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古日向論(1)天孫降臨神話と古日向⑤

2019-05-08 11:02:21 | 古日向論

「天孫降臨神話と古日向」の④までで、古日向を最初に支配したニニギ王朝は、鬼界カルデラの大噴火によって荒廃した南九州の大地に再び緑野が蘇った6200年ほど前から開聞岳の噴出のあった4000年前の頃まで続き、これの後継であるホオリ(書紀ではホホデミ)王朝は4000年前から弥生時代の初期である2500年くらい前まで続いたのではないか――とした。

王朝と言っても後世の「王権」を踏まえた統治機能のある王朝というより、「時代」と言った方が正確だろう。つまり、ニニギノミコトの時代というのは、古日向がまだ鬼界カルデラ大噴火の余熱の中にあった。またホオリ(書紀ではホホデミ)ノミコトの時代は、余熱のほとぼりが冷めて大地の実りが十分に得られるようになった(しかしまだ定量的な水田耕作は本格化していない)。

弥生時代の初期に列島では、おそらく九州島から水田による米作りが始まったと思われ、この水田耕作こそが定期的かつ定量的な富をもたらし、この富による各種の産物の交換や流動が盛んになって「地域づくり」が時代の要請となった。

列島での水田耕作は、弥生時代の中期後半(2000年前)にすでに最北の青森県域(垂柳遺跡ほか)にまで行われるようになった。当時の暮らしからすれば驚異的な普及だが、これも水運による情報流通力に支えられたらしい。水(海)運による交流おそるべしである。

水田耕作によって各地で地域権力のようなものが生まれたのは、水田に水を引くために河川の管理が必要になったことが背景にある。河川の上流、中流、下流、また河川の左岸と右岸という区割りのようなものが自然発生的に生まれ、それへの帰属意識が家族意識を超えたものに発展すると、「国」の萌芽となる。

古日向論の(2)「邪馬台国と古日向」において詳しく見るのだが、この時代をかなり客観的に描写したのが「魏志倭人伝」(正確には『魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条』)である。そのころの朝鮮半島と九州島(及び九州島の東方)には倭人の「国」があったと伝えている。

この時代背景で生まれたのがウガヤフキアエズ王朝である。

ホオリ(書紀ではホホデミ)王朝につづく2500年前からがウガヤ王朝の時代となる。

ウガヤ時代は水田耕作による地域づくりから一歩進んで、河川全体を支配するような大きな権力が生まれ、さらにそれらが河口港を中継として物資や情報の交流を促し、各地の特産品の生産・製造を盛んにしていった。

中でも最も重要な産物(加工品)は鉄製の農具であった。木製や石製の農具ではなく、鉄製の農具があれば水田耕作や用水路の掘削に飛躍的な能率をもたらす。

この鉄の需要が砂鉄等の産地を求めて地域間交流をさらに活発化させ、さらに朝鮮半島南部の伽耶地方に鉄山が開発されると、対馬海峡を定期航路で往来したと言ってもおかしくないほどの交流が始まった。そしてこの鉄山開発と鉄の精錬・鉄製品の運輸に活躍したのが航海を生業とするいわゆる「海人」であった。

伽耶の鉄山はこの航海系の倭人が中心になって開発されたようで、朝鮮南部の国々や2世紀初頭に置かれた後漢統治下の楽浪郡にまで供給されていた(「魏志韓伝」による)。

後漢に代わって魏が朝鮮半島に食指を伸ばしてくると、半島南部は緊張の時代となり、特にのちに魏に代わって晋王朝を開いた大将軍・司馬懿の半島南下の侵攻は半島南部を争乱に陥れた。

半島南部の馬韓・弁韓・辰韓に属する50数か国は離合集散の末、百済・任那(伽耶)・新羅の三国に集合した。このうち任那(伽耶)こそが九州島を中心とする列島各地域との交流拠点であり、そこがのちに「金官伽耶」と呼ばれるようになった。後世の金海である。

この半島南部三国の列島への窓口であった任那(伽耶)も、6世紀になって新羅の支配下にはいり、国としては消滅する。

半島にいた航海系倭人は、後漢が半島に四郡を置いた紀元前108年、公孫度が帯方郡を置いた204年、逆にこれら二郡が百済・任那・新羅の三国自立によって廃された300年代初期、そして新羅によって任那が併合された532年などに、戦乱を逃れこぞって半島から離脱して九州島に移動した。

この朝鮮半島に居住していた航海系倭人の古日向への移動を、私はウガヤフキアエズの誕生と重ね合わせる。

母とされる「トヨタマヒメ」はウガヤを産むときに、「八尋鰐の姿で産んだ」のだが、この「八尋鰐」こそが「大きな船(船団)」の象徴であろう。

トヨタマヒメはウガヤを産むとすぐに海に入り、代わって妹のタマヨリヒメをウガヤの養育に送ったという説話は、半島南部との関りが絶たれたことと養育者もやはり航海系倭人だったことを意味している。

さてここでウガヤ皇子の通し名を見てみよう。

ウガヤ皇子は古事記によると「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」(アマツヒタカキヒコ・ナギサタケ・ウガヤ・フキアヘズノミコト)というが、直訳的に解釈すれば「天孫由来の霊力の高いお方で、渚にお生まれになり、大(う)伽耶を葺くことができなかった命」となる。

「渚に生まれた」というのは、半島の南の海上交流拠点である伽耶からはるばる船に乗って九州古日向の海岸に到着したことを意味している。

また「大(う)伽耶を葺くことができなかった」というのは、大伽耶(金官伽耶を合わせて六伽耶に分かれていた)全体を統治することができなかったことを意味している。

ウガヤ皇子の到着地こそが古日向の「鹿屋」であろう。

鹿屋は現在は「かのや」と読ませるが、源順の編纂した930年頃の『和名類聚抄』の一部である「諸国郡郷一覧」を見ると、「鹿屋郷」の読みについては特に「加乃屋」というような万葉仮名風の読みを掲げていない。他の郷名にはたとえば隣の「姶良郷」には「阿比良」(と読みなさい)という注音が施されているのに、「鹿屋郷」にはそれがないので、「かや」読んでいたのである。

また、伽耶を任那とも言うが、この任那は宮崎県の「三股町」へ地名遷移した可能性が考えられる。鹿屋も三股もともに古日向に属している。

ではこのウガヤ王朝の時代は本格的に水田経営が開始された2500年前(紀元前500年)からいつまでを指すのだろうか。

記紀の書き方からすると、ウガヤの子であるワカミケヌ(のちの神武天皇)が大和への東征を果たし、向こうで橿原王朝を築いた時点で、古日向とのかかわりを絶っているから、東征年代までということになる。私見ではいわゆる神武東征を魏志倭人伝に見える「倭国は争乱したが、卑弥呼が擁立されて収まった」時、すなわち2世紀半ば頃と見ているので、紀元前500年から150年代までということになる。

考古学上の時代分類で言えば、ほぼ弥生時代をカバーする期間がウガヤ王朝時代ということである。

ただ、ワカミケヌ(神武天皇)の東征以後も、古日向では皇孫の支配が続いたと考えるのが至当で、その当事者に挙げられるのが、父であるワカミケヌ(神武天皇)の東征に付いて行かなかったタギシミミの弟・キスミミである。

キスミミは古日向を投馬国に見立てる私見によれば投馬国にはどんぴしゃりの王名「ミミ」を持つ。その意味は「岐(ふなど・くなど)の王」すなわち「港の王」であるから、古日向域の要港を支配していた。交易王とも言い換えられる人物であったろう。

この神武天皇の皇子のうち弟にあたるキスミミを始祖とする古日向