鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

梅雨末期の豪雨が北上

2023-07-18 15:37:58 | 災害
7月14日頃から日本海側を北上していた梅雨前線が東北の秋田県にかかり、秋田市内を中心にこれまでにない大雨をもたらしている。

秋田市内ではこの4日間で総雨量が400ミリを超えたという。一日単独で100ミリ降る雨は全国各地でそう珍しくはないが、4日間も降り続いた平均100ミリは土砂災害や洪水を引き起こすレベルだ。

案の定、秋田市内を流れる雄物川の支流では水が溢れ、市街地の道路にあふれた水が襲いかかっている。夜中に走っていたらしい軽乗用車が道路から川に転落して運転していた60代の男性が犠牲になった。

今のところ秋田県内では大きな土石流は発生していないが、同じ梅雨前線がずっと西に伸びて朝鮮半島南部にまで大雨を降らせている。気象情報で見るところどうやら向こうでも線状降水帯が発生したようだ。死者が40名を超えたというから大変な被害だ。

これまでなら南九州がまず梅雨末期の豪雨にさらされ、ほとんどの場合死者が出るのだが、今年に限っては奄美地方から北上した梅雨前線が南九州では停滞せずに素通りし、いきなり熊本を襲った。

それも束の間、さらに北上した前線は福岡県を中心に線状降水帯による被害をもたらした。それでも使者は10名を超えなかったから韓国南部の集中豪雨の凄まじさが思いやられる。

梅雨前線は福岡や佐賀、大分で大きな被害を出したあとは日本海にまで北上し、その内消滅するのではないかと思っていたが、あに計らんや日本海沿岸の島根県や石川県、富山県に停滞し、全市民避難情報が出されたりした。

実に珍しいことだ。この三県では足早に「良いお湿り」を田んぼに与えたあと、今度は秋田県まで北上して居座ってしまったのだ。

一方で6月の半ばに梅雨入り宣言が出された南九州はいわゆるカラツユで、7月の降水量は例年を下回った。南九州では3週間から4週間たつと梅雨明けになるのが恒例だった。そして開ける前には南からの湿った空気が一気に北上して来るので豪雨になり、たいてい「人がけ死まんと、梅雨が明けない」という状況が生まれていた。

ところがここ5年ほどはそういった梅雨末期の豪雨が無く、したがって土砂崩れや土石流などによる被害は皆無になった。

南九州にとっては喜ばしいことだが、豪雨の前線が南からそのまま北上された九州北部なんかはたまったモノではないだろう。

地球温暖化のなせる業と言ってしまえばそれまでだが、まだ夏に入ったばかりなのに前例のない豪雨や猛暑がこうも続くと、「夏は南半球で過ごそう」などという旅行業者が現れるかもしれない。渡り鳥になろう—―なんてキャッチフレーズで。


トヨスキイリヒメとヤマトヒメ

2023-07-15 09:49:17 | 邪馬台国関連
ブログ『伊勢神宮の創設1・2』で、北部九州の「大倭王」である糸島の五十(イソ)国出身の崇神天皇の娘であるトヨスキイリヒメが王権の宮殿内で、天照大神の御正体である八咫鏡を祭ることができたと書いた。

その一方で、倭(大和)の地主神の最高位「倭大国魂神」を別の皇女のヌナキイリヒメが「髪落ち痩せて」祭ることができなかったのは、そもそも崇神王権は土着のつまり大和地方自生の王権ではなかったことの大きな証拠であるーーとした。

天照大神を祭ることができたトヨスキイリヒメの出自は記紀ともにもちろん崇神天皇の皇女であり、古事記では「豊鉏入日売命」書紀では「豊鍬入姫命」と書くが、共に兄にトヨキイリヒコがいる。

兄と妹の名に共通の「豊(トヨ)」が気になるところで、「豊」とは国生み神話で言う九州島の「豊国」であれば兄のトヨキは「豊城」で豊国の王城、妹のトヨスキは「豊津城」と書ける。

どちらも崇神五十(イソ)王権が糸島を本拠地として勢力を伸ばしていた時代(弥生時代後期)に豊国までその傘下に入れたことの象徴的な皇子(トヨキイリヒコ)・皇女(トヨスキイリヒメ)の名ではないかと思いたい。

ところで私は国生み神話による九州島(筑紫)の4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち、豊国の「豊」の名の由来は八女邪馬台国の2代目の女王「台与(トヨ)」から来たと考えている。

247年頃に女王卑弥呼が死に、一時の混乱後にその後を継いだのが卑弥呼の宗女(一族の娘)台与であった。このトヨが女王に就任後は崇神五十(イソ)王権こと北部九州「大倭」の庇護の下、280年代までは比較的平和な時代が続いたが、崇神王権が畿内へ東征を果たすとにわかに風雲急を告げることになった。

