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モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

KATACHI-JUKU No.12を発行しました。

2017年07月26日 | 「かたち塾」

KATACHI-JUKU No.12を発行しました。



今回は、今日本に来ている「ジャコメッティ展」を鑑賞し、場所を変えてレクチャーを行いました。
テーマは、ジャコメッティにとって「見えるままに描く」とはどういう意味かについて検討する、というものです。
(「見えるままに描く」というのは、いわばジャコメッティの口癖のようなものだったんですね。)
講師は『現代工芸論』の著者たる私、笹山央です。

ジャコメッティといえば、棒のような人体表現で知られている、というか、20世紀を代表する彫刻家の1人とされています。
その、棒のような造形を「対象を極限までそぎ落として」というような言い方で形容されることが多いようですが、
ジャコメッティの創作史には、「そぎ落としていく」プロセスは読み取れません。
むしろ、ものの形の核心を捉えようとする志向は初期の段階から認められると思います。
(これについては、当ブログの6月9日(前回)の記事を参照してください。)

では、ジャコメッティの創作史を貫く苦闘とはどのようなことであったか? そして到達した地点は?
そういったことについて書いています。

次回かたち塾は「長谷川沼田居」です。
詳細はこちら
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第12回「かたち塾」のお知らせー「ジャコメッティの創作を楽しむ」

2017年06月09日 | 「かたち塾」
第12回「かたち塾」のお知らせ

タイトル―――ジャコメッティの創作を楽しむ
講 師――――笹山 央(かたち塾代表・工芸評論)
日 時――――2017年6月25日(日)午後3:00~
会 場――――国立新美術館内(東京都港区六本木)
受講料――――2,500円
受講者数―――10名様まで(要予約)
※ 美術館内カフェでレクチャーを行います。(観覧料 1,600円、飲食代は各自負担)
→ 六本木駅近くのカフェに変更
  どなたでも参加できます。

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。


① 匙の女 1926年


② 女 1928年


画像①②の作品は、ジャコメッティの初期の制作です(1926~28年頃)。アフリカやオセアニアの民族芸術から影響を受けた制作と言われています。
一方はスプーンの形、他方は耕作農具の刃らしき形がモチーフになっています。
単にモチーフというよりは、ものの形を突き詰めたところで捉えていこうとする志向のようなものが感じられます。そしてそこに“用の美”が絡んでいるのですね。。

私は20世紀の現代美術の世界を開いていく主要な動因の一つとして、日本的「用の美」の影響があったことを提唱しています。
その作例のひとつとして、いつもジャコメッティのこれらの作品を挙げることにしています。
実際、ジャコメッティは日本美術や東アジアの美術の特徴を、とても深く理解していることが、彼の遺した言葉から伝わってきます。

今回改めて矢内原伊作の『ジャコメッティ』を読み返してみました。
前回は何十年も前だったので、今回初めて読んだと言ったほうがいいかもしれませんが。
ジャコメッティが毎日、矢内原をモデルにして絵を描いていたときのことが書かれています。実に、二ヶ月かけてるんですね。
この間の様子が、ある意味で克明に報告されているのですが、要約すれば、以下のような日々だったようです。
「 ジャコメッティはいつも、いまこそ真の仕事の入口にいる、いま一歩で真実を把握できる、という意識にかりたてられていた。そのために彼は瞬時も休むことができないのだった。と同時に他方、この絶大な労苦がまったくの徒労に帰するのではないか、自分の企てはもともと不可能な試みで、何の成果にも達しないのではないか、という恐ろしい危惧にとりつかれていた。そのためにも彼は瞬時も休むことができないのだ。「可能か不可能か、これを知るためにも仕事を続けなければならない」と彼は言った。究極のところ、これだけが仕事の継続を正当化する唯一の根拠だった。希望と絶望は交互にとめどなくふくれあがって彼を圧倒し、苦痛に喘ぎながら、彼は描き続けた。描き続けたということは、彼の場合、消し続けたということである。」


1956年のデッサン


ジャコメッティの創作の本質は、物事や人間を「真摯に見詰めていく」というところにあったように思います。
そこでレクチャーでは、「真摯に見詰める」とはどういうことかということについて、話してみたいと思っています。
国立新美術館のカフェです。 → 六本木駅近くのカフェに変更

[余談]
矢内原をモデルに絵を描いている間にも、ジャコメッティは毎朝、新聞数紙に眼を通し、何か事件が報道されるとコメントしたりしています。
矢内原の報告によれば、当時(1950年代)のアフリカや中近東の情勢もしっかりと見据えていたようです。
パリのアトリエに閉じこもるような生活を送りながらも、アンテナは高く掲げていたのですね。


