井上靖の時代小説だ。風林火山や本覚坊遺文のイメージがあるから歴史小説、つまり史実に限りなく近い小説や、純文学の作家というイメージがあった。実は初期のころは大衆小説も書いていたし、これなども同様、文学の色が濃いというよりは、むしろ大衆文学つまり時代小説といえるのかもしれない。にわか知識だが、井上靖は初期のころはこういった大衆小説を書いていたが、ある時、純文学に転向し、同時に、過去の時代を取り扱っているが、より純文学の色合いが濃い歴史小説を書き始めたようだ。とは言え、それが大岡昇平には納得できなかったようで、「蒼い狼」に対してはこれは歴史小説ではないとかなり噛みついたという事件があったようだ。まだその事件を詳しく調べてはいないので何もわからないが、この作品に関しては個人的には、教科書にも出てくるような純文学家井上靖が大衆的な時代小説を書いていたのかということに新鮮な印象を持ち、また、そうではありながら独特の情緒感が(ある意味、純文学を志向していないこの時代に既に)あることに感慨深い。
いままで時代小説といえば山田風太郎第一と思っていた。この年まで(46歳)。しかし、井上靖の時代小説もなかなかいいではないか?この頃読み始めて発見というか再発見とでも言うのだろうか、面白いと思うのは司馬遼太郎や井上靖だ。
自分が小学生やその前に見た時代劇の映画かドラマ、1970年代だろう。おばあちゃんの家でテレビで何気なく映っていた時代劇を思い出す。思い返せば35~40年前に見たそんな時代劇に郷愁感を感じその印象が今感じられるのだから面白い。
メインキャラクターは、滅びゆきつつある浅井氏の家来ではあるが、死んでまでつくしたいとは思っていない。何とすれば落城直前に織田の包囲網をかいくぐって放逐したい立花十郎太。浅井家に恩義があり主君ともども殉死しようとしている(しかしあわよくば逃げおおせたいと思っている?)顔面が痘痕と二本筋の刀傷で鬼のような形相で槍の達人、鏡弥平次。全く祝人に恩義がなく、死ぬなんて考えも及びもしない佐々疾風之介。
それぞれ思いがあるが、落城前日、主君とともに殉死するか確認を取ったり、そんな自分は逃げおおせたいくせに、そんな駆け引きが繰り返される。
小谷城落城時、思うところあってそれぞれの道をゆく侍たち。疾風之介は、死ぬつもりなど全くなく、そうではあるが、侍女の加乃と気になる仲になる。そうではあるが、疾風之介は死にたくないながら自分の武術への驕りから、最後まで自分の腕を発揮したいと考えている。十郎太は、侍女の加乃を連れて脱出する。疾風之介は城と共に死ぬのだけは嫌で、とは言え最期まで戦おうとした。しかし、最後の最後に瀕死の状態で逃げ、途中で野武士たちに助けられる。弥平次は城と共に討ち死にしようと思っていたが、捕らえられ、その勇猛さに織田陣営に仕官するよう薦められる。最初は抵抗し早く死なせろと望む。
野武士に囲われた疾風之介。首領でありおりょうの父である藤十の過去を聞くとどうやら斎藤義竜の家来だったらしい。斎藤といえば自分の家族親戚の仇である。それを知って一瞬仇を取ろうと言う衝動に駈られた。しかし思い止まった、ただ、その集団から離れ、下山してしまった。おりょうが留守の間のことだったので、いたく傷つくおりょう。藤十の娘であるが、男社会で育ったため、自然と男っぽい言動のおりょうであるが、疾風之介には何か思うところがある。
所変わって弥平次。結局生き残ったのだ。しかし琵琶湖沿岸の海賊の首領になっていた。ある時美しい娘が連れられてきた。それは実はおりょうだった。疾風之介という共に知っている名前が出て来て複雑な気持ち。それよりもおりょうの現実離れした美しさが際立つ。
立花十郎太の章。加乃と疾風之介はそういう関係だったが、小谷城落城のときはなぜか、疾風之介は城に残り、加乃には十郎太が付いて脱出した。それから一年たち、加乃は疾風之介が忘れられない。それに対して十郎太は加乃に特別な感情を抱くようになる。ただ、それははっきりしたものではない。
男3人と女2人の生き様。十郎太はガサツな男だ。戦で名をあげることばかり考えている。途中で昔なじみの疾風之介と鉢合わせするが、仲間意識などなく、気づかないなら迷わず斬ってしまおうとする。弥平次は生き延びて盗賊の親分のようになっている。疾風之介はというと、剣の腕はめっぽう強いが仕える主君が不運なため名をあげられずにいる。ただ功名を上げるのが目的ではなく、死なない、ことが目的だ。実は疾風之介は弥平次ともニアミスしている。嵐の夜、弥平次の仲間が襲われる、相手は一瞬のうちに仲間を袈裟懸けに斬ってしまう。それに対抗するため槍を持って飛び出す弥平次だった。結局、勝敗はつけられず、疾風之介は崖から転落して生死不明となる。
