鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

安倍晋三著『美しい国へ』を再読②

2022-07-22 08:55:32 | 日本の時事風景
「再読①」の続きになる。

安倍晋三氏の著書『美しい国へ』(文春文庫2006年7月刊)は氏の初めての著書で、2006年9月に総裁選で勝利し、2度目の内閣総理大臣に就任する直前に出版されている(総理就任の後すぐに重版され、同年11月には10刷目に入っている)。

さて本書は全7章からなるが、最も興味が惹かれるのは第1章の氏の生い立ちを絡め、祖父の岸信介と父の安倍晋太郎について語っているところだ。

周知の如く、故安倍晋三の祖父は、母の洋子の父で1960年安保体制を築いた岸信介である。また父の安倍晋太郎は3人の息子がいる中で、末子の晋三を秘書に抜擢し、晋三を政治の道へ導いている(晋三のすぐ上の実兄が信夫で、岸家の養子となった。現在防衛大臣の岸信夫である)。

以上の血縁についてはこの本で晋三自らが書いていることだが、実は安倍家の祖父(晋太郎の父)については触れられていない。安倍晋三の祖父は安倍寛といい、戦前に活躍した代議士である。要するに晋三の父方も母方も共に政治家であった。

この点について、某週刊誌を読んでいたら青木理という政治ジャーナリストがかなり辛らつに論評しているのに出くわした。

青木氏は「拙著『安倍三代』でも記しましたが、安倍(晋三)氏は少なくとも政界入りする前の青年時代には、強い政治信条や信念を持っていた形跡は全くありません。母方の祖父である岸信介氏に強い敬慕の念を抱いているようでしたが、しかし戦前に特高警察にあらがった父方の祖父・安倍寛氏のような胆力や反骨心、あるいは戦中に特攻隊を志願しながら生き永らえた父・安倍晋太郎氏のような歴史観もバランス感覚もなく、名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎないという印象を持ちました。」と記している。

岸信介が首相の時に、サンフランシスコ平和条約締結(1951年)と同時に当時の吉田茂が結んだ(というか結ばされた)アメリカとの安全保障条約の10年更新の時に当たっており、廃棄はせず、逆に旧安保がアメリカの日本防衛の義務のない条約だったのを「相互協力」に高め、その名も正式名「日本国とアメリカ国との間の相互協力及び安全保障条約」を締結したのであった。

この締結に当たっては全国的に学生を中心とする反対運動が吹き荒れ、国会はもとより、岸首相の官邸周辺をたくさんのデモ隊が取り巻いたという。この経験を、晋三は次のように記している。

<安保条約が自然成立する前の日の1960年6月18日、国会と官邸は、幾重にもつらなった33万人におよぶデモ隊に囲まれた。官邸に閉じ込められた祖父は、大叔父(佐藤栄作・当時大蔵大臣)とふたりでワインを飲みながら「わたしは決して間違ってはいない。殺されるなら本望だ」と死を意識したという・・・(後略)。
 当時わたしはまだ6歳、小学校に入る前である。わたしは2歳違いの兄がいるが、二人とも祖父にはとても可愛がられていた。祖父の家は東京渋谷の南平台にあって、わたしたちはしょっちゅう遊びに行っていた。(後略)
 わたしは祖父に(デモ隊が叫んでいるアンポ反対の)「アンポって、なあに」と聞いた。すると祖父が、「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ、なんでみんな反対するのか分からないよ」。そう答えたのをかすかに覚えている。>(p21~23)

これを読むと、祖父であり当時首相であった岸信介の膝下に育った少年時代を持つ人物が、上記の青木理氏の言うように「名門政治一家の跡取りとして生を受けたおぼっちゃまに過ぎない」とは到底思えない。溺愛されていたとしても、またその是非はともかくとしても、少年には少年自身の感性に「社会情勢に関する大きな学び」が刻み込まれたと思う。

また父晋太郎との関わりでは、何と言っても晋太郎が外務大臣に就任した直後の1982年に秘書になったことが大きい。晋三がまだ弱冠28歳の時であった。神戸製鋼所の社員で、本社で輸出業務に精を出している時期だったというが、思い切って退職したという(p32)。アメリカへ1年留学し、輸出業務で英語に不自由しなかったことが父の慫慂に繋がったのだろう。

