A Rider's Viewpoint

とあるライダーのものの見方

1月8日~・悪夢から始まった

2013-01-27 21:40:51 | つれづれ
朝6時半、携帯電話がなった。発信元電話番号は019から始まっている。盛岡だ。一瞬にして目が覚める。こんな電話は病院以外に考えられない。
母の脈が感じられず、呼吸も止まったという。1月3日の時も一度は持ち直したから今回も大丈夫かもしれない、という考えと、もう無理だろうという考えが交錯する。
追って父からも電話。すぐ病院に向かうという。
自分も支度しようとするが、どうしても引き継ぎしなければならない案件のため、一度は会社に向かった。

会社で最低限の引き継ぎを終えて家に帰って来たが、身支度に気が入らない。礼服を探したり靴や鞄を何度も検討したりしているだけで、いたずらに時間だけが過ぎている。
父からかかってきた電話で、何十年ぶりかで叱られて、自分がうろたえていたことに気づく。
まだ呆けている僕に淡々と父が告げる。母が亡くなったと。
朝一番で盛岡に向かったならば、父と僕の前で死亡宣告をしてくれるよう御配慮いただいたようだが、病院に着く時間が遅くなることが明白になった時点で主治医が父の前で死亡宣告をしてくれたという。
2013年1月8日午前9時。これが診断書に記された母の逝去日時である。



母は着替えさせられて、化粧を施され、岩手町の実家に運ばれた。僕が乗る新幹線が故郷の駅に着き、タクシーで自宅に着いた時、自宅には既に黒白の幕がかけられていた。
荷物を置く間もそこそこに、母が寝かされている部屋に赴き、死に水を口に含ませる。
『本当にお疲れ様でした』
病魔と戦い続けた母なのだ。疲れきっていたのだろうと思う。

思えば、『仕事始めの1月7日は、絶対に出社しなければならない』という言葉は、母にも聞こえていたのだろう。1月3日に一度危篤となり、持ち直して僕が帰った6日、仕事始めの7日は持ちこたえて、8日に亡くなったのだから。僕のために頑張ってくれたのだ。そう思って、母に手を合わせた僕だった。

それからの数日、母を荼毘に付すまで、僕は公的機関の届け出と手続き、病院等への支払いに忙殺された。
小さな田舎町の中だけでは手続きが完了しないこともあり、僕は何度も実家のある町と盛岡市を車で往復することとなった。思えばこの仕事が、良い気晴らしになったのだろう。母のことだけを鬱々と考えて過ごすことはなかった。その後の弔事の準備も父と二人でなんとか終えることができた。斎場に泊まり込んでの線香番、通夜、葬儀の挨拶等、父に代行して僕がやったことも多い。今思い返すと夢を見ながら流れるように事が進んだような気がする。

そうそう、そう言えば不思議なことがあった。
母を荼毘に付し、お骨を収めた箱は僕が持ってバスに乗ったのだが、僕が手を添えていた右側の下の部分だけが暖かかった。粉雪が舞うとても寒い日、箱の右の面全体が暖房に向かっていて暖かいなら説明も付くが、僕が手を添えているその箇所だけが暖かかったのだ。隣に座った娘にも、その暖かさを確認してもらった。

不意に「これは母が僕の右手を握ってくれているのではないか」と感じた。
そう思った瞬間から涙が止まらなくなった。口をかみしめて、声を殺して、僕はマイクロバスの一番前に座って静かに涙を流し続けた。隣に座った娘が、僕の左腕をさすってくれていた。



もうひとつ、僕には後悔していたことがあった。認知症が故に、いや自分の臆病さから、僕は母に病状の説明をしなかった。医大でも治療の術がなく、緩和ケア主体の病院に転院させる時ですら、僕は母に「新しい綺麗な病院に移るからな」としか説明しなかったのだ。

しかし、これは転院に付き添った家内が聞いてくれていた。斎場でその事を話した僕に、母が自分の状況を察してくれていたこと。解っていて、それでも信用して、何も言わずに従ってくれていたことを聞かされた。

