ビールを飲むぞ

酒の感想ばかり

「日の名残り」 カズオ・イシグロ

2017-11-26 01:35:21 | 読書

(2015年の読書時の感想)スティーブンスのこの馬鹿がつくほどの正直っぷり。プロローグにおいて、主人のファラディがアメリカ人であることで、ジョーク好きであるのではないか?ジョークにはジョークで返さなければならないのではないか?しかしイギリス人の自分にはそんな機転も持ち合わせない。そもそも主人がジョークを言っているのかどうかも判別できない。ジョークを言ってるのだろうか?ジョークを返さないと失礼になるのではないだろうか?と常にもんもんとしており、意を決して拙いジョークを返したら、全く外してしまって返って気まずい雰囲気になってしまった。なんてところは自分と重なる。しかし、そこで気まずくなり、早々にその場を立ち去るという軽さが、自分とは違いある意味正直、誠実の極みなのかもしれない。
(2017年11月)前回読み始めて中断した時の感想をあえて残す。前回と印象が違っていて面白いと思うからだ。当時はスティーブンスの馬鹿正直ぶりに違和感がありすぎたが、今回はそれほどの違和感はない。カズオ・イシグロは「わたしを離さないで」「遠い山なみの光」「忘れられた巨人」「浮世の画家」と読んできた。前回読む前には映画も見ていた。「浮世の画家」の主人公小野とも通じる、愚直ではあるが誇りを持っているタイプの主人公だ。
映画では、屋敷での過去の回想が中心で、最後にファラデーから車を借り、旅に出るという筋だが、小説の方は、冒頭から車で旅に出て、その道中で昔のことを回想するという流れだ。この違いが最終的にどんな印象を感じさせることになるのだろうか。
今の自分にはこんな解釈しかできないのだが、始めに断っておくが決して悪い意味ではない、カズオイシグロの小説の主人公はどれも真摯であるが、たまにチラチラと腹黒さと言うのだろうか、狡猾と言うのだろうか、ドキッとするような意地の悪さのようなものを見せる瞬間がある。これが読んでいて不安感を感じさせる。読み手、読みようによっては真面目な中に、確固とした誇りを見せていると解釈する人もいる。どうも今の自分にはそう感じるまでにはまだ至らず、意地悪さのように感じるのだ。
ダーリントンホールでの一番の会合が開かれる。ダーリントン卿は第1次世界大戦後、ベルサイユ条約によって必要以上に締め付けられているドイツに対して、そんな瀕死状態の者をさらに踏みつけるようなことはやめようではないかと、各国のキーマンを集めて意見交換しようという会合なのだ。当初フランスだけが強硬派であると思われそのように進んでいく。結局は一番寛容そうであったアメリカが、感情的ではなく、合理的に事を進めるべきだと場違いな主張をし出し終盤を迎える。ダーリントン卿は私利私欲に走るのでなく、正義を広めることが必要だと締めて終わる。
転機について。p255。転機というのは確かにあるのかもしれない。しかしそれは後で振り返ってそうだったかもしれないと思うだけ。そう思えばあらゆる瞬間に転機があったと言えるかもしれない。あの時そうしていたらどうなっただろうと後悔していたら、気がおかしくなってしまうだろう。
旅をしながら後悔ばかり、というのも、完璧な執事であったと自慢しているわりには、失敗が多い。いや失敗したときの回想しかないのでそう見えるわけだが。失敗またはそれを含めて転機と捉えが、その事柄に対して、どうもいちいち言い訳っぽいことを言ってるように見える。「失敗しましたよ。でもあの状況でどうすることができたでしょうか?そんな状況でここまで出来たのだから何で責められましょうか?」というように聞こえる。実は主人公はデキない執事だったのでは?と勘ぐってしまいそうだ。戦後、仕えていた主人が訴訟に敗訴し世の中から否定されたとき、それに全幅の信頼をもって尽くしてきた自分は一体なんだったのだろうか?と虚しさを覚えるのは致し方ない。それはあまりに職務に忠実であり、理想が非常に高いレベルであり、無私であるがゆえに、全部否定されたときの虚無感は大きい。言ってみればごく狭い世界で理想を追求しすぎたせいだ。信念と寛容のバランスが必要だったのではないか。ダーリントンホールでの世界しか知らないスティーブンスが、ほぼ初めて外の世界を知る、つまり旅に出て、色んな立場の色んな考えの人たちと交流したことによって、世界が開けたのではないか?もちろん過去の誇りは大切にすればいい、しかしいつまでも後悔をしていても仕方がない、今を楽しみ、これからを楽しもう。と前向きに考えることができるようになったに違いない。
書いた当時カズオイシグロは30代だという。その歳でよくこんな枯れ寂れた小説をかけたものだ。
20180329追記
良く聞く感想に、これぞ日本の侘びさび、みたいに言われる。僕はそう感じない。ただスティーブンの自信をもって生きてきた過去を否定できない、それを繕うために言い訳をしている。
 
