モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

ジャコメッティ「見えているものを見えるとおりに」

2019年09月13日 | 「‶見ること″の優位」

「見えるものを見えているとおりに描(書)く」という言い方があります。
一見なんでもないことのように思えますが、それがいかに困難なことであるかということについて、今回は書きます。
その困難さは、「何がどう見えているのか」を考えてみることがその鳥羽口になります。
「ものを見ている」ことは間違いないと思っていながら、実は何も見ていなかったと思い知らされることが往々にしてあります。
見れば見るほどその感を深くして、改めて「一体何を見ているのか」と問い直して見るにいたるのです。
それは、見ている対象の世界の“深さ”ということに関係しています。

20世紀を代表する彫刻家の一人であるジャコメッティは、生涯を通して毎日毎日デッサンの訓練を重ねていたことがよく知られています。
彼の口癖は、「見えるものを見える通りに描く」というフレーズでした。
実際の彼のデッサンは、無数と言えるほどの線が重なって対象の輪郭がだんだんと不明瞭になっていくように、われわれには感じられます。
それが彫刻作品になると、たとえば人体では、肉体がギリギリまで削ぎ落とされ、細い一本の棒のようになった形になっていきます。
われわれの通常の感覚からすると、とても「見える通り」とは思えないでしょう。
しかしジャコメッティの目には明らかに、人体(人間の形)がまさしくそのように見えているのですね。
「見える通り」に表現していることが、現代的にデフォルメされた形に見えながら、まさにジャコメッティの造形表現のリアリティとして、観る者に伝わってくるのです。
「見る」とは、そういうことにほかなりません。



「見る」ということには訓練が伴います。
毎日欠かさず訓練していくと、「見る」ということが育っていくのです。
だから「見える」ということは、同じものがいつも同じように見えるということではありません。それは常に変化していく、奥に潜んでいるものが次々と現れて来るように変化していくのです。
ジャコメッティがデッサンしている現場に何ヶ月にもわたって立ち会い、自らもモデルに立たされる経験を持つ矢代幸雄の報告によると、数時間のデッサンの果てに、
「もう少しだ。あと一歩で核心がつかめる」といった意味のことをしょっちゅうつぶやいていたようです。
ところが翌日になると、また最初から出直し、のようなことになっている。
ジャコメッティの中で何が起こっているのかと言うと、やっと核心が見えたと思った瞬間、新たなビジョンが対象のなかから生まれて来るわけです。
それでまたそれをつかもうとして、新たな苦闘が開始されていくわけです。
「見る」とはそういうことであり、絵画や彫刻を見る醍醐味は、その苦闘に立ち会う歓びに与るところにあります。
「これで完全にマスターした」ということは、人の生涯を通して決してありえません。

麻生三郎のデッサンはジャコメッティのアプローチと似ているところがあります。
彼のデッサンも、ゆらゆらと揺れる不定形の線が何重にも重ねられて、対象に迫り、且つ、一つの空間(平面と呼ばれる空間)を生み出そうと苦闘しています。
その麻生がジャコメッティの作品について書いた文章のサワリの部分を、以下に紹介します。
「ジャコメッティの絵画彫刻群はたしかに広がりのある大地とかかわりをもった存在である。その構造はたてとよこの確実な関係をもっている。どの作品をとってもその構造によって構築されている。現実に迫ることで個我が非個我の大きな普遍の存在の強さに変っている。それはかたまったかたくなな個体ではない。そしてこの正直さは浮き上がることはなく、時間のなかで生きている。ながい生だ。永生の像だ。」(「ジャコメッティ展を見る」 『絵そして人、時』所収)



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