結局ケン・ウィルバーの意識の進化という考えから勝手に連想していったのですが、
意識というものが元々は小さいもので、それがだんだん進化・発展して、今のようなレベルにまで到達した。という考え方からアプローチしてみようと思い立ちました。
まずは仏教にそんな考えに近いものがあるのではないかと探していたら、何となく空海の思想に似たようなところがあるのを見つけました。
十住心論。人間の心が迷いから悟りに至るまで十の過程をのぼっていく。というような考えです。すごく近いんではないか?と期待して、さすがに十住心論は読み切れないと思い、そのエッセンスを抜粋した秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)を読んでみました。
空海コレクション 1 価格:¥ 1,470(税込) 発売日:2004-10-07 |
確かに悟りに至る10のステップが記されているのですが、ちょっと現実的な感じですね。
こういうことをしてはだめです。とかこんな感じに生きなさい。という感じ。
今回は科学的にということなので、少し違うかな?と。
(ところが、インド哲学を読んだ後に秘蔵宝鑰を読み返してみると、気になる箇所も今更ながら発見。読み返してみる必要があるかもしれない)
そこで、もっとオリジンの方に遡ってみようと連想し、インド哲学にたどり着きました。
立川武蔵「はじめてのインド哲学」は非常にわかりやすく、しかも極めて客観的に解説されているので、結構興味深いです。これで概要をつかんで、必要な箇所はさらに詳細に調べようと思います。
インド哲学というと一般に怪しい神秘宗教みたいな印象を持たれていると思いますが、そうではなく自然科学が生まれる前の科学って感じですね。あらゆるものが原子(あるいはもっと細かい粒子?)からできているとか、人間というのは地球というところにすんでいて、地球というのは宇宙の中の一つの星で・・・とか言うことがまだ全然わかっていなかった時代に自分とは何か?宇宙とは何か?というのを考えていた一種の科学ですよね。
なんか私たちは自然科学というのを発見しそれを突き詰めてしまったばかりに、本来インド哲学から発展していれば意識とは何か?なんていう問題は解明できていたかもしれず、思考の方向を誤ってしまったのかもしれない。なんて考えてしまいますね。
タイトルの「なぜ至ったか?」ですが、これが到達点という意味ではありませんので、くれぐれも。途中経過なので色々寄り道していきますよ。