友のブログを見たら、ネーミングについて言語学的思察された文章が書かれていた。
「なるほどなぁ」と感心すること多々あり。
私も言葉に携わる人間で、幸いにして夫もそういう人種だから、
しばしば呑んでいる最中にそんな話で盛り上がることがある。
こういう話ができる人を伴侶にできたことは何よりの幸運だ。
例えば、最近、人が間違って使っている言葉が気になる・・・という話。
「敷居が高い」
たぶん、「格式が高い」というような意味と勘違いしているのだろうが、ちょっと値の張るようなお店や、京都の一見さんお断りみたいなお店に対して「敷居が高いお店」という表現を見かける(もちろん素人さんが書いたもの)。
この間、食べログのクチコミを見ていたら、「敷居が高い」どころか、「しきりが高い」と「敷居」すら間違えて書かれていた。
言葉の意味って時代によって変わっていくというし、それは別に構わないと私は思っているのだが、
こんな間違いはやっぱり「え?」と思ってしまう。
そういえば、前に一緒に仕事をしていた人がいつも「こさくやわ~」というのが気になっていた。
なんだろうかと最初は思っていたのだが、どうやら流れから推測すると、「姑息」のことを言っていたようなのだ。
おそらく彼女は「姑息」という漢字は思いついていなかったと思われる。
もしかすると、「小作」だったのでは?
小手先でなんとかする・・・みたいな感じで?(いや、これは私の推測)
まあ、「一時しのぎ」という意味からすれば、そんなに遠くはないのだが・・・
そんな感じで、言葉が気になって仕方がない。
そういう自分もたぶん間違って使っていることがあるのだろうけど・・・。
でも、気になった言葉はいつもすぐに調べるようにはしている。
日本語はなんとなく使ってしまうが、言葉を使うことを職業にしていると、「あれ?」と思うことが多々あり、そのたびに一応調べてみて、「へー」と思うことも多い。
例えば、「ひとしお」。
自分が文章の中で「喜びもひとしおだ。」と書いてみて、その後、「ん?」と思った。
「ひとしお」って、名詞?副詞?何?
調べてみると、藍染にするための布を1回浸したものを「ひとしお」というらしい。
名詞でもあるが、今はそこから副詞的に使われる。「いっそう」と同じ意味で使えばいい。
でも、その語源から考えると、「いっそう」とはまた少し違う。
布を染めるときのように、じわじわと、しみこんでいくような感情。
そういうときに使うのが正しいと思われる。
語源を知ると、言葉がまた楽しくなる。
皆が普通に使っている「明日(あした)」。
中世の頃までは「朝」という意味だった。
それがいつしか、前夜に特別なことがあった次の日を指すようになり、その後、「翌日」という意味に変わった。
そう考えると、やはり昔の人も「朝」を何か新しいことの始まりととらえていたのだとわかる。
「明日」は「朝」なんだ。
3.11の津波の後、もう使えなくなった車のドアに「明けない夜はない」と誰かが書いていたのをテレビで見た。
書いたのはもちろん、当事者だ。
「明けない夜はない」
この言葉は人が人に対して言う励ましの言葉じゃない。
自分が自分に対して言う言葉だ。
何度暗闇の夜が続いても、「いや、明けない夜はないんだ」と、そう自分を奮い立たせるための言葉だ。
その言葉を使うことに自分自身が意味がないと思うならば仕方がない。
でも、私はいつも暗闇に閉じ込められたとき、「明けない夜はない」「長いトンネルもいつかは抜けられる」と自分に言い聞かせてきた。
今日がどんなに悲惨でみじめで苦しくて悲しくて、もう立ち直れないと思った日であったとしても、
明日はわからない。絶対に。何人にも、明日はわからない。
まずはそう信じることが大事なんだと思う。
そう思っていたら、明日(あさ)が来た。
長かったけれど、やっぱり明けない夜はなかった。
「明日」
好きな言葉だ。
「なるほどなぁ」と感心すること多々あり。
私も言葉に携わる人間で、幸いにして夫もそういう人種だから、
しばしば呑んでいる最中にそんな話で盛り上がることがある。
こういう話ができる人を伴侶にできたことは何よりの幸運だ。
例えば、最近、人が間違って使っている言葉が気になる・・・という話。
「敷居が高い」
たぶん、「格式が高い」というような意味と勘違いしているのだろうが、ちょっと値の張るようなお店や、京都の一見さんお断りみたいなお店に対して「敷居が高いお店」という表現を見かける(もちろん素人さんが書いたもの)。
この間、食べログのクチコミを見ていたら、「敷居が高い」どころか、「しきりが高い」と「敷居」すら間違えて書かれていた。
言葉の意味って時代によって変わっていくというし、それは別に構わないと私は思っているのだが、
こんな間違いはやっぱり「え?」と思ってしまう。
そういえば、前に一緒に仕事をしていた人がいつも「こさくやわ~」というのが気になっていた。
なんだろうかと最初は思っていたのだが、どうやら流れから推測すると、「姑息」のことを言っていたようなのだ。
おそらく彼女は「姑息」という漢字は思いついていなかったと思われる。
もしかすると、「小作」だったのでは?
