鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

太田神社の七夕飾りと茅の輪

2022-07-03 19:41:28 | おおすみの風景
【太田神社で茅の輪くぐり】

明日4日の月曜日に参拝に行こうと思っていた太田神社。

だが月曜日は一昨日発生した台風4号が九州に上陸する可能性があるということで、急遽、繰り上げて今日出掛けることにした。

十日ほど前の新聞記事で、太田神社が七夕飾りをし、さらに境内の拝殿の前に「茅(ち)の輪くぐり」を設けたということを知り、足を運ぼうと考えたのだ。

太田神社は、我家から北に距離にして40キロほどの所にある。大隅半島のど真ん中と言ってよい位置にあり、曽於市大隅町月野というところに鎮座する。

神社に到着した10時半頃には台風4号の影響でかなりの雨が降っており、もしかしたら七夕飾りなどは片付けられてしまったのではと危惧したのだが、その心配はなかった。



太田神社は国道269号沿いにあるので見落とすことはない。「太田神社」という標柱のすぐ下には用水路が流れており、左手にはその流水を利用した水車が2連ある。かなり苔むしているので古いものだろう。

赤い鳥居の向こうは神社境内まで登る階段で、約200段はある。車を下に駐めて歩いて登ろうと思ったが、雨脚も強く、右手に設えられたかなり急な車道を上がることにした。

比高にして30mはあろうか、登った先の広場は神社の真裏で、そこが駐車場であった。

他に参拝者の車はなく、拝殿前の鳥居まで行くと、そこに「茅の輪くぐり」があった。



茅(かや)を束ねて土俵のように形作り、それを人間がくぐれるように縦につるした物で、くぐることで身に付いた穢れを祓い清めることができるという優れものである。(※もちろん信じる信じないはその人本人によるが。)

もともとは「夏越しの祓い」に由来し、一年の前半(1月から6月)に犯した数々の穢れを「大祓い詞」の奉唱とともに祓い清めるという行事から来ている。(※地方によっては白い紙を人型に切り抜いて身体を拭い、大祓い詞を唱えながら川に流すところもある。私が25歳から5年間神道系の修学をさせて頂いたつくば市の梅田開拓園では、夏と冬の大祓い行事で、筑波山麓の桜川で人型を流しながら大祓い詞を唱えるのが恒例であった。)

今風の茅の輪くぐりは、神社の掲げた説明板によると、左くぐり(祓い給え)ー右くぐり(清め給え)ー左くぐり(幸え給え)と唱えながら3回くぐって回り、最後の4回目に「守り給え」と唱えてから拝殿で「2礼2拍手1礼」をしなさいとあった。それに従ったあと、お賽銭を投げ入れ世の平穏を祈った。

【太田神社の祭神は「大田田根子」】

この太田神社に祭られているのは「大田田根子(おおたたねこ)」という神で、一般にはなじみの薄い神である。

どのような経緯でこの神社に祭られるようになったのか、あるいは祭ったのかについて、鹿児島藩の幕末の地歴書『三国名勝図会」ではわずかな記事しか載せていない。

青潮社版の『三国名勝図会』第4巻「志布志郷」の<神社合記>という項立ての箇所に、

<大田大明神社・・・槻野村にあり。本地十一面観音。像の背に大永八(1528)年と記す。また、文禄3(1594)年、大願主藤原義弘と記せる再興の棟札を蔵す。>

とあるだけで、創建の由緒については全く触れられていない。

6月29日に書いたブログ「投谷八幡宮の焼失」で書いたように、同じ大隅町にある投谷八幡宮は志布志郷と隣接する恒吉郷の郷社という格式の神社で、創建は和銅元年(708年)という由緒が伝えられており、その創建の古さが垣間見られるのだが、この太田神社については皆目分からない。

そこで、祭神の方から見て行けばある程度由来について考察できるのではないかと考え、古事記と日本書紀の崇神天皇時代に現れている祭神の大田田根子(オオタタネコ)を取り上げてみたい。

「大田田根子」はもちろん「オオタタネコ」と読むのだが、これの区切りを「オオタ・タネコ」とするのは間違いである。「大田」はむろん「大きな田んぼ」であるが、次の「田」は「津(都)」と同じで「~の」の意味である。

さらに「根子」は「土着の民(豪族)」の意味であるから、「オオタ・タ・ネコ」とは「大規模な田を領有する(耕作する)豪族」ということである。

このことを頭に入れた上で古事記と日本書紀の崇神天皇時代のオオタタネコの動静を探ってみよう。

(1)古事記(崇神天皇記)

