1章(牡丹蕊ふかく分出ずる蜂の名残哉 芭蕉)
序盤は分かりにくい。ドリゴ・エヴァンスが主人公だが、少年時代から死の直前まであらゆる時代を行ったり来たりして訳がわからなくなる。ユリシーズを暗記していること。軍医であること、英雄的存在となっていること、しかし、それを妬む者も存在すること。死んでいった者のことを伝えることが必要だということ。
日本軍の鉄道建設の過酷さを描く。マッカーシーの「ザ・ロード」以来の心揺さぶる作品等の評価があるが、日本人が果たしてどんな風に描かれているのか興味深い。
ドリゴはジャワ島で副司令官となる。そこでの戦闘の場面。死体の描写、その臭いの表現が強烈で残酷だ。
2章(女から先へかすむぞ汐干がた 一茶)
日本の辞世の句を集めた本、が愛読書。83ページ。グレンフィデックのミニボトル。グレンフィデックは自分も好きだ。
叔父はキースといい、ホテルを経営している。ある日軍から休暇を与えられ、ホテルを訪ねる。そこのバーにいた女性バーテンダーはキースの妻エイミーだった。ドリゴはエイミーに愛情を抱く。叔母に?
ナカムラは言動が変だ。と思ったらヒロポン中毒のようだ。調べてみると、ヒロポンは日本で開発され(大日本製薬)覚醒剤ではなく(いや、規制区分の問題なので覚醒作用があるのは変わらないが)、疲労回復や士気高揚のために普通に使われていたようだ。特に兵隊たちには。
10-12のエイミーとの関係の描写が息詰まる。叔母ではあるが自分より年下で、一線を超えそうで超えられないもどかしい描写。エイミーの存在がドリゴのその後の人生に影を落とす。
さて日本人の表現方法に関して、14ではナカムラが上官のコウタ大佐から本部からの指令を伝えられる。ナカムラが呼び出されて行くと、丁度コウタは椅子に座って魚の缶詰を食べている。そして食べながら指令書をナカムラに渡す。要は無理難題を強要する内容なのだが、受けざるを得ない。ダメもとで機械を支給してほしいと希望すると、ないものねだりで恥をさらすという、ふざけた真似をすると嫌味を言われる。ますます縮こまる。このあたりのやり取りは自分の想像する日本軍人像とはやや食い違う。缶詰を食べながら指令を出すというのはいかにも欧米風だ。などと思っていたが、冒頭での捕虜は罪が深い、しかし天皇のために鉄道を建設することで浄化されるという話を受け、オーストラリア人や欧米人、いや東南アジア人を含め不真面目だという。文句ばっかりで、権利を主張するが全く働かない。ということを日本人は不満を持っている。欧米人は機械の能力を自慢するが、日本人は精神力でそれを凌駕するべきで、それを成し遂げて証明したいと考えている。これは確かにある。日本人観はまあ悪くないか。
外国の作家に日本人の精神性が理解できるのか?などと思っていたが、それは反対に、直前の章で、エイミーがなぜ自分の甥にそういう感情を抱いたのか?その微妙な心の動き。それは絶対日本人である自分には理解できていないだろう、いっぱしに感動したといいながら、全然見当違いな理解をしているのだろう。あなたの感じている感覚は、自分が伝えたいものとはずれている。と作者は思っているかもしれない。
18はなんと官能的か。この話の主題は何なのだろう。日本人の残虐さでは?2章が終わり3分の1まで進んだがこの時点ではドリゴとエイミーの許されざる恋愛の話しかない。
二人の不倫は初めからキースも知っていた。知っててわざとそう仕向けていた。子供を堕胎させたことに後ろめたさを感じていた。しかしそれに対しエイミーは同乗しキースとやり直そうと思う。ドリゴのいる軍の本営に、エラの元に帰るよう伝える。
3章(露の世の露の中にてけんくわ哉 一茶)
この句は前章の16で出てくる芭蕉の「京にても京なつかしやほととぎす」と似た構成の句だろうか?コウタ大佐がナカムラに首の切り方云々を語る場面。知っている俳句で意気投合する場面だ。131P
タイニーとダーキー・ガーディナーの話。寝場所をタイニーに占領されているダーキー。気弱なダーキーと丈夫なタイニー(タイニーなくせにでかい)。どんな病気にもかからず、どんな労働にも値を上げないタイニーだ。寝床を占領してダーキーに苦情を言われても全く意に介しない。ただ、ダーキーは練乳の缶詰とアヒルの卵を手に入れている。ラビット・ヘンドリックスから手に入れたのだ。ラビットと言えば、絵がうまく、日本兵から故郷に送る手紙に付けるための絵を描かせられそれなりに重宝されている。アヒルの卵もその報酬として手に入れたものだった。ただ、捕虜生活の悲惨さを描いた絵を日本人に見つかったら殺されてしまいかねない。