえば作曲家でしょうねもちろんエッセイも書きます

先日弟が兵庫県から帰ってきました。
まだ学生でこれからも学生ですが元気そうだったので良かったです。
勉強が楽しそうですが仕事もしたいといっていました。
仕事はなかなか思った以上に大変なことだと思います。
学生の時とは違って色々な人とつきあって行かなくてはいけないのですから・・・。
職場で毎日、幅広い年齢そうで背景の違う人を相手にすることは骨の折れること
だと思います。それでは。

オールド・ブラック・ジョー6-6

2018年05月10日 | Weblog
     オールド・ブラック・ジョー


若き日早や夢と過ぎ 我が友 みな世をさりて

あの世に楽しく眠る かすかに我を呼ぶ

 オールド・ブラック・ジョー     オールド・ブラック・ジョー


若き日早や夢と過ぎ 我が友 みな世をさりて

あの世に楽しく眠る かすかに我を呼ぶ

 オールド・ブラック・ジョー

我も行かん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶ 

 オールド・ブラック・ジョー ・諸園凉子訳詞 

これは黒人の魂の歌で、我々になじみのある歌である。この歌の中には、奴隷として虐げられた、黒人の切ない魂のあこがれが、うたい込まれている。奴隷生活の現実は、言葉で表せない厳しいものであり、その現実から逃れようとする魂の叫びが、歌になったのである。
全世界の人々の人権を守ると、自負しているアメリカにおいてさえ、過去にはこのような厳しい現実が存在した。
人間を人間として扱わない、白人の黒人に対する言いようのない差別、主にアメリカ南部を覆った、差別の歴史をこの国は持っている。この苦しい現実を乗り越えて、黒人は人権獲得に多くの血を流した。現実にはまだまだ差別は存在するだろうが、キング牧師らの努力の甲斐もあって、法律的な差別は過去のものとなって、今は建前は差別の壁が無くなっている。
 いきとしいけるものが皆、平等の基盤に立って、生活できることは良いことだ。生きていくだけでも、大変なことだのに、いわれの無い差別によって、さらに大きな荷物を背負わされるなんて、とんでもない話だ。そうでなくても、人生には多くの苦がつきまとうのだから。
生きる事に失望し落胆した人々は、この世を早く去ってあの世に、楽しく眠る人々に対し、憧れを抱くようになる。いやこれは奴隷になった黒人ばかりではない。白黒人種に関係無く,生きることの苦しみから解放されたい、逃れたいと願うようになる。

 彼女もそんな心境で、日々の生活を送っていたのだろうか。
彼女は小柄で、ぽっちゃりした体型をしていた。顔はお多福の面を想像させた。いつも物静かで、余りしゃべらなかった。口数は少なく、おとなしい感じの娘だった。
彼女は私が受け持ったクラスの生徒だった。本人から直接聞いたわけではなかったが、友人の話によると,実母は早く死んで、後妻つまり義理の母と一緒に暮していたが、この人が、何かと難しい人で、押し入れに入って何度泣いたかしれないということだった。
 親しい友人には、そんな苦しい胸のうちをもらしていたらしい。僕の耳にもそれとなく伝わってきた。可愛そうに、何時もそうは思ったが、だからといって特別なことは何もしてあげられなかった。彼女は不幸を背負いつつも、何の問題も起こさない、極く普通の生徒だった。

 たった今彼女の死を、友人からきかされたが、僕の感覚では十七八の若い身そらで死ぬなんて、不自然きわまりないもので、実感がわかず、ぴんとこなかった。
しかし級友は黒のワンピースを着ているし、今から彼女の告別式に行くという。僕はあわてて家にとって帰し、式服に黒のネクタイを締め、彼女の家へと急いだ。
もちろん告別式には間に合わなかった。

