「再読①」の続きになる。
安倍晋三氏の著書『美しい国へ』(文春文庫2006年7月刊)は氏の初めての著書で、2006年9月に総裁選で勝利し、2度目の内閣総理大臣に就任する直前に出版されている(総理就任の後すぐに重版され、同年11月には10刷目に入っている)。
さて本書は全7章からなるが、最も興味が惹かれるのは第1章の氏の生い立ちを絡め、祖父の岸信介と父の安倍晋太郎について語っているところだ。
周知の如く、故安倍晋三の祖父は、母の洋子の父で1960年安保体制を築いた岸信介である。また父の安倍晋太郎は3人の息子がいる中で、末子の晋三を秘書に抜擢し、晋三を政治の道へ導いている(晋三のすぐ上の実兄が信夫で、岸家の養子となった。現在防衛大臣の岸信夫である)。
以上の血縁についてはこの本で晋三自らが書いていることだが、実は安倍家の祖父(晋太郎の父)については触れられていない。安倍晋三の祖父は安倍寛といい、戦前に活躍した代議士である。要するに晋三の父方も母方も共に政治家であった。
この点について、某週刊誌を読んでいたら青木理という政治ジャーナリストがかなり辛らつに論評しているのに出くわした。
青木氏は「拙著『安倍三代』でも記しましたが、安倍(晋三)氏は少なくとも政界入りする前の青年時代には、強い政治信条や信念を持っていた形跡は全くありません。母方の祖父である岸信介氏に強い敬慕の念を抱いているようでしたが、しかし戦前に特高警察にあらがった父方の祖父・安倍寛氏のような胆力や反骨心、あるいは戦中に特攻隊を志願しながら生き永らえた父・安倍晋太郎氏のような歴史観もバランス感覚もなく、名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎないという印象を持ちました。」と記している。
岸信介が首相の時に、サンフランシスコ平和条約締結(1951年)と同時に当時の吉田茂が結んだ(というか結ばされた)アメリカとの安全保障条約の10年更新の時に当たっており、廃棄はせず、逆に旧安保がアメリカの日本防衛の義務のない条約だったのを「相互協力」に高め、その名も正式名「日本国とアメリカ国との間の相互協力及び安全保障条約」を締結したのであった。
この締結に当たっては全国的に学生を中心とする反対運動が吹き荒れ、国会はもとより、岸首相の官邸周辺をたくさんのデモ隊が取り巻いたという。この経験を、晋三は次のように記している。
<安保条約が自然成立する前の日の1960年6月18日、国会と官邸は、幾重にもつらなった33万人におよぶデモ隊に囲まれた。官邸に閉じ込められた祖父は、大叔父(佐藤栄作・当時大蔵大臣)とふたりでワインを飲みながら「わたしは決して間違ってはいない。殺されるなら本望だ」と死を意識したという・・・(後略)。
当時わたしはまだ6歳、小学校に入る前である。わたしは2歳違いの兄がいるが、二人とも祖父にはとても可愛がられていた。祖父の家は東京渋谷の南平台にあって、わたしたちはしょっちゅう遊びに行っていた。(後略)
わたしは祖父に(デモ隊が叫んでいるアンポ反対の)「アンポって、なあに」と聞いた。すると祖父が、「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ、なんでみんな反対するのか分からないよ」。そう答えたのをかすかに覚えている。>(p21~23)
これを読むと、祖父であり当時首相であった岸信介の膝下に育った少年時代を持つ人物が、上記の青木理氏の言うように「名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎない」とは到底思えない。溺愛されていたとしても、またその是非はともかくとしても、少年には少年自身の感性に「社会情勢に関する大きな学び」が刻み込まれたと思う。
また父晋太郎との関わりでは、何と言っても晋太郎が外務大臣に就任した直後の1982年に秘書になったことが大きい。晋三がまだ弱冠28歳の時であった。神戸製鋼所の社員で、本社で輸出業務に精を出している時期だったというが、思い切って退職したという(p32)。アメリカへ1年留学し、輸出業務で英語に不自由しなかったことが父の慫慂に繋がったのだろう。