と言っている端からコレラに感染し、死んでしまう。あっさりとした扱いだ。タイニーは自分の体の丈夫さを生かしてバリバリ労働に励む。そうして日本人を見返してやろうと考えている。しかし、普通の体力の、そして何かしら病気がちな他の一般の捕虜たちからすると、あまりタイニーに張り切ってもらいたくない。日本人からしたらタイニーが基準になってしまい。それ以下のものは劣っていると不本意な解釈をされてしまうのだ。これは現代における会社の内部の状況に当てはまる。例えば営業。会社が苦しく、誰も売ることができず営業成績を伸ばしかねている。そんな中ある一人がたまたまうまく好条件が重なって売り上げを伸ばすことができた。すると会社はその一人を基準に据え、こいつができているのだからお前たちもやれ、となる。
ダーキー・ガーディナーに卵を盗まれ、さらに辱しめを受けたルースター・マクニースは日本人に対するより深くダーキーを憎んだ。
ダーキーはある時いきなりオオトカゲからライフルの尻で頭部を殴打された。理由がわからない。後でそれは毛布の折り目が日本軍のルールに沿わない、オオトカゲが舐められたと判断したため暴行を受けたのだ。
鉄道建設のために捕虜を500名駆り出せとナカムラから指令が出る。しかし病気のため300名がさしずめと言ったところだ。ドリゴとナカムラは人数の交渉をギリギリのところで交渉する。日本人は精神力で病気は克服できると非現実な要求をする。交渉の最中、前列の捕虜が倒れるが、精神力で立つよう命じられるが命じられるが立っては倒れる。日本人たちはそんな彼に気力が足りないと暴行を加える。ありがちな場面だ。ドリゴとナカムラは399名で折り合いをつける。そんな駆け引きを毎日しているという無限の馬鹿馬鹿しさ。そして先ほど暴行を受けていた病気で弱っている捕虜はすでに死んでいた。それはタイニーだった。あの丈夫なタイニーだったが赤痢に感染してあっという間に死んでしまった。
13(p253)ジミー・ビゲロウはラッパを吹く捕虜だ。死んだ捕虜たちを火葬するときに葬送のラッパを吹く。そんなビゲロウも過酷な労働のためボロボロだ。舌が腫れてラッパがうまく吹けない。悪戦苦闘しながら演奏する。吹いたあと、つたない演奏に恥じ入り皆から顔を背けた。その後における人生(戦争を生き抜き長生きしたようだ)で葬送のラッパを吹いたことだけが記憶に残っていた。ジミー・ビゲロウのこの章は感動的。
いや感動的なのは、それぞれの捕虜たちの生と死が、その考えが力強いからかもしれない。ダーキー・ガーディナーは病気のためかなり衰弱している意識も朦朧状態で、歩くこともままならない。仲間からも遅れている。そんな時コウタ大佐がやって来て役に立たない捕虜は処刑しようとする。ダーキーの首に目が止まった(コウタのそういう考えに至る思考過程はいかにも外国から見た日本的で、チンチクリンな日本人に見えなくもない)。つまり斬首しようとしたのだ。首をつき出させ刀を抜き振りかぶった。目をつぶり観念したダーキーだが、ケスから声をかけられ日本人は行ってしまったということを伝えられた。これは緊迫した場面だ。そこでダーキーは自分の人生などちっぽけだと感じる。死にそうな自分であるが、自分以外の周り、自然を含めて生に満ちている。そして自分が死んでも、そのときは悲しんでくれるだろうが、いつか誰も気にしなくなる。そんなちっぽけな生に激しい怒りを感じるのだった。
何度となく死を逃れることができたダーキーだが、結局病舎で救われていたところを連れ出された。閲兵場で捕虜たちの前で暴行をうける。ナカムラがその主導者だ。ナカムラは数々の屈辱が重なり、恥の塊状態。暴行を止めることができない。止める大義名分がない。果てしなく続く暴行。ナカムラは漠とはわかっているが止めることができない。それは結局、名誉という独特の精神が支配してしまっているからである。それが日本人側全てに、そして捕虜側全員に何となく。理屈ではない、そんな形式だけのものが支配している。そしてそれに誰も、敵も味方も抗えない。こんなところはマッカーシーに通じるか。帯の『「ザ・ロード」以来こんなに心揺さぶられた作品はない』には、この残虐さが該当していると思うので同意しかねるが、この不条理な、理性があると思っている自分達からみて、何故こんな不条理なことが起こっているのか?という、それが世界の真の姿であるということに絶望感を禁じ得ない。
ルースター・マクニースは背嚢からアヒルの卵を見つける。つまりダーキー(今となっては、死んだ)が盗んではいなかったのだ。
4章(露の世は露の世ながらさりながら 一茶)←こういうパターンの句が好みなのか?
