A Rider's Viewpoint

とあるライダーのものの見方

それでまた読書日記・追記

2011-05-29 19:29:23 | つれづれ
越谷オサム『陽だまりの彼女』、読了。
この本を選んだのは件の本屋大賞じゃなく、ツイッターで新潮社の人が転載していた書評を読んだからだ。「恋が始まるのに理由はない。恋が終わるには理由がある。恋愛の切なさがすべて入った小説である」……確かこんな言葉に惹かれたのだ。
先週に本を探して予約して、今日図書館で借りてきて、午後いっぱいかけて読み終わった。

うわ、やばい。僕の「ツボ」に入ってしまった。読み終える直前から涙目だ。
気になったところを読み返しながらまた号泣。
僕はこういうひたむきでストレートな愛情表現には弱い。主人公とその彼女と、双方に感情移入してグダグダになってしまった。

小説の良いところは、仮想体験ができるところだと思う。
ドキドキもワクワクも少ないこの現実世界だけど、毎日繰り返される平穏さの中に幸せを見いだすことが出来るなら、読書で数時間を費やす価値は十分にある。

さて、僕も現実の世界に戻って、アスパラとアンチョビーのパスタでも作ることにしようか。

……やっぱり続きを書いておこう。

越谷オサム・陽だまりの彼女、文庫版読了。図書館で借りて読んだのに手元に置いておきたくて文庫版も買っちゃいました。
読み返すといろいろな伏線に気がつきます。
最初は浩介の哀しみに、次には真緒の決意に泣かされます。
最後に……。

「文庫版のあとがきは読了前に読んではいけません!」(2011-06-04 12:49 追記)

卯月、十七、立待月

2011-05-19 22:48:38 | つれづれ
カーテンの間から朧な月が見える。旧暦卯月十七日の立待月だ。
キーを打っている手をふと止めると月が見えない。いつの間にか雲に隠れてしまったようだ。
何に例える訳でもない。人の世の空しさは似通っている。
気に入ったなら、大切ならば、目を離すことなく見つめている方がいいのさ。

   *

 キーを打つ間に見失っていた立待月を再発見した。
 相変わらず朧に包まれて輪郭すら定かではない。
 たとえ隠れて見えなくなったように思えても、確かに君はそこにいるよね?
 つい、そう問い掛けてしまいそうな初夏の宵闇である。

「図書館日和」と読書の方針について

2011-05-08 11:56:13 | 所感
 iPhone用のソフトで、「図書館日和」というソフトがある。
 このソフト、都道府県や現在地情報から最寄りの図書館を探せるソフトなのだが、「よく利用する図書館」に地元の図書館を登録しておくことで、蔵書検索のあと、その本が地元の図書館にあるかないか、あるならどこの分館にあるか、その本が貸出中なのかどうかを検索できる。

 本を検索してどこの分館に貸出可能な本が置いてあるのかだけを調べるなら地元図書館のWebシステムにもあるのだが、iPhoneのカメラでJANコードを読み取って本の検索をしてくれたり、「貸出可」の分館の地図表示をしてくれたり、地元図書館のWebシステムの苦手なところをうまく補ってくれるので重宝している。
 しかも外出先の書店などで興味のある本を見つけたとき、その場ですぐ「地元の図書館の蔵書かどうか」ということが確かめられるのは嬉しい。
 すぐ借りられるようであればその場で予約し、蔵書にない、あるいは貸し出し予約が何十件も入っていて容易に読めそうもない……ということであれば、購入するかどうかの判断をその場でできるからである。

 また「人気の本」「新刊」「ジャンル」などで登録してある本を眺めたり、誰かが読んでツイッターでつぶやいた本を「読みたいリスト」に登録することもできるので、出版社の新刊情報、書店の棚、図書館の棚、とは別の『本に巡り会う機会』を提供してくれるという点でも興味深いソフトである。(おまけにこのソフトは無料なのだ)

 現在、このソフトを使って蔵書検索し、借りてきた本が3冊、読みたいリストに載せてあるのが1冊である。
 ちなみに図書館のWebシステム自体に予約してある本が6冊、DVDが1本あるが、こちらは当分順番が巡ってこないものも多いのであまりあわててはいない。ゆっくりと順番が巡ってくるのを待とう。

 僕の友人達は本が好きな者が多い。「年間購読100冊」という目標を立てて読書を完遂する友人、その友人と同じ目標を立て「いやー昨年は70数冊しか読めなかったよ」という友人。図書館関連の企業に勤めている友人、一時期、比喩ではなく本当に、部屋に足の踏み場がなくなるくらい本を積みあげていた友人がいる。
 彼らと読書の話をするとき、僕は自分の読書量の少なさに愕然とするのだが、「そのとき読みたくなる本に出会うのも縁」などとうそぶいてマイペースの読書を続けている。

 最近、比較的面白い本に出会う可能性が高いと思ったのが「本屋大賞」である。
 この賞は「芥川賞」「直木賞」などと違い、一般の書店員が面白い……と思う本を投票して決める賞なので、一般人たる自分の感性に近いものがありそうな気がしていた。
 調べてみると、近年読んで自分で面白いと思った本が何冊もノミネートされていることを知ったので、今年以降の方針として「本屋大賞に選ばれていた本」を中心に読書をしてみようかと考えている。