父晋太郎は中曽根内閣(1982年~1987年)で3年8か月の間、外相を務め、首相とともに、あるいは単独で外遊すること39回、うち20回は晋三も秘書として海外に行っている。中曽根首相の外交ではイラン=イラク戦争(1980年勃発)の当事者である両国の要人を1985年に首相官邸に招いて戦争終結へ仲介をしたのが印象に残っているが、その2年前に実は父の晋太郎が外相としてイランとイラクを訪問しており、これが仲介の下敷きになったという(p33~34)。

1990年、父晋太郎はソ連邦崩壊後に日本への資金的な協力を求めていたゴルバチョフ書記長(のちにロシア国初代大統領)と会談をしており、晋三も一緒にクレムリン宮殿を訪れている。この時に北方領土返還の件も浮上したのだが、その案件が進展する前に父晋太郎が翌1991年5月にすい臓がんで亡くなってしまい、またゴルバチョフも同じ年の12月に大統領を辞任しており、実ることはなかった。

父の死によって晋三は政治家の第一歩を印すことになった。1993年(平成5年)、38歳の時である。

だがこの1993年、自民党の宮澤喜一内閣が倒れ、非自民党政権が誕生することになった。細川護熙内閣・羽田孜内閣・村山富市内閣の3代約2年半がそれで、最後の村山内閣の時に阪神淡路大震災が発生(1995年1月17日)し、救助に自衛隊への出動命令を出さなかったことで、大ブーイングを浴びたことで有名だ。

この後は自民党が政権復帰し、橋本龍太郎内閣、小渕恵三内閣、森喜朗内閣と続き、晋三は森第2次内閣で内閣官房副長官に抜擢された(2000年)。

次のあの「自民党をぶっ壊す」の小泉内閣が3期続く(2001年~2006年)のだが、その間、内閣官房副長官として首相とともに北朝鮮の金正日と面談し、拉致を認めさせ、5人を連れ帰り、翌2003年には自民党幹事長になり、2005年、第3次小泉内閣では官房長官となり、次期首相への足掛かりができた。そしてこの『美しい国へ』が上梓された2006年9月に、小泉政権の後を襲い、安倍晋三内閣が誕生する(52歳)。

※第1章の半自叙伝的な「わたしの原点」の要約がかなり膨らんでしまったので、この後の論点については「再読③」として続けたい。


安倍晋三著『美しい国へ』を再読①

2022-07-20 20:00:32 | 日本の時事風景
7月8日に不慮の死を遂げた安倍元首相は2006年(平成18年)に『美しい国へ』を書き、文春文庫として出版している。

5年ほど前に一度読んだのだが、今回の事態を受け、再読してみた。

出版したのは2006年の7月であったが、その9月にポスト小泉をめぐる自民党総裁選で勝利し、第1次安倍内閣が発足した(52歳の首相就任は戦後最年少)。

しかし翌2007年の7月に行われた参議院選で自民党は大敗し、安倍氏は9月に健康問題(過敏性大腸炎)により辞任し、代わって福田康夫内閣が1年、次に麻生太郎内閣が1年続いたあと、野党の民主党が内閣を組織することになった。

民主党最初の首相は1955年の保守合同の時の民主党総裁だった鳩山一郎の息子の鳩山由紀夫であった。半世紀後の因縁を感じさせる親子の民主党内閣であったが、沖縄の辺野古基地問題をめぐり「最低でも沖縄県外、可能なら国外」という表明により、保守からのブーイングを浴びて辞任した。

次の菅直人内閣の時にあの「東日本大震災」(2011.3.11)が発生し、対応の不手際によって辞任し、野田佳彦内閣となった。翌2012年の12月の党首討論で野田氏は衆院解散を安倍氏に約束するというこれまでにない事態になり、解散後は自民党の圧勝となり、政権は再び自民党の手に移り、安倍晋三が返り咲いた。

その後、1昨年(2019年)の9月に辞任するまで3次の組閣を行い、通産の総理就任期間が3188日という戦後最長の記録を打ちたてたのは、記憶に新しい。

この『美しい国へ』は2006年7月に出版している本であるから、当然のことだが2006年の9月に初めて首相に就任する直前までのことが書かれている。

タイトルの「美しい国へ」というのは川端康成がノーベル文学賞を受賞し、スウェーデンで講演した時の「美しい日本の私」を下敷きにしたタイトルだろうと漠然と思っていたのだが、川端のその講演には全く触れられておらず、今回それは間違いだと知った。

