第1巻
黒田官兵衛の話になるのだが、司馬遼太郎らしく冒頭から、先祖の話に興味が出てきてそちらをまず記したいとして、しばらく黒田官兵衛は登場しないと宣言している。
黒田家の祖先ははっきりしていない。曾祖父の台までは滋賀県の木之本辺りに黒田という土地があり、そこに住んでいたようだ。地図を見るとまさに木之本駅の周辺で、つまり「七本槍」の酒を造る冨田酒造がある。一度訪れたことがあるので地理をイメージできる。七本槍という名の通り、賤ヶ岳の戦いの場所でもあり、木之本駅と余呉湖との間に賤ヶ岳はある。また古田織部の義兄である中川清秀がこの賤ヶ岳の戦いで討たれており、その墓がやはりこの土地にある。
曾祖父の孝政の時に備前福岡へ移ってくる。誰かに仕えると言うことはなく、歌の会の審査員のような、教養のある仕事をしていたのではないかと作者は推測している。都と違い備前では下克上が甚だしく、赤松氏→浦上氏→宇喜多直家と守護が変わっている。祖父の重隆の時になると浦上氏の者が略奪をし出し、一介の牢人である重隆も身の危険を感じるようになり、備前福岡を立ち退こうとする。
間は省くが、官兵衛が出てくるのは4分の1が過ぎた頃。それまでは曾祖父から父である兵庫助までの話で、しかしそれも面白い。大河では片岡鶴太郎が演じていたが御着の小寺藤兵衛政職だ。政職は藤兵衛と官職っぽくない名前である藤兵衛と呼ばれることに違和感を感じていない。そんな小寺は黒田(祖父である重隆)辺りから厚く重用する。父の兵庫助は筆頭の重臣だ。一介の牢人である黒田をそこまで重用する小寺に人のよさを感じた。一方黒田は、浪人らしからぬ武家としての気品があるようだ。また農民から信頼されているところが他にはない。
官兵衛は父に、京都に遊びに行きたいと頼む。いわば社会見学だ。従者は栗山善助。善助もこの頃はまだ子供だ。
官兵衛はキリスト教に興味がある。中国やインドとはまた違う進んだ文化を持つだろうローマに興味があった。しばらく、京都におけるキリスト教の話が続く。九州では島津を除いて比較的キリスト教は受け入れられたが、京都では天台宗の比叡山、真言宗の東寺、臨済宗の五山が幅をきかせていて、キリスト教の普及が邪魔されているようだ。ザビエルの話も出てきたが、この頃はビレラが布教している。官兵衛は興味をもち会いたいと思う。そして実際会うと偉そうにしているわけではなく、この国における仲間を求めている眼差しに気づくのだった。次第に官兵衛は教会に通いだし、善助はそんな官兵衛に自分の人生が心配になる。そこで官兵衛はおもんばかり、これは数寄のようなものと説明する。(数寄というと物好きとか趣味程度の意味だが、作者曰く茶道における数寄とは命を懸ける場合もあると解説している。色々茶道の小説を読んできた上で思うのは、作者はあまり茶道に対して深く思想的なものはもっていないのではないかと感じ取られる)