真実を告げるのが怖くて、自分から逃げ出してしまっていたことも、多分母は理解してくれていたのだろう。
僕は弱い。身勝手だ。
だがそれを母に詫びる機会は永遠に訪れない。
僕はこのことを生涯忘れない。そしてもし、冥府の地で母に会うことができたなら、その時に自分の臆病さを詫びようと思う。



某日、悪夢を見た。近年考え得る最凶の悪夢。
それは出棺時の搬送中に母の柩を取り落としてしまうというものだった。

飛び起きた僕はこれが現実ではなかったことに安堵し、今年始めて意識に残っていた夢であることに苦笑した。長く見ていなかった初夢で、こんな夢を見てしまうなんて……。
どこからか母の「お前は昔から、おっちょこちょいだったからね」という声が聞こえたような気がした。



今年は悪夢から始まった。
でも僕は、今ようやく現実に帰ってきたような気がしている。縁起でもない悪夢。しかしそれは現実ではなかった。そんな失敗は現実には行わなかったのだ。

夢は夢、現実ではない。
これは、夢に逃避したり、現実ではないことに捕らわれたりしないで、足元をしっかり確認して、きちんと歩き出しなさい、という母からのきついメッセージではなかったろうか。
むしろ、無理矢理にでもそう考えることで僕は現実に帰還する。醒めない悪夢を振り払って現実に戻る。
たぶんそれが母の望みでもあり、きちんと現実で生きて行くことが僕の務めでもあることだから。

2013年1月3日~6日・初夢をまだ見てない

2013-01-26 23:53:42 | つれづれ
初夢をまだ見てない。断片的に何か夢らしいものは見ているようなのだが、それが記憶できるほどの意味をなしていないため、夢と認識出来ていないのだ。だからあえて言う、僕は今年、まだ初夢は見ていない。

新幹線の中で目覚めた。東京から盛岡に向かう車中。
母親の容体が良くないと聞かされて、病院へ向かう途中だ。

なんか、今の方が夢の中にいるような気分だ。
醒めない悪夢の中、近未来に訪れるであろう出来事を怖れる心の晴れない霧。
トンネルの中、窓に映る自分の顔は、何かにおびえているように見える。

とにかく今は何もする事はできない。早く病院に行って状況を把握しなければ。
今できる最善の事を僕はするだけだ。



病院に着いたら、父が待っていた。微弱だった脈が点滴をしたら復活したとのこと。体は既にむくみがでており水分を受け付ける余裕がないのだが、点滴で改善するならと、利尿剤を入れた点滴をしてくれたとのこと。
しかし相変わらず病状に変わりはない。母の状況が「ファイナル・カウントダウン」であろうことは推測できる。

父と話し、容態を聞いて駆けつけてくれた伯母と話す。
僕自身は今日から数日、家族控室で寝泊まりすることになった。父と伯母を見送り、部屋に案内され寝具を受け取った後、最寄りのコンビニに夕食を買いに出かけた。
病院を出ると雪が降り積もっている。温度の低い、サラサラの雪が降り積もったキュッキュッという音が足下から聞こえる。歩道はそうでもないが車道は踏み固められた雪の表面が凍って氷のようになっている。交差点を渡るたびに滑らないように、転ばないように気をつけなければならない。
コンビニに付いて夕食と朝食、歯ブラシと石鹸とタオルを買う。
着のみ着のままで出かけてきたのだ、何の用意も出来ていなかった。
病院の家族控室に戻ると夕食を食べ、母親の病室に戻る。
消灯の時間まで子供の頃の思い出話をしていたのだが、母には聞こえていただろうか?