本の中で「美しい国へ」という項目はなく、また小見出しもないのである。で、どうしてそう名付けたのかは憶測でしかないが、本書本文の最後に書かれている次の文章から採ったのだろうか。

<わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。この可能性を引き出すことができるのは、わたしたちの勇気と英知と努力だと思う。日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために汗を流すべきではないだろうか。
 日本の欠点を語ることに生きがいを求めるのではなく、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか。>

この文章の最初の一文から「美しい国へ」を抽出したのかと思われる。

以下にこの書が構成する7つの章立てに従って、安倍氏の残した記録と信念の一部を抜き出し、コメントを加えてみたい。

(※書いている途中でニュースを見たら、コロナ感染者数が15万人を超えたという。驚くべき数字だ。
鹿児島県も2700人を超え、つい一昨日の最高記録1700人を1000人も超えてしまった。
我が鹿屋市も220人だという。これは先日の102人だったかの100人超えをはるかに上回る数値だ。
明日から夏休みに入るので、帰省客や旅行客の増加は間違いないことであるから、いったいどこまで増えるやら・・・!)

安倍晋三著『美しい国へ』を再読①・・・終わり



踏んだり蹴ったりのスリランカ

2022-07-18 20:51:05 | 災害
スリランカはかつてセイロンと言った。

「セイロン紅茶」という銘柄の紅茶があって確か四角い缶入りの紅茶が出回っていたことがあった。紅茶で高名なのはインド産の「ダージリン紅茶」だが、こっちの方は主に旧宗主国であったイギリス向けに輸出され、日本では一般的ではなかった。

そのセイロン紅茶を飲まなくなって久しいと思っているうちに、セイロンという国名が変わってスリランカになった。ビルマがミャンマーとなったように、本来の自国の読み方に変更されたのだ。

しかし首都のコロンボという名称は変わっていないから、国としての親近感は継続している。

紅茶はもともと緑茶と同じ茶樹から採れる葉から作られるのだが、茶葉を蒸してから発酵させたのが紅茶で、イギリス人の好みにあったせいか、植民地であったインドのアッサム地方で主に盛んに栽培されるようになった。

インドは綿花の産地でもあり、これも主にイギリスに輸出され綿布となって逆輸入されてインド人を苦しめたのだが、それはスリランカとは直接関係ないので、これ以上指摘しない。

スリランカもインド同様、イギリスの植民地であったのだが、1947年8月にインドが独立すると翌年1948年の2月、スリランカも独立を果たした。

どちらも親日的であり、特にインドのガンジー後の指導者であるネルー首相は日本にインド象をプレゼントしたことで有名である。また、1955年4月18日にインドネシアのバンドンで「アジア=アフリカ会議」が開催された時には、日本へも招聘の案内が出されている(会議の主な首脳はスカルノ、ネルー、ナセル、周恩来)。

日本はアメリカの意向をおもんぱかって(忖度して)、首相(当時は鳩山一郎)は行かず、外務省のアジア局長レベルの官僚を送ったのだが、それでも欧米(主にイギリス)による植民地体制打破の原動力となった日本への感謝が披歴されたという。

それはそれで論じ尽くせないのだが、スリランカの代表も当然出席していたはずで、同じように日本への感謝は忘れなかっただろう。

そのスリランカでいま大きな政変が起きている。

現在の大統領のラジャパクサ氏が失脚し、亡命したというのだ。

多くの民衆が大統領官邸に殺到し、主なき官邸内を闊歩している様子がテレビニュースで流されている。

この政変の原因は、以前から危惧されていたことなのだが、中国による「一帯一路」計画によるものだという。

中国は「一帯一路」という言わば「海のシルクロード」計画に沿ってそのルート上にある国々の港湾建設に多額の出資をしているのだ。

陸路のシルクロードが「すべての道はローマに続く」なら、海のシルクロードは「すべての道は中国(北京)に続く」というわけで、中国船が航海に出た先で立ち寄れる港湾のインフラの整備を途上国に持ち掛ける。

コストは中国からの借款で賄い、港湾が完成したらそこに中国は「港湾使用権」を設定して使用料を払いつつ自由に使えるようにする。しかしその港湾使用料は無論大した額ではない。しかも、何とスリランカのハンバントダ港は99年の借地権(運営権)が設定されたという。


