鴨着く島

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伊勢神宮の創設(2)

2023-07-12 20:25:26 | 邪馬台国関連
前回の『伊勢神宮の創設(1)』に続く。

日本書紀の垂仁天皇紀の25年では、天照大神が天皇の宮殿で祭られること(同床共殿)を嫌われたため、皇女のヤマトヒメが天照大神の祭祀をするにふさわしい場所を求めて放浪し、最終的に伊勢の地に適地を見つけたことを記している。

垂仁天皇の皇女ヤマトヒメは、それまで天照大神を奉斎していた崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメの後任になったが、祭りの場を天皇の宮殿から離れたところに求めて、まず宇陀地方の篠幡(ささはた)に行った。

ところがそこは祭りの場としてはふさわしくなかったのだろう、次に行ったのははるか北の近江の国だった。しかしそこもパスして今度は美濃に行った。

それでもまだ最適ではなかったようで、南下してついに伊勢国に到った。ここで天照大神がヤマトヒメに神懸かりして次のように言ったという。

<この神風の伊勢の国は常世の浪の重波(しきなみ)よする国なり。傍国の可怜(うまし)国なり。この国に居らむと欲す>

(※神風は伊勢に掛る枕詞という。常世はあの世(神の世界)で、重波は繰すこと。傍国(かたくに)は中心から外れた国。)

<大神の教えのままに、その祠を伊勢国に建て給ふ。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興せり。これを「磯宮(イソの宮)」といふ。すなはち天照大神の初めて天(あめ)より降ります処なり。>(垂仁紀25年3月条)

天照大神が適地と決めたのは伊勢の国であった。そしてさっそく天照大神を祭る祠が建てられ、さらにヤマトヒメが常住して祭祀を行う「斎宮(いつきのみや)」が五十鈴川の河上に建てられた。(※ヤマトヒメは五十鈴川で禊ぎをしたようだ。)


以上が伊勢の国に天照大神の社が建てられた経緯である。

ここで注目すべきは「五十鈴川」である。この川を通常「いすずがわ」と読むのだが、私は「五十」を「イソ」と読んで「いそすずがわ」と読む。そう読めばおのずと明らかだろう。

あの崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」との繋がりである。要するに糸島地方が崇神・垂仁の二代を通じて「五十(イソ)」だった地名の遷移に他ならない。

また最初に建てられた祠のことを「磯宮」と言っているのも、同じく糸島の「五十(イソ)」から採られている。

天照大神を鏡に写して祭る祭祀の嚆矢が、糸島(五十=イソ)地方にあったと考えてよいと思うのである。