 彼女はすでにお骨になって、白木の位牌とともに、自宅に戻っていた。彼女の自宅は線路沿いの安アパート、いわゆる文化住宅である。細い道を尋ね尋ねて、自宅へたどり着いたが、そのときはもう皆帰った後で、寂しさが部屋一杯に漂っていた。
玄関の戸をノックすると、酒で顔を真っ赤にした年輩の男性が面倒くさいそうな表情をして出てきた。僕は自分がクラスの担任であること、彼女の急な死をしって、とりあえず駆けつけてきたこと、
出来ればお線香をあげさせてもらいたいと言った。
初めて会うのだが、この男は彼女の父親であった。めんどくさそうな顔をしながら
「それじゃあがれ」と言う。
 詳しいことは知らないが、この人は運転手をしていて、先妻つまり彼女の母親とは死別した後に後妻をもらって、生活していたということだった。彼女はこのなさぬ仲の中で、気を使いながら今まで生きてきて、持病の喘息であっけなく、この世を去ったのだ。

小さなちゃぶ台に白い布がかけられて、その上に高さ十センチくらいの、小さな箱に彼女は納まっていた。
 僕はお経を唱えながら、同時進行で彼女に会話を試みた。
「君は今この世の苦しみを抜け出して、平安の世界へと移っていった。もう普通の人間が持つ肉体は失っている。ひょっとしたら、君を生んだ母さんが、早くこちらの世界においでと招いたのかもしれないね。それとも、もう君はこの世がいやになったのか。苦しみの多いこの世で、生きる気力を失って、心の底では死を待っていたのか。君のような若さでこの世を去るというのは、僕には不自然きわまりない事だ。寿命まで生きて、死んだのとは訳が違う。君は今から人生の花が開く、夢多い青春のまっただ中にいたではないか。
それがどうして、こういうことになったのか。何か答えてくれ。
僕は悲しいよ。教室や授業では、個人的には話したことはなかったね。君のことは君の友人から、少しはきいていたけれど、深くは知らなかった。だって君、喘息で学校を休んだことがあったかなぁ。僕の記憶では、君にそんな持病があるなんて、全く知らなかったよ。もし命に関わる重大な病気を持っているということならば、それは必ず、保健か養護の先生から連絡があり、申し送り事項として、
生徒記録のどこかに記載されているはずだ。そういう記憶が、僕にはない所を見ると、学校を卒業してから、この喘息の発作が出たと言うことなんだろうか。
あっ。そうだ。もう君はこの世にいないんだ。寂しいな。君は誰にも打ち明けられない苦しみを一人で背負っていたんだね。せめて僕にでも少し位、話したら荷は軽かったかもしれないのだが。もうこの世とでは、連絡はとれないから、会話は無理かもしれないが。
なんとか気持ちだけでも伝えたいものだね。僕は若い人相手の商売だが、今まで17や18歳の人が死ぬなんて、想像だにしなかった。いや出来なかった。真実僕は驚いているんだよ。だがこうして、君の死という厳守な事実にぶち当たると、腹の底までこたえるよ。
十八歳で死んだ君と、オールド・ブラック・ジョウとは同列に扱えないにも関わらず、僕にはオールド・ブラック・ジョウの歌声が聞こえてくる。オールドブラックジョーは君の母さんだったんだ。
君よ、母さんとあの世で楽しく眠り給え。」
ほらほらまた聞こえてくる。
「かすかに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョウ」のあの歌が。


























