ビールを飲むぞ

酒の感想ばかり

「小説日本芸譚」 松本清張

2018-02-28 23:53:50 | 読書
運慶に始まり芸術家10人の短編集。古田織部目当て。それにしても松本清張はこういった歴史小説を書いているとは意外だ。また新潮文庫の1作目なので何らかの意味のある重要な小説ではあるのだろう。
「運慶」新しい表現法を取り入れる快慶への嫉妬と軽蔑。カズオイシグロの登場人物に近い心情だろうか。自分よりもしかしたら上なのかもしれない。それを認めたくないから、欠点がないか粗探しをして無理矢理自分の方が上だと納得しようとする。しかし、これが時代の流れなのだ。古いものは新しいものに取って代わっていく、と悟る。そう悟る点では清張のほうがイシグロの上をいっているのか?
「世阿弥」足利義満から厚い庇護を受けていたが、義満が死去し義持の代になるとともに冷遇されるようになる。義満は長男の義持より、次男の義嗣を可愛がっており、将軍になった義持は、義嗣と仲の良かった世阿弥のことが嫌いだったのだ。それ以降転落の人生が続き歳だけは重ねる。ただ書を記すことにも才があったため、膨大な書(芸術書)を記し続けた。将軍義教の時には追い討ちをかけるように些細なきっかけで佐渡に流罪となる。義教は暴君で知られておりその煽りを受けたのかもしれない。ただ、世阿弥には驕りのようなものが秘められていて、山上宗二と似たものを感じる。ただ義教が暗殺されたさい流罪を解かれる。その後も書を書き続ける。その心中には、老いてしまった自分は、若いものには能力では劣ってしまうが、老いてこそ表現できるものがあると、若いものは負けないと言う矜持があるのだった。ここでもカズオイシグロの小説の主人公と同様の心理的葛藤が見られる。
「千利休」もともと信長の茶頭だった利休だが、信長の真似をしたがる秀吉にとって変わられた。信長は茶の湯の芸術を理解し利休の考えとも共感していた。しかし秀吉の茶には違和感を感じた。茶を学ぶ熱心さは感じられたものの、芸術ではなく虚栄のためのものと秀吉は考えていたようだ。そんな秀吉に利休は我慢ができない。それが言葉には出さないが態度に表れる。その態度が気に入らない秀吉であり、いつしか二人は険悪になる。利休は生きるか死ぬか勝負してやると言う気持ちになる。芸術としての死を賭けた勝負。大徳寺の事件のあと、いよいよ秀吉が死を申し渡すのではないかと薄々感じられるようになる。ただその期におよんでも本当に死を与えるのか半信半疑だった。そして堺へ蟄居させられ、京に戻され言わば罪状を申し渡された。それは切腹だ。つまり死を賜った。しかし利休はそれによって秀吉との勝負に勝ったのである。松本清張の解釈は、利休と秀吉の芸術的感覚の相違が、互いの関係を悪くした。天下人である秀吉に対して全く媚びることなく、あくまで芸術家として対等、あるいは上からの立場で、あからさまに敵愾心を見せた。それに我慢できなくなった秀吉がついに利休を断罪した。という解釈である。
「雪舟」幼少の頃涙で描いた鼠が生きているかのごとくという話や、恵可断臂図のことは出てこない。絵が巧いというイメージであったが、ここでは不器用なそして自分より器用で嫌味なライバルである宗湛に内心嫉妬し、悪態をついている卑屈な人物だ。不器用であるがそれゆえ手本を倣うのではなく独創的な絵を描くことができた。明に渡り先人に画を学ぶ機会を得た雪舟だが、実際は自分の知る画人は既にこの世になく、最先端の絵を描く人物の情報が全くなく、接触しようと試みるが空振りに終わる。実際は明に渡ったものの何も収穫がなかったというのである。そして帰りの船で画の師には会うことができなかったが、本場の風景をこの目で見て体験することができた。それこそが師であると、負け惜しみを言うのだった。だがそれによって自由な発想で日本にそれまで無かった画を生み出すことができたようだ。