官兵衛は将軍足利義輝を軽んじるというか、ここまで権威が落ちたと感じている。その頃の京の情勢は、将軍は弱くなり三好長慶や松永秀久が幅を利かせている。キリスト教の布教を許した義輝、法華宗の後ろ楯となる松永秀久という図式。やがて義輝は松永に殺されてしまう。身の危険を感じていた義輝は自分を守るために剣の修練をし剣豪と呼ばれるまでになったが、作者からすれば、剣術というのは歩兵のたしなみであって、将軍ほどのものが極めるものではない。そこまで地に落ちていたと手厳しい将軍と言っても軍隊をもっておらず20人ほどの幕臣が周りにいるだけ。和田惟政を始め、細川藤孝、高山右近などの名前も出てくる。京都でのキリスト教の教会では和田と親しくなる。そしてキリスト教らしく、神のもとでは誰もが平等という事で、こういった幕臣公卿たちと対等に情報交換出来る。和田のはからいで官兵衛は義輝に拝謁する機会も得た(ただ姫路に帰ったときに小寺藤兵衛に知られ、自分を差し置いて将軍に拝謁したと言うことは自分に叛旗を翻そうとしているのかと疑われた)
和田惟政と知り合った縁で、将軍義輝が死んだあと、後継者にと義昭(当時は覚慶という僧だった)を確保したが、どうすればいいか官兵衛に相談する。それを聞いた父兵庫助は、何と大それた事をしようとするのかと驚く。「天下いじり」と、独特な言葉。義昭(ここでは義秋)に関わるのは大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀だったので混乱する。将軍など何の力もなくなった時期、細川藤孝が義秋を盛り立てて将軍職を復興させようとする(和田惟政もそうだ)。藤孝も乗るか反るかといった心境だろう。官兵衛は小寺藤兵衛から奇跡的に将軍を助けることを認められ和田を頼って義秋に近づく。当の義秋は僧に身をやつしていたが、根は貴族としてのプライドが染み付いており、天上人然としており、いけすかない。大河ドラマ「麒麟がくる」で滝藤賢一が演じていたのとは異なる(とは言え最後には慢心がでてくるのだが)
p199、他人のものを奪って自己を肥大させてゆきたいというのが乱世の剛強たちを動かしているエネルギー。核心だ。
和田惟政はいたく官兵衛を買っている。いい男だ。つまり俠気があるということろ。恐らく「椿三十郎」で主人公を高く買う仲代達矢のような感覚。そんな官兵衛が地方の小さな侍にしては高額な百貫文という金を献上しようと義秋の元を訪ねてきたのに、義秋は自分が貴種であるからと当然のごとく振る舞う姿に藤孝は少し失望する。
義秋は調子に乗る。朝倉義景は現状維持。信長は当時ちっぽけだった。そのまま死んでいれば、粋盛な奴がいたと歴史で語られるところだったろう。当時いた、上杉謙信武田信玄からすると戦では目立たない。しかし政治的能力は優れていた。義秋(既に義昭と名乗っている)が自分に恭順してきたことを利用し、京に向かう。そのためには近江の壁である浅井氏がいる。その浅井氏にたいしては自分の妹お市嫁がせている。そういった根回しを怠らなかった。
義昭は自分に尽くすようにと、各地の有力者に文を送っていた。播州の方面には別所氏に送られていた。しかし、同じ地方にいた小寺氏(官兵衛が家臣である)には届かなかった。細川藤孝や和田惟政とあれだけ懇意にしているにも関わらず。官兵衛は失望する。
義昭を将軍にたて、信長は京を目指す。松永秀久はあっさりと信長に恭順する。官兵衛はそれに追随したい。小寺藤兵衛は官兵衛を祝賀使としてだけ遣わすことを許した。しかし官兵衛は参戦するつもりでいた。途中で杉生勝兵衛という野武士を味方に加える。その頃はそういうことがよくあったらしい。普段は野仕事をしているが、一旗揚げようとより身分のありそうな侍に従う。官兵衛もそうだったではないか?