20150429一度読み始め、中断。
20171119改めて初めから読み始め
20171125読了

「浮世の画家」 カズオ・イシグロ

2017-11-19 00:22:36 | 読書
長編第2作で前作同様日本を舞台にしている。戦後すぐの話のようだ。
序盤の段階では、小野益次という引退した画家は杉村明という実力家の建てた家にすんでいる。娘の節子が孫の一郎を連れて帰省してきた。小野は寛容なように見えるが、頑固な一面と言うのか暗い一面がチラチラ垣間見える。節子の態度もぎこちない。前作のような何とも言えない居心地の悪さがある(悪い意味ではない。イシグロらしさ)。
孫の一郎が一人でローンレンジャーと言うカウボーイを演じて遊んでいるのに対して、小野は、そうでなく源義経の方がいいと、ついムキになってしまう場面。
本当に序盤はタイトルの画家と言う、その片鱗さえも出てこない。隠居した老人と嫁に出た娘と、少しわがままな孫との他愛もない、昭和の家庭の話のようだ。初めはそのように平凡な日常が語られ、その後不穏な空気がチラチラ見えだし、実はうすら寒い話になっていくのだろうか。翻訳に関しては「わたしを離さないで」の土屋政雄ではなく、飛田茂雄と言う。しかし同じ日本を舞台にした前作「遠い山なみの光」の小野寺健と比べても違和感はなく、土屋政雄と比べても違和感はない。カズオイシグロらしさが出ている。
花を生けている節子との会話の翌日、小野が散歩していると、不意に苛立たしさが沸き上がってくる。温厚な感じでものわかりも良さそうな人物だと思っていたのに、突如何かどす黒いものが芽を出してくる感じだ。実は節子の夫の素一に不満を持っている。というのは世代ギャップと言うのだろうか、小野の世代は戦争に行くこと、国の命令で戦地に行くことは当然と考えている。しかし素一の世代は国のためなどといいながら若者を戦争に行かせる上の世代に怒りを覚える。そして死にに行かせた世代は生きており、うってかわってアメリカに媚を売り、暮らしがよくなっている者もいる。そんな人間は卑怯だとも思っているらしい。そんな考えのギャップがあるようだ。また驚いたのは、小野には息子もいて、息子は戦死しているとここへ来て明かされる。
カズオイシグロは「信用できない語り手」と言うキーワードで評されることが多い。注意しなければならないのは、これはテクニックのことであって、表現したいことではないと言うことだ。物語は語り手の記憶や主観を通じて語られる。なので、古い記憶は曖昧であって不正確だったり、語り手が勘違い、あるいは思い込んでいるだけのことがある。なので話自体が曖昧と言える。そのため独特の雰囲気を醸していると言える。しかし作者の言いたいこととは別の話だ。
浮世の画家であり、文庫版の表紙は浮世絵のようだ。しかし、主人公の小野は日本画家ではなく洋画家だし、解説にあるように、戦時中、日本の愛国心を鼓舞する活動を続け、戦後には周囲の人すべてからのけ者にされ、娘の結婚もスムースに進まないというが、半分を過ぎても全くそんな話が出てこない。
小野の師である森山。まだ森山の別荘で弟子として修行をしている頃のはなし。毎日のように客が訪ねてきて昼夜を問わず宴会をしている。休憩しようと外に出た小野。その後同じように外の空気を吸おうとやって来た森山である。浮き世というのは、夜も更けてきてからやって来て、夜が明ける頃に去っていく享楽のことだというのことだという。退廃的なイメージではなく、一種独特の夜の幻想的な高揚感のことではないか?考えてみれば、夜中に気持ちが高まり書いた文章が翌朝読み返して恥ずかしくなる。そんなことはよくあることだ。しかし、その、夜には確かに感じていた、恥じらいも感じていなかった時の高揚感こそを表現したかったのではなかろうか。
という画風をめざす集団であったのだが、財団の松田の影響により、戦争に向かう次代の中で愛国心を鼓舞する思想を持った画風を志すようになった。正直その絵の解釈はよく理解できなかった。
終始物わかりのいい老人(いや初老?)の独白のように話が進むのだが、どうも違和感というのか、腹黒さのようなものを時折感じるのだ。それが何なのかずっと考えていた。それは記憶の端々に見られるちょっとした瞬間の言葉だ。時代の変わり目にありがちな世代間のギャップ。つまり考え方の違いによって、新しい世代は古い世代を「古い考えだ」と馬鹿にするし、古い世代は新しい世代を「未熟な若造が」と馬鹿にする。主人公の小野は戦中に戦争を称賛するような活動を行ったことは、戦後の時代の空気の変化から、どうも悪いことをしていたのではないかと反省している。その理由として、弟子たちも去って行ったし、娘の結婚もうまく進まない。つまり自分が戦中その当時は良かれと思ってしていた行動が間違っていたのではないかという加害者意識を持っているのだ。極度の被害妄想。そんな時代の空気に沿わせようと、自らつとめて謙虚な行動、言動を取るようにしている。しかし心の深いところではあの時は正しいと思ったことを精いっぱい行っていた。そのため大きな評価も得ていたという自負がある。自分は間違っていないが、寛容なところを見せて時代の空気に合わせてやっているというようなギャップを感じるのだ。
そんな感じで違和感のある主人公ではあるが、時代の変わり目における古い世代の疎外感というものは、どの時代にもあるのだから、負い目を感じることはないのだという、意外な楽観さも感じ取れる。
 