     オールド・ブラック・ジョー


若き日早や夢と過ぎ 我が友 みな世をさりて

あの世に楽しく眠る かすかに我を呼ぶ

 オールド・ブラック・ジョー

我も行かん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶ 

 オールド・ブラック・ジョー ・諸園凉子訳詞 

これは黒人の魂の歌で、我々になじみのある歌である。この歌の中には、奴隷として虐げられた、黒人の切ない魂のあこがれが、うたい込まれている。奴隷生活の現実は、言葉で表せない厳しいものであり、その現実から逃れようとする魂の叫びが、歌になったのである。
全世界の人々の人権を守ると、自負しているアメリカにおいてさえ、過去にはこのような厳しい現実が存在した。
人間を人間として扱わない、白人の黒人に対する言いようのない差別、主にアメリカ南部を覆った、差別の歴史をこの国は持っている。この苦しい現実を乗り越えて、黒人は人権獲得に多くの血を流した。現実にはまだまだ差別は存在するだろうが、キング牧師らの努力の甲斐もあって、法律的な差別は過去のものとなって、今は建前は差別の壁が無くなっている。
 いきとしいけるものが皆、平等の基盤に立って、生活できることは良いことだ。生きていくだけでも、大変なことだのに、いわれの無い差別によって、さらに大きな荷物を背負わされるなんて、とんでもない話だ。そうでなくても、人生には多くの苦がつきまとうのだから。
生きる事に失望し落胆した人々は、この世を早く去ってあの世に、楽しく眠る人々に対し、憧れを抱くようになる。いやこれは奴隷になった黒人ばかりではない。白黒人種に関係無く,生きることの苦しみから解放されたい、逃れたいと願うようになる。

 彼女もそんな心境で、日々の生活を送っていたのだろうか。
彼女は小柄で、ぽっちゃりした体型をしていた。顔はお多福の面を想像させた。いつも物静かで、余りしゃべらなかった。口数は少なく、おとなしい感じの娘だった。
彼女は私が受け持ったクラスの生徒だった。本人から直接聞いたわけではなかったが、友人の話によると,実母は早く死んで、後妻つまり義理の母と一緒に暮していたが、この人が、何かと難しい人で、押し入れに入って何度泣いたかしれないということだった。
 親しい友人には、そんな苦しい胸のうちをもらしていたらしい。僕の耳にもそれとなく伝わってきた。可愛そうに、何時もそうは思ったが、だからといって特別なことは何もしてあげられなかった。彼女は不幸を背負いつつも、何の問題も起こさない、極く普通の生徒だった。

 たった今彼女の死を、友人からきかされたが、僕の感覚では十七八の若い身そらで死ぬなんて、不自然きわまりないもので、実感がわかず、ぴんとこなかった。
しかし級友は黒のワンピースを着ているし、今から彼女の告別式に行くという。僕はあわてて家にとって帰し、式服に黒のネクタイを締め、彼女の家へと急いだ。
もちろん告別式には間に合わなかった。

 彼女はすでにお骨になって、白木の位牌とともに、自宅に戻っていた。彼女の自宅は線路沿いの安アパート、いわゆる文化住宅である。細い道を尋ね尋ねて、自宅へたどり着いたが、そのときはもう皆帰った後で、寂しさが部屋一杯に漂っていた。
玄関の戸をノックすると、酒で顔を真っ赤にした年輩の男性が面倒くさいそうな表情をして出てきた。僕は自分がクラスの担任であること、彼女の急な死をしって、とりあえず駆けつけてきたこと、
出来ればお線香をあげさせてもらいたいと言った。
初めて会うのだが、この男は彼女の父親であった。めんどくさそうな顔をしながら
「それじゃあがれ」と言う。
 詳しいことは知らないが、この人は運転手をしていて、先妻つまり彼女の母親とは死別した後に後妻をもらって、生活していたということだった。彼女はこのなさぬ仲の中で、気を使いながら今まで生きてきて、持病の喘息であっけなく、この世を去ったのだ。