信長を頼った義昭だが、急速に両者の関係は悪化する。義昭は信長を退治しろと全国にふれを出すくらい。細川藤孝は信長に翻ったが和田惟政は残り討たれてしまう。信長は義昭を追放するその義昭を毛利が受け入れ、鞆の浦に庇護したそれほど義理がたい。
御着では小寺家は織田につくか、三好につくか、毛利につくか迷っていた。官兵衛は断然織田だった。押しきられる感じで小寺藤兵衛は官兵衛を、現在織田の家臣になった松永久秀に遣わせる。何かあったら官兵衛を切り捨てればいいくらいに考えていた。
松永のもとにいくと、まず高山右近というキリシタンに迎えられる。場内にはいると今度は中川清秀に案内される。そして松永久秀は玄関まで出迎えていた。
第2巻
この頃勢いに乗る織田と、西の毛利という2大勢力の狭間にいた播州の面々はどちらにつくか決めかねていた。織田と毛利は対立はしていたが、緩く均衡も保っていた。官兵衛の発案で信長が上洛したタイミングに合わせ、播州の小寺、赤松、別所の三家が信長に面会した。しかし信長からしたら、いずれもパッとしない印象だったようだ。信長公記でもさらっと流されている。
秀吉が中国攻略の足掛かりに、官兵衛のいる姫路に乗り出す。官兵衛は自分の姫路城を始め町自体を秀吉に差し出す。自分は父、宗円のいる国府城に移る。小寺藤兵衛は何か釈然としない感情を抱く。
秀吉が播磨に乗り込んでくる辺りで、官兵衛は竹中半兵衛と知り合うらしい。半兵衛のエピソード、木下昌輝であった。この頃半兵衛は誰からも見下げられていた(今でいういじめ)門の下を通ろうとしたら上から小便をかけられる。というのはあった。
それよりも半兵衛は城を取るというより、自分の知略が優れているということをアピールしたい。官兵衛も同族だ。新しい種族だ。半兵衛は秀吉にしたがって播州に来たが自分と同様な人物がいるということに気付く。
加古川評定の章。信長側の総大将として秀吉が播州に乗り込んでくる。しかし小寺藤兵衛しかり、別所長治の叔父であり家老である、山城守賀相も秀吉が百姓の出であることを軽んじている。そんな秀吉を総大将にする信長も信用できない。
評定の場、秀吉が上座、播州勢は遠くはなれた下座という位置関係に播州勢特に別所賀相は不満でならない。秀吉から何か策があるかと賀相に水を向けるが、着いてきた三宅治忠にそのままそっくり振る。すると治忠は知ったかぶりの訳のわからない長口舌を始める。困った秀吉は途中で止め、自分の指示に従ってくれればそれでよいという。それに侮辱されたと感じる別所だった。この場面まるで見てきたかのような、秀吉と別所の心情が綴られる。
官兵衛の妻であるお悠の兄は棚橋左京亮で、三木にいる以上織田にはつけず別所に加担せざるを得ないという、小寺藤兵衛はその動きを見てやはり自分も別所、毛利につくべきではないかと不安になる。いっそ官兵衛に織田につくのをやめると言おうとしていたら、官兵衛から宇喜多直家が織田につくかもしれないと言われる。そうなると話は別だ。西側は毛利に接しており、その毛利の外様である宇喜多が織田に付くとなればだ。
別所は完全に織田に敵対の構え。別所賀相がねちっこく織田(つまり秀吉)に反発の構え。さて秀吉と官兵衛が考えるのは別所よりも毛利だ。別所は無視して毛利に構えたいしかし秀吉の率いる7500では足りない。織田に援軍を求める。その役目は竹中半兵衛が請け負う。そして信長の援軍が来たはいいが、それを収容するだけの城が播州にはない。そこで秀吉は官兵衛に尋ねると書写山がいいという。書写山とは大阪から広島に向かう途中にあるトンネルの名前が書写山だ。平安中期に性空というものが開山し円教寺を建てた。花山上皇がわざわざ山上まで足を運んだらしい。花山上皇と言えば昨年2024年の大河「光る君へ」で本郷奏多が演じていたのは記憶に新しい。
毛利両川(もうりりょうせん)という、吉川元春と小早川隆景。毛利の戦は両者の合議で成る。吉川は冒険を好み、小早川は重厚さを好む。
