ビールを飲むぞ

酒の感想ばかり

「古都」 川端康成

2017-12-25 10:48:39 | 読書

1989年、高校生2年の時に買って以来長く積読状態だった。丁度平成元年になる。
最近はカズオ・イシグロを立て続けに読んで、独特の抒情感の余韻に浸っていて、そういった雰囲気の小説はないか探している。そこで「日本の美意識」というキーワードで探しているとほぼ川端康成しか出てこない。果たしてイメージに合致するのかどうか?まずは手持ちの、大昔に買った古都を読んでみようと思ったわけである。
京都が舞台で、風景や物の描写が端正だ、まるで映像をみているようだ。
真一に対し、千重子は早くも自分が捨て子で自分が捨て子で今の家にもらわれたと告白する。ただ今の段階ではそれは本当の事なのか、からかっているだけなのか不明である。
父親の佐田太吉郎は芸術的人間で、嵯峨の尼寺に別宅を持ち、そこで作品作りに集中している。妻のしげ(つまり千重子の母)は今でいう天然っぽい。千重子の方がしっかりしているようだ。いや千重子が良くできすぎている。太吉郎の親友の大友宗助の西陣織職人で息子の秀男は若く未熟と謙遜するが、その無愛想さは頑固者で芸術家らしさを秘めている。作品作りに苦戦する太吉郎は千重子からパウル・クレーの画集をもらい少しインスピレーションを得る。それを早速宗助のところで帯に織ってもらおうとするが、秀男から何かに憑かれたような、狂気のようなものを感じると言われショックを受ける。
前半の太吉郎の血のつながらない千重子に対する愛情がやや変であること。もっとも、後半にはまともに戻る。また、太吉郎の茶屋の見習いの少女に対する関心。これらはその時代の空気と言えばそうなるかもしれないが、少し変でもある。真一と幼なじみで恋人どうしかというとそうではなかった。そんな時、太吉郎から秀男を養子に、つまり千重子の婿としてどうかと進めたくせに、後半では、千重子の家と秀男の家では身分が違うからそぐわないと言い出す。そうしているうちに千重子の二子の姉妹である苗子に、内心、千重子の身代わりとして結婚を申し込む秀男。それを悟って拒む苗子。真一と仲がいいかと思っていたら、その兄である竜郎の方が千重子を気に入っていて、結婚を前提に奉公に入りたいと言ってくる。モテモテの双子であるわけだが、結局どの組み合わせも結び付かず、姉妹の絆の方が今は大事という話だ。この絆もいきすぎの感はある。
そんな人間模様と京都の年間を通じての風景や祭りなどを情緒豊かに織り混ぜた話だ。とも言えるし、京都の情景を描いた紀行文の付加的に千重子たちの人間模様がちりばめられているのかもしれない。いや厳密にいうと、京都の風俗、千重子たちの男女関係なしの人間同士の思い、そして太吉郎のドロドロした生き方、生活。その3つが織り成す話だと言える。
それゆえ、中高生でも読むことはできるくらい平易で簡潔で、それでいて美しい描写であるのだが、この味わいがわかるには人生経験が必要だし、京都という町の特殊さを知っていること、できれば生まれ育った、であるとか、住んだことがあると、この古都という作品が味わい深いものとなるだろう。大阪しか知らず、そして、大阪人特有の京都に対する
理由なき対抗心を持っていた高校生のときの自分では理解できなかったろうし、45歳になって京都にも数年住み、京都の特殊さを身近に体験した今だからこそこの話の味わいがとりわけ感じられる。
あとやはりというのか、これを書いているときの川端康成は、睡眠薬の中毒で何を書いているのかわからないまま連載してたらしい。それでこんな支離滅裂な話に仕上がったのだ。ある意味それが効を奏したと言える。
しかし、睡眠薬というのは、普通、眠れないので眠りたいと思うから飲むのだと思うが、睡眠薬を飲んだくせに寝ようとせず、小説を書こうとするのだからよく分からない。あるいは睡眠薬の力で眠気がやって来るのを敢えて我慢して眠るまいとすることでわざと幻覚をみて、その朦朧状態を利用して作品にしようとしたのかもしれない。そういうコンセプトからすると、日本の美意識というよりはシュールを目指したのではないか?またそれを日本の美の代表のように宣伝され、そうと信じ込まされ「これが日本の美なんだ」と思い込んで成長していく中高生がかわいそうだ。
 
20171211読み始め
20171224読了

「楠木正成」 北方謙三

2017-12-10 20:19:57 | 読書

 

