鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

平成から令和へ

2019-05-01 20:09:02 | 日本の時事風景

平成天皇が退位されて上皇となり、皇太子徳仁殿下が新天皇に即位された。

新しい令和の時代の始まりである。

今では日本にだけ特有の「元号」だが、かっては東アジアいくつか存在した。

元号の本家本元は中国であるが、中国は1911年の辛亥革命によって清王朝が滅び、その後は元号を立てずに「民国〇〇年」と表記するようになって途絶えた。

中華民国に代わって共産革命によって樹立された中華人民共和国も、元号を立てることはしなかった。

ただ、日本の擁立した満州帝国では再び清王朝時代の続きとしての元号が立てられたが、日本の敗戦で満州帝国も崩壊し、元号はわずか大同(1932~4の足掛け3年)と康徳(1934~1945の12年)の二元号で終わっている。

日本で本家中国の王朝に倣って立てられた最初の年号は「大化」(645年から5年間)で、次は「白雉」(650年から5年間)。

その後は30年途切れて「朱鳥」(686年)が立ったが、わずか一年で廃止され、恒常的に元号が立てられるようになったのは701年の「大宝」が始めである。

大化、白雉、朱鳥の三元号も併せて今度の令和で243元号を数えることになった。

126代にわたる天皇の数で割れば、一天皇当たり2元号ということになる。前天皇から引き継いで即位した時に新しい元号になるのが通例なので、平均的な天皇は皇位期間中にもう一つの元号を立て(改元し)てきたということになる。

それはあくまでも平均しての話で、もっとも改元数の多いのは73代の堀河天皇(皇位期間1086年~1107年)で足掛け22年の在位中に7回も改元している。

改元の理由は、基本的には皇位を継承した時だが、大きな災害があった時や、逆に吉事があった時に改元することが多い。堀河天皇の時代は争乱や災害が頻繁にあったことに加え、いわゆる「末法思想」の普及で社会的に不安・不穏感が充満していたせいもあろうかと思われる。

明治以降は「一世一元制」となったため、改元までの期間が大幅に伸びることになったことは言うまでもないが、前天皇の崩御または今回のように「譲位」という国民から見て至極分かり易い改元の仕方なので、われわれ国民にとっては逆に深く印象付けられることになった。

神道の考え方に「中今(なかいま=今にあたる=今を真摯に生きる)」と「節折(よおり=折々に立ち止まって顧みる)」があるが、この改元は後者の意味合いのものだ。

今朝の新天皇陛下の「お言葉」は、父である平成上皇の事績を振り返ってほめたたえながら、後継者としてやはり国民とともに、国民に寄り添い、国民の幸福と世界の平和を願うということであった。

令和の世はこれまで以上に国際関係が身近なものになるが、陛下と皇后雅子様の国際感覚が生かされ、武力に拠らず(アメリカとの軍事同盟に属さず)、世界平和に大きく貢献する日本であってほしいと願う。

それは大いに可能だろう。世界はそれを待っている。

 

今日は仕事が4時頃まであり、帰宅途中に鹿屋市吾平町の「鵜戸神社」に立ち寄って天皇即位と新元号への祝祷をしてきたが、社務所で朱印を頂くことができた。

左が吾平町の鵜戸神社の朱印。令和元年5月1日付。右は3月31日に歴史の仲間と出かけて来た日南市の鵜戸神宮の朱印。平成31年3月31日付。

※鵜戸神社は明治の半ばまで「吾平山上陵」の対岸に鎮座していたが、崇敬の便のためには遠方すぎるという理由で、吾平町の中心部、旧吾平町役場の隣に移設された。