小さなちゃぶ台に白い布がかけられて、その上に高さ十センチくらいの、小さな箱に彼女は納まっていた。
 僕はお経を唱えながら、同時進行で彼女に会話を試みた。
「君は今この世の苦しみを抜け出して、平安の世界へと移っていった。もう普通の人間が持つ肉体は失っている。ひょっとしたら、君を生んだ母さんが、早くこちらの世界においでと招いたのかもしれないね。それとも、もう君はこの世がいやになったのか。苦しみの多いこの世で、生きる気力を失って、心の底では死を待っていたのか。君のような若さでこの世を去るというのは、僕には不自然きわまりない事だ。寿命まで生きて、死んだのとは訳が違う。君は今から人生の花が開く、夢多い青春のまっただ中にいたではないか。
それがどうして、こういうことになったのか。何か答えてくれ。
僕は悲しいよ。教室や授業では、個人的には話したことはなかったね。君のことは君の友人から、少しはきいていたけれど、深くは知らなかった。だって君、喘息で学校を休んだことがあったかなぁ。僕の記憶では、君にそんな持病があるなんて、全く知らなかったよ。もし命に関わる重大な病気を持っているということならば、それは必ず、保健か養護の先生から連絡があり、申し送り事項として、
生徒記録のどこかに記載されているはずだ。そういう記憶が、僕にはない所を見ると、学校を卒業してから、この喘息の発作が出たと言うことなんだろうか。
あっ。そうだ。もう君はこの世にいないんだ。寂しいな。君は誰にも打ち明けられない苦しみを一人で背負っていたんだね。せめて僕にでも少し位、話したら荷は軽かったかもしれないのだが。もうこの世とでは、連絡はとれないから、会話は無理かもしれないが。
なんとか気持ちだけでも伝えたいものだね。僕は若い人相手の商売だが、今まで17や18歳の人が死ぬなんて、想像だにしなかった。いや出来なかった。真実僕は驚いているんだよ。だがこうして、君の死という厳守な事実にぶち当たると、腹の底までこたえるよ。
十八歳で死んだ君と、オールド・ブラック・ジョウとは同列に扱えないにも関わらず、僕にはオールド・ブラック・ジョウの歌声が聞こえてくる。オールドブラックジョーは君の母さんだったんだ。
君よ、母さんとあの世で楽しく眠り給え。」
ほらほらまた聞こえてくる。
「かすかに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョウ」のあの歌が。




























我も行かん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶ 

 オールド・ブラック・ジョー ・諸園凉子訳詞 

これは黒人の魂の歌で、我々になじみのある歌である。この歌の中には、奴隷として虐げられた、黒人の切ない魂のあこがれが、うたい込まれている。奴隷生活の現実は、言葉で表せない厳しいものであり、その現実から逃れようとする魂の叫びが、歌になったのである。
全世界の人々の人権を守ると、自負しているアメリカにおいてさえ、過去にはこのような厳しい現実が存在した。
人間を人間として扱わない、白人の黒人に対する言いようのない差別、主にアメリカ南部を覆った、差別の歴史をこの国は持っている。この苦しい現実を乗り越えて、黒人は人権獲得に多くの血を流した。現実にはまだまだ差別は存在するだろうが、キング牧師らの努力の甲斐もあって、法律的な差別は過去のものとなって、今は建前は差別の壁が無くなっている。
 いきとしいけるものが皆、平等の基盤に立って、生活できることは良いことだ。生きていくだけでも、大変なことだのに、いわれの無い差別によって、さらに大きな荷物を背負わされるなんて、とんでもない話だ。そうでなくても、人生には多くの苦がつきまとうのだから。
生きる事に失望し落胆した人々は、この世を早く去ってあの世に、楽しく眠る人々に対し、憧れを抱くようになる。いやこれは奴隷になった黒人ばかりではない。白黒人種に関係無く,生きることの苦しみから解放されたい、逃れたいと願うようになる。

 彼女もそんな心境で、日々の生活を送っていたのだろうか。
彼女は小柄で、ぽっちゃりした体型をしていた。顔はお多福の面を想像させた。いつも物静かで、余りしゃべらなかった。口数は少なく、おとなしい感じの娘だった。
彼女は私が受け持ったクラスの生徒だった。本人から直接聞いたわけではなかったが、友人の話によると,実母は早く死んで、後妻つまり義理の母と一緒に暮していたが、この人が、何かと難しい人で、押し入れに入って何度泣いたかしれないということだった。
 親しい友人には、そんな苦しい胸のうちをもらしていたらしい。僕の耳にもそれとなく伝わってきた。可愛そうに、何時もそうは思ったが、だからといって特別なことは何もしてあげられなかった。彼女は不幸を背負いつつも、何の問題も起こさない、極く普通の生徒だった。

