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「室町小説集」 花田清輝

2019-07-09 21:51:09 | 読書

「吉野葛」谷崎潤一郎は室町時代の小説を書こうと。そして題材は豊富にある。と意気揚々としていたが、結局飽きたのか、関心が他に移ったのか放棄する感じで中断した。はじめ谷崎潤一郎を批判していると思った。読んでいると反対に谷崎を弁護しているようだ。

後南朝を放っておいたらどうもなかったのに、あえて足利幕府は触れて騒動を起こした。
三種の神器は誰の目にもすることができない。疑問に思っていたのは、たびたび目にする三種の神器は箱のようなものに入って表は包まれている。ではそれらは太古の昔からのものなのか?途中壊れたりして移し替えることもあるだろう。その時に中の神器を見ることがあるのではないか?とおもっていた。ここで出てきたのは、納める箱が朽ちてきたらその箱ごと新しい箱に納めるらしい。つまり中を見ることなく新しい箱に納めることができるということなのだ。
「画人伝」これは小説なのだろうか?読む限り小説感がない。論文=説の意味だろうか?小さい説=小論文?画人の話で忠阿弥と言う画家の絵について評論するように話は進む。宮本武蔵の枯木鳴鵙図を引き合いに出したり、井伏鱒二の「鞆之津茶会記」でも登場した牧谿なども出てくる。しかし、読みながらネットで実際の絵を検索しているうち、忠阿弥と言う人物は実在しないのではないかと気づき始める。だとしたら衝撃的だ。いかにも実在の人物の実在する画について論じているような気にさせておいて、そもそも創作なのだから実在しない画を、実在する画と比較して架空の論を展開しているわけだから。
結論が尻つぼみだ。忠阿弥の絵は近くのものは大きく遠くのものは小さい、遠くのものはピントがぼやけているという遠近法があまり強くない。つまり全焦点、パンフォーカスということだ。作者は歴史を語る時にはその絵のように全焦点の観点を持ちたいというのだ。
「開かずの箱」八坂瓊曲玉を小寺藤兵衛入道と勸修寺経茂が奪い返そうとする話。今、奥吉野にあるといわれる曲玉だが、奥吉野に詳しい経茂という没落した公家を何とか取り込み、入道は奥吉野に向かう。経茂が結構な怠け者でなかなか狡猾なキャラ。曲玉に関しては謎の部分が多い。何しろ誰も本物目にしたことがない。冷泉天皇や花園天皇はみたかもしれない。箱に入れられ布に包まれているが、その布が年月とともに破れたりしてもそのまま新しい布で包んでしまうという。そんなデコボココンビの入道と経茂は曲玉を持ち返ることに成功したようだが史実では赤松満祐の牢人である小川弘光の名前しか出てこない。小川満祐によって手柄を横取りされたらしい。この短編が一番面白い。小寺藤兵衛は名字の通り、黒田官兵衛の主君である小寺政職の先祖らしい。
「力婦伝」近畿には丹という文字の入った地名が多い。丹とは水銀のことで、近畿では水銀がよく採れたからだと言われる。丹生川上神社の小川弘光は水銀を原料とした丹薬を飲んでいた。もちろん今の時代では分かりきった事だが水銀は毒であり、不思議な術が使えるようになるだとか不老不死になると言った効用はなく、寧ろ体を蝕む。ところが小川弘光はそんなそぶりは見せなかったという。金丹の話が挿話として出て来て面白い。細川政元も仙丹マニアだったらしい。
前作では最後に少し出てきた小川弘光だが、ここでは反対に中心人物であり、小寺藤兵衛入道や勧修寺経茂がチラッと登場する。
三の公と呼ばれる南朝の御所。万寿寺宮の妻で山邨御前は甲賀出身。息子は自天皇と忠義王。山邨御前は夫と息子たちを赤松の刺客によって失う。その後神璽を一人で守ったという。
小川弘光はある夜歩いていると空に赤い月が2つ出ているのを見つけ驚く。と同時に空に2つの月、世に二王もあり得ると考えるようになる。一方小寺藤兵衛は奪おうとしている神璽は三の公に山邨御前一人で守っているだろうから、川を塞き止め洪水を起こせば、神璽を携え脱出を図るだろう。そこを奪えばよいと考えた。小川弘光は小寺からその作戦でもって協力を求められたが、作戦の杜撰さと、北朝と南朝に王が二人もやむ無しと考えるようになっていたので協力をしぶった。しかしこの洪水を起こさせる作戦などは後年の黒田官兵衛による備中高松城の水攻めに結び付くのが面白い。
曲玉を手に入れた小寺だが、自分自身は情けなくも御前に捕らえられ、マッサージの腕を買われ、近くに仕えることになった。タイトルの力婦と言うのは御前のことで、体も大きく腕力もあったことからだ。さて手に入れた曲玉の方は小川弘光に渡したが、手に入れたら手に入れたで、自分は神にでもなったとでも錯覚し、高飛車になり、手放そうとしなかった。その後伊勢の国師である北畠教具が一万貫で取引しようということで、やっと曲玉を手離した。「開かずの箱」で、小寺の名前が出てこず、いかにも小川弘光の手柄のように史実が伝えているのはそのためである。と言うのは本当かどうかはわからない。
「伊勢氏家訓」礼儀作法と言えば小笠原流だが、当時小笠原流を越える勢いのあったと言われる伊勢流。その作法の話。作者お馴染みの風呂に入るときは左足から入り、出るときは右足からなど、他愛のない話題から始まり、さらに猛烈に余談が入り、いったい主題は何か全く予想できない。結末は。そんなことを言いたかったのかと、肩透かしを食らったような、お見事と言ったような。
「室町小説集をめぐって」これは作者による解説のようなものだ。これを読んで大体自分の感想と同じだった。その点では作者は意図したことを完璧に伝えることに成功している。ある種ペダンティックで、知ってる知識を片っ端から披露し作品を構成しているのだが、随分引き込む力がある。読みやすく、時にユーモアがあり、こちらがあまり情報のないことをいいことに、嘘か本当かわからないが、それらしく納得してしまう。
 
20190603読み始め
20190709読了

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