古事記には年紀が無いので次のように箇条書きする。

〇崇神天皇の時代には「役病(えきびょう)が多く流行り、人民は絶滅せんばかりであった。

〇天皇の夢に大物主神が現れ、「自分がその原因で、意富多多泥古(オホタタネコ)に我を祭らせれば国は平穏になる」と言った。

〇四方に使いを派遣し、オホタタネコを探し求めたところ、河内の美努村で探し当てた。

〇オホタタネコが言うには「自分は大物主神が陶津耳(スエツミミ)の娘イクタマヨリヒメに生ませたクシミカタの子のイイカタスミの子のタケミカヅチの子」であった。要するに大物主神の玄孫であった。

〇その大物主神は三輪山の神であり、夜な夜なイスケヨリヒメの下に通った挙句にオオタタネコの先祖を生ませたという。

〇いずれにしても、オオタタネコが祖先である大物主神を祭ることによって天下は安らかになった。

(2)日本書紀(崇神天皇紀)

崇神天皇5年、国内に疫病が流行し、民の半数が死亡する事態となった。

崇神天皇6年、民が流亡し、反抗するものさえ現れた。

同年、崇神天皇は朝早くから夕方まで必死に神々に祈った。

以前、天皇は、アマテラス大神と倭(ヤマト)の大国魂(オオクニタマ)の二神を宮殿の中に祭っていたが、並び祭ることができなくなり、アマテラス大神は皇女トヨスキイリヒメに、ヤマトオオクニタマは皇女ヌナキイリヒメにそれぞれ祭らせることにした。

ところがヌナキイリヒメの方は髪が落ち、瘦せ衰えて祭ることができなくなってしまった。

崇神天皇7年、ある神がヤマトトトヒモモソヒメに懸かり、「我を祭れば天下泰平になる」と言った。

天皇がその名を問うと、「大物主である」と答えがあり、言われた通りに祭ったのだが効果がなかった。そこで再び神占で問うと「我が子の大田田根子(オオタタネコ)に祭らせれば世は平らかになる」とのことであった。

また他の皇女や臣下たちも同じ夢を見たというので、そのオオタタネコを探し求めさせたところ、河内の茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかった。

そこで早速オオタタネコを宮中に招き、その素性を問うと「自分の父は大物主神で、母は陶津耳の娘イクタマヨリヒメです」と答えた。

同年11月、オオタタネコに大物主神を祭らせ、長尾市(ナガヲチ)にヤマトオオクニタマを祭らせ、さらに八百万の神々をも祭ったところ、天下は安泰となった。

【オオタタネコの素性とスエツミミ】

古事記に現れるオオタタネコと日本書紀に現れるオオタタネコの違いでは、まずその漢字表記「意富多多泥古」と「大田田根子」の一見して大きな違いには面食らうのだが、どちらも「オホタタネコ」と読ませており、全く同じ発音である。(※ただし、ここでは「オホ(意富・大)」を現代仮名遣いの「オオ」とする。)

次に見える大きな違いは、祖先の大物主神が祖父なのか、古事記が記すように4代前なのかだが、古事記の系譜に見える三代の先祖についてはこの際考慮しないことにしたい。なぜならどの道、大物主神が祖先であることに変わりはないからであり、三代が入っていることでオオタタネコの探索が左右されてはいないからである。

この際大事なことは、母イクタマヨリヒメは河内の陶津耳(スエツミミ)の娘で、この系譜については古事記も日本書紀も同じだという点である。

母方の祖父であるスエツミミは河内の豪族であり、その娘のイクタマヨリヒメと大物主神との「聖婚」によって生まれのがオオタタネコである。このオオタタネコは当然スエツミミの本源地と言える河内の陶邑(堺市から岸和田市にかけての地域)を相続した豪族であった。多くの土地、中でも水田経営に突出していたのだろう。オオタタネコとはそのことを意味している。

大物主神の子孫であるオオタタネコが祖神を祭るのは、言うまでもなく、祭るに最もふさわしい形である。オオタタネコがどのような祭り方をしたのか両書とも記さないのだが、とにかく大物主神は納得して三輪山に鎮まり、以後大和王権を揺るがすことはなかった。(※現在も三輪山を御神体とする「大神神社(おおみわじんじゃ)」として尊崇されている。)

オオタタネコが「河内で広大な水田を経営する豪族」であったことはすでに述べたが、ではなぜ河内からはるか離れた南の曽於市大隅町月野に「太田神社」の祭神として祭られているのだろうか。