八女女王国南部の菊池川以南に威を張っていた狗奴国の侵攻が始まったのだ。

狗奴国は菊池川以南の今日の熊本県域を勢力範囲とする男王国で、卑弥呼の時代から敵対関係にあったが、女王国内部に崇神王権から派遣されていた監督官「生目(イキメ・イキマ)」が崇神の畿内東遷に付いて行ってしまうと、狗奴国はしめたとばかり北進を開始した。

「生目(イキマ)」は倭人伝にあるように女王国の4等官のうち最上位の「伊支馬」のことである。この1等官「伊支馬」に当時就任していたのが崇神の皇子であるイクメイリヒコ(のちの垂仁天皇)だったであろう。

崇神五十(イソ)王権こと「大倭」が東遷し、その庇護を失った八女邪馬台国は狗奴国の侵攻にあえなく崩壊の危機を迎え、女王の台与(トヨ)は亡命を余儀なくされた。八女の東側に聳える九州山地の奥深いルートを移動し、険しい山岳を超えて今日の豊前へと落ち延びた。そしてそこで現地の崇神王権と親交の深い豪族によって保護された。

保護されたと言ってもあの邪馬台国の女王である。新しい王宮を提供され、言わば邪馬台国の亡命王権が始まった。そこで現地を女王台与(トヨ)に因んで、「トヨ国」要するに「豊国」となったのだろう。

私はこの台与(トヨ)こそが崇神の皇女として書かれている「トヨスキイリヒメ」(豊国の王城に入った姫)だとも考えている。

トヨスキイリヒメが女王トヨその人であれば、アマツヒツギから邪馬台国という漢字名称が生まれたことからして「アマツヒツギ」すなわち天照大神の「日継(ヒツギ)」に関する祭祀には習熟しており、そのことを奇貨とした崇神王権が大和へ台与(トヨ)こと「トヨスキイリヒメ」を纏向の王宮に招聘した可能性が考えられる。

女王台与(トヨ)ことトヨスキイリヒメがその招聘に応じて九州の豊国から出かけたのは、崇神王権が畿内纏向に王権を樹立して間もない頃とすれば、280年代の後半から290年代前半のころだろうか。この頃の台与の年齢は、仮に卑弥呼の死んだ247年に卑弥呼同様に13歳ほどで女王に立ったとすれば、55歳くらいである。

それから崇神の後継垂仁天皇の皇女ヤマトヒメに天照大神の祭祀を引き継ぐまで、果たして何年経たかは書紀の紀年からは正確に読み取ることは不可能だが、15年から20年は祭祀を継続したと考えると70歳から75歳であろうか。

随分歳のようにも思えるが、卑弥呼が247年に亡くなった時の年齢が、卑弥呼が擁立されたとされる後漢王朝の桓帝・霊帝時代の末期の188年頃とすると、当時13歳だったから175年の生まれであり、247年から差し引くと死亡時の年齢は72歳となり、台与(トヨ)が祭祀を75歳まで担当していたとしても有り得ることになる。

引退後のトヨスキイリヒメの境遇は、亡くなったのか、それとも豊国に帰ったのか、一切不明である。
 

伊勢神宮の創設(2)

2023-07-12 20:25:26 | 邪馬台国関連
前回の『伊勢神宮の創設(1)』に続く。

日本書紀の垂仁天皇紀の25年では、天照大神が天皇の宮殿で祭られること(同床共殿)を嫌われたため、皇女のヤマトヒメが天照大神の祭祀をするにふさわしい場所を求めて放浪し、最終的に伊勢の地に適地を見つけたことを記している。

垂仁天皇の皇女ヤマトヒメは、それまで天照大神を奉斎していた崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメの後任になったが、祭りの場を天皇の宮殿から離れたところに求めて、まず宇陀地方の篠幡(ささはた)に行った。

ところがそこは祭りの場としてはふさわしくなかったのだろう、次に行ったのははるか北の近江の国だった。しかしそこもパスして今度は美濃に行った。

それでもまだ最適ではなかったようで、南下してついに伊勢国に到った。ここで天照大神がヤマトヒメに神懸かりして次のように言ったという。

<この神風の伊勢の国は常世の浪の重波(しきなみ)よする国なり。傍国の可怜(うまし)国なり。この国に居らむと欲す>

(※神風は伊勢に掛る枕詞という。常世はあの世(神の世界)で、重波は繰すこと。傍国(かたくに)は中心から外れた国。)