多分終戦後から始まる。終戦後の日本だ。ナカムラが登場するが、欧米的だ。姉がアメリカ人に犯されそうになっていたところを弟が助けようとして、アメリカ人を刺し殺した場面に会う。ナカムラはその弟が襲ってきたので対抗し殺してしまう。そこにあった餃子(何故餃子か?)と板チョコを奪い、女からドル札も奪う。それで偽造身分証明書を買い、神戸へと逃げる。戦犯として指名手配されていたからだ。
登場人物のそれぞれのその後が続く。もと捕虜達はまた集まり、ダーキーが残した言葉を実行する。魚料理屋の水槽の中の魚を海に逃がしてやる。そこの店主に謝罪にいったあと許され一緒に語り合うシーン。戦時中オオトカゲと呼ばれていたのは、チェ・サンミンと呼ばれる朝鮮人だった。彼も終戦後戦犯として裁判にかけられる。彼が刑に処せられるまでの生や死に対する思い。ナカムラは素性を隠しながら病院の雑務係として働く。そこで親しくなったサトウという医師と会話しているうち。彼は実は戦時中人体実験をした当事者だったという過去を打ち明ける。ブラッドバンクという慈善事業をする会社に応募したナカムラだったが、面接官がかつての上官コウタであった。数十年後新聞記者がコウタを取材しようとしたがなかなか会ってもらえない。数年後サトウはミイラとなってマンションの一室で発見される。枕元には松尾芭蕉の奥の細道が。
作者はこんな仕打ちをしてきた元日本兵に復讐を与えようとしているのではないことがわかる。
5章(世の中は地獄の上の花見かな 一茶)
5章に入って残りのページ数も少ないのに、さらにこれでもかと話が展開する。
ナカムラ(本名はナカムラテンジという)会計の副主任まで出世している。しかしあるころからのどに違和感を覚えるようになり、日本軍人らしく精神力によって抑えることができると考えていた。しかし癌であったのだ。手術を何度か繰り返し治療中だ。しかしモルヒネなど使用しているところからして、もうそういうステージなのだろう。ナカムラはかつて部下であったトモカワを北海道に訪ねる。そこでトモカワと昔話で盛り上がるが、モルヒネのせいだろうか夢とも現実ともわからない体験をする。
ドリゴは相変わらずエラとぎくしゃくした生活を送っている。エイミーが忘れられず、その思いが妨げになっているのではないか?というとそうでもなく、エイミーのことを思い出そうとしても漠然とした輪郭しか思い出せず、いったい何にとらわれているのかわからない。医者としてかなりの地位を得たドリゴのように見えるが、全く充足していないように見える。作者はそれも言いたかったのか?主人公ともいえるドリゴが戦中戦後を通して一番満たされていない。虚構の世界、虚構の自己を生きている。ほかの登場人物はもっと不幸な人生を生きたが、幸せでないにしろ中身のある人生を生きた。(客観的にかもしれないが)幸せな人生を生きているように見えて実は空虚な人生と、最悪の展開を見せる人生ではあるが何かしら実のある人生を送るか?どちらが幸せだろうか?作者はどちらかに正解を与えるわけではない、読者に提示しているのだ。どちらを幸せと思うかは自分次第だ。
ドリゴは家族との旅先で、自分だけ友人と会ったその帰りに、エイミーらしき女性を見かける(子供を二人連れていた)そこで思い返される。エイミーは夫(ドリゴの叔父のキース)からドリゴは戦争で死んだと伝えられた。一方ドリゴは捕虜収容所で鉄道建設に携わっていた時にエラからの手紙を受け取った(その中身は本文中では明らかにされていなかったが、ここでその中身がわかる)そこにはキースの経営するホテルが爆発事故を起こした。その際にキースは事故死した。そしてその妻であるエイミーも死亡したと書かれていた。つまりお互い(それをよく思わない他者によって)死んだと嘘を教えられていたのだ。お互い死んでいると思った者同士が、ある時道ですれ違ったところで気づくだろうか?ただ若干ドリゴは記憶していて、もしかして向こうから歩いてくるのはエイミーではないか?と思うのだが、結局声をかけることもできず、すれ違い、そのまま永遠に探すことができなかった。この場面の緊迫感はすごい。