上巻
北方謙三の室町ものだ。
馴染みのある河内が舞台で赤坂村などの地名も出てくる。楠木正成は当時は悪党だった。悪党という悪そうなものではない。つまり武士ではなく、地方の豪族、有力者といったところか。淀川や大和川の水運の税を取って稼いでる。また商人、商社のようなこともしている。
六波羅という鎌倉幕府の、京における出張所が力を持っている。同じ京には天皇もいる。当時は後醍醐天皇だ。まだ30代。
悪党、すなわち幕府に反抗しているものたち、楠木正成の場面と天皇側の護良の場面が交互に出てくる。どちら側も、民を知ることが今もっとも大切と考え、諸国を旅して回っている。良くあるヒーローもので、いずれその二人が合流し、一致結束するというパターンだろう。
しかし入って来ない。読みやすいのだが。またまたクセも強くない。なのにこれはどういう事だろうか?まず、会話が現代語なのに違和感がある。また歴史的物語より人物のキャラクターや生き方(北方謙三的には生きざま?)に重点がおかれていて、歴史小説を期待して読むと拍子抜けする。結局は舞台を室町時代にしただけの北方小説だ。楠木正成も、すごいヒーローなんだぞ、いや、それをいつかは開放する予定だが今は凡人ですよという狙いが見え見えで気恥ずかしい。幕府中心の政治を変える。世の中を変える。夢を持つ。夢を語り合う。そんな感じの世界観をどこかで見たような記憶があるなと思い出していたら。そう言えば少年ジャンプの世界観だ。北斗の拳のような世界観だ。その点では若い世代に共感を得られる小説ではないだろうか。
楠木正成は今のところ商人の色が強い。生き方を商売に重ねて考えるのだ。
倒幕の機運が高まってくる。それは朝廷側しかり、幕府側であっても反乱武士がいたり。そして第三の勢力である、楠木正成や赤松円心をはじめとした悪党だ。ただ悪党は、幕府の出先機関であり、朝廷を言わば監視する六波羅から目をつけられているがゆえに、目立った動きはできないし、合流することもない。今は息を潜めている。天皇の代理のような形で護良親王が悪党を取り込めないかと画策している。
楠木正成は、いつか決起するだろうと(あてずっぽう的だが)和泉に攻め込んだ。何の脈略もない、ただ試してみただけなのだ。それで一応戦える力があるなと確認した。そこから数年悶々としながら、商いだけをして過ごす。どうもスッキリしない主人公である。仮に戦になった場合、指揮を執るのは弟の正季に任せ、自分はそれに乗じて商売の方をしようとしている。
ある日突然自体が動く。朝廷が倒幕しようとしているのを内通者から密告され、表に出てしまったのだ。こうなったら挙兵するしかない。
 
下巻
下巻に入ってからは急に雰囲気が戦闘モードになる。そうは言っても、楠木正成は、決起を呼び掛けると称して各地をふらふらしたり、商いが商いがと優柔不断でぱっとしない。
さて、護良親王のセリフ「叡山にいるときは決起の事ばかり考えていた。決起さえすればなんとかなると。こうして決起を果たすと、ほんとうはこれからなのだと思う。これから厳しいことが始まるのだと」。確かにこれから始めようとする時は、何か目標があって、希望に燃えているのだが、いざ始めてみるとどう進めていいのか?とか、その手段がなかなか見つからないとか、なかなか進められないことが多い。これはわかる。
文句ばかりしか出てこないが、騒擾という単語ばかりが目立つ。場面が突然変わる。一行空いてたらわかるのに。兵糧やら材木を集めろ、分け与えろとか言う細かいところばかり描写が細かい。なれないせいか頭に入って来ない。
千種忠顕には厳しい。出来合いの軍で先走って京に攻め入り敗北した。これで計画が台無し。と言うことを愚痴っている。それに対して赤松円心は死を決して戦って義の人物だ。ところがそうしているうちに足利尊氏が倒幕に決起した。実はそうなってほしくなかった。何故なら足利尊氏は武士だからだ。平氏である現政権の北条氏に対して源氏であるあしかがたかうじが倒幕に立ち上がったところで平氏対源氏の戦いとなってしまったわけだ。楠木正成が望んでいたのは朝廷の世を取り戻すこと取り戻すこと。武士とは帝の軍でなければならないということなのだ。足利尊氏が立ち上がればただの政権交代にしかならない。
P208とP212は内容が同じだ。大塔宮の力を削ぎ、楠木正成の二条富小路の屋敷を忍に偵察させているが成果が上がらないと。この箇所によらず繰り返しが多い。
北方謙三と言えばハードボイルドで重厚な小説を書くのかと思っていたが、薄い。勢いで書いただけなのか?というくらい、重みがない。登場人物もキャラクターがはっきりしない。主人公である楠木正成からしてそうだ。誉めると「それほどでもない」と謙遜?し、信念がありそうでそれほど無く。生き方も行き当たりばったりで魅力がないのだ。
最後は戦いの場面になるが、突然新しい登場人物が出てきたり、展開がコロコロかわって、それこそ勢いで書いて、推敲などしてないのではないかと勘ぐってしまう。
読むのが辛かった。やめてもよかったのだが、読み通すのは義務にしているから仕方ない。それにしても読むのが辛すぎて、家に帰るのが憂鬱になったくらいだ。
 
 
上巻
20171118読み始め
20171205読了
下巻
20171206読み始め
20171210読了