ソファーベットの背もたれを水平に倒し、枕と毛布を用意する。部屋のエアコンは30度に設定しているが暑いということはない。20:00時点での気温が氷点下6度8分。寒いというより凍えるような気温だ。
ベルトをゆるめ、ベッドに横になる。あえて靴下すら脱がずに仮眠の体制に入る。
ドアの曇りガラスから射し込む蛍光灯の灯りが意外と眩しい。そうか、ここは病院だ。深夜であろうが廊下の照明が消えることはない。

暑いとか、寒いとかはあまり感じない。ソファーベットの革の窪みが妙に気にかかる。
僕は寝られたのだろうか? 夢も見ず、浅い微睡みを何度か繰り返しているうちに朝がやってきた。
相変わらず、まだ夢は見ていない。



1月6日朝。昨日の夜は少しは暖かく寝られた。
追って容態を見に駆けつけた娘。一泊で様子を見に来た娘を盛岡駅まで見送りに行き、着替えと膝掛けを買ってスーパー銭湯に寄って来たからだ。

昨日は叔母に、祖母を介護して迎えた最後の瞬間の話を改めて教えて頂き、その内容に涙した。
祖母は献身的に介護してくれた叔母に向かって「あんたも疲れただろ? ちょっと休んでおいで。私も疲れたから、ちょっと寝るから」と言って叔母を休ませ、ひとりで眠るようにこときれたという。
奇しくもその日は、叔母が祖母の介護の日々を綴った「絵手紙」の展示会が催され、その展示会が無事終わった日であったということだ。
95歳で亡くなった祖母。母はまだ80歳にもなっていないというのに。

また、もうひとりの大叔母からは父と母が諍っていた頃の話を聞かされた。
プライドが高く、自分が間違っていることを認められない父。そんな父に困惑した母は、父方の親戚~姑であった祖母の親戚にまで、父の身勝手さを訴えていたというのだ。
父の性格を知っていた親戚は父のことを諌めるのではなく母に耐え忍ぶように諭し、事態が大事にならないよう、父の耳にその事が届くことのないよう、母の訴え自体を封印した。
父は母の訴えを感づいていたようではあるが、あえて気付かないようにしていたらしい。
しかし、その代わり、母が認知症になったことを殊更に周りに訴えた。『自分は何もしていない。全ては認知症になった母の繰り言だ』と自分を正当化するように。
しかし、人はそう愚かではない。普通は隠すであろう自分の妻の精神疾患を吹聴して歩く父は、それ故に「何か裏があるのだろう」と周囲の人の信頼を失った。

自分の父のそんな話を外から聞くのは快いことではない。しかし、僕自身も肉親としてではなく、ひとりの男として父が認められないことがある。
父は自分が不幸だと嘆く。何で自分だけがこんな目に遭うのかと泣く。
しかしそれは自分が招き寄せたことだ。自分の責任として人生を受け入れ、毅然としてそれに立ち向かう姿勢が感じられない。
「自分のことを憐れむヤツは最低だ」というセリフがあったのは『ノルウェイの森』だったろうか。
自己弁護に終始し、自分の大変さを声高に訴える父は、肉親というフィルターを通してさえ、いや肉親であるからこそ、余計に見苦しい。



今、伯母が見舞いに来てくれた。母親を呼び捨てにできる唯一無二の肉親。
凛とした声で「順番が違う」と優しく叱責する声を聞いただけで、思わず涙がこぼれるところだった。
伯母が帰った後、体を横たえに家族控室に戻る。

家族控室の中で簡単な昼食を摂る。コンビニのサンドイッチとチョコレートバー、それにペットボトル入りの玄米茶である。交互に口にするのでなければ、サンドイッチと玄米茶の組み合わせは悪くない。もっとも玄米茶は朝食のおにぎりに合わせて買ったのではあるが。サンドイッチと玄米茶の方が、おにぎりとミルクコーヒーの組み合わせよりはましに思えただけだ。
身体をソファーベットに横たえると引き込まれるように眠りがやってきた。病院泊も三泊四日目、身体の芯に疲れが蓄積されてきたようだ。
はっと気付くと時刻は12:58。あっという間に50分が経過していた。夢なんか見ている暇すらなかった。
続けて眠りに引き込まれそうになるのを押さえて荷物の片づけをする。明日は会社だ。今日中に自宅に戻らなくてはいけない。幸い16時台の新幹線の末席に予約が取れた。20時までには自宅に戻れるだろう。
明日は仕事始めで相当に忙しい。たぶん今日も倒れ込むように眠りにつくことになるのだろう。

そうか、僕が初夢をみられないのはたぶん自明のことなのかもしれない。
何故ならば、僕自身がいま、醒めない夢の中にいるようなものなのだから。