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KATACHI-JUKU No.11を発行しました。

2017年05月31日 | 「かたち塾」
KATACHI-JUKU No.11を発行しました。



テーマは、『現代工芸論』を読み解くシリーズの第3回目として、「日本のかたちに見る“空”の表現について」として、講師は『現代工芸論』の著者たる私、笹山央です。

といっても、『現代工芸論』では“空”という言葉は出てきません。このテーマは『現代工芸論』からの発展系として新しく設定したものです。
どのように発展したのかというと、「日本のかたち(文化)」の特徴をなす“用の美”の理念を出処としています。
「日本のかたち(文化)」における“空”の造形は“用の美”の実践形であるということですね。

「日本のかたち(文化)」の特徴をなす“用の美”は、“もてなしの美”と言い換えることができます。
日本型おもてなしの精神については、俳人高浜虚子の
  花の如く月の如くにもてなさん
という句に究極的に表現されていると見るわけです。
さてそうすると、この句が詠う花や月とは何なのか、ということですね。
私はそれらの中に“空”の現われを感取するのですね。
そしてここから、「日本のかたちに見る“空”の表現について」が始まっていきます。

前半は、“空”の概念を解説しています。
後半は美術作品に具体的に当たりながら、解説していきました。
誌面で紹介している絵師(または作品)は、「那智滝図」、狩野探幽、円山応挙、石濤(中国清朝の絵師)、浦上玉堂、歌川広重、岸野魯直(現代)です。
それぞれの画像のキャプションで、一言解説をつけています。

「アート鑑賞塾」は今回から上級編とし、“批評”について書いていきます。
もうひとつ、「もの買ってくる。自分買ってくる」というタイトルの小さなコラムが始まりました。筆者は「かたちの会」会員の古木真澄さんです。


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第11回「かたち塾」のお知らせ----「空」の表現について

2017年03月13日 | 「かたち塾」

第11回「かたち塾」のお知らせです。

テーマ――日本のかたちに見る「空」の表現について
日時――2017年4月1日(土)1:30P.M.~4:30P.M.
会場――和光大学ポプリホール鶴川 3F練習室 (小田急線鶴川駅前) 
講師――笹山 央[かたち塾講師]
受講料――3,500円 茶菓子代込   ※要予約


“空(くう)”という言葉を聞くと、多くの人は仏教思想を表す“空”を連想するかと思います。
しかしここでは、抹香くさい話は考えていません。
講師(笹山)自身の体験を基にして、「日本のかたちに見る“空”の表現」へのアプローチを試みてみようと思っています。

出発は、高濱虚子の俳句
   
   花の如く月の如くにもてなさん

です。

それから、こんなことも思っています。
  
  “空”を意識した創作は“空”を実現しない

みなさんのご参加をお待ちしています。


詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。

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KATACHI-JUKU No.10を発行しました。

2017年03月04日 | 「かたち塾」

KATACHI-JUKU No.10を発行しました。
今年1月28日(土)に開催した、第10回かたち塾『音を体験するワークショップ』の第2回の報告です。

講師は第1回目と同じく、パーカッショニストの永井朋生さんです。
永井さんの自作による、竹筒や備長炭のマリンバのソロ演奏が冒頭にあって、
それから一気に即興合奏に入りました。
参加者が持ち寄った“音の出るもの”をテーブルの上に置き、
各人自由に、しかし他の人が出す音に反応しながら、音を出して、“音楽”を作りました。

演奏ごとに簡単な条件を設定して変化を出していき、全部で10曲ほど(1曲約1分強)できました。
「失敗というのはありませんから」と永井さんは何度か言いましたが、失敗と成功の区別がつけられない、そういう合奏なんですね。

最後は、永井さんが用意してくれていた画像と合わせると、画像の動きと音とが呼応しあうような箇所がところどころあったりして、
“音楽”として聴けるものになっていることが確認されました。
後日、テレビ番組で流れる背景音を聴いていると我々の演奏と似ているものがあったりして、まんざらでもないなと思ったりしました。

今回のKATACHI-JUKUは、参加者の感想・コメントで構成しています。
また、画像と合奏を合わせたものはYou Tubeでご覧になることができます。
とりあえず2本投稿しています。
タイトルは「炭焼き」および「足跡」です。
「炭焼き」の方はマイクの位置が遠かったので、音が小さくしか聞こえません。
ヘッドフォンで聴くことをお奨めします。

KATACHI-JUKU巻頭のコラムは、〈「かたち」を超えて“空”に至る〉というタイトルで書いています。


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