父晋太郎は中曽根内閣(1982年~1987年)で3年8か月の間、外相を務め、首相とともに、あるいは単独で外遊すること39回、うち20回は晋三も秘書として海外に行っている。中曽根首相の外交ではイラン=イラク戦争(1980年勃発)の当事者である両国の要人を1985年に首相官邸に招いて戦争終結へ仲介をしたのが印象に残っているが、その2年前に実は父の晋太郎が外相としてイランとイラクを訪問しており、これが仲介の下敷きになったという(p33~34)。
1990年、父晋太郎はソ連邦崩壊後に日本への資金的な協力を求めていたゴルバチョフ書記長(のちにロシア国初代大統領)と会談をしており、晋三も一緒にクレムリン宮殿を訪れている。この時に北方領土返還の件も浮上したのだが、その案件が進展する前に父晋太郎が翌1991年5月にすい臓がんで亡くなってしまい、またゴルバチョフも同じ年の12月に大統領を辞任しており、実ることはなかった。
父の死によって晋三は政治家の第一歩を印すことになった。1993年(平成5年)、38歳の時である。
だがこの1993年、自民党の宮澤喜一内閣が倒れ、非自民党政権が誕生することになった。細川護熙内閣・羽田孜内閣・村山富市内閣の3代約2年半がそれで、最後の村山内閣の時に阪神淡路大震災が発生(1995年1月17日)し、救助に自衛隊への出動命令を出さなかったことで、大ブーイングを浴びたことで有名だ。
この後は自民党が政権復帰し、橋本龍太郎内閣、小渕恵三内閣、森喜朗内閣と続き、晋三は森第2次内閣で内閣官房副長官に抜擢された(2000年)。
次のあの「自民党をぶっ壊す」の小泉内閣が3期続く(2001年~2006年)のだが、その間、内閣官房副長官として首相とともに北朝鮮の金正日と面談し、拉致を認めさせ、5人を連れ帰り、翌2003年には自民党幹事長になり、2005年、第3次小泉内閣では官房長官となり、次期首相への足掛かりができた。そしてこの『美しい国へ』が上梓された2006年9月に、小泉政権の後を襲い、安倍晋三内閣が誕生する(52歳)。
※第1章の半自叙伝的な「わたしの原点」の要約がかなり膨らんでしまったので、この後の論点については「再読③」として続けたい。
安倍晋三氏の著書『美しい国へ』(文春文庫2006年7月刊)は氏の初めての著書で、2006年9月に総裁選で勝利し、2度目の内閣総理大臣に就任する直前に出版されている(総理就任の後すぐに重版され、同年11月には10刷目に入っている)。
さて本書は全7章からなるが、最も興味が惹かれるのは第1章の氏の生い立ちを絡め、祖父の岸信介と父の安倍晋太郎について語っているところだ。
周知の如く、故安倍晋三の祖父は、母の洋子の父で1960年安保体制を築いた岸信介である。また父の安倍晋太郎は3人の息子がいる中で、末子の晋三を秘書に抜擢し、晋三を政治の道へ導いている(晋三のすぐ上の実兄が信夫で、岸家の養子となった。現在防衛大臣の岸信夫である)。
以上の血縁についてはこの本で晋三自らが書いていることだが、実は安倍家の祖父(晋太郎の父)については触れられていない。安倍晋三の祖父は安倍寛といい、戦前に活躍した代議士である。要するに晋三の父方も母方も共に政治家であった。
この点について、某週刊誌を読んでいたら青木理という政治ジャーナリストがかなり辛らつに論評しているのに出くわした。
青木氏は「拙著『安倍三代』でも記しましたが、安倍(晋三)氏は少なくとも政界入りする前の青年時代には、強い政治信条や信念を持っていた形跡は全くありません。母方の祖父である岸信介氏に強い敬慕の念を抱いているようでしたが、しかし戦前に特高警察にあらがった父方の祖父・安倍寛氏のような胆力や反骨心、あるいは戦中に特攻隊を志願しながら生き永らえた父・安倍晋太郎氏のような歴史観もバランス感覚もなく、名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎないという印象を持ちました。」と記している。
岸信介が首相の時に、サンフランシスコ平和条約締結(1951年)と同時に当時の吉田茂が結んだ(というか結ばされた)アメリカとの安全保障条約の10年更新の時に当たっており、廃棄はせず、逆に旧安保がアメリカの日本防衛の義務のない条約だったのを「相互協力」に高め、その名も正式名「日本国とアメリカ国との間の相互協力及び安全保障条約」を締結したのであった。
