A Rider's Viewpoint

とあるライダーのものの見方

何度考えても恐ろしい言葉がある。

2011-09-30 20:14:48 | たわごと
 何度考えても恐ろしい言葉がある。
「本当のことを言おうか」という言葉がそれである。
 一体、人はどんなシチュエーションでこの言葉を聞くのだろう?

 だまされていたことを告げられるとき?
 目の前の現実が、全くの偽りだったと教えられるとき?
 目の前に対峙している相手が、じつは全く立場や見解が違う人間だったことを告げられるとき?

 嘘よりも恐ろしい真実や、語らない方が平穏であるような物事。
 ……そんなことの前置きに使われるのが、この「本当のことを言おうか」ではないだろうか。

 本当のことを言われたとき、一体僕はどうなってしまうんだろうか?

 恐ろしさのあまり気絶する。
 こらえられない悲しさや悔しさに慟哭する。
 あまりのばかばかしさに苦笑する。
 感動して泣く。
 相手のその決意に呆然とする。

 どちらにせよ、聞かなかった昔にはもう戻れない。
 話す方も、言われた方も、心に傷を負わずにはいられない。
 ……そんな現実に追い込まれそうな気がする。

「本当のことを言おうか」

 あなたはこの言葉を聞きたいと思いますか?

使いこなすことと使い分けることについて

2011-09-25 10:23:03 | 所感
 一昨日、久々に大学時代の旧友達と顔を合わせた。
 彼等とは大学時代から同人誌を作っていて、創作もどきやら評論もどきやら、エッセイもどきを年2回発表し合っている。
 お互いの作品の批評と、多少は発生する経費の支払いと、近況報告を兼ねた集まりを「編集会議」と称して年2回行うことは、僕の生活の中のささやかではあるが大変重要なイベントなのだ。
 さて、その集まりの雑談の中で、ふと「スマートフォン」の話題になった。僕の友人達はいたずらに世の風潮に踊らされることなく、堅実に情報機器に接している。もっと端的にいえば「その必要がない限りスマートフォンは買わない」というポリシーである。

 逆に僕なんかはこういう電子ガジェットが好きで、シャープ 電子手帳、IBM ChipCard、SONY バイオ インフォキャリーなど家のどこかで埃をかぶっているような情報機器を次々と買って試していた。
 思えば僕がそのとき望んでいた機能そのものは、すべてある時期以降の携帯電話に装備されていたものではあるが、データの入出力が煩わしい、PCのデータと連動できない、使い勝手が良くないという理由から、ことごとく実用に耐えなかった。

 これらの機能~電話、電話帳、電子メモ、テキストリーダーに加え、ミュージックプレイヤー、ボイスレコーダー、インターネット閲覧端末、GPSつき電子地図、デジタルカメラ、小型ゲーム機までの機能を詰め込み、かつ洗練されたデータ連携と操作性を誇ったのが、今僕が使っているiPhoneである。
 そして、その唯一の弱点(と勝手に僕が思っている)画面の小ささを広げたのがiPadである。

 僕は基本的にゲームはしない。ボイスレコーダーもあまり使ったことはなく、電話も必要以上はかけない。
 だがインターネット接続して情報を探したり、ツイッターでつぶやいたり、気象情報を確認したり、図書館の書籍を検索したりは日常的に行っている。
 こんな時は圧倒的に画面の大きなiPadを使うのがほとんどであるが、通勤時に音楽を聴いたり、メールを確認するのは携帯性に優れたiPhoneを使うのがセオリーとなっている。

 僕はスマートフォンは使いこなさない。必要な機能だけを使い分ければいい。
 今の僕の生活にゲームはいらない。思いついたときにメモを取ったり、写真に収めたり、必要な情報を探せたり、暇つぶしに音楽を聴いたり電子書籍が読めればいい。
 そのために使いやすい機器であればいい。
 全ての機能を使いこなせなくていい。逆にそんなことはとてもできない。(能力的にも、必要性においても)

 自分の生活の中で、自分の望むことをサポートしてくれる機能。それを満たすために、どんなハードとどんなソフトが必要なのか?
 むしろ僕の興味はそっちに向いている。

 新しいiPhoneの発売の噂で世間が盛り上がっている。たぶんもう1~2週間のうちに発表されるであろう。僕は他のスマートフォンにほとんど興味はない。iPhoneだけが買えればいい。
 僕が今持っているiPhoneは2世代前の機種なので、今回発表される機種が気に入れば買い換えようと思っている。