20171112読み始め
20171118読了

ドラゴンベアードDB-3205B

2017-11-13 09:39:12 | こんなアイテム

京都寺町のオフィシャルショップで購入したもの。正確な日付は覚えていないが、写真の撮影日から2009年だと思われる。

店の場所ももしかしたら移転しているかもしれない。

ドラゴンベアード初心者ということですすめられたのがこれだ。

ただモデル名はわからない。今見てみると「DB3205B」と、ほとんど消えかけた文字が印刷されている。現在の命名法からは規則性のない名前なのでもしかしたら違っているかもしれない。

当時はかかとのベロにデザイン的な違和感を感じていたが、長く履いているとこれが良くなってくる。

かなり愛着が湧いてきているのだが、外側はともかく内側がだいぶヘタってきた。そろそろ買い替えか?と思うのだが、なかなかこのような、ある意味ドラゴンベアードらしくない上品さのあるものが今はない。復刻してないかとお店に行くたびに見ているのだが、なさそうだ。

↑ビフォー

↓アフター(8年後)

履けなくはないが、かなりエイジングがすすんで。。

 

別の写真。ビフォーアフター。

→→

多分復刻されるまで履き続けるだろう。


「安土往還記」 辻邦生

2017-11-04 20:56:33 | 読書
辻邦生は初めて読む。果たして辻邦生の美学とは。
読み始めたが、やはりキリスト教がわからない。馴染みがないせいだろう。そしてポルトガルという国もよく知らないので、少し取っ付きにくい。もう少し読み進めなければ面白さがわからない。
2章のクライマックスは長島の一揆だ。信長は老若男女関わらず全てを抹殺せよと命令を下す。つまり全てを破壊し尽くさねばならぬということだ。これが信長の哲学である。その後の場面は残虐を極める。まさに全滅で幕を閉じる。
p99。目に見えぬものは信ぜず、理にかなうものだけを重んじた。
この時期の世の中の空気として、キリスト教が大いに歓迎されていた。しかしそれは信仰心があってのことなのだろうか?高山親子のように本当にキリスト教の本質を理解していて厚い信仰心を持つ者もいれば、信仰としてのキリスト教ではなく、目新しい西洋文化に対する憧れが、それをもたらすものが宣教師しかいなかったため混同してしまっているのではないだろうか。特に一般庶民は。そしてそれは織田信長にも当てはまる。信長にとてもキリスト教への信仰があったとは考えにく
い。西洋文化への興味と、仏教に対抗する手段としてのキリスト教。これしかなかったのではないだろうか。
荒木殿が謀反を起こす。高山殿の謀反に対するのと同様、慈悲を持っていた。現に高山は許されたわけだが、とりわけ荒木には好意を持っていた。それが最後まで懐柔しなかったため、逃亡した本人以外、家族、家臣、郎党に至るまで皆殺しとなった。辻邦生の特徴なのか残酷な場面は極めて残酷だ。場面の描写はさておき、荒木村重には取り分け信頼を寄せていたようだ。いなくなった空虚感に為す術がない。
信長は戦場においては慈悲など無い。徹底的に消し去るそれを実行するのが戦場と言うわけだ。その代わり戦場外では温かさが見られるのではないかという。P158、合戦に慈悲であることは、ただ無慈悲となることしかないのだ。
興味深いのは、信長は戦場で多くの無慈悲な虐殺を繰り返して、一種の残忍さの象徴である。それに対して、語り手である主人公は軍人ではないが、日本に来る前には妻を殺害しているし、後半登場する巡察使ヴァリニャーノは若い頃には、酒場に入り浸り乱れた生活を送っており、男女間のもつれから女性の顔を切りつけ、牢獄に入れられたという過去を持つ。この異国人の過去の行為は日本と違い戦争中でないため、別の意味での悪を感じる。現代でいう猟奇的と言える犯罪行為だ。これを責めるなら信長の行為は何万倍も残虐ではないかと錯覚してしまう。しかし、それぞれの置かれている社会が違うだけで、本質は同じもののようだ。それゆえに彼らは互いに共感を覚えるのに違いない。
明智光秀の謀反で最後締め括られる。光秀に対しては憎しみや蔑みなど持っていなかった。ただ、もっと高いところを目指せという視線だけがあった。ただその重圧に耐えきれなくなったのだ。
織田信長を描いた小説ではあるが、信長本人の語りではない。他者から見た信長である。ただ、この時代であるからありがちな、キリスト教の宣教師である外国人から見た信長。つまり異国人であるという視点に加えキリスト教的思考から見た信長ではない。異国人ではあるがキリスト教をそれほど信じているわけではない「私」から見た信長なので、その点が面白い。
 
20170911読み始め
20171104読了