 さて、最後にまたこの「図書館日和」であるが、僕自身はiPhone、iPadの両方にインストールしている。
 携帯性やカメラを使ったバーコード検索の優位性はiPhoneにあるのだが、画面を拡大できるiPadでの読みやすさという点も捨てがたい。このため、「読みたい本」「借りた本」「読んだ本」の情報が、iPhone・iPadの双方に別々に混在するという不都合が生じ始めている。できればiPhone・iPadとの同期機能が欲しいと思う。
 またWebで拾った情報、ツイッター専用ソフトでツイートを読んでいるときに見つけた情報は「Evernote」にクリッピングするため、できれば「Evernote」との同期ができればより望ましい。機会を見てメーカーに要望をあげてみようかなと考えている。

 それはともかく、僕にとってこのソフトは図書館利用の友としてとても使いやすい。今しばらくの間、このソフトを使って読書を続けていこうと思っている。

見舞いに行く

2011-05-04 07:35:44 | つれづれ
 5/2 7:56 東京駅発の新幹線に乗り、叔母の見舞いに出かける。用事のある娘は残し僕とカミさんの二人だけで。
 全線開通から4日後の新幹線は何の問題もなく、定時運行で僕とカミさんを盛岡に運ぶ。
 盛岡駅から岩手医大まではタクシー、ほんの15分程度の時間だ。
 迎えにでてくれた父親と病院の食堂で早めの昼食。ちょうど巡回診察の時間だったらしい。
 昼食後叔母の病室に行く。あれほど大変な手術の後にしては叔母は元気だった。もともと気丈な人ではあるが、手術で辛かった話や、点滴で入れている薬の強さは語るものの、自分がそれ以上に辛そうな様子はいっさい見せない。
 見舞いに行っている親父の方がよけいな見栄を張ったり、いかに自分が大変だったかを語ろうとして、余計に見苦しい。
(親父が大変なのは解るのだが、自分から殊更にそれをアピールする事さえしなければ、もっと親身に聞いてやれると思う。こんなことで親父に優しくできない僕もまだまだ思いやりが足りない)
 病室でほぼ一時間、身の回りのことを尋ね終わったら、後はさほどやることもなくなった一度、叔母のところを辞して、改めて見舞いの品を買って戻ろうと思う。
 手術の直後で何も食べられず、体力の回復が最優先の叔母には見舞いの品も買ってこなかったのだが、6人部屋の同室の方々に何か挨拶の品を持ってくるべきだった。
 このため一度盛岡の街にでて、見舞い品を買ってまた病院に戻ることにした。
 病院を出ると裁判所の庭に「石割桜」がある。大きな石の割れ目に芽吹いた桜が、その成長とともに石の亀裂を押し広げて行ったとされる盛岡の名物だ。
 桜がちょうど満開だったので写真を撮る人も多かった。勿論僕も1枚。ツイッターに写真をアップして先に歩いていたカミさんを追う。
 盛岡市の大通りをそぞろ歩いて丸藤へ。お菓子の詰め合わせにする。ここのリーフパイは子供の頃の憧れのお菓子だったなあ。
 医大まで戻ってお菓子を同室の方々に配ると叔母に挨拶をして退出。盛岡駅まで戻り新幹線の指定を1時間早い列車に変更して待合室へ。ここはwiーfiが使えるコーナーだ。アイスのカフェモカの飲みながら時間まで待つ。乗り込んだ新幹線はちょうどこまちの連結時間だったらしく、席に座るやいなやドンという音と振動を感じた。さすがに地震ではなかった。
 新幹線は定刻に発車。仙台、大宮と遅れることなく19:07に東京駅に到着した。
 高速で、あるいは長時間移動を続けると、体の中に加速感の残滓のような感覚が残る。目を瞑ると移動するアスファルトが見えるような感覚。今日は一滴も酒を飲まなかったことでもあるし、この感覚を味わったまま過ごそうと思う。

2011GWの始まり。

2011-05-01 17:30:43 | つれづれ
 4/27夜。父親から電話があった、多少取り乱して。卵巣ガンになり投薬で抑えていたはずの叔母。実は肝臓、大腸、小腸にガンが転移していて、明日それを取り除く大手術を行うとのこと。何も知らなかった。勿論知っていたとしても何も為すすべはない。それを知って父もひた隠しにしていたのだろう。
 だが、もし大事になったら、知らされていたか、知らずにいたかの差は大きい。そう思って父も電話をしてきたのだと思う。
 でも、そんなこと手術の前の日に言われたところで僕らにもどうすることはできない。ただ手術が無事であることを祈るばかりだ。
 手術の翌日、父に電話した。9:00から始まった手術は20:30過ぎまでかかったとのこと、無事成功。父の言うには腹腔内から小振りの鶏一羽分、約1kg近くの肉と内臓を摘出したらしい。
 加えてこれも親戚の叔母から聞いたのだが、この摘出手術の成功率は5%だったとのこと。
 今更ながら驚くとともに、叔母自身の体力が保ってこの大手術が成功したことが奇跡のように思われてくる。
 失敗したら悲劇。うまく行ったからこそ笑い話になるのである。人生の分岐点は脆く危うい。

 こんな様子だったから、大学を卒業後半年に一度集まっている親友たちとの会合に発足後初めて欠席した。
 そもそも震災で被災後、自分だけ飲みに出かけることが躊躇われる雰囲気であったことに違いはない。
 それでも心の底では会合に参加したかったので、否応なく参加できないような理由が出現して、逆の意味でほっとしているというのも偽らざる心境であった。

 GWの前半はこうして過ぎた。実はこれから父に電話して、可能であれば明日の平日、日帰りで見舞いのため帰省しようかと考えている。(5/2は会社が休みの日なのだ)

 台風の目の中のような今年のGW。人生はまだまだ僕に「退屈」という感想を与えるようなことはしないつもりらしい。