 世間の風潮に流されることはない。自分の生活に必要なければ無駄なコストをかけることはない。

 しかし、もしスマートフォンのような、身近に携帯する電子機器で、あなたの生活を豊かに、便利にする可能性があるなら、年齢と共に多少は衰えてゆく記憶を簡単に補えるような使い方が考えられるなら、「食わず嫌い」はもったいないぜ。

……と、まあ、そんなお節介は言わせて貰おうかな。

ボルケーノ・ハイウェイ

2011-09-19 11:29:59 | ツーリング
ソロツーリングに行きたかった。スピードも、休憩も、目的地さえも勝手気ままで自由なツーリング、孤独ではあるがとびきり自由なツーリングに。
目的地はボルケーノ・ハイウェイ。近年無料になった那須高原有料道路である。

 9/18 6:30。布団の中でツーリングの夢を見ている。今までも数度、夢のままで走り出さなかったことがあったが、今日こそは違った。今日走りに行かなければこのシーズン内では出掛けられないだろうという覚悟があった。
 何故ならば那須高原は遠い。東北道のその峠を北に越えるとそこは白河。みちのくの玄関口である。東北出身の僕としては「関東の境界線」まで赴くという感があった。
 それに加えてボルケーノ・ハイウェイはいわゆる「袋小路」である。その峠を越えて別の場所に降りられるわけではなく、引き返して戻ってこなければならない。それ故、日帰りツーリングルートとしては優先順位が高い方ではなかったのだ。
 しかしながら今日は違う。とにかく徹底的に走りたかったのだ。それも一人で。

 シャワーを浴び、身支度を整えて7:51自宅を出発。今日はメッシュジャケットを着込みライディングブーツを履いた高速対応フォームである。しかしながらシートバックの中には文庫本とコンビニ袋に入れられたタオル。温泉立ち寄り準備も滞りない。途中で行き先を変えるにしても、何とでもなるような汎用装備ではある。

 8:50 羽生PAで朝食。パンとコーヒー。食い物に気を使わなくて良いのもソロツーリングならでは。
 ツーリング中であること、大まかな目的地をツイッターでつぶやいて出発。ヘルメットを被って出発。

 太陽は僕の右前から差している。右足の脛、膝、太ももが暑い。秋と言うには早く、夏と言うには遅いこの季節。メッシュジャケットは正解だったがジーンズとライディングブーツは暑かったかもしれない。

 佐野SAで早めの給油を行う予定だったが車線選択の都合で入り損なう。次の給油先、上河内SAの1km手前から給油ゲージがランニングアニメーション(給油モード)になる。有無をも言わせずSAにて休憩。
 仲間のつぶやきにResを返し、給油を終えた後再出発。ここからなら目的地はそう遠くない。

 「那須IC渋滞。1km手前より」という看板を不吉な思いで読む。「連休中日、午前中の観光地」だ。確かに出口前からの渋滞を仁義も情けもマナーすらなくすり抜けまくって料金所を通過。そのまま那須高原リゾートへ向かう道も路肩走行しまくりでボルケーノ・ハイウェイに向かった。
 リゾート地域を抜け、殺生石の辺りを越える時点で渋滞は落ち着き、ボルケーノ・ハイウェイ自体は比較的スムーズに通過した。しかし、今度は那須ロープウェイ渋滞に阻まれ、快適な峠道とはいえなくなった。ロープウェイ駅前を通り過ぎ、峠の茶屋まで行かないあたりでUターン。ヘトヘトになって峠道を降りてくる。

 途中の大丸園地で休憩。友人達より那須のお勧めスポットが提示されるが、残念ながら気力・体力が思わしくない。観光地渋滞の延々の路肩すり抜け走行でかなり消耗したようだ。
 そろそろ昼食の時間ではあるが、観光地でバカ高い食い物を食う気もせず塩原方面に抜ける県道30号を走る。昼食は途中のコンビニでパンでも食おう。

 そこそこに快適な県道30号を走り、県道400号と交差するコンビニで昼食休憩。サンドイッチとコーヒーを買って、店の日陰に腰を下ろし、そこでおもむろに昼食とする。コンビニの駐車場に腰掛けて昼食を取るなんて、ソロツーリングは気楽で良い。
 さて、改めてこの先のスケジュール組み立て直す。ツーリングルートとしては県道400号、日塩もみじライン、鬼怒川温泉を経由して今市に抜け、そこから日光有料道路~東北道を通って帰着するのがセオリーかと思う。
 しかしながら正直、片道3時間の工程はきつかった。前日の読書の関係で睡眠時間が4時間半程度しか取れていず、おまけにこの暑さと渋滞疲れである。無理をして行けない行程ではないが、楽しめないなら無理する必要もない。このルートは、また日を改めればよい。