テレビ「日曜報道」から。

まさにかつてイギリスが香港や上海に対して設定していた長期使用権と同じである。

ところがこの2年余りのコロナ禍で観光客が激減して国庫収入に大きな誤算が生じ、中国に返済すべき資金(外貨)が払底したそうだ。

外貨がないため原油を輸入しようにも支払いができず、食料品価格も高騰し、スリランカは破産状態になってしまった。

中国の甘言で港湾整備を受け容れた現大統領は二進も三進も行かなくなり、国民から見放され、とうとう亡命という事態になった。

観光客(インバウンド)の多くもおそらく中国人だったのだろう。彼らが落とす観光支出(金)がスリランカの経済の屋台骨だったと思われるのだが、皮肉にもコロナ対策で最も厳しい策、つまりロックダウンを頻繁に行い国民を国外に出さないのも中国なのだ。

要するに、港湾整備で中国から借りた金を返せ、というのも中国なら、国外の観光などもってのほかと自国民をスリランカへ渡航させないのも中国なのだ。スリランカにとっては踏んだり蹴ったりの所行である。

このような中国の「一帯一路」計画がらみで泣かされる途上国はこれからも出て来るに違いない。

第7波に突入

2022-07-17 11:43:57 | 日本の時事風景
新型コロナウイルス感染者数が全国でついに11万人を超えたという。これは今年2月3日の第6波時のピークである10万4千人を軽々と超えたことになる。

10万人を超えたのは昨日からで、10歳未満児の感染が4割を超えているという。そのほとんどは重症化どころかインフルエンザより軽い症状だそうだ。そのこともあって政府は「行動制限措置は取らない」という声明を出している。

たしかにインフルエンザの場合は、発症者及びその濃厚接触者が3日間ほどの自宅待機(療養)で済んでいる。だからその方策に倣うというのであろう。

だがインフルエンザの場合は高温期に入ると途端に激減するのが通例であるが、この新型コロナウイルスのオミクロン株BA5型というやつは、外気温に関係なく人体に侵入して来る。むしろ高温期に入った6月以降に爆発的に増えているから厄介だ。

この分で行くとある感染症の専門家の試算のように、夏休みに入って2週間後には東京都で5万人を超える可能性が高くなった。今現在で約1万9千だから、一週間後には3万は確実だろう。

ただ今のところ中等症病床には余裕があり、何よりも重症者が以前の5波(昨年の夏)や6波に比べると1割程度以下しかなく、その点では安心と言えば安心だが、絶対数が劇的に増えればそうは言っていられなくなる。

医療機関では新型コロナウイルス感染者への対応措置が増えれば増えるほど、一般外来の患者に対する医療が圧迫されてしまうというジレンマがあるのだ。

もうあと数日で子供たちは楽しい夏休みに入る。

学校や幼稚園は一時的に新型コロナ対応から逃れられるが、子ども持つ家庭はそうは行かない。自主的に行動制限するしかないようだ。

私の住む鹿屋市でも昨日は1700人の感染者があった。一週間前にはまだ800人とかであったのに、1000人を超えたら1400、1500となり、あっという間に一週間前の倍になってしまった(7月17日発表分でも1700人であった)。

夏休みに入り孫たちがやって来る機会が増えるので、自分も早く4回目のワクチンを受けようと思い、かかりつけの医者に問うたところ7月29日にワクチン接種を予定しているという。

それでは夏休みに間に合わないと思い、鹿屋市のワクチン接種コールセンターに問い合わせたら、商工会議所で予約なしで受けられると聞き、4回目接種券の番号と名前・住所・連絡先を告げたら、7月15日の午後7時からの接種を受けられることになったので、早速、受けて来た。

2日目の今日、今のところ接種部の周りの痛み程度で、他に副反応はない。ホッとしているところだ。

天国も地獄も金次第・・・!?