織田家の将領級のもの6人。譜代の柴田勝家、丹羽長秀、牢人出身の滝川一益、明智光秀、そして荒木村重、羽柴秀吉。秀吉は他の将からは軽く見られている。そのため秀吉が指揮を取っているとはいえ誰も従わない。その苦悩が見える。山中鹿之助は織田に従い、上月城に入るが毛利に攻められ危うい。山中鹿之助を見捨てれば織田の信用がなくなる。秀吉は何とか上月城を助けたいが、仲間の誰もが助けてくれない。信長自身もなかなか出てこない。寧ろ逃げているようだ。勝つ自信のない戦には参戦しないのだ。信長のセコさが細かく書かれている。
困窮した秀吉は百姓の格好で陣を抜け京の信長のもとに行く。そこで、自分では諸将に命令することができない、信長自ら出陣して欲しいと頼んだ。しかし信長は上月を捨てて他の城に注力するよう命令する。
竹中半兵衛の子の重門は後に豊鑑(とよかがみ)の筆者になる。
秀吉は上月に使いを送り信長の言葉を伝え、尼子と山中に織田に合流するようすすめたが、毛利の包囲網を掻い潜ることは叶わないと諦め、70数日の籠城の果てに尼子勝久は切腹する。山中鹿之助は吉川元春と刺し違えるつもりで降伏したが、それも叶わず謀殺される。
三木城を攻める織田軍、圧倒的兵力だが力押しはしない。兵力を見せつけるだけで圧倒する。同時に神吉城と志方城も攻める。志方には官兵衛の妻の兄である櫛橋左京亮がいたので、官兵衛が予め信長に命乞いをしていた。そのため城は落ちたが命だけは助けられた。その後櫛橋の一族は官兵衛の家臣団に加えられたとのこと。
敵軍が攻めても待てという、敵が城壁に取りつくまで。いよいよ張り付くと攻め始める。そして城門を開き300人の突撃隊を突出させる。その指揮者は子飼いの母里太兵衛だ。大河では速水もこみち演じていた。
信長は後々利益になるものは受け入れるが、そうでないものは徹底的に潰す。荒木村重は前者で、宇喜多直家は後者だ。秀吉はしかし直家を懐柔させようとしている。
結局三木城では毛利が勝利したわけだが、宇喜多直家は病気のため参戦せず、しかし小早川隆景と吉川元春が帰国する際に岡山に寄ってください、酒でもてなすと誘った。両者ともにそれを受けたが、その時になると岡山を避け広島に帰ってしまった。というのは直家は両者を迎えたら謀殺し、織田に寝返る手土産にしようとしていた。という噂を聞いたからだ。直家恐るべし。
荒木村重の章。信長主催の茶会で起きた事件。信長が脇差しでなますを刺し村重にいかにと問う。村重は口でなますを引き抜き食べた。屈辱を与えられた事件。この頃から村重に謀反の気が涌いてくる。同じ頃、宇喜多直家が織田に寝返りそうな気配が見えてくる。宇喜多の家中は信用ならない。秀吉に使いさせるそのような人物がいない。使いのものが毛利への手土産として裏切る可能性がある。そこで抜擢されたのは、商人の倅である、小西行長のようだ(まだ武士になっていない?)。信長は村重を失うことを恐れ、明智光秀らを説得にやる。安土に行って直接釈明すればいいと説得され、そうしようとした。しかし、途中で中川清秀に、それは罠で、安土に入った途端殺害されると諭され、村重は伊丹に引き返す。
第3巻
官兵衛は織田につこうとしているが小寺は毛利につこうとしている。その対立。官兵衛は少年の頃からの小寺への恩があるためなんとしても説得して織田に付きたい。小寺は、織田の義もなく信もないことに不満がある。荒木村重は織田を見限り、小寺は荒木を助けようとしている。
荒木を説得しようと官兵衛は伊丹に向かう。しかし、いきなり捕らえられ牢に入れられる。小寺からは官兵衛を殺すよう頼まれていたが、それに忍びず投獄し、衰弱死させようとしたのだった。日もほぼ当たらず、湿気の多い劣悪な環境だ。まあ刑務所ではないのだから、はじめから生かすことは考えていない設計だろう。