 たった今彼女の死を、友人からきかされたが、僕の感覚では十七八の若い身そらで死ぬなんて、不自然きわまりないもので、実感がわかず、ぴんとこなかった。
しかし級友は黒のワンピースを着ているし、今から彼女の告別式に行くという。僕はあわてて家にとって帰し、式服に黒のネクタイを締め、彼女の家へと急いだ。
もちろん告別式には間に合わなかった。

 彼女はすでにお骨になって、白木の位牌とともに、自宅に戻っていた。彼女の自宅は線路沿いの安アパート、いわゆる文化住宅である。細い道を尋ね尋ねて、自宅へたどり着いたが、そのときはもう皆帰った後で、寂しさが部屋一杯に漂っていた。
玄関の戸をノックすると、酒で顔を真っ赤にした年輩の男性が面倒くさいそうな表情をして出てきた。僕は自分がクラスの担任であること、彼女の急な死をしって、とりあえず駆けつけてきたこと、
出来ればお線香をあげさせてもらいたいと言った。
初めて会うのだが、この男は彼女の父親であった。めんどくさそうな顔をしながら
「それじゃあがれ」と言う。
 詳しいことは知らないが、この人は運転手をしていて、先妻つまり彼女の母親とは死別した後に後妻をもらって、生活していたということだった。彼女はこのなさぬ仲の中で、気を使いながら今まで生きてきて、持病の喘息であっけなく、この世を去ったのだ。

小さなちゃぶ台に白い布がかけられて、その上に高さ十センチくらいの、小さな箱に彼女は納まっていた。
 僕はお経を唱えながら、同時進行で彼女に会話を試みた。
「君は今この世の苦しみを抜け出して、平安の世界へと移っていった。もう普通の人間が持つ肉体は失っている。ひょっとしたら、君を生んだ母さんが、早くこちらの世界においでと招いたのかもしれないね。それとも、もう君はこの世がいやになったのか。苦しみの多いこの世で、生きる気力を失って、心の底では死を待っていたのか。君のような若さでこの世を去るというのは、僕には不自然きわまりない事だ。寿命まで生きて、死んだのとは訳が違う。君は今から人生の花が開く、夢多い青春のまっただ中にいたではないか。
それがどうして、こういうことになったのか。何か答えてくれ。
僕は悲しいよ。教室や授業では、個人的には話したことはなかったね。君のことは君の友人から、少しはきいていたけれど、深くは知らなかった。だって君、喘息で学校を休んだことがあったかなぁ。僕の記憶では、君にそんな持病があるなんて、全く知らなかったよ。もし命に関わる重大な病気を持っているということならば、それは必ず、保健か養護の先生から連絡があり、申し送り事項として、
生徒記録のどこかに記載されているはずだ。そういう記憶が、僕にはない所を見ると、学校を卒業してから、この喘息の発作が出たと言うことなんだろうか。
あっ。そうだ。もう君はこの世にいないんだ。寂しいな。君は誰にも打ち明けられない苦しみを一人で背負っていたんだね。せめて僕にでも少し位、話したら荷は軽かったかもしれないのだが。もうこの世とでは、連絡はとれないから、会話は無理かもしれないが。
なんとか気持ちだけでも伝えたいものだね。僕は若い人相手の商売だが、今まで17や18歳の人が死ぬなんて、想像だにしなかった。いや出来なかった。真実僕は驚いているんだよ。だがこうして、君の死という厳守な事実にぶち当たると、腹の底までこたえるよ。
十八歳で死んだ君と、オールド・ブラック・ジョウとは同列に扱えないにも関わらず、僕にはオールド・ブラック・ジョウの歌声が聞こえてくる。オールドブラックジョーは君の母さんだったんだ。
君よ、母さんとあの世で楽しく眠り給え。」
ほらほらまた聞こえてくる。
「かすかに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョウ」のあの歌が。



