2022-07-14 13:23:08 | 日本の時事風景
安倍元首相が参院選投票日の前々日(7月8日)に、奈良市内の近鉄西大寺駅前で応援演説中に凶弾に斃れた事件の下手人(殺人容疑者)の素性がかなり判明して来た。

41歳のその男は母親が「世界平和統一家庭連合」という宗教団体に子どもの頃に入信し、多額の金を献金していたことで家庭が破綻したのだそうである。彼の少年期にそうなってしまい、食うや食わずの生活を送らざるを得なくなったという。

今日の午後のニュース番組では時系列で、1985年頃、まず男が5歳の時に建設業を営んでいた父が亡くなり(原因は不詳)、その後まもなく母がその宗教団体に入り、せっせと献金に励んだ(夫に掛けていた多額の保険金が入ったのかもしれない)。

献金はさらにエスカレートし、祖父から引き継いだ田畑を売り、ついには家までも売って献金したのだが、ついに2002年には破産宣告を出されるまでになった。その献金総額は1億と見積もられるというから、べらぼーだ。1985年から2001年までの献金期間17年に毎年平均して600万ほどの金額を貢いだことになる。

献金の内には高額な「聖書」や団体関係の本、イベントへの参加費その他もろもろの献金グッズやアイテムがあったに違いない。とにかく搾り取られるだけ搾り取られたのだ。その間、男を含む兄弟たちと母親との繋がりは最小限のものだったようである。

これでは子どもたちは「やっていられない」だろう。おそらく、最低限の勉強はできただろうが、塾へ行くとか、部活でスポーツ大会に行くなどという子供にとってなくてはならない成長の糧はほとんど抑制されていたに違いない。

(※男の高校時代の卒業文集だったか、入学したての自己紹介的な文集だったか忘れたが、将来のことを、男は「分からん」とだけ書いたそうだ。)

こういった場合、子どもの怒りの矛先は当の母親に向かうものだが、父親がいないこともあり、直接母親へ矛先が向けられることはなかった。

男は少年時代にすでにその宗教団体を憎んでおり、いつかは「母親をあんなにした教団に仕返しをしてやろう」と心に秘めていたようである。

破産宣告後の2005年以降、宗教団体は母親に対して5000万を返金したそうであるが、その返金を受けて母親は再び団体の月一回の会合に顔を出すようになったという。

せっかく足を洗っていた宗教団体へ、母親が再入信のような形になったことで、男の子どもの頃からあったという宗教団体への復讐心が再び燃え上がった可能性が高い。

韓国本部の教祖の所まで行って火炎瓶を投げてやろうというくらい思い詰めていたところへ、たまたま昨年9月にこの教団の関係団体の大会が催され、その大会の最中に安倍元首相のビデオメッセージが流された。

これを男は今年になってから見た(母親から見せられた?)らしい。母親を教団から取り戻すためには教団そのものを攻撃するより、まずは影響力の強い元総理だと思い込んだでしまった節がある。

男の思い込みの強さは、あるいはもしかしたら母親の宗教へののめり込み具合に似ているのかもしれない。

母親は献金によって、つまり団体への入金によって天国を引き寄せたかもしれないが、男は母親の献金、つまりこっちは真反対の出金によって地獄の子ども時代を味わう事になってしまった。

この宗教団体の正式名「世界平和統一家庭連合」からすれば、家庭こそが世界平和統一のためのカギになるはずなのだが、家庭をめちゃくちゃにしては平和もくそもあるまい!

家庭は実に大切な物であることに全く異議はないのだが、子どもを「普通に産み育てること」こそが大切さの極みだ。それこそ宗教に匹敵する大事なのだ。どんなに金が有り余っていても普通に生み育てるには子どもがいなくては始まらない。その子供を難なく産むのが母親である。

テスラのイーロン・マスクやアマゾンのジェフ・ベソスが、どんなに金を、何兆円積んでも赤ん坊一人創れないのがこの世である。それをやすやすと産み育ててくれる母親こそ万金に値する。天国はすぐそこにあるではないか。

(※八つ当たりされて殺害された安倍さんはこ気の毒としか言いようがない。

この宗教団体の元の名称は「世界統一神霊協会」と言った。創始者は文鮮明という韓国人で、私が学生の頃には既に存在し、学生運動華やかなりしころの1968年に、この統一教会を母体にして「国際勝共連合」という名の反共学生連合が生まれていた。入会していた同窓に勧められたことを思い出す。

その後、学生運動が下火になってから目にすることはなくなったが、この勝共連合の日本における創設者に何と安倍さんの外祖父・岸信介が名を連ねていたことを知り、驚いている。)