「古田織部」利休に対する織部の心情が中心となる。先の千利休の短編と矛盾ない展開。織部は利休を尊敬している。しかし何か違和感のようなものを感じていた。反抗しているわけではない。この違和感によっていずれ利休に重大なことが起こるのではないか?と漠とした予感を感じている。堺へ蟄居した時。そして切腹をして果てた時にそれに気づいた。それは、利休のあまりに完成され一部の隙間もない様式に気圧されていたのだ。実は秀吉も同様の想いだったのではないか。利休に対する時、あまりにも大きな重圧を感じていたのだ。それが無くなった今、むしろ安寧な気分、解放された気分になったのだ。それは町人の茶である。それゆえ織部はもっと解放された茶を作り出そうとした。茶室を明るくしたり、ひょうげた形の器を用いたり。それが武家の茶というものの創造につながった。時は流れ織部自刃の際、同様に自刃した利休に想いを馳せる。利休は町人の茶に我執した。自分は武人の茶に我執した。さて自分は利休を超えることができたのだろうか?
「岩佐又兵衛」この画人のことをあまり知らない。ただ、漫画「へうげもの」に出てくる反骨な若者という印象は残っている。これを読む前に岩佐又兵衛について調べてみると面白い。信長に謀反を起こした、あの荒木村重の息子だという。親子揃って信長の時代には不遇であったが、信長が死んだあとは身の安全も確保され、一緒に暮らすようになった。ただ、親子関係は暖かいものではなかったようだ。村重の死後は、織田信雄の養子になるがそこでも関係は冷たいものだった。絵の方も、これが自分だと呼べるようなものを掴みきれていない。ただ、親子関係はさることながら、そんなフワフワした画ではあるが、観る人にはなぜか買われる。遂に福井で庇護を受けた松平忠昌によって開花することができた。そして江戸からお呼びがかかり、おそらく妻子ともこれで一生のお別れかもしれないと悲しみつつも、道中立ち寄った故郷の京都で、かつて自分は武人にはなれないと予見していたが、それを今、正しかったと応えたのだ。
「小堀遠州」小堀遠州は古田織部の弟子だ。織部の後、天下一の茶人となった。あるとき思ったのは、利休、織部いずれも天下一の茶人と呼ばれた宗匠は自刃という無残な最期を迎えた。もしかすると自分も同様な運命を迎えるのかもしれないと恐れた。遠州は利休、織部の正当な継承者でありながらさらに発展させた綺麗さびを生み出した。さらには先人よりも多くの才能を発揮した。特に作庭に関しては織部も手を付けることができなかったものを、多く手掛けた。多彩であるがゆえに、また武人としては全く認められていなかったという劣等感が、生涯付き纏った。若い頃は自刃して最期を迎えるのは嫌だったが、老いてからは、そのことが先達にはついに追いつくことができなかったのかという後悔があった。
「光悦」この話はパターンが他とは異なり、ある鍔職人からみた光悦で、職人自ら語るという体裁である。光悦は書だけでなく、絵や茶道、陶芸、漆芸など広範囲に才能を持っている。なるほど中でも書は優れているが、他は二流以下だ、ただ光悦は人脈が多く、有力者にうまく取り入り、アピール上手で、そのため多芸であると思われている。書はともかく、光悦は意匠家で、職人たちをうまく使って優れた作品を作っている(ように見えている)。そんな卑屈な語り手だ。そして光悦は得も言えぬ圧迫感を持っており、とても逆らえない。自分だけでなく仲間の職人たちも同じ思いだ。本人を目の前にすると萎縮してしまうが、どうも釈然としない。しかし一度頼まれた鍔を持って光悦に見せたところ、虚ろな表情を見せたことがあった。その時心の中で自分は勝ったと思ったのだった。
「写楽」そもそも写楽という人物の存在自体が不確かなのだが、いやかえってその方が存分に想像力を働かせることができるのだろう。今でこそ超個性派の天才画家で認識されているが、当時は人物の顔を個性的に描きすぎて女子供から敬遠されていた。役者絵というものはきれいでナンボのものだった。初めこれは売れる、と思って販売を独占した板元の蔦屋だったが、予想外に売れず、売れないことにはどうしようもないということで、写楽に色々注文をつける。写楽は写楽で自分のポリシーを曲げて描くのは不本意だが、生活がかかっているので妥協せざるを得ない。相模屋という新しい板元がやって来て、これをしてくれたら売れるという提案を持ってきたが、これがまた自分の一番やりたくないことで、失望して追い返してしまう。そして今度は蔦屋からの提案。相撲画を描かないか?これまたやりたくない仕事だ。でも結局引き受けてしまった。シニカルでコミカルだ。何となく共感できる。
「止利仏師」止利仏師についての小説を書きたい作家の話。止利仏師という人物が仏像を作ったのか?これぞ本領発揮の推理だ。止利仏師というのは作製した個人の銘ではなく、言わば監督(代表者)の銘だったのだろうという話。
 
