モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

美しいものは堅牢であるということ

2010年04月11日 | モノ・こと・ことば
現代の陶芸は、大きく分けると器系のものとオブジェ系のものがあって、
人によっては「やきものは使えるものであるべき」とされたり、
「オブジェ創作こそが現代の陶芸」と言われたりしてますが、
私自身はそういうことは別にどっちでもいいと思ってます。
そんなことよりも、「やきものの形とはどういう形?」とか「やきものの色はどういう色?」
ということに興味があって、そういう観点から、
たとえば中国の古陶磁とか日本の桃山期のやきものとかと現代のものを見比べると、
昔のものの方がはるかに「やきものらしい」というということを感じます。
そしてその違いはどこから生じてくるのか、ということが私の関心の大きなウエイトを占めています。

前世紀あたりまで、日本の陶芸の世界には一種の精神論のようなものがあって、
昔と今とでは人間の精神状況とか生き方とかが違っているので、
現代には昔のようなものは作れないのだということになってました。
あるいは、昔のものを追っかけるのは創造的でなく、
今は今のものを作ればよいと言われたりしてました。
私も長い間そういうものかなと思って、現代のものを見ていたわけですが、
私の中ではその考え方が、安倍安人さんによってくつがえされてしまいました。

桃山期のある種のやきものはとても頑丈に作られていて、
ちょっとやそっとの衝撃では割れたり欠けたりしない、ということを
私は安倍さんの工房で教えてもらったのです。
そしてそのように頑丈に作られているということは、しっかりと焼けているということで、
しっかりと焼けているということは、土の質感や色というものが、
いわゆる「物質の変容」現象を起こして、
「やきものならではの質感と色」を呈するに至るわけです。
だからやきものにおいて、頑丈に作られているということと「美的である」ということとは、
不可分な関係にあるということになります。
そしてこのことが現代の陶芸(オブジェであれ器であれ)に欠落していることであると
私は思っています。

工芸的なものにおいては、堅牢さと美しさとはほとんど同義の事柄であるということは、
このブログの何回か前の、中野みどりさんの紬織りのところでも言及したことです。
また昨年紹介した、桶谷寧さんの曜変天目茶碗についても同じことが言えます。


安倍安人さんに関するサイト
「安倍安人さんの話を聞く会」のお知らせ



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