テレビのどの番組だったか忘れたが、例の吉野ケ里遺跡の中の日吉神社跡地で発掘された石棺の蓋に多数のばってん(✖)が刻まれていた謎について、天文学者の見識が出されたという。
天文学者によると、ばってん(✖)の線刻は無数にあるが、よく見ると大きな✖が三角形を作っており、その位置的な形態を考えるとどうも星座では有名な「夏の大三角形」ではないか――という。
夏の大三角形とは天の川を挟む織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)そしてもう一つの頂点となるデネブという3つの1等星によって作られている。
しかし「夏の大三角形」以外のその他の線刻については、口を閉ざしていた。もちろん他の無数の線刻は「天の川の星々だ」と開き直れるが、それはそれでかなり乱暴な見方だろう。
そもそも星を線刻のばってん(✖)だけで表すというのも、芸がなさすぎる。重要な星のシンボルなら五角形は難しいにしても、丸や二重丸に刻むのがより具象的だ。
それよりやはりこれら線刻の✖は抽象性を表現したものだろう。例えば「悪霊を寄せ付けない」というような精神性を持った表現なら死者への祈りの表現としてふさわしいのではないか。
しかしそれにしても大量の✖である。葬られた死者はよほど悪霊に狙われやすい人物だったのか。
もっと現実的に考えると、この石棺の被葬者は石棺の大きさからして当時(弥生時代後期=2世紀代)の吉野ケ里における女王的な存在で、敵対勢力によって殺害された悲劇の巫女王だったのかもしれない。
そのため敵対勢力から大切な巫女王の亡骸を奪われまいとして、石棺の石の蓋にあのように多数の線刻の✖を刻んだのだろうか。
だが亡骸らしき痕跡は副葬品と共に皆無だったというから、そもそも亡骸はそこには葬られなかった? それとも副葬品もろとも奪われてしまった?
いや一度は石棺におさめたのだが、敵から荒らされるのを恐れて別の所に改葬したのか?
ミステリーは際限なく続く。
ところで今朝の新聞では、石の蓋は4枚に割れていたが、実は2枚の石であったという。1枚は約100キロ、もう1枚は割れる前の重さが200キロはあったともいう。
蓋石の石材の山地も特定されたようだ。報道によると、佐賀県と長崎県にまたがる多良岳の玄武岩であったという。
多良岳は吉野ケ里からは40キロも西方の山で、陸路ではなく海路船で運ばれたそうである。
当時の吉野ケ里を治めていた勢力が、遠く40キロも離れた多良山地を支配していた別の勢力と親しい関係にあったことが推測でき、かつ有明海北部の水運も勢力下にあったか、もしくは親しい関係にあったことも推察される。
ただし、今しがた触れた日吉神社跡地の被葬者の「巫女王」は決して邪馬台国女王ではなく、邪馬台国女王の連盟下にあった国の一つを治めていた巫女王に過ぎないと私は考える。
私が比定する邪馬台国は福岡県八女市を中心とする一帯で、2世紀から3世紀の半ばまでそこを中心にした女王国連盟が吉野ケ里を含む佐賀県域と長崎県域に所在したと考えている。
佐賀県域と長崎県域は当時「肥の国」(肥前)であった。
古事記の国生み神話では筑紫(九州島)を構成する4つの国々(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち「肥国」は別名を「建日向日豊久士比泥別(建日に向かい、日の豊かにして、奇日の根分け)」と言ったとある。
この別名を解釈すると、肥国とは「熊曽国に向かい合っており、日(霊力)が豊かであり、奇日(クシヒ)の分派である国」ということで、筑後の八女の地政学的な状況を表している。最期の「奇日(クシヒ)」は「大王(おおきみ)」と言い換えられる名称である。
