ハードプロブレムは解決した。という意見に対して、反論意見が出てきているサイトを見た。
ずっと互いに議論を戦わせている。
興味深く見ているが、何か、互いに議論が噛み合っていないような印象を持っている。
それぞれ正しいことや、道理なことを言っているにもかかわらず。
私は、大方の、ハードプロブレムは解決したという意見には懐疑的で、さらに違和感を感じる。そうではないと反論する意見に同意する。
ハードプロブレムという人類史上誰も解決できなかった問題を解決したぞ、という名誉を披歴したいだけのように思え、私が本当に知りたいのは、そういうことでなくて、と言いたくなる。
その人は、私が感じている「意識とは何か?」という悶々とした疑問を全く感じていないのだろうか?
そう、同じようには感じていないのだろう。
意識とは何か?と思う気持ちを、誰しも「そういうことか」と思える定義を設定しなければならない。
問題解決の前の前の・・・話になるが。
一方では彼自身がそう定義するハードプロブレムを解決したという考えと、
他方でそれはハードプロブレムの解決ではないという考えが相違している。
なので、まずはお互いの定義の共有化が必要。
それは(今単純に想像するのだが、読んだこともないのだが)デヴィッド・チャーマーズの著書を読むのがいいのではないかと思った。
まずの、これを議論するにあたっての考えの共有化を図っているのえはないか(と勝手に思っているが)
いや、
そのハードプロブレム解決の話を聞いた。その人はそれで満足しているようだ。
しかし、私からすると、それでいいの?それだけでいいの?その人はそれで満たされたわけだ。私はそれでは満足できない。
それを伝えきれないことこそ、ハードプロブレムかもしれない。