小手先でなんとかする・・・みたいな感じで?(いや、これは私の推測)
まあ、「一時しのぎ」という意味からすれば、そんなに遠くはないのだが・・・
そんな感じで、言葉が気になって仕方がない。
そういう自分もたぶん間違って使っていることがあるのだろうけど・・・。
でも、気になった言葉はいつもすぐに調べるようにはしている。
日本語はなんとなく使ってしまうが、言葉を使うことを職業にしていると、「あれ?」と思うことが多々あり、そのたびに一応調べてみて、「へー」と思うことも多い。
例えば、「ひとしお」。
自分が文章の中で「喜びもひとしおだ。」と書いてみて、その後、「ん?」と思った。
「ひとしお」って、名詞?副詞?何?
調べてみると、藍染にするための布を1回浸したものを「ひとしお」というらしい。
名詞でもあるが、今はそこから副詞的に使われる。「いっそう」と同じ意味で使えばいい。
でも、その語源から考えると、「いっそう」とはまた少し違う。
布を染めるときのように、じわじわと、しみこんでいくような感情。
そういうときに使うのが正しいと思われる。
語源を知ると、言葉がまた楽しくなる。
皆が普通に使っている「明日(あした)」。
中世の頃までは「朝」という意味だった。
それがいつしか、前夜に特別なことがあった次の日を指すようになり、その後、「翌日」という意味に変わった。
そう考えると、やはり昔の人も「朝」を何か新しいことの始まりととらえていたのだとわかる。
「明日」は「朝」なんだ。
3.11の津波の後、もう使えなくなった車のドアに「明けない夜はない」と誰かが書いていたのをテレビで見た。
書いたのはもちろん、当事者だ。
「明けない夜はない」
この言葉は人が人に対して言う励ましの言葉じゃない。
自分が自分に対して言う言葉だ。
何度暗闇の夜が続いても、「いや、明けない夜はないんだ」と、そう自分を奮い立たせるための言葉だ。
その言葉を使うことに自分自身が意味がないと思うならば仕方がない。
でも、私はいつも暗闇に閉じ込められたとき、「明けない夜はない」「長いトンネルもいつかは抜けられる」と自分に言い聞かせてきた。
今日がどんなに悲惨でみじめで苦しくて悲しくて、もう立ち直れないと思った日であったとしても、
明日はわからない。絶対に。何人にも、明日はわからない。
まずはそう信じることが大事なんだと思う。
そう思っていたら、明日(あさ)が来た。
長かったけれど、やっぱり明けない夜はなかった。
「明日」
好きな言葉だ。
言葉や方言について語り合うのもすき。
知らない言葉と出会うのが楽しいし、まだまだまだまだ出会ったことのない言葉が多いことに落胆もします。
人の話す言葉が気になるわりに、自分も間違った理解をして使っている言葉があるだろうな~とも思う。
一触即発を「いっしょそくはつ」と言っている人もいたし、
O・ヘンリーの『最後の一葉』を一触即発ととらえる人もいたし(笑)
リーズナブルを「リーゾナブル」と連呼する人もいました(笑)
教えるのがいいのか、聞き上手になってあげるのがいいのか・・・(汗)
わたしが最近気になるのは、いい大人が自分の親のことを人前で「お母さん」などと話すこと。
生活保護受給の問題で会見している芸能人も、
30過ぎた人が職場で口にすることも。
それから自分の友達のことを別の人に話すとき「お友達」というのもどうだろう?と。
「今度お友達も連れてきてね」なんて言うのはいいと思うけど「わたしのお友達がね…」っておかしくないかなぁ?敬意を表す先はどこなんだ?って思うの。
「ひとしお」は勉強になりました。
名詞だと思っていたけれど、副詞的に使うのが語源的にはフィットするんだね。
わたしは「待てば海路の日和あり」「止まない雨はない」で励ましてきたよ。おんなじだね。
ホント、自分に向けての言葉なんだねー。なるほどなぁ。
「諦める」が明らかに見極める、から来ているというのを何かで読んだとき、悪い意味ばかりではないんだなと思ったことがあるよ。
自分をしっかりと見極めて、次へ進むととらえたらネガティブな言葉でもないのかなって。
あとね、「賢い子やな~」という関西ならではの表現もわたしにはまだピンと来ないよ。
今、子供の名前を考えています。
成り立ちまで追っていくとね、中国王朝ではこんな意味があったなんて見つけたりして、ビミョーな時があるよ。
あまり考えすぎないようにしようと思います(笑)
また方言について語る「明日」を楽しみにしてるね!