<大神の教えのままに、その祠を伊勢国に建て給ふ。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興せり。これを「磯宮(イソの宮)」といふ。すなはち天照大神の初めて天(あめ)より降ります処なり。>(垂仁紀25年3月条)

天照大神が適地と決めたのは伊勢の国であった。そしてさっそく天照大神を祭る祠が建てられ、さらにヤマトヒメが常住して祭祀を行う「斎宮(いつきのみや)」が五十鈴川の河上に建てられた。(※ヤマトヒメは五十鈴川で禊ぎをしたようだ。)


以上が伊勢の国に天照大神の社が建てられた経緯である。

ここで注目すべきは「五十鈴川」である。この川を通常「いすずがわ」と読むのだが、私は「五十」を「イソ」と読んで「いそすずがわ」と読む。そう読めばおのずと明らかだろう。

あの崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」との繋がりである。要するに糸島地方が崇神・垂仁の二代を通じて「五十(イソ)」だった地名の遷移に他ならない。

また最初に建てられた祠のことを「磯宮」と言っているのも、同じく糸島の「五十(イソ)」から採られている。

天照大神を鏡に写して祭る祭祀の嚆矢が、糸島(五十=イソ)地方にあったと考えてよいと思うのである。




伊勢神宮の創設(1)

2023-07-11 09:35:07 | 邪馬台国関連
7月7日のブログ『夏の大三角形と石棺の蓋』の最後の方で、崇神天皇が開いた纏向の王権はそれまでの南九州投馬国由来の橿原王権に取って代わったが、次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが伊勢神宮創始のもとを作ったのは南九州由来の王権では成し得なかったことだ――と書いた。

今回はその点について、日本書紀の垂仁天皇紀から記事を抽出し、考察しておきたい。

垂仁天皇は崇神天皇の皇子で和風諡号を「イクメイリヒコイソ(五十)サチ」といい、父の和風諡号「ミマキイリヒコイソ(五十)ニヱ」とは「イソ(五十)」が共通である。

この「イソ」の「五十」とは福岡県糸島市のことで、九州説にせよ畿内説にせよ多くの邪馬台国論者が糸島市を「伊都国」と比定している。しかしそれだとまず末蘆国(佐賀県唐津市)からの方角が合わず、また糸島市なら壱岐国から直接船が着けられるのにわざわざ唐津から海岸沿いの悪路を迂回する必要はないことから、それが誤りであることは常識的に考えれば誰もが分かりそうなものだ。

糸島地方がもともとは「五十(イソ)」だったことは、仲哀天皇紀と筑前風土記逸文に「イソ(伊蘇=五十)が正解で、イト(伊覩)は後世の転訛である」とちゃんと断ってあるのだが、無視されている。また糸島市(旧前原町)の旧社「高祖(たかす)神社」に祭られているのは「高磯媛(たかいそひめ)」であり、美称の「高」を外せば「イソヒメ」で、やはり糸島地方は「イソ」だったことが分かる。

だが伊都国糸島説は本当に根強く、江戸時代から連綿と続く邪馬台国論において真理とされ、疑問を持っても改変しようという勇気ある論者はほぼ皆無である。ここを改正しないと邪馬台国論は水掛け論が際限なく続く(現実に続いている)。

この五十(イソ)地方を根拠地として発展したのが半島からの崇神王権で、やがて北部九州(筑前)をほぼ糾合し、「大倭」と称された。倭人伝に記載の「大倭をして監せしむ」とある「大倭」である。

これに対して八女市を本拠地として筑前と筑後をまとめていた邪馬台国連盟21か国の中心である八女女王府に「伊支馬(イキマ=イクメ)」という名の「1等官」として赴任していたのが崇神の皇子垂仁こと「イクメ(活目)イリヒコ」であった。

しかしながら五十(イソ)由来の崇神王権が「大倭」(大倭国)と称されるまでになった頃、半島における魏王朝の圧力の高まりを受け、崇神(五十)王権こと大倭は北部九州を離れることを決意する。行き先はかつて南九州投馬国が入部していた畿内であった。

三年余りという短期間で畿内の大和纏向に入った崇神王権は、大和にとってはよそ者であるがゆえに、崇神の皇女ヌナキイリヒメは土地神の最高位である「倭大国魂神」を祭ることができなかった(これが崇神王権の大和自生でない大きな証拠だ)。

その一方で天照大神については皇女トヨスキイリヒメによって無事に祭ることができていた。ということは天照大神についてはすでに崇神天皇が北部九州の五十(糸島)に王宮を構えていた頃には祭っていた可能性が高い。