おりょうがかぎとなる。盗賊の娘として生まれたおりょうは男勝りで、言葉遣いも男並みだ。しかし美しい。弥平次は自分の娘のように大切に思う。
疾風之介は加乃から慕われ、おりょうからも慕われる。十郎太は加乃に思い入れがあるし、弥平次はおりょうが娘のようにかわいい。おりょうは疾風之介が忘れられず。加乃も疾風を忘れられない。もてまくる疾風之介だが、面白いのはそんなヒーローなら今風には戦のために命を捨ててもいい、捨てたいというような虚無感を持っていそうなものだが、生への執着が強いというところだ。
「月明」の章。三人の男がそれぞれの状況から月を眺める。疾風之介は、八上城にこもり明智軍を迎える。城が落とされる日は近い。兵も恐らく皆死ぬだろう。疾風之介は加乃と別れたことが今になって後悔する。それを消してしまうにはいつ死ぬかもしれないこの状況に身を置くことしかない。と言いながら最後まで逃げずに戦うが、死ぬことは考えていない。疾風之介を仲間に率いれた三好兵部が疾風之介を外へ連れ出し、自分にとって最後になるであろう仲秋の名月を眺めるのだった。十郎太は加乃を仲秋の名月に誘う。十郎太の片想いで、加乃の方は疾風之介に気持ちがあり、むしろ十郎太には憎しみの方が強い。そんな加乃に十郎太は持ち前の能天気さで意に介しない。弥平次はおりょうが疾風之介を追って八上城に出ていった。直接の親子関係はないが、いなくなった寂しさを紛らせるため猪狩りに夜の畑へ出る。自慢の槍を持っていく。しかしすんでのところで槍を落とし、逃げられる。後には月に照らされた槍が残った。この三様の仲秋の名月が印象的だ。
疾風之介は初め小谷城で落城を味わった。そして仕官先を変え、丹波の波多野氏に仕えたが、これもまた明智光秀に滅ぼされた。そんな負けることを運命づけられたかのような。対して十郎太は運良く勝者側についており、しかも部下が5人もいる。
疾風之介の元に八上城の落城前に一度おりょうが訪ねてきた。そこでおりょうと近い関係であることを認識した。しかし落城後逃げることができおりょうの待つまで行く途中、十郎太の一団と出くわす。また無慈悲に疾風之介を殺めようとする十郎太であるが、疾風にねじ伏せられ、ばか正直に加乃の居場所を漏らしてしまう。それを聞いた疾風之介は、今となっては加乃よりおりょうの元に行くべきと思っていたが、思わず加乃のいる坂本を目指してしまう。おりょうの元に行くにせよ、加乃に一言それを伝えておこうと思ったのだ。
本能寺の変後、十郎太は武功を求め、疾風之介はただ戦って死なないために明智軍に仕官する。明智光秀はその後秀吉によって倒されるのは歴史の事実である。疾風之介はやはり負ける方に仕えるのだ。この前、加乃は十郎太を好きにならないまま世を去った。何とも悲しい場面だった。
「生きることはいいことだ、生きようとすることだけが貴い」という台詞がいい。これは疾風之介を仲間に入れた三好兵部の台詞だ。戦国時代というと、自分の命は主君のもので、いつでも捨てるという考えだと思われる。しかし、生き続けよ、というのはかえって新鮮な感じだ。
クライマックスは、十郎太は圧倒的勢いのな羽柴秀吉軍により討たれる。弥平次は侍をやめていたが、疾風之介を助けに行きたいというおりょうに付いて戦場に入ってきたわけだが、明智軍の敗残兵に紛れてしまい、羽柴軍の銃弾に倒れる。疾風之介は瀕死の重症を受けたがおりょうに救われ、二人で洗浄から脱することに成功する。疾風之介自身は自分は死にたいというよりは死なない不思議な身体であると思っている。しかし、今となっては死ぬのではないかという漠然とした感覚があり、生への執着もないので、このまま死んでもいいと考える。おりょうの方も疾風之介が死ねば自分も死ぬし、生きるなら自分も生きる。どうするかは疾風之介に委ねられた。そんな疾風之介の脳裏に思い出したのが、先の三好兵部の言葉だ。それを境に「生きられるだけ生きよう」と、生への執着が生まれたのだった。
これは映画化されていて、三船敏郎、三国連太郎、山口淑子が出ているようだ。見たことはないが、確かにこの時代望まれている時代劇の脚本、それを感じる。
これは時代小説でかなり面白い方だと思うが、今時の時代小説はもっと面白いと言うことだろうか?現在2018年5月時点では絶版だ。長く出版され続けるにはどれ程面白ければならないのか?大変なことだ。
20180509読み始め
20180523読了