鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

夏の大三角形と石棺の蓋

2023-07-07 20:14:28 | 邪馬台国関連
テレビのどの番組だったか忘れたが、例の吉野ケ里遺跡の中の日吉神社跡地で発掘された石棺の蓋に多数のばってん(✖)が刻まれていた謎について、天文学者の見識が出されたという。

天文学者によると、ばってん(✖)の線刻は無数にあるが、よく見ると大きな✖が三角形を作っており、その位置的な形態を考えるとどうも星座では有名な「夏の大三角形」ではないか――という。

夏の大三角形とは天の川を挟む織姫星(ベガ)と彦星(アルタイル)そしてもう一つの頂点となるデネブという3つの1等星によって作られている。

しかし「夏の大三角形」以外のその他の線刻については、口を閉ざしていた。もちろん他の無数の線刻は「天の川の星々だ」と開き直れるが、それはそれでかなり乱暴な見方だろう。

そもそも星を線刻のばってん(✖)だけで表すというのも、芸がなさすぎる。重要な星のシンボルなら五角形は難しいにしても、丸や二重丸に刻むのがより具象的だ。

それよりやはりこれら線刻の✖は抽象性を表現したものだろう。例えば「悪霊を寄せ付けない」というような精神性を持った表現なら死者への祈りの表現としてふさわしいのではないか。

しかしそれにしても大量の✖である。葬られた死者はよほど悪霊に狙われやすい人物だったのか。

もっと現実的に考えると、この石棺の被葬者は石棺の大きさからして当時(弥生時代後期=2世紀代)の吉野ケ里における女王的な存在で、敵対勢力によって殺害された悲劇の巫女王だったのかもしれない。

そのため敵対勢力から大切な巫女王の亡骸を奪われまいとして、石棺の石の蓋にあのように多数の線刻の✖を刻んだのだろうか。

だが亡骸らしき痕跡は副葬品と共に皆無だったというから、そもそも亡骸はそこには葬られなかった? それとも副葬品もろとも奪われてしまった?

いや一度は石棺におさめたのだが、敵から荒らされるのを恐れて別の所に改葬したのか?

ミステリーは際限なく続く。

ところで今朝の新聞では、石の蓋は4枚に割れていたが、実は2枚の石であったという。1枚は約100キロ、もう1枚は割れる前の重さが200キロはあったともいう。

蓋石の石材の山地も特定されたようだ。報道によると、佐賀県と長崎県にまたがる多良岳の玄武岩であったという。

多良岳は吉野ケ里からは40キロも西方の山で、陸路ではなく海路船で運ばれたそうである。

当時の吉野ケ里を治めていた勢力が、遠く40キロも離れた多良山地を支配していた別の勢力と親しい関係にあったことが推測でき、かつ有明海北部の水運も勢力下にあったか、もしくは親しい関係にあったことも推察される。

ただし、今しがた触れた日吉神社跡地の被葬者の「巫女王」は決して邪馬台国女王ではなく、邪馬台国女王の連盟下にあった国の一つを治めていた巫女王に過ぎないと私は考える。

私が比定する邪馬台国は福岡県八女市を中心とする一帯で、2世紀から3世紀の半ばまでそこを中心にした女王国連盟が吉野ケ里を含む佐賀県域と長崎県域に所在したと考えている。

佐賀県域と長崎県域は当時「肥の国」(肥前)であった。

古事記の国生み神話では筑紫(九州島)を構成する4つの国々(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち「肥国」は別名を「建日向日豊久士比泥別(建日に向かい、日の豊かにして、奇日の根分け)」と言ったとある。

この別名を解釈すると、肥国とは「熊曽国に向かい合っており、日(霊力)が豊かであり、奇日(クシヒ)の分派である国」ということで、筑後の八女の地政学的な状況を表している。最期の「奇日(クシヒ)」は「大王(おおきみ)」と言い換えられる名称である。

いずれにしても弥生時代後期の九州には、八女邪馬台国の女王連盟(筑後と肥前)とその南に狗奴国(熊曽国の一部)があり、さらに南にはのちの古日向(薩摩・大隅・日向=ほぼ現在の鹿児島県と宮崎県の領域)である投馬国があった。そして女王連盟の北には北部九州の大部分を勢力範囲とし、女王国をも監視下に置いていた糸島五十王国(崇神王権=大倭)があった。(※ただし豊国こと豊前豊後は卑弥呼亡き後に亡命的移住を果たした宗女台与(トヨ)に因む国である。)

さらに時代が進んだ卑弥呼亡き後のトヨの時代の280年代に、糸島五十王国(崇神王権)を中心とする「大倭(タイワ)」が、半島における大陸王朝「晋」の侵攻が九州北部に及ぶのを見越して畿内への「東征」を敢行した。これを私は「崇神東征」と名付けている。