いずれにしても弥生時代後期の九州には、八女邪馬台国の女王連盟(筑後と肥前)とその南に狗奴国(熊曽国の一部)があり、さらに南にはのちの古日向(薩摩・大隅・日向=ほぼ現在の鹿児島県と宮崎県の領域)である投馬国があった。そして女王連盟の北には北部九州の大部分を勢力範囲とし、女王国をも監視下に置いていた糸島五十王国(崇神王権=大倭)があった。(※ただし豊国こと豊前豊後は卑弥呼亡き後に亡命的移住を果たした宗女台与(トヨ)に因む国である。)
さらに時代が進んだ卑弥呼亡き後のトヨの時代の280年代に、糸島五十王国(崇神王権)を中心とする「大倭(タイワ)」が、半島における大陸王朝「晋」の侵攻が九州北部に及ぶのを見越して畿内への「東征」を敢行した。これを私は「崇神東征」と名付けている。
290年代の前半には東征が果たされ、約150年前に南九州の投馬国から移住的な「東遷」によって樹立された橿原王権を打倒した。その時の橿原王権最後の王と女王(もしくは一族の巫女王)が「武埴安(タケハニヤス)・吾田媛(アタヒメ)」のコンビであった。
進入した崇神王権が北部九州の倭人連合国家「大倭(タイワ)」であるがゆえに、入部した畿内の奈良桜井の土地の名が佳字化されたのが「大和」に他ならず、また「大和」が「タイワ」ではなく「やまと」と呼ばれるのは、邪馬台国の「ヤマタイ」の原義である「アマツヒツギ」の漢音化による転訛「ヤマタイ」に因んでいる。
またこれは再三述べてきているが、崇神王権が北部九州という他所からの侵入者である証拠が崇神紀の5年~6年に記されている国内の疲弊や反乱の記事であり、決定的なのはそれまで畿内大和地方に代々居住してきた自生の王権であるならば、大和大国魂(ヤマトオオクニタマ)という土地神を皇女のヌナキイリヒメが祭れなかったということはあり得ず、この記事は崇神王権が大和自生の王権ではなかった最大の証拠である。
ただ、崇神天皇の次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが天照大神の神霊を「鏡に移して(写して)祭る」ための場所を、現在の伊勢に求めたがゆえに、今日の伊勢神宮の創建及び祭祀につながった点は大いに評価してよい。それまでの南九州由来の橿原王権では成し得なかったことである。
天文学者によると、ばってん(✖)の線刻は無数にあるが、よく見ると大きな✖が三角形を作っており、その位置的な形態を考えるとどうも星座では有名な「夏の大三角形」ではないか――という。
夏の大三角形とは天の川を挟む織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)そしてもう一つの頂点となるデネブという3つの1等星によって作られている。
しかし「夏の大三角形」以外のその他の線刻については、口を閉ざしていた。もちろん他の無数の線刻は「天の川の星々だ」と開き直れるが、それはそれでかなり乱暴な見方だろう。
そもそも星を線刻のばってん(✖)だけで表すというのも、芸がなさすぎる。重要な星のシンボルなら五角形は難しいにしても、丸や二重丸に刻むのがより具象的だ。
それよりやはりこれら線刻の✖は抽象性を表現したものだろう。例えば「悪霊を寄せ付けない」というような精神性を持った表現なら死者への祈りの表現としてふさわしいのではないか。
しかしそれにしても大量の✖である。葬られた死者はよほど悪霊に狙われやすい人物だったのか。
もっと現実的に考えると、この石棺の被葬者は石棺の大きさからして当時(弥生時代後期=2世紀代)の吉野ケ里における女王的な存在で、敵対勢力によって殺害された悲劇の巫女王だったのかもしれない。
そのため敵対勢力から大切な巫女王の亡骸を奪われまいとして、石棺の石の蓋にあのように多数の線刻の✖を刻んだのだろうか。
だが亡骸らしき痕跡は副葬品と共に皆無だったというから、そもそも亡骸はそこには葬られなかった? それとも副葬品もろとも奪われてしまった?
いや一度は石棺におさめたのだが、敵から荒らされるのを恐れて別の所に改葬したのか?