この締結に当たっては全国的に学生を中心とする反対運動が吹き荒れ、国会はもとより、岸首相の官邸周辺をたくさんのデモ隊が取り巻いたという。この経験を、晋三は次のように記している。
<安保条約が自然成立する前の日の1960年6月18日、国会と官邸は、幾重にもつらなった33万人におよぶデモ隊に囲まれた。官邸に閉じ込められた祖父は、大叔父(佐藤栄作・当時大蔵大臣)とふたりでワインを飲みながら「わたしは決して間違ってはいない。殺されるなら本望だ」と死を意識したという・・・(後略)。
当時わたしはまだ6歳、小学校に入る前である。わたしは2歳違いの兄がいるが、二人とも祖父にはとても可愛がられていた。祖父の家は東京渋谷の南平台にあって、わたしたちはしょっちゅう遊びに行っていた。(後略)
わたしは祖父に(デモ隊が叫んでいるアンポ反対の)「アンポって、なあに」と聞いた。すると祖父が、「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ、なんでみんな反対するのか分からないよ」。そう答えたのをかすかに覚えている。>(p21~23)
これを読むと、祖父であり当時首相であった岸信介の膝下に育った少年時代を持つ人物が、上記の青木理氏の言うように「名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎない」とは到底思えない。溺愛されていたとしても、またその是非はともかくとしても、少年には少年自身の感性に「社会情勢に関する大きな学び」が刻み込まれたと思う。
また父晋太郎との関わりでは、何と言っても晋太郎が外務大臣に就任した直後の1982年に秘書になったことが大きい。晋三がまだ弱冠28歳の時であった。神戸製鋼所の社員で、本社で輸出業務に精を出している時期だったというが、思い切って退職したという(p32)。アメリカへ1年留学し、輸出業務で英語に不自由しなかったことが父の慫慂に繋がったのだろう。
父晋太郎は中曽根内閣(1982年~1987年)で3年8か月の間、外相を務め、首相とともに、あるいは単独で外遊すること39回、うち20回は晋三も秘書として海外に行っている。中曽根首相の外交ではイラン=イラク戦争(1980年勃発)の当事者である両国の要人を1985年に首相官邸に招いて戦争終結へ仲介をしたのが印象に残っているが、その2年前に実は父の晋太郎が外相としてイランとイラクを訪問しており、これが仲介の下敷きになったという(p33~34)。
1990年、父晋太郎はソ連邦崩壊後に日本への資金的な協力を求めていたゴルバチョフ書記長(のちにロシア国初代大統領)と会談をしており、晋三も一緒にクレムリン宮殿を訪れている。この時に北方領土返還の件も浮上したのだが、その案件が進展する前に父晋太郎が翌1991年5月にすい臓がんで亡くなってしまい、またゴルバチョフも同じ年の12月に大統領を辞任しており、実ることはなかった。
父の死によって晋三は政治家の第一歩を印すことになった。1993年(平成5年)、38歳の時である。
だがこの1993年、自民党の宮澤喜一内閣が倒れ、非自民党政権が誕生することになった。細川護熙内閣・羽田孜内閣・村山富市内閣の3代約2年半がそれで、最後の村山内閣の時に阪神淡路大震災が発生(1995年1月17日)し、救助に自衛隊への出動命令を出さなかったことで、大ブーイングを浴びたことで有名だ。
この後は自民党が政権復帰し、橋本龍太郎内閣、小渕恵三内閣、森喜朗内閣と続き、晋三は森第2次内閣で内閣官房副長官に抜擢された(2000年)。
次のあの「自民党をぶっ壊す」の小泉内閣が3期続く(2001年~2006年)のだが、その間、内閣官房副長官として首相とともに北朝鮮の金正日と面談し、拉致を認めさせ、5人を連れ帰り、翌2003年には自民党幹事長になり、2005年、第3次小泉内閣では官房長官となり、次期首相への足掛かりができた。そしてこの『美しい国へ』が上梓された2006年9月に、小泉政権の後を襲い、安倍晋三内閣が誕生する(52歳)。
※第1章の半自叙伝的な「わたしの原点」の要約がかなり膨らんでしまったので、この後の論点については「再読③」として続けたい。