 ……ということで、ここから真っ直ぐ西那須野塩原ICに降り、そのまま東北道を南下することにする。
 途中、眠くなってたまらずに佐野SAで休憩。30分ほど文庫本を読んだ後、復帰。15:50頃、無事帰着したのであった。同日はそのまま文庫本の残りを読み続け、25:00頃就寝。現在に至る。

 結局のところ、目的地に行ってとんぼ返りで帰ってくるだけのツーリングだったが、そんなのもたまにはいいだろう。
走りたかった道を走ったことに変わりはないのだから。

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月

2011-09-12 22:17:32 | つれづれ
 旧暦八月十五日。中秋の名月、十五夜のお月見の日である。
 幸いにも関東地方はからりと晴れ、名月を存分に味わえる空模様である。

 こうやって月を眺めたのは、震災後の計画停電の時の『スーパー・エクストラ・ムーン』以来ではないか?

 ほんの少しだけ熱気が薄れ、確実に秋に向かうこの季節。寒くもない気候で夜空を眺められるのも稀有なことではなかろうか。

 月なんて、いつも当たり前のように見られると思っているけど、本当に美しい月を快適な環境で見られるという事はあまりないかもしれないぞ。

 名月だ。楽しめ俺!今のうちに!!

掛け時計

2011-09-04 08:42:48 | 所感
 居間で使っている掛け時計が壊れた。一日の間に目に見えて時刻が遅れはじめ、時計としての用を足さないほどになっていた。
 最初は電池が切れたものだと思い、新しい電池に交換した。 交換後すぐの間は問題なかったが、数日を経る頃にはまた遅れはじめた。機械的な損傷であろうと思った。

インターネットで探し出した時計修理店を訪ねたのは、その週末のことである。
 持ち込んだ時計を見た店主は顔を曇らせた。「ずいぶん薄型のムーブメントだな……」どうやら現在の主流になっているものとはタイプが違うらしい。
 掛け時計は比較的簡単な構造のように僕は思っていた。裏側の、電池を入れて針を動かすムーブメント自体を交換することで比較的簡単に直るものかと。しかし、店主の口振りから察するに、その考えは甘いものであったようだ。

「月曜日にメーカーに問い合わせて、部品があるか、代替品があるかを確認します。メーカーに残っていない場合、現在入手できるもので、似たようなものを探しますが、見つからなかった時は修理できません」
 きっぱりと話す店主に僕は好感を持った。
「かなり薄いムーブメントを使ってますからね、大きさが合うようなものでも、針との距離が長いとガラスの下に針が収まらないことがあるんですよ」
 ……どうやら僕が思っていたほど単純な事態じゃないらしい。
 しかし、なんと言っても向こうはこの道のプロだ。信頼して任せる他に道はない。
「はい。最終的に直らなくても仕方ありません。お任せしますのでよろしくお願いします」僕はそういって頭を下げ、その店を後にした。

 週が明けた月曜日、僕の携帯電話に件の店から連絡があった。
 結論から言えば修理はできないとのこと。メーカーが生産を終了し、部品自体の保管期限が終了してから既に10年以上が経過しているそうだ。
 時計屋のご主人に礼を言い、週末に取りに行くことを告げて、僕は電話を切った。自然にため息が漏れた。

 その時計はもう20年近い昔、僕が家内と新しく所帯を持ったときに仙台市の電器店で買ったものだ。
 家電製品には比較的無頓着な彼女がこだわった「秒針がないもの、文字盤がシンプルでごちゃごちゃしていないもの」というリクエストに従って、二人でいくつかの店を巡って探し出したものだ。

「時計はいつも目にするものだから、視覚的に煩わしさを感じないものがいい」

 初めて二人の価値観が一致した。その選択眼で選んだ時計、それが居間の掛け時計だった。僕はこの時計を捨てるつもりはない。大事に保管しつつ、修理できる方法をあきらめ悪く探し続けるだろう。

 でも、いずれ僕達は新しい時計を探す。新しい僕らの歴史は新しい時計に仮託され、新しい時を刻んで行く。

「あと何年、僕等は同じ時計を見つめて一緒の時を過ごすことが出来るのだろう」

 僕らは逃れることのできない時の中を生きている。
 あらかじめ失われることが判っているのだから、その約束を前に過ごしている今の一日はとても愛しい。

 良くても、悪くても、かけがえのない一日を生きている。いま僕はそう思っている。