月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

リハビリ

2020-08-19 | 想い
夫がよく「小説書いてほしい」と訴えてくる。
そのたびに言葉を濁し、逃げる。

先日も酔っ払った時に同じやりとりがあり、文芸学部(中退)の夫が「俺はお盆休みに1本短いのを書く」と言い出した。
出会ってからの15年で、何度この言葉を聞いただろう。「書く」と言いながら書いたことなどない。
「はい、はい」と聞き流していたら、お盆休みに私の部屋に何時間もこもっている。(夫の部屋にはエアコンがない)
仕事だと思っていたら、夜になって「ショートショート書いた。原稿用紙にして11枚」と言って、プリントアウトしたA4用紙を持ってきた。
「本当に書いたの?!」
「うん。初めて三人称(神の視点)で書いたから、うまくいってないかもしれないけど、とりあえず書いたから、読んで」
そう言って私に用紙を手渡す。

わくわくする反面、怖くもあった。
ものすごくしょうもなくて、ツッコミどころ満載で、いい感想を言ってあげられなかったらどうしようかと思った。
でも、私は彼の文章が好きだ。ナルシストな感覚で飾った言葉の羅列が、耳に心地よい音楽みたいで。
少し急ぎの仕事をやっていたこともあり、私は大事にその用紙をしまった。
「明日ゆっくり、大切に読むね」と。

それは、今のコロナの時代を切り取った、ある夫婦の日常が描かれていた。
なんということのない会話。その会話から伝わる作者の思考。
ショートショートというような明確なオチはなく、長編小説のプロローグのような。
ツッコミどころはたくさんあったし、訴求するものも弱い。

だけど、私は心からすごいと思った。
「書いた」という事実が、それだけで価値があると思ったのだ。
さすがに文章もきれいだったし、少し肉付けしていけば面白い小説になるような気がした。

いや、そういうことじゃない。とにかく「書いた」こと、それだけでもう私はノックアウトされた。
夫は「リハビリ」だと言った。
そうだ。何年も書いていない人が、もう一度真っ白な紙に向かい文章を綴る。それがどれほどハードルが高いことなのか、私はよく知っている。まさに「リハビリ」なんだ。

20代の、あの若くて何者でもなかった頃の夫が書いたものとは全く違う、40代に突入しようという立派な大人としての、そして「コロナ禍」という「今」しか書けない物語がそこにあった。
ひたすら感心して、二度その短編を読んだ。

主な登場人物は、勇二と恵子という夫婦。
主人公は勇二であり、勇二の想いが神の視点から書かれている。
ふと、この物語を恵子の視点で私が書いてみたらどうだろう、と思った。「冷静と情熱のあいだ」みたいに。
そう思いつくと気持ちが浮き立った。
もう何も書きたいものなんてないと思っていたのに、急に私の頭の中で「恵子の物語」が広がっていき、そのことに自分で驚いた。
誰に見せるわけでもない。夫と二人で交換する文化的なお遊びだ。そう思うと気楽に書ける気がした。

夫に提案してみると、夫も乗り気になった。
書く前にキャラや背景を正確に共有していく。
舞台は東京?大阪?
この姪っ子は、どっちの兄弟の娘?
そんな細かいことを話しながら、輪郭を明確にしていく作業は楽しかった。

書きたいものなんてなくてよかったんだと思う。
「書く」という行為そのものに価値がある。
それに気づかせてくれた夫に感謝。

これから私もまず1本書いてみようと思う。
20年のブランクを埋めるのは難しいけれど、埋める必要もない。
リハビリってそういうものだよな。