その直後に、(自分は別行動していたが)旅先で自分の家族がいるエリアで大規模な山火事が発生したことを知る。
エラと子供3人の自分の家族は四方からの火に襲われる。緊迫した場面。いよいよダメだというときに、ドリゴの運転する車がたどり着く。家族で必死に火から逃れ、何とか助かった。そして家族の愛を再確認する。という、まさかのハリウッド映画的な展開。(ドリゴに責任はない。そんな安易な展開をさせる作者に責任があるか?)そんな話もあって、ドリゴに軽薄な印象を覚えてしまう。それで完結だったら本当にそう思ったかもしれないが、まだ続きがあって、ドリゴは交通事故にあう。ドリゴが運転するベントレーと、やんちゃな若者が盗んだスバル・インプレッサ(という、どういう意図でこの車を出したのかわからないが)が衝突して、インプレッサのほうの少年2人は死に、ドリゴは重体となる。うまいのはこの前に、ジミー・ビゲロウの老後の場面が挟まれる。あのラッパを吹く元捕虜だ。ビゲロウは娘と仲良くやっているが、娘に戦争中の話をしようとしない。優しいが何か隠している、陰のある父親。そこは日本っぽい?ビゲロウは隠し通すことで人生の最後を送った。一番幸せそうで平穏そうに書かれているが、果たしてどうなのか?作者は語らない。
そしてドリゴが衝突事故にあい病院でベッドに横たわっている場面。それまでも現実逃避しながら生きていたが、ここでまた過去にフラッシュバックする。鉄道建設に携わっていた時に戻る。そこでまた幻覚のような場面が出てくる。読者もこれはどこかで読んだ気がすると感じる。まさか捕虜であった時期のどこかで倒れ、ずっと夢を見ていたのではないか?という夢オチ?と心配になる。しかしそうではないようだ。事故にあって重体になっているときに見ている夢の話のようだ。結局そのまま死んでいくのだろうが。愛を理解しなかった自分は、死後愛のない地獄に行くのだと考えたのだろうか。
読む前は「ザ・ロード」と帯に書いているのでそれと、あとローレンス・ファン・デル・ポストの「影の獄にて」のような、そしてカズオ・イシグロ的な寂しげな情緒のある話を連想した。読んでいると意外とピエール・ルメートルの「天国でまた会おう」のようなカラフルなイメージやジョーゼフ・ヘラー「キャッチ=22」のような不条理だが明るくやっていこうというイメージが強くなる。そしてしまいには、特に日本兵から虐待される捕虜たちに、山田風太郎の「地の果ての獄」のようなイメージを持つようになった。終章あたりは(ハリウッド映画的な展開がなかったとも言えないが)デイヴィット・ミッチェル「出島の千の秋」のような登場人物達のその後の人生をあっという間に展開する流し方。そんなものを流れとして感じた。
感じたのは、人生それぞれ。良いことをしたから幸せな人生を送る、悪いことをしたから不幸な人生を送る。というものではない。
悪いことをしたのに幸せそうだ。それに対して嫉妬のようなものを感じる。というものでもない。
人それぞれいずれ死を迎える。本人は死に対して孤独や苦しさを覚えるが、他人そして周りの世界は本人とは関係なく、何食わぬ顔で存在している。それに耐え難い怒りとやるせなさを覚えるのだ。
登場人物それぞれが様々な形で死を迎える。その直前に去来する思いがどれも痛切で重い。
20190117読み始め
20190127読了