官兵衛は荒木村重に寝返ったと疑った信長から、秀吉に人質として預かっている松寿丸を殺すよう命令が来る。信じられない秀吉が悩むまもなく、竹中半兵衛は自分がこの件を請け負うと返事する。宗円(官兵衛の父)はこの場合息子ではなく孫(松寿丸)を選んだ。
中川瀬兵衛に対しては信長は荒木と手を切り自分につけば処遇を厚くすると申し送った。高山右近は、信長に従わなければ日本中のキリシタン宗門を断絶させると脅された。また荒木にも自分の長男と妹たちを人質に預けていた。苦しい板挟み。右近の葛藤が凄まじい。当然と言えば当然。官兵衛の場合と同様、父である飛騨守(洗礼を受けてダリヨ)に家督を返し縁を切って世を捨てた。そしてダリヨは村重に会い、人質を返してほしいと涙ながらに説得して、人質を返してもらう。
高山右近は完全に自分を捨て信長に対面し高槻城を明け渡した。元々高山右近を重視していた信長はそれに安心し、右近の領していた2万石にさらに2万石を加増したという。それに対して官兵衛への扱いはゴミみたいなものだった。
p94。すごい。竹中半兵衛は美濃国不破郡菩提山に城を持っていた。現代にしたら、実家が資産家で自分は会社勤めしているが、会社に身を埋めることもなく、何ならいつでもやめてやるくらいの心持ちだったこと。その半兵衛は、自分と共感を感じる官兵衛の息子である松寿丸を殺さず、菩提山に連れて匿おうとしていた。秀吉の妻にそっと伝えただけで松寿丸を連れ出した。実は菩提山辺りは半兵衛の土地で関ヶ原もそこに含まれる。松寿丸は関ヶ原を通ったし、後年黒田長政となり、関ヶ原の戦いを迎えるが、あっさりと徳川家康についたところ、秀吉に何の恩も感じてなかったのではないか。むしろ悪意さえ持っていたもではないかと作者は推理する。
p99。古田左助(後年の古田織部)が登場する。無論中川清秀の親戚として、清秀を調略する役目で登場する。
p104。反乱した荒木村重。この心境が面白い。村重は織田氏と断絶するとき、毛利や本願寺と密約を結んでいた。しかし結局は裏切られた。こんなのはまさに今の我々ではないか。契約書に匹敵するほどの約束を交わしていながら、土壇場で「何のこと?」と反古にされ、こちらは立場を失う。何のための契約書だ。相手に履行させられなかった自分の技量のなさを責められる。しかしそれはただの運だ。
栗山善助は官兵衛の消息を探り、牢まで忍び込み、周囲の状況を知らせる。そうして周りと関係を保つことでいきる希望を持ち続けた。また、牢の庇から垂れる藤を見て占いをし花が咲けば自分は生き残るだろうと執念を燃やす。この執念の描写は司馬遼太郎には珍しい。ただ山田風太郎の描写からすると、上品ではある。と思った。
明智光秀は丹波の波多野氏を攻めていた。秀吉の援軍によって波多野氏を負かした。一族を捕らえたが光秀は殺すつもりはなかった。しかし信長は安土に連れて磔にした。この信長の残虐な行為は光秀がしたものと世には写ったと言うので、とんだとばっちりだった。
牢に入れられた官兵衛は、監視の加藤という下級武士に村重と話がしたいので取り次ぐよう頼む。加藤は下級過ぎて村重に伝えるまでに多くの上司を経由しなければならない。しかし村重が毎朝弓を引く習慣があることを聞き、その場に向かう。官兵衛が面会を求めていることを訴えるが、村重は答えなかった。面会はしないが、手紙を寄越すことは認めた。その事を加藤は官兵衛に伝えたら、牢屋生活の疲労からか、このままで村重は滅びるところ、自分がいい案を示そうとしているのにそれを聞き入れないことに、通常なら見せない怒りを露にする。これで思い出すのは大河ドラマ。官兵衛を演じる岡田准一がよく怒っていたことを思い出す。(軍師だからか)なんと上から目線なのかと思っていたが、牢獄生活の疲労から苛立っているということだったのかと気づく。加藤は官兵衛に紙と筆を差し入れる。しかし、文字として残すことで証拠を残してしまうこと危惧した官兵衛は手紙を書かなかった。