20180225読み始め
20180228読了

「古田織部 数奇大名の生涯」 高橋和島

2018-02-25 23:50:24 | 読書
古田織部を題材にした小説はなかなかない。特に主人公にしたものはほぼないと言っていい。井上靖の「本覚坊遺文」には重要な登場人物で出てくる。司馬遼太郎に関しては取り上げられることもない。短編「割って、皿を」に登場するようだが、作者自身が別人と勘違いしていたようだし。
副題が戦国数寄大名の生涯だけに、前半は茶には関心を持たない主人公。と言って武術に優れるわけではなく武術に優れるわけではなく、そもそも信長の伝令役なので戦に出るわけではないので武功をたてる機会はなく、従って出世も遅い。伝令役として、また義兄の中川清秀の懐柔に成功したことで信長からは悪くは思われていない。同僚に秀吉がいて、秀吉の方は一気に出世していくが、なにかと気をかけてくれる。中川清秀の妹と縁談をつけてくれたり、本能寺の変のあと、いつか大名にしてやるから味方せよと言ってもらったりする。
明智光秀に関してはほとんど出てこない。冷徹そうで虫が好かないという印象のようだ。従ってほとんど関わりがない。織部の妻は多くの資料では「せん」という名が多いが、ここでは「茜」と言う名だ。実は幼馴染みの妻木家の娘である瑞木のことを心に思っている。
秀吉と気が合うらしく、秀吉の茶頭であったにもかかわらず秀吉を品がないと大いに嫌う利休に対して、今のところいい感情は持っていない。
利休が賜死させられ、ポスト利休として織部が秀吉より指名され、と同時に町人の茶ではなく、武家の茶を創造してみろと抜擢される。関白秀次が秀吉の名で切腹させられる。秀次の側室となっていた自分の妹、葵も処刑された。秀吉に恨みを持ってもいいところだが、秀吉は甥の秀次を涙を飲んで死なせた、織部も涙を飲んで妹を死なせよと納得させられる。特に目をかけている陶工の加藤景延が志野焼を完成させ、それを公家に紹介し加藤に箔を付けた。そして秀吉は没する。その際織部の父重定が殉死している。今や秀吉と関係浅からぬ織部こそが殉死してもおかしくない。織部を死なすまいと、父親の愛情がそうさせたのだ。こんな流れがあっという間に流れる。
信長、秀吉、家康と仕えてきた織部だが、その周辺の人や事件の方が多く表現され、織部自身の事はあっさりしている。織部に関する資料や人となりを知る文献などもほとんどないだけに、織部のキャラクターも薄いのか。
清韓を茶でもてなしたこと、木村宗喜が京都に放火しようとしていて、未然に発覚し処罰された上、上司である織部にも罪の追及があった、というあたりの解釈。
高橋和島の描く織部は、楽天家であり、なるようになるという性格だ。この性格が最後、切腹を申し渡されたとき「かくなる上は申し開きも見苦し」につながる。
作者のことはよくわからないが、歴史上あまり有名でないいわば脇役とされる人物を主役にし光を当てるような小説を書く人らしい。資料の多くない人物を描くにしては、想像力を自在に広げて展開することができる反面、あまり話が広がらないという欠点もある。残念ながら、歴史小説というよりは時代小説よりだった。非常にさらっとしている。
 