それは、邪馬台国時代の「投馬国」が南九州にあったという私の説である程度の説明はつく。

投馬国は3世紀の当時、南九州に5万戸という邪馬台国連盟下の7万戸に次ぐ戸数を有する大国であった。王の名を「彌彌」(ミミ)といい、女王の名を「彌彌那利」(ミミナリ)といった――と魏志倭人伝は記している。(※倭人伝では大官をミミ、副官をミミナリというとあるが、投馬国は女王国とは同盟関係にはあるものの属国ではなかったので、独自に王が存在したゆえ、大官・副官とは王・女王のことである。)

この南九州に勢力を得ていた投馬国の王名に必ず付けるのが「ミミ」であった。後世には「キミ」が普及する。ミミはその淵源の用語かもしれないが、とにかく神武天皇の子にタギシミミ・キスミミがおり、「東征」後の大和橿原王朝開始後に生まれた皇子の名にカムヤイミミ・カムヌマカワミミとミミの名が付けられたことからすれば、南九州からの「東征」は史実として差し支えない。

(※神武の橿原王朝は疑わしく、まして南九州からやって来たなど造作もいいところだというのが今日の学説だが、それならなぜミミ名を頻発させたのか。造作するにしても、もっと大和王朝の創設一族らしい名付けがあったろうに、と反論するのだが、残念ながらそれに対する合理的な回答を得たためしはない。)

さてオオタタネコの祖父の名はスエツミミといった。このスエツミミもミミ名からして南九州投馬国の出身か、もしくは先祖が南九州投馬国の出身だったろう。彼(彼等)が南九州から河内にやってきた経緯は分からないが、名うての火山国である投馬国における火山災害に見舞われ、神武とは別ルートで畿内に移住したの可能性は大いにある。

スエツミミの子孫のオオタタネコが崇神天皇に招聘されて大物主神を祭って世の中を泰平にした――というニュースは遅まきながらも南九州に伝えられたはずである。オオタタネコは言わばその時代のヒーローであり、それを誇らしく思った南九州旧投馬国に属する大隅国の大隅町月野にいたスエツミミと先祖を同じくする(と伝承されていた)この地の人々が、この地にオオタタネコを祭ったとして何ら不思議ではない。

(※太田神社の境内地は西側は丘陵に接続しているが、北、南はどちらも切り落とされて谷になっている。国道269号線から境内に上がる石段側は東向きで、上がるにつれ東側を流れる月野川(菱田川の支流)によって開析された田んぼ地帯が広がって見えるようになる。このような高みは先祖を祭る墓に最適である。この神社地は古墳の可能性が高いと思われる。)

 
【追 記=崇神天皇の外来性】

日本書紀の崇神天皇紀にはアマテラス大神を皇女トヨスキイリヒメに祭らせ、ヤマトオオクニタマを皇女ヌナキイリヒメに祭らせたところ、ヤマトオオクニタマを祭ろうとしたヌナキイリヒメが「髪落ち、痩せ衰え」て祭ることが適わなかったとあるが、これの意味するところを考えてみよう。

ヤマトオオクニタマとは「大和地方最大の地主神」のことである。その神を大和地方に入って10代目になる崇神天皇の皇女が祭れなかったというのは奇妙である。それまでの9代はどうしていたのだろうか。それまでちゃんと祭っていなかったので、10代目の崇神時代になってようやくヤマトオオクニタマの神が天皇家に祟りを与えたのだろうか。

これはどうにも考え難いことである。

ここで崇神天皇外来説を導入するとすんなりと説明がつく。

崇神天皇は和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇」(ミマキイリヒコイソニヱ天皇)である。ミマキは任那であり、五十(イソ)は福岡県糸島市である。(※糸島はよく倭人伝上の「伊都国」に比定されるが、これは誤謬であり、糸島は「五十国」「伊蘇国」(どちらもイソ国と読む)であり、決して「イト国」ではない。伊都国は「イツ国」と読むべきで、佐賀県の邑知郡厳木町がこれに相当する。)

この糸島の「五十(イソ)国」を基盤に北部九州の盟主「大倭(タイワ)」となった崇神王が畿内に東征し、前王朝である橿原王朝を大和から駆逐して生まれたのが、崇神王朝である。

この崇神王朝の外来性を証明しているのが、大地主神ヤマトオオクニタマを皇女ヌナキイリヒメが祭れなかったという説話だろう。

また崇神王がもともと崇拝していたのはアマテラス大神だけだったのを、宮殿内の同じ場所に大和の大地主神オオクニタマを祭ろうとしてできなかったというのも、同じく崇神王権の外来性を示していると考えてよい。