ミステリーは際限なく続く。
ところで今朝の新聞では、石の蓋は4枚に割れていたが、実は2枚の石であったという。1枚は約100キロ、もう1枚は割れる前の重さが200キロはあったともいう。
蓋石の石材の山地も特定されたようだ。報道によると、佐賀県と長崎県にまたがる多良岳の玄武岩であったという。
多良岳は吉野ケ里からは40キロも西方の山で、陸路ではなく海路船で運ばれたそうである。
当時の吉野ケ里を治めていた勢力が、遠く40キロも離れた多良山地を支配していた別の勢力と親しい関係にあったことが推測でき、かつ有明海北部の水運も勢力下にあったか、もしくは親しい関係にあったことも推察される。
ただし、今しがた触れた日吉神社跡地の被葬者の「巫女王」は決して邪馬台国女王ではなく、邪馬台国女王の連盟下にあった国の一つを治めていた巫女王に過ぎないと私は考える。
私が比定する邪馬台国は福岡県八女市を中心とする一帯で、2世紀から3世紀の半ばまでそこを中心にした女王国連盟が吉野ケ里を含む佐賀県域と長崎県域に所在したと考えている。
佐賀県域と長崎県域は当時「肥の国」(肥前)であった。
古事記の国生み神話では筑紫(九州島)を構成する4つの国々(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち「肥国」は別名を「建日向日豊久士比泥別(建日に向かい、日の豊かにして、奇日の根分け)」と言ったとある。
この別名を解釈すると、肥国とは「熊曽国に向かい合っており、日(霊力)が豊かであり、奇日(クシヒ)の分派である国」ということで、筑後の八女の地政学的な状況を表している。最期の「奇日(クシヒ)」は「大王(おおきみ)」と言い換えられる名称である。
いずれにしても弥生時代後期の九州には、八女邪馬台国の女王連盟(筑後と肥前)とその南に狗奴国(熊曽国の一部)があり、さらに南にはのちの古日向(薩摩・大隅・日向=ほぼ現在の鹿児島県と宮崎県の領域)である投馬国があった。そして女王連盟の北には北部九州の大部分を勢力範囲とし、女王国をも監視下に置いていた糸島五十王国(崇神王権=大倭)があった。(※ただし豊国こと豊前豊後は卑弥呼亡き後に亡命的移住を果たした宗女台与(トヨ)に因む国である。)
さらに時代が進んだ卑弥呼亡き後のトヨの時代の280年代に、糸島五十王国(崇神王権)を中心とする「大倭(タイワ)」が、半島における大陸王朝「晋」の侵攻が九州北部に及ぶのを見越して畿内への「東征」を敢行した。これを私は「崇神東征」と名付けている。
290年代の前半には東征が果たされ、約150年前に南九州の投馬国から移住的な「東遷」によって樹立された橿原王権を打倒した。その時の橿原王権最後の王と女王(もしくは一族の巫女王)が「武埴安(タケハニヤス)・吾田媛(アタヒメ)」のコンビであった。
進入した崇神王権が北部九州の倭人連合国家「大倭(タイワ)」であるがゆえに、入部した畿内の奈良桜井の土地の名が佳字化されたのが「大和」に他ならず、また「大和」が「タイワ」ではなく「やまと」と呼ばれるのは、邪馬台国の「ヤマタイ」の原義である「アマツヒツギ」の漢音化による転訛「ヤマタイ」に因んでいる。
またこれは再三述べてきているが、崇神王権が北部九州という他所からの侵入者である証拠が崇神紀の5年~6年に記されている国内の疲弊や反乱の記事であり、決定的なのはそれまで畿内大和地方に代々居住してきた自生の王権であるならば、大和大国魂(ヤマトオオクニタマ)という土地神を皇女のヌナキイリヒメが祭れなかったということはあり得ず、この記事は崇神王権が大和自生の王権ではなかった最大の証拠である。
ただ、崇神天皇の次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが天照大神の神霊を「鏡に移して(写して)祭る」ための場所を、現在の伊勢に求めたがゆえに、今日の伊勢神宮の創建及び祭祀につながった点は大いに評価してよい。それまでの南九州由来の橿原王権では成し得なかったことである。