A Rider's Viewpoint

とあるライダーのものの見方

突発的に

2009-04-12 16:54:56 | ツーリング
 うとうとと軽く二度寝をして目覚めた土曜の朝はとてもいい天気だった。
 コーヒーメーカーでコーヒーをいれ、ハンバーガー用バンズをオーブントースターにセットし、フライパンにハンバーグとハッシュドポテトを乗せ弱火で焼く。
 新聞の土曜版を読みながら朝食を食べ一息ついたらオートバイに乗りたくなった。
 何も予定を決めていない突発的なツーリング。頭の中に地図を浮かべ行き先を考える。そうだ今日は高速を使い、アクアラインを一回りしてこよう。帰りに銀座の某店に寄って地元産のワインを買って……。

 昨年作った革ジャンと革パンツに着替えCBのカバーを外す。シートバックをつけヘルメットをかぶりグローブをはめたら走り出す。
 まず慎重に一つ目と二つ目の角を曲がる。直進して信号のあるT字路を左に。川沿いの桜が咲き誇る道を西に、小学校の角を左に、突き当たりを左に回って湾岸道路を東に進む。やがて湾岸市川から高速に乗り、習志野料金所のETCゲートをノンストップで通過する。4気筒DOHC1300ccのエンジンは毎分4千回転弱で回り続け、約300kgの車体と人間の重さを時速100kmで風の中を切り裂かせる。
 前輪の前に、流れゆくアスファルトをスクリーンにして、自分の影が左右均等に映る。ハンドルとバックミラーと、ハンドルを握る僕の両手。どうやら太陽は僕の真後ろから僕を照らしているようだ。
 午前8時半頃自宅を走り始めた僕は、ちょうどその一時間後くらいに、アクアラインの海ほたるパーキングエリアにオートバイを停めた。
 両手にオートバイの振動が痺れとして残っている。両手を叩くと軽くジーンと痺れる程度の疲れ。シートバックを手に、ぶらぶらと海を見ながら休む。牛串を食べたり、お茶を飲んだり。観光客でいっぱいの海ほたるは朝から賑やかだ。
 途中、オートバイの集団が木更津方面に向かってゆくのを見る。房総方面へのマス・ツーリングだろうか? 行く先の無事と安全を願う。
 かくいう自分も運転免許の残り点数に余裕がある訳ではない。自分自身へも無事、無事故無検挙で帰宅したいと思う。

 海ほたるを出る際、デジタル・ミュージック・プレイヤーとカナル型ヘッドフォンを仕込んでヘルメットをかぶる。’70年代音楽のCD。クイーンの『伝説のチャンピオン』の出だしてボリュームを合わせ、高速道へ走り出す。ポールマッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』をアクアラインの地下道路で、デビッド・ボウイの『スターマン』を羽田空港近くで。湾岸高速・大井料金所を通過し、新しくできた豊洲出口を通過し晴海通りへ。ミニー・リバートンの『ラヴィン・ユー』が流れるころ、オートバイは銀座・歌舞伎座付近の店に到着した。

 午前10時22分。その店の開店はちょうど10時半なのでヘルメットを脱ぎ、サイフを準備して店の前でオートバイに寄りかかって待つ。その店の前にも数人、反対側の歌舞伎座には大変多くの人が並んでいる。何か大きな公演でもあったのだろうか? 歌舞伎に疎い僕には何もわからない。
 そうこうしているうちに開店時間となる。店の前に並んでいた人は限定数十個の弁当が目当てだったようだ。「前沢牛ステーキ弁当(だったかな?)」僕も味見がしたかった。
 白ワインを2本棚から取り、まだ人の少ないレジに並ぶ。「ご自宅用ですか?」の声に「そうです」と答え「このカバンに入れてゆきます」とシートバックを見せる。「割れないようにお包みしますね」と緩衝材で瓶を包んでくれる若い女性店員。シートバックに瓶を入れようとして、僕と手が触れあったことを、ちょっとはにかんでいたのが印象的だった。
 月並みな演出のドラマならこれが恋の始まりにでもなろうものだが、高校生の娘がいる中年オヤジと、自分よりは娘の年齢に近い女性店員には、そんな無茶な展開は起こりうるはずもない。馬鹿な妄想を続けることなく店の外に出る。
 暑い。朝から晴れわたった青空は、空気の温度を容赦なく上げている。革ジャンの下のマイクロフリースを脱ぎ、ポロシャツの上に直接革ジャンを羽織り、オートバイを走らせる。

 自宅に無事帰り着いたのは、午前11時。たった2時間半の短いツーリング。
 邯鄲の夢ほど大げさなことではないが、カミさんと娘はまだ眠っていて、僕が走りに行ったことも気がついていないようだった。

桜の季節

2009-04-05 10:45:35 | つれづれ
 桜の季節がやってきた。僕の家の近くの川沿いの桜も9分咲きから満開の間といった風情で花がみっしりと枝についている。

 それにしても桜というのは、他の草木にはない特別なイメージがあるのは何故だろう。
 梶井基次郎の『櫻の樹の下には』とか、坂口安吾の『桜の森の満開の下』、果ては戦時中のプロパガンダとして悪用された「潔い死」を表すイメージ。そこはかとない不安や焦燥感、狂気、そして死。
 桜のあの美しさの陰には必ずこんなイメージがついて回るのだ。

 ふと、こんなことを思った。

 日月や時間を知る手段が現在ほど発達してはいない昔、桜というものは一年という時間の経過を知らせる自然の暦ではなかったのか、「一斉に咲き、一斉に散る」ということで「一年が過ぎ去ってしまった」ということを否応なしに人間の目の前に突きつける仕組みを持っていたのではないのか、と。

 時が、歳月が過ぎゆくことを人々は桜をもって教えられる。
 未来に対する希望を抱いている人ばかりならば良い。
 しかし「また一年を無為に過ごしてしまった」とか、「自分はあと何回の桜を見ることができるのだろうか?」とか、そう思ってしまう人間には桜が象徴する「一年」という区切りは、焦燥感や死への不安の象徴に映ったのではないだろうか?
 それが故に桜には「死と不安、それを受け入れられない人間を狂気に誘うイメージ」が植え付けられていったのではないか?

 今日は僕もこれから桜の木の下を歩く。
 妻と娘と一緒に散歩をし、川向こうのコンビニで簡単に酒肴を揃え戻ってきて桜の下でそれを食べる。なんの趣向もない花見だ。

 たぶん桜には何の意図もない。それを眺める人間が勝手にイメージを抱きそれを桜に結びつける。
 まあいいさ。誰がどう思おうと桜は桜。僕は僕の立場で桜を眺め、感嘆してみたり怪しんでみたりしよう。

「花見」というイメージに人は「桜の下のどんちゃん騒ぎ」というイメージを抱きやすい。
 しかし古来より桜はいろいろなイメージを人に与えてきたのだ。
 今年は、そういう観点から、改めて桜の季節を見直してみようと思っている。