天照大神は高天原の存在でミスマルの玉こそが神宝であったのだが、地上において祭るには「ご神霊を鏡に写して祭る」のが祭祀の方法であった。糸島の弥生甕棺墓からもだが、考古学者原田大六によって「弥生古墳」と名付けられた平原古墳からは大量の鏡が被葬者に添えられていた。

その数何と40面。特筆すべきは「八咫鏡」と言われる伊勢神宮の神宝(御正体)と同じ「八咫」(八咫とは鏡面の周囲の長さ。直径は約46㎝)の大きさの巨大な鏡が4面あったことだ。皇室祭祀に連なる伊勢神宮神宝の八咫鏡信仰は糸島こと「五十(イソ)」から始まったと考えらてよいのではないか。

崇神(五十)王権こと「大倭(国)」が畿内纏向に東征したあと、トヨスキイリヒメが天照大神を祭り続けられたのも、すでに糸島において鏡の祭祀に習熟していたがゆえに、途切れることはなかったのだろう。

ただし天照大神は天皇の宮殿内に祭られる「同床共殿」を嫌がられたので、垂仁天皇の時代になって皇女ヤマトヒメがトヨスキイリヒメと交代してから祭祀の適地を求めることになったのであった。・・・(2)へ続く


早く解散命令を!

2023-07-10 20:19:40 | 日本の時事風景
一昨日は安倍元総理が近鉄の大和西大寺駅前での選挙応援演説中に、山上徹也容疑者によって銃弾に倒れてからちょうど1年を迎えた。

犯行の大きさもさることながら、山上容疑者の自供により、自民党と旧統一神霊教会との癒着が明るみに出た事件でもあった。

山上容疑者が安倍元総理を狙った理由は、安倍氏が旧統一神霊教会の創始者である文鮮明と親交のあった祖父の岸信介元首相の孫であり、去年かその前年かに旧統一教会関連の集会にビデオメッセージを寄せたことに対する憤りがあったからだという。

岸元首相は首相在任当時は当然自民党のトップであったが、この人は太平洋戦争時の東条英機内閣の商工大臣を務めており、そのため終戦後にやって来た占領軍による戦犯狩りによって「A級戦犯」として逮捕されている。

A級戦犯は逮捕当時は100人近くいたのだが、1946年12月23日に絞首刑になった13名を除いては、その後順次保釈されている。岸元首相も釈放組であったわけだが、それでも戦犯は戦犯であった。

旧統一神霊教会の創始者・文鮮明はそのことをよく知っており、「戦犯が日本の首相になったのは許せない」というような気持ちがあったはずだが、むしろそれを逆手に取って岸元首相に近づいたのではないか。要するに相手の弱点を捉え、そのことで圧力をかけながら利用する形で接近したのではないか。

60年前の「国際勝共連合」の立ち上げはまさにその成果だろう。

国際勝共連合は政治団体で宗教団体ではないが、自民党に取り入るために結成されたと言えるだろう。これで旧統一教会は宗教法人でありながら自民党という日本の主導的な政治団体による「お墨付き」を得たのだ。

安倍氏の一周忌ということで、報道では再び山上容疑者の犯行の動機が指摘され、それによると山上容疑者は本来なら教会の最高指導者である「韓鶴子(ハン・ハクジャ)」総裁を殺害したかったことに変わりはないようだった。安倍氏を狙ったのもあくまで旧統一教会への恨みであり、他の意図はないと言っている。

韓鶴子(ハン・ハクジャ)総裁は最近、日本人の幹部連中に対して叱咤するかのように次のような点を話しているという報道もあった。

――①日本は戦犯の国であり罪を負った国であるから、韓国に保障するのが当たり前だ。

――②日本の繁栄は韓国が仕立ててやったのだ。

――③岸田首相には教育を受けさせよ。日本の政治は滅ぶぞ。

①の日本は戦犯国家だというのは、岸元首相のようなA級戦犯だった者が指導者になったということの比喩であり、もちろん誤りだ。「敗戦国」はあっても「戦犯国」というのは無い。

②は真逆である。1965年の「日韓基本条約」により、日本政府は10億ドル以上の経済援助とODAを提供した。これを基に韓国の経済は発展を開始している。

③は一国の現役の首相に対していう言葉ではないだろう。

そもそも一介の宗教法人のトップがなぜこうもでたらめを言い募るのか。朝鮮人の性癖と言われる「恨(ハン)」からなのだろうか。

恨(ハン)と妄想の上に立ったこのような宗教法人は早く解散してしかるべきだ。

内実は文鮮明と韓鶴子のコンビによる合同結婚式のプランナ―、つまり「ブライダル産業」であり、キリスト教に名を借りた「集金(お布施)ビジネス」でしかないではないか。