春になった

2018年05月09日 | Weblog
春になった


。遅咲きの桜も散ってしまったが、今度は緑葉が燃えだした。医mから一月ほどは緑の風に体がリフレッシュされる。

日本は季節がはっきりしていて良い。寒い冬が過ぎると春になり桜が散ったら緑の若葉が、野山を覆い尽くす。この頃の森林浴は健康に良さそうで、進んで林の中に分け入りたい気持ちになる。

冬の厚着を脱いで春らしい装いになると、それだけでも気分は爽快になる。
もの皆生き生きとする季節だ。暑くなく寒くなる、気温だけをいえば極楽だ。

華厳経だったとおもうが、楽しくて毎日が命輝く日々。人生にはそんなときもあるのだ、ということを知った。
とすればそんな恵まれた時節に、折々の四季を味わわないと損をした気になる。
外はこんなに平和だのに核だのミサイルだの騒いでいるが、短い人生をそんなことにとらわれて生きるだの死ぬだの 騒ぐのは滑稽ですらある。


城崎温泉

2018年05月08日 | Weblog
城崎駅に着くと私はますそのまま本通りを 大谷川に向かって歩いた。
駅からほんの5、6分の距離ある橋を渡ると 眼の前が地蔵湯である。
平日でありしかも、午後2時だから 客は私1人だけだった。

20畳くらいの広さの湯船には 温泉がこんこんとわいていた。透き通った温泉を見ていると、私ひとりで、このお湯を独占するのはいかにももったいないという感じがした。まず体を洗って、湯舟につかり天井を見ると宇宙へ溶けこんだような気分になった。
やはり温泉だな、温泉はよい。
私はこの温泉まで家を出てから5時間かかってやってきた。
列車で自宅から往復10時間かけてここまでやってくる.
そして2時間ほどこの温泉にとどまって、また帰りの列車に乗る。そんな多くの時間をかけても城崎温泉は旅行気分と温泉観光の気分十分与えてくれる..。

ぼやっとそんなことを考えていたら、入り口の引き戸が開いて70歳くらい老人が入ってきた
。彼が振り向くと、背中1面に龍の彫りものがあった。老人なのでに皮膚がたるんでいるために、龍もはなはだくたびれている。おそらく彼の青春の彫り物だろうが、今となっては邪魔になるものではなかろうか。
いやそんなことはどうでもいい。長時間かけて自分はここまで昂然の気を養うためにやってきたのである。他人の入れ墨など気にしてなるものか、私は頭の中で対象を他の方に移そうと努めた。

バリンダーバン

2018年05月07日 | Weblog
クリシュナ神
            

バリンダーバン
 ニュデリーのホテルの前からバスに乗って、アーグラとマツーラの観光に行った。途中交通事故が有ったので渋滞がおき、マツーラ到着は夜8時過ぎだった。
マツーラ近郊の、ブリンダーバンというところは、クリシュナ神 が幼少を過ごした所で、とりわけ宗教に関係の深い街である。日本で言うならさしずめ、遍路巡礼都市とでもいうところだろうか。夜のこと、どこをどう通ったのかわからないが、ツアー客は一団となってガイドの後をついて行った。
 日本では神さんは、お宮・神社に祭ってあるから、さしずめお宮さん、神社参りということになる。日本のように別棟になっている訳でなく、軒を接していたように思うが、夜道のことでよく分からない。劇場のような感じのする所へ入って行く。入り口を入ると幅2間くらいの土間の通路が有り、奥に向かって左手には、70から80センチの高さの床が作られて、一段高くなっている。奥ではローソクを一本灯して、御詠歌だろうか、粗末な身なりをした年寄りが二人、高低のない単調な歌を歌っている。近づいてみるとそれは老女だった。
 人々は靴を脱いでローソクと、裸電球と、薄暗い蛍光灯の光を頼りに、床に上がり腰を下ろした。
 僕はといえば、神さんを拝む訳ではない。あくまで観光、冷やかし気分で来ている。上り口のところには寄付を求める賽銭箱があった。賽銭箱といっても日本でいう、あんな大きなものではなく、三宝さんの足のないやつ、というところか。
 賽銭の額が知りたかったのでこそっと覗いて見た 。100ルピー札が何枚も見えたので信仰の篤さがわかるような気がした。確かに日本と違った信仰への思い入れが感じられて、インド人の信仰熱心の篤い思いが伝わってきた。
それはそうだが、賽銭の額など見えない方が良い。見た後で僕はそんな感じも持った。見えると催促がましく感じたからである。
 寄付の看板は、勿論字が読めないからわからないから、推測するほかはないのだが、瓦のご寄進は1万円という風に書いてあるのだろう。