290年代の前半には東征が果たされ、約150年前に南九州の投馬国から移住的な「東遷」によって樹立された橿原王権を打倒した。その時の橿原王権最後の王と女王(もしくは一族の巫女王)が「武埴安(タケハニヤス)・吾田媛(アタヒメ)」のコンビであった。

進入した崇神王権が北部九州の倭人連合国家「大倭(タイワ)」であるがゆえに、入部した畿内の奈良桜井の土地の名が佳字化されたのが「大和」に他ならず、また「大和」が「タイワ」ではなく「やまと」と呼ばれるのは、邪馬台国の「ヤマタイ」の原義である「アマツヒツギ」の漢音化による転訛「ヤマタイ」に因んでいる。

またこれは再三述べてきているが、崇神王権が北部九州という他所からの侵入者である証拠が崇神紀の5年~6年に記されている国内の疲弊や反乱の記事であり、決定的なのはそれまで畿内大和地方に代々居住してきた自生の王権であるならば、大和大国魂(ヤマトオオクニタマ)という土地神を皇女のヌナキイリヒメが祭れなかったということはあり得ず、この記事は崇神王権が大和自生の王権ではなかった最大の証拠である。

ただ、崇神天皇の次代の垂仁天皇の時代に皇女ヤマトヒメが天照大神の神霊を「鏡に移して(写して)祭る」ための場所を、現在の伊勢に求めたがゆえに、今日の伊勢神宮の創建及び祭祀につながった点は大いに評価してよい。それまでの南九州由来の橿原王権では成し得なかったことである。



複雑から単純へ

2023-07-04 09:16:43 | 日記
昨日の南日本新聞に、これは月に一回掲載のテーマ(エッセイ)だと思うが「論点」というのがあり、今回は以前にも読んで記憶に残っている某寺院(浄土真宗西本願寺派)の住職が『念仏とコンピューター』と題して以下のように書いている。

某住職によると――

【浄土真宗の信者数は公称では西東併せて1500万だそうだが、果たしてそれだけの数の人々の日常に影響しているのか疑問だ。

かつての寺院は集落の人々の「集会所」の役割があり、中でも一番大きな集会行事(?)が葬儀であったが、今は葬儀社が葬祭会場を使用して行うようになり、寺院離れが進んだ。

お盆になると故郷への帰省者が溢れ、正月には多くの人が初詣に行く。このように日本人の信仰心は廃れてはいないのだが、こと仏教に関する限り、公称の信者数とは裏腹に宗教(寺院)離れが甚だしい。

先日、NHK(BS)であのアップルコンピュータ―の開発者兼創設者であるジョブズ氏の特集を見たが、ジョブズ氏がコンピューターを開発するにあたっては日本の文化の美的側面、特に陶器・版画・ソニー製品が極めて複雑な工程を経て完成されながら、そのシンプルなことに大いに学んだという。

そう言われてみれば、複雑な工程を一切省いて単純極まりないものにしたものが身近にあったことに気付いた。それは親鸞聖人が唱えた「南無阿弥陀仏」の一句である。

釈迦から始まった仏教経典の大量にして複雑難解な教義の体系を、親鸞はたった6文字に凝縮して教えの根本にした。まさに複雑なものを単純極まりないものにした実例がそこにある。

この単純化された教えこそが、時の流れを超える不動のものであることに気付きたいものだ。】

以上が某住職のエッセーの自分流の要約だが、初めに『念仏とコンピューター』というタイトルを眼にした時、私は実は「仏教界もコンピューター(インターネット)を使って布教するようになったのだろうな」と思っていたのである。

というのは2週間ほど前、高野山の別格本山「西南(さいなん)院」という寺院から年に2回ほど「彼岸供養」の案内が届くのだが、案内のチラシの一角に、

<「ユーチューブ」で本堂で行われる毎朝の勤行の「実況中継」がアップされているから、在宅で朝の勤行を共に>

という案内も載せられていたからである。

早速インターネットでダウンロードすると、確かに以前に訪れ宿泊したことのある西南院の様子が紹介されており、その中に本堂で毎朝6時過ぎから行われる勤行の様子がユーチューブで流されている。

これはまさに先に紹介した某住職の言葉「時代の流れ」そのものだが、これを単に一過性の物と捉えるべきか、いや、当地まで足を運ばずとも勤行を視聴することで一体感が生まれる有難い仕組みだ、と捉えるべきか評価は分かれるだろう。

複雑から単純へという流れが肯定されるのであれば、ユーチューブやホームページという複雑なコンピュータのシステムを使っていとも簡単にパソコン画面上に内容を紹介する、というのはある意味で実に単純かつ便利なやり方である。