村重は1年籠城したが、毛利はいよいよ助けに来ないことが明らかになった。部下たちを説得しても虚しいだけ、やがて村重は精神状態がおかしくなったのだろう、疑心暗鬼になり、侍大将の誰かが自分を殺し、それを土産に信長に寝返るのではないかと考えるようになった。新五郎村次という長男がいるが、これも部下たちにそそのかされて、父である自分を殺すのではないかと疑う。そんな疑心暗鬼が極まったとき、村重は5、6人だけ連れて逃亡した。
妻子、一族を捨てて逃げた村重。自分が助かりたいという感情であったか。しかし作者は違った解釈。妻子一族を殺した信長の残虐性を指摘し、また村重に対しては、いつまでたっても助けに来ない毛利に、自らがたって、毛利を呼ぼうとしていたのではないか。通常なら、部下が毛利の元に行き、説得をするわけだが、村重自ら説得しようとしたのだ。そこまで追い詰められ、また、精神的に追い詰められていた。
後日譚だが、信長を裏切った小寺藤兵衛は毛利からも受け入れられず放浪していた。後に官兵衛が信長に頼んで許しを請うたが拒否され、命だけは助けてもらった。本能寺の変の時期に藤兵衛は病死した。息子の氏職を客人格で官兵衛は受け入れた。同様に秀吉は荒木村重をお伽衆として受け入れた。
四国をどうしようかという時期、官兵衛には浄金という話友達がいた。播州の野口氏だが出世欲もなくただ官兵衛と馬鹿話をするだけだったらしい。そう言う言う相手も必要だ。しかし、謂わば官兵衛の参謀と言ってもいいくらいの人物だが、あまり知られていない。
第4巻
まだ毛利攻めが続く。
宮路山城と、冠山城を攻める。冠山城は亡き宇喜多直家の残党が攻める。圧倒的な力攻め。それに対し宮路山城は官兵衛と蜂須賀が攻める。と言ってもまずは降伏を進める作戦。しかし、城を守る乃美は簡単には受け入れないだろう。ただ織田の強さを知っているので勝ち目がないことも分かっている。これは司馬遼太郎の後付けかもしれないが、城を攻める際に明確に陣の一部を空けた。そうすることで乃美が逃げやすくする。つまり毛利に義理を保ちつつ、逃げることができる余地を作ったと言うことだ。この辺りが軍師たるゆえんに思える。
毛利は大河「鎌倉殿の13人」で知った大江広元が発祥らしい。
秀吉は子がなく、信長の第四子で15歳の於次(おつぎ)を養子に貰っていた。独裁者は天下統一を果たすと部下に与えた領地が惜しくなる。するとそれを返せとは言えず、難癖をつけて断罪し土地を取り上げるものだ。そこで養子を貰うことで断罪されるのをうまくかわした。
備中高松城の水攻め。官兵衛は秀吉が刀や槍でなく、土木で戦う人物に見えた。
毛利側も輝元を始め、小早川隆景や吉川元春が出陣してきている。兵数は同等であり、戦端を切れない。高松城主の清水宗治を助けたいが、それによって秀吉軍と小さからず戦になり損害は大きい。さらに信長の率いる軍がやって来たら敗北は必至。清水宗治を見捨てたいところだが、情に厚い隆景は、宗治に使いを出し、信長に寝返るよう伝えた。しかし宗治は三木城の別所長治のように、自分一人が腹を切り、家来は助けてくれるよう交渉してほしいと申し出る。その事でまた迷う隆景だった。そしてそれを交渉すべく、安国寺惠瓊が秀吉の陣営に使いされる。ただ総指揮者である秀吉が直接応対することはなく、官兵衛と蜂須賀小六が応対する。
清水宗治は家来の安全を保障に自分は喜んで腹を切る。ただそれだけなのに、両陣営の思惑や、筋や、対面など形にこだわってなかなかスムースにはいかない。こういっためんどくさいゴチャゴチャは司馬遼太郎ならではの創作かもしれないが、いつも思うが、この戦国時代の形式にこだわるところは、近代で言うところの極道の世界と同じようなものではないか。さらには、大企業、中企業の世界にも通じる。そう考えると、武士の道はある意味美徳とも思えるが、形式ばかりで馬鹿馬鹿しくも思えてくる。
