鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

複雑から単純へ

2023-07-04 09:16:43 | 日記
昨日の南日本新聞に、これは月に一回掲載のテーマ(エッセイ)だと思うが「論点」というのがあり、今回は以前にも読んで記憶に残っている某寺院(浄土真宗西本願寺派)の住職が『念仏とコンピューター』と題して以下のように書いている。

某住職によると――

【浄土真宗の信者数は公称では西東併せて1500万だそうだが、果たしてそれだけの数の人々の日常に影響しているのか疑問だ。

かつての寺院は集落の人々の「集会所」の役割があり、中でも一番大きな集会行事(?)が葬儀であったが、今は葬儀社が葬祭会場を使用して行うようになり、寺院離れが進んだ。

お盆になると故郷への帰省者が溢れ、正月には多くの人が初詣に行く。このように日本人の信仰心は廃れてはいないのだが、こと仏教に関する限り、公称の信者数とは裏腹に宗教(寺院)離れが甚だしい。

先日、NHK(BS)であのアップルコンピュータ―の開発者兼創設者であるジョブズ氏の特集を見たが、ジョブズ氏がコンピューターを開発するにあたっては日本の文化の美的側面、特に陶器・版画・ソニー製品が極めて複雑な工程を経て完成されながら、そのシンプルなことに大いに学んだという。

そう言われてみれば、複雑な工程を一切省いて単純極まりないものにしたものが身近にあったことに気付いた。それは親鸞聖人が唱えた「南無阿弥陀仏」の一句である。

釈迦から始まった仏教経典の大量にして複雑難解な教義の体系を、親鸞はたった6文字に凝縮して教えの根本にした。まさに複雑なものを単純極まりないものにした実例がそこにある。

この単純化された教えこそが、時の流れを超える不動のものであることに気付きたいものだ。】

以上が某住職のエッセーの自分流の要約だが、初めに『念仏とコンピューター』というタイトルを眼にした時、私は実は「仏教界もコンピューター(インターネット)を使って布教するようになったのだろうな」と思っていたのである。

というのは2週間ほど前、高野山の別格本山「西南(さいなん)院」という寺院から年に2回ほど「彼岸供養」の案内が届くのだが、案内のチラシの一角に、

<「ユーチューブ」で本堂で行われる毎朝の勤行の「実況中継」がアップされているから、在宅で朝の勤行を共に>

という案内も載せられていたからである。

早速インターネットでダウンロードすると、確かに以前に訪れ宿泊したことのある西南院の様子が紹介されており、その中に本堂で毎朝6時過ぎから行われる勤行の様子がユーチューブで流されている。

これはまさに先に紹介した某住職の言葉「時代の流れ」そのものだが、これを単に一過性の物と捉えるべきか、いや、当地まで足を運ばずとも勤行を視聴することで一体感が生まれる有難い仕組みだ、と捉えるべきか評価は分かれるだろう。

複雑から単純へという流れが肯定されるのであれば、ユーチューブやホームページという複雑なコンピュータのシステムを使っていとも簡単にパソコン画面上に内容を紹介する、というのはある意味で実に単純かつ便利なやり方である。

誰もが現地に行って見聞したり体験したりできるわけではなく、疑似体験に過ぎないと言われてもパソコン画面上の視聴内容が心に刻まれることは否定できないだろう。

ただパソコンの場合は個人が自分のためにたった一人で利用するわけで、大衆向けのテレビジョンが映し出す画面とは大いに異なる。テレビの広告のように仏教でも何でも宗教的なチャンネルが普遍化すれば話は別だが、果たしてコンピュータ時代の宗教界の取り組みは今後どうあるべきか、もっと関心を持たれてもよい。<span>