誰もが現地に行って見聞したり体験したりできるわけではなく、疑似体験に過ぎないと言われてもパソコン画面上の視聴内容が心に刻まれることは否定できないだろう。

ただパソコンの場合は個人が自分のためにたった一人で利用するわけで、大衆向けのテレビジョンが映し出す画面とは大いに異なる。テレビの広告のように仏教でも何でも宗教的なチャンネルが普遍化すれば話は別だが、果たしてコンピュータ時代の宗教界の取り組みは今後どうあるべきか、もっと関心を持たれてもよい。<span>

木曽三川を「ブラタモリ」

2023-07-02 10:26:29 | 災害
昨日の午後7時半からあったNHKの「ブラタモリ」では、タモリは愛知県と岐阜県にまたがる木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流地帯を歩いていた。

東から長野県の山奥から流れて来る木曽川、真ん中に奥飛騨地方からの長良川、そして一番西は白山山地に端を発する揖斐川、これら大きな三つの川が今にも合流しようかという岐阜県海津市を中心とする一帯こそが有名な輪中地帯である。

河口近くになって合流するというのならいわゆる「三角州」であり、それはそれでさほどの人的被害は発生しないのだが、海津市あたりはまだ河口までは相当に距離があり、水が豊富なため田んぼが作られる環境にあった。

そのため江戸時代よりはるかに古くから人々が移住し、定住して来たのだが、問題は合流しようかという三つの川は、実は同じ海抜を流れてはいないのであった。

木曽川の川床が一番高く、次いで長良川、そして西側の揖斐川の川床が最も低く、木曽川の水が溢れれば長良川へ流れ込み、長良川が溢れればその水は揖斐川へと流れ込む。結果として揖斐川が最も溢水の被害を被る仕組みであった。

タモリ一行はとある高台にある滑り台のてっぺんから、三川の西側を仕切る「養老山地」を眺めながらその成因をゲストの学者と語っていた。それによると養老山地はかつては海の中にあった地層が隆起して出現したこと、そしてそのために山地に近い麓を流れる揖斐川は逆に沈下して来たそうである。

その結果、揖斐川の川床は最も低くなったのだが、東の木曽・長良の川水が溢れて流れ込んで来ると土砂の中に含まれる養分が肥沃な土壌を生み、田畑耕作にとっては好都合になったという。

この解説をしていた大学の先生はタモリの博識と勘の良さにはしばしば絶句していたが、自分も見ていて感心しきりであった。

さて、では溢水の被害は揖斐川沿いの輪中に集中しているのかというと、事はそう簡単ではなく、木曽川と長良川との間にも、長良川と揖斐川との間にも米作りのための「輪中集落」が多数発達していたのである。

しかしどの輪中集落も、雨の多い季節になるとあちこちで溢水し、輪中を囲む堤が切れてしまうのであった。それが江戸時代以降は幕府にとっても大きな問題であった。

特に海津市の油島という地点ではすぐ上流で木曽川と長良川が合流しており、その合流した川と、西側を流れる揖斐川とがほぼ平行に流れ、川床の低い揖斐川の輪中集落は毎年多大の損害を被るということで、油島から南へ木曽川と揖斐川とを完全に分ける「油島締め切り堤」(のちの「千本松原」)が必要で、その工事が最大の難工事であった。


写真の左手の川が揖斐川、真ん中下へ流れる川が長良川、右手の川は木曽川。ちょうど写真の中ほどに見える少し左へ湾曲した堤が、長良川と揖斐川とを完全に仕切る「油島の締め切り堤(千本松原)」である。

この工事は江戸時代の宝暦4(1854)年の2月から5(1855)年の5月に掛けて、幕命により薩摩藩の「お手伝い普請」によって行われた。

「お手伝い普請」と言っても、幕府が資金と人員を手配するのではなく、薩摩藩が一切を負担する工事であった。これは要するに外様の大大名の資金力(藩力)を削ごうという画策であった。当時の貨幣で当初は7万両から9万両(約40億円)が予算として上げられた。

この幕命が知らされた時、藩内の論議は一時沸騰し、干戈を交えようかという意見も出たらしいが、家老の平田靱負は粛々と約1000名の藩士を率いて三川に向かった。

そして、慣れない人夫仕事や幕府の検分役人の業腹に堪えきれず自害する藩士や伝染病などによる死者併せて86名という命と引き換えに宝暦5年の5月に完成させた。

しかし資材費の見積もり違いや、現地農民への手間賃など余分な出費が積もり積もって約30万両にもなり、統率者の平田靱負は完成後、幕府の役人による検分を済ませると、自刃して果てたという。予算の多大な出費と、86名という藩士たちを死なせた責任を負ってのことだろう。

このブラタモリでは副題に「暴れ川VS人間 激闘の歴史」とありながら、薩摩藩のこの「義挙」について詳しく語られることはなかった。

地元の学芸員という女性が「治水神社」を案内し、祭神が島津藩の諸士90名と掲げられた神社の由緒書き看板を示したのだが、タモリはただ見て頷くばかりだったのは残念であった。