レスが遅くなってごめんね。
ちょっとバタバタしておりました。
子供の名前、考えるの楽しいねぇ。
いい名前つけてあげてね!
私は子供を生む予定もないのに、名前だけは昔から考えています(笑)
画数とかは見ていないけど、夫と使いたい漢字がまったく一緒だったので。
私も床床さんと同じで、「お母さん」は気になります。
いい大人が公共の場で「お母さん」はないだろうと。なんで「母」って言えないのかな。
あと、これは関西だけなのかもしれないけど、テレビで芸人がロケに行って、一般人に「お母さん」とか「お父さん」って呼んでるのも気になる・・・。
これからの時代、歳とってても子供を生んでいない人も増えるだろうし、
ある程度の歳の人を見たらなれなれしく「お母さん」って呼ぶのってどうなんだろう。
言葉はいろいろと気になるね。
またそんな話もしましょう^^
成長していないと言えば、それまで(笑)
最近の言葉使いについて、色々と思うことはあるけれど、何もできないのがつらいところですね。
かくいう自分も大したものではありませんが。
明治の人の文章とか読むと、十代や二十代でなんでこんな難しい文章が書けるのだろうと、憧れにも似た感想がこぼれます。
そうした典雅で美しい言葉を残したいと思うようになりましたね。
まだ何の失敗もしていない新しい一日が、また始まりますね。
まじめさんに関するユーモアなど、登場人物の描き分けがとても面白いです。幻想的な恋が少し引っ掛かりますが、許せる範囲内かもしれません。三浦さんは、男を描いたほうがとてもしっくりくるような気がして、好きです。
「天地明察」や「神様のカルテ」のような何かを作り上げていく物語に恋を絡ませた感じですが、後味が良いなあと思いました。
愛すべき周りの人間に囲まれて、まじめさんが際立ちます。西岡とまじめ、どちらも良いなと思わせるところが凄い。
帯び付きのイラストもわかりやすいなあ。かぐやさんよりも、岸辺さん(たぶん左側?)に魅かれます。左下の文字で隠れたイラストは誰だろう? 佐々木さんかな。
辞書が愛しくなるような作品に感謝します。
「明日はまだ失敗も後悔もない、新しい日」
赤毛のアンの言葉。
昔から私の座右の銘みたいなもので。
この言葉をつぶやくと、この言葉をつぶやき続けてなんとか過ごせていた頃を思い出し、
胸が押しつぶされそうになります。
言葉っていうのは、そういう力もありますね。
音楽もそうだけど、その当時を思い出させるような。
明治の人の文章、きれいですね。
昭和の中頃までは十分きれいな気がします。
美しい文章に触れて、もっと自分もそういう文章が書けるようになりたいと思いますね。
4人待ちで読まれたんですね。
素晴らしい。
感想コメントありがとうございます。
そうですね、私も「幻想的な恋」の部分は少し引っ掛かりがありました。
面白くなってくるのは後半からですね。
辞書が愛しくなる本。
その通りです。
なんということのないストーリーなんだけど、読後感がいい。
そういう物語が私は好きです。
帯もそうですが、装丁もいいですよね。
読み終わってから装丁を見たら、なるほどなぁと思わされました!