安珍清姫

2018年05月06日 | Weblog
    清姫ってストーカーじゃないの

紀州路線走ると、御坊の次が道場寺である。ここには、安珍・清姫物語伝説が、ある。
恋にくるう女が男を追いかける。思いついたら、彼が隠れている釣鐘を恋の炎で、焼き尽くす。
何もかにも忘れて、命をかけた恋の情熱は一体どこから出てくるのであろうか。
この物語は、何を語ろうとしているのか、
1,女の恋の情念の激しさ
2,なぜそこまでエネルギーを集中して、釣鐘を焼き尽くすのが、女の内なる世界は、閉鎖的だから、一点集中したエネルギーはすべてを焼き尽くすほどのパワーを持っている。

女にかかわらず、恋という情念のもつエネルギーの大きさ。そこには、男と女という差は無いと思うが、
一点集中となると女の情念の方が、大きいのかもしれない。

命をかけてもという。望みが、押しつぶされて、解放されない情念の塊は、怨恨という形をとれば、幽霊になる。
清姫は、死んでから、蛇になるのではなくて、生きて、情念の炎を安珍が隠れたとする釣鐘を焼き尽くす。

現代の清姫に、この問題を尋ねたら、彼女達は何と答えるであろうか。
安珍代わりはいくらでもいるよ。 さっさと、乗り換えするのだね。それが、かなわないのなら、生涯独身で過ごす。
結婚しても、離婚率が高くなる現代だったら、結婚していてもいなくても大差は無い。(本当は大差がある。)
離婚したと思えば、独身でいても、なんらさしつかえない。
しかし今も女の執念は変わることがないと思いたい。
怨念といえば 清姫  おいわ  お菊 などを連想するが、どれも怨念の強さを物語る。




ご馳走とは何だろう?

2018年05月04日 | Weblog
ご馳走

ご馳走とは山海の珍味を食べることだけではない。

おいしいか、まずいかは、個人の主観による。

お呼ばれで、昼の食事に懐石を食べる高級和食店へ連れて行ってもらったことがある。
季節の彩りに会わせて、料理が出てくる。そばには和服姿のお給仕係が

控えていて、慣れない僕は自分の食べるのをじっと見ていられている様で

それが気になって、おいしさを味わうことが半分くらいだった。

家庭でろくな料理しか食べてないが、内心これじゃその方がまだましだと思った。
僕にとってご馳走とは何だろうと考えたが、

そのときの体調に合わせて

食べたいものを、好きなものを、満足するまで食べること。

これこそが僕のご馳走の定義である。

味噌汁にお漬け物、焼きたてのめざし。

土光さんのマネじゃないが、これこそ食べ飽きないご馳走だという結論になった。

弘法大師賛歌kー

2018年05月04日 | Weblog
弘法大師賛歌kー


弘法大師の名前を知らない日本人はまずいない。天才宗教家として日本全国に遺跡を残し、教えをのこしその文物はほとんどが国宝である。四国88ヶ所の霊場を開き今なお、全国から30万人の人が遍路に訪れるという。またご利益話は全国にたくさんある。この偉大な弘法大師は日本が誇れる聖人である。僕なりに弘法大師賛歌を作り、ほめたたえてみた