宗治の家老、白井与三左衛門治嘉は、左足を負傷した。宗治に切腹したい旨頼んだ。宗治は死ぬのは自分一人でいい、その事に意味があると説得した。しかし治嘉は、そうではなく、腹を切ることは大したことではないと伝えたかった。そしてそのまま腹を切る、宗治に介錯を頼む。
秀吉は穏便に済ませたいが、信長が参陣してくるとなると、それではすまない。信長は和睦など考えておらず、毛利絶滅だ。そこで宗治を切腹させることが妥当な結論と考える。秀吉、信長、官兵衛、毛利の駆け引きが「城塞」の家康、正純の狡猾なやり取りと被る。多分司馬遼太郎の見せ方なのだろう。
結局、毛利方の折衝役で、のらりくらりの狡猾な狸の惠瓊との交渉で、宗治を切腹させた。実はその直前に信長が明智光秀によって本能寺で討たれたという情報が秀吉の元に届く。ここでは官兵衛は秀吉に「あなた(秀吉)が天下を取る時です」などと耳打ちはしない。信長が死んだことで、宗治の切腹により和睦した。
毛利側は本能寺の事は知らない。1日遅れで知った。宗治を切腹させたことが悔やまれる。今なら秀吉を追いかけて攻めるべきと考える吉川元春。ここは秀吉に仕えるべきと考える小早川隆景。この兄弟でのやり取りが面白い。あくまでも毛利側の内情を描いている。信長のことは遠くで起こった出来事程度の扱い。
因みに吉川元春と息子の元長が強硬派だが、関ヶ原で登場する広家は元長の弟だ。この時は年若く、冴えない人物だ。
敗者は主将を戦場から逃れさせるもので、主将は逃げるわけではなく、城に帰りそこで自裁するのだという。光秀も坂本城に帰ろうとしていた。
光秀は敗れる。勝者は敗残兵を追い、兜首を得ようとするが、官兵衛は美徳としてそれをやらなかった。
明智光秀に関してはネガティブではないしポジティブでもない。ただ事実をのべているだけ。思ったのは、明智光秀本人の言葉がほぼない。客観的な視点で述べているだけだ。従って、明智光秀の人格はわからない。作者がどう思っていたかもわからない。恐らくそれが作者の考えなのだろう。書かれた当時は明智光秀は主君を裏切り殺した非道な人物だと一般的には思われていた。しかし、それを否定はせず、また肯定もしていない。つまり逃げたといえる。当時の時代背景が見えて興味深い。井上靖は好きな作家だが、明智光秀に対しては否定的。しかし井上靖の時代は否定的な世論が強かったに違いない。
本能寺以後は官兵衛の役割も少なくなる。秀吉は内政を重視し出す。そう考えると官兵衛が重視されたのは毛利攻め、播州での工作の時だけだったのかもしれない。急速に石田三成が重用されだす。奉行衆がいつの間に台頭してきたのか、あまりにも突如出現したかのように感じる。
坂口安吾の「二流の人」でもあったが、朝鮮出兵の際、石田三成が訪ねてきたが、囲碁の途中だったために後回しにしたらそのまま忘れてしまっていた。怒った光成は秀吉に言いつけるのだが、坂口安吾の小説では官兵衛をかばう。こちらでは怒りを買ったようだ。
官兵衛には子が一人、長政だが、養子みたいな感じで子を世話していた。それが後藤又兵衛。官兵衛は長政より又兵衛の方を買っていた。むしろ長政には何の期待もしていなかったところが不思議なところだ。いずれ家康と三成は関ヶ原で衝突するだろうと予言していた。官兵衛は九州で兵を立ち上げて、関ヶ原の混乱に乗じて天下を取ろうと画策していた。しかし官兵衛の予想に反して関ヶ原は1日で決着する。家康の勝利に大いに貢献したのが長政だったので官兵衛は複雑な気持ち。この場面は同著者の「関ヶ原」でも少し触れられている。この小説に置いて官兵衛は初めは近代的な思考の持ち主であることから変わった人物だったが、関ヶ原以降は完全に変人だ。著者もこの頃の官兵衛の考えが理解しかねるのか、心理描写は減り、事実だけを述べるに留まる。
第1巻
20241028読み始め
20241215読了
第2巻
20241228読み始め
20250217読了
第3巻
20250222読み始め
20250402読了
第4巻
20250404読み始め
20250520読了