20180218読み始め
20180225読了

黄桜星あかり

2018-02-18 13:45:02 | ビール

黄桜のビールでペールエールタイプだ。

気のせいかやや日本酒のような香りがする。

色は濃いめで濁り系。

甘味のある。焦げっぽさはないが、甘味が濃いのでそれが焦げ感を和らげているのかの知れない。

後味は苦味が強い。

ぐぐっと飲むより、チビチビ味わいながら飲みたい。


「蒼き狼」 井上靖

2018-02-17 21:26:25 | 読書
モンゴルの主権者は汗と呼ばれる。一代目はカブルでテムジンの曽祖父に当たる。二代目はタイチュウト氏族のアムバカイがなり、三代目はボルジギン氏族に戻り、クトラがなる。クトラは四代目エスガイの叔父である。エスガイの子がテムジン。
モンゴル人の祖先は青い狼と惨白き(なまじろき)牝鹿だ。伝説にすぎないが何とも叙情的だ。テムジンはその血を継いでいる。それに誇りを持っている。
父が倒れ、仲間はみんな裏切り出ていった。母と兄弟だけ残され、テムジンは汗となる。
テムジンは成長するにつれ、凶暴で残虐な面が現れ始める。発端は自分の意に従わない弟を射殺したことだろう。これも狼の血を受け継いでいるためなのだろうか。
当初自分の家族しかいなかったテムジンだがやがて35才になる頃にはモンゴルでもトオリル・カン、ジャムカ、テムジン、タタル部の4つに統合されるぐらい大きくなった。
タタル部に金国が攻めた。それに便乗して、テムジンはトオリル・カンを誘い、タタル部を滅亡させた。その後ジャムカが侵攻してきて、テムジン、トオリル・カンの連合がこれを迎えた。ジャムカ本陣へはトオリル・カンに譲り、テムジンはタイチュウトを攻めた。取り決めにより、両者は戦利品を分け、数日後同時に自分の土地へ帰る事になったが、ここで当然の気持ち、いずれはモンゴルの統一のため、両者で戦う日が来るだろう。テムジンは早くも、互いの土地に向けて帰る時にそう思い、今のうちに追撃しようと思うが、トオリル・カンもまた同様の事を考えているのではないかと気付き、臨戦態勢のまま帰郷する。
トオリル・カンに勝ち、ついにモンゴルの統治者となる。井上靖という日本人から描いたモンゴルという異国の思想・思考なので必ずしも正確ではないのかもしれないが、日本の武士道とは異なる、戦士の思考がある。日本のような義や忠と言ったものがない。敵対する部族がある時には助け、ある時は殺戮する。なぜ助けるか?日本では恩があったり、昔世話になった、親の代で世話になった、知り合いの、どうしてもという頼み。そういったものを鑑みて決断を下すのだが、どうもモンゴルでは、恩や忠義はある。しかし、目的のためには、それはそれという考えが先行するようだ。昔、テムジンが仲間にすべて去られ弱小であった頃、妻のボルテを他部族にさらわれた時、無償で助けてくれたトオリル・カン。そもそもトオリルカンはなぜ、何の見返りもなく助勢してくれたのか?それから何年も経ち、恩のあるトオリル・カンに対して、恨みがあるわけではないがモンゴル統一が進んできたとき、統一という目的のためには恩というものは何の意味もなさず、統一のために斃さねばならない、となるのだ。またトオリル・カンの方も、統一のためには自分を斃せと考える。この辺りは日本人には理解しにくいかもしれない。この後も敵味方感情を排した死が出てくる。自分が何をしたいかではなく、何か?という目的のための自分の生であり、生き方なのだ。
ムンリクの話。ムンリクは、母のホエルンと通じているようで息子のテムジンとしては気に入らない。ただ、ムンリクの父チャラカ翁に対しては自分が弱小であったころ、それでも自らの命を捨てて守ってくれた恩がある。だから気に入らなくても目をつぶった。そのムンリクの息子のテップ・テングリはシャーマンの僧で、怪しい占いなどをする。そのテングリはカサルがテムジンの座を奪い、統治者になろうとしているという占いをする。そしてその通り、カサルがチンギスカンの側室の忽蘭(くらん)に手を出そうとしているのを見つける。すぐさまカサルをとらえいざ処罰しようとしたとき、年老いた母ホエルンが立ちふさがり、お前は前に弟を殺したことがある、それをまた繰り返すのかと諭す。その母の眼には父親の知れないチンギスカンより、父親の素性の知れているカサルへの愛情を見つける。母親には尊敬の念を抱いてきたチンギスカンであるが、この事件でやはり自分は愛されていないのではないかと落ち込む。この母への尊敬、愛情を受けたいという気持ちが、井上靖らしい。
他部族を攻め、勝って凱旋してきた隊長に対しては、自分の娘を報償として取らせる。つまり価値は高いとは言え、品物と等価なのだ。そのため側室をつくり、子を生ませる。逆に言えばそのための側室となる。女の子供に関しては愛情より、今後出てくる、政治的駆け引きのための物のような扱いだ。
ジュチはボルテの息子だ。ジュチはみるみる逞しくなる。そんなジュチに対して恐れを抱く。因果応報的だ。血の繋がりへの不信と 
かつて自分が抱いた反抗心が、成人した今自分に返ってくる。
金国を制したチンギスカン。敵の将軍が自ら命を絶つ。これにチンギスカンは驚く。今まで制した国の指導者は、自分の進退、生命も含め、制服者に委ねる。その上で殺されるか、兵に迎え入れられるか判断される。それがモンゴルなのだが、金国ではそうではなかった。相手に委ねるのではなく、自ら決するのだ。それに驚くチンギスカンだった。
ほぼ統一したあと、通商隊の持ち帰る品々から高い文明を持っていると予想されるホラズムと国交を交わしたくなったチンギスカンだが、派遣したモンゴル人がホラズムによって捕らえられ、全員処刑されたことに憤る。ホラズムに軍を派兵するか?家臣達に尋ねる。どの家臣も、高度な文化を持つ得体の知れない未知の国への派兵には反対をする。ただ1人長子のジュチだけは攻めいらない理由があろうかと前向きだ。それは自分達は狼である。敵のいなくなった狼は狼ではないと言う。息子が紛れもなく狼の血を継いでいることに喜ぶ。生きる理由が敵を倒すことのみである。物語としてはロマンのようなものを感じるが、現実として我々にはそのような考えは理解しがたい。しかし恐らく世界のどこかにはそう言う考え方の国や民族もあるだろう。理屈ではなくそういうものだと思っているところに救いようの無さを感じる。そのように考える人々に、殺し合うことは良くないなどと言っても理解されない。そして、ジュチに感動したチンギスカンは喜び、もちろん自分も派兵すると答える。その際にはジュチを先鋒として侵攻し死ね。そして我はその屍を越えて敵に攻めいるだろうと答える。この部分も物語としてはロマンがあるが、現実には、先に年少の者を死なせ年長者が続くと言うのはおかしなことだ。
耶律楚材は軍師的な存在か?何か記憶がある。小学生の頃だろう、新聞の広告に耶律楚材と言う本が紹介されていた。陳舜臣の小説か。そのときは人名とはおもわなかった。それから何年?30年くらい経つか?ここに登場。言ってみればチンギスカンの軍師のようなものだ。劉備における諸葛孔明、豊臣秀吉における黒田官兵衛、武田信玄における山本勘助だ。ただし、そこまで活躍はしない。実際も成吉思汗の次代で活躍するようだ。
母のホエルンが死んだときはショックだったが泣くまいと決めた。側室のクランが病んだとき、クランは成吉思汗が戦いをしなければならないと言うことで西夏への侵攻を決めた。しかしその行軍途中でクランが死んだ。そのときも決して泣くまいと決めた。長子のジュチは、自分の後継者に選ばなかったことを根に持ち、遠く遠征に行ったまま帰ってこないのではないかと不安になる。行商人の噂で、ジュチは遠くの国で既に悠々自適に暮らし、新たな自分の国を立てようとしていると聞く。それに対して遂に怒りが爆発し、ジュチの討伐に立ち上がる。ところが真実は、ジュチは遠い地で病のため死んだのだった。心配をかけるまいとその事は成吉思汗には伝えられることがなかった。これを知った成吉思汗は、一瞬でも息子を疑った自分に後悔し、孤独に死んだ息子に悲しみを抑えることができなかった。泣くことを禁じず、初めて慟哭する。この場面は震える。
結局、父親が本当にモンゴルの血を引くのかわからないと言う出自が似ているジュチを一番愛していたのだった。
この、あまりに詩情溢れる蒼き狼の血という運命に支配され続けた。この血を受け継いでいると信じるがゆえに、侵略を繰り返すのであり、父や母への尊敬があり、そのため子供には愛情があったりなかったり複雑で、特に出自が似ているジュチに対しては最後に一番愛していたことに気づく。
実際に成吉思汗のやっていることは残虐で、英雄とは思いにくいこともある。表現を変えれば仁義なき戦いやゴッドファーザーであるとするならおぞましい。しかし、井上靖だからなのか淡々としていて、また詩的であって、モンゴルという異国に長く住んだかのような読後感を感じた。
 
20180121読み始め
20180217読了