『平家物語』巻十の「藤戸」は、瀬戸内海の藤戸の浦(現 岡山県倉敷市)での源氏と平家の戦いが語られる段です。
その中で、源氏方の武将佐々木盛綱が、地元の若い漁師に馬で渡れる浅瀬ができる場所と時刻を聞き出し、
それが敵味方の双方に知られることを怖れて若者を殺害します。『平家物語』では次のように記述されています。
(盛綱は)「下臈はどこともなき者なれば、又人にかたらはれて案内をもをしへむずらん。我計(ばか)りこそしらめ」と思ひて、彼男をさしころし頚かききってすててンげり。
殺害シーンの記述はこれだけです。
謡曲ではその後日談が語られます。
盛綱は藤戸の戦いでの戦功により備前の児嶋(藤戸の近く)に領地を拝領し、その地に入部したとき、
殺された漁師の母親(老女)が近づいてきて我が子の仇を討とうとしする。
盛綱は後悔し、漁師の法要を営んで霊を供養することを約束して母親をなだめます。
法要を営んでいるとき漁師の霊が現われて、盛綱に祟りを及ぼそうとしますが、回向してもらったことに納得し、成仏して姿を消します。
あるときラジオのスイッチを入れると、たまたま謡曲「藤戸」が謡われているのを聞いたのが、私の「藤戸」の聞き初めですが、
解説を聞いていて、これは大変な演目だと思いました。
というのは、シテが名もなき(『平家物語』では「下臈はどこともなき者」と記されている)若い漁師とその母(老女)で、
母親は自力で武将に向かっていって仇を討とうとするのですから。
謡曲「藤戸」が創作されたのが世阿弥とほぼ同時代である(作者は不明)とするならば、室町時代初期、15世紀の前半です。
世阿弥によって大成され洗練されていった能楽は、その鑑賞者は主として上層の武家、貴族、富裕商人、著名文化人といったところと推測されますから、
「どこともなき下臈」の振る舞いに関心が向けられるとはとても考えられません。
ましてや、武家同士の合戦の犠牲になった名もなき庶民の親子の悲劇など、
武士の士気を萎えさせるものとして、嫌忌されるのではないかと考えられます。
『平家物語』の作者だって盛綱の処置を、今風に言えば“危機管理”の用意周到さを評価するニュアンスで記しているように感じられます。
そういうふうに考えると、謡曲「藤戸」の作者の目線は、当時としては極度に低いと想定できます。
この低さは、同時代の西洋(ルネサンス前期)にも明王朝期の中国にも見い出せないのではないかと思います。
その意味で、世界の演劇史の流れの中で見ても、極めて先鋭的だなと私は感じたのです。
この「藤戸」との出会いで、私は世阿弥の時代に創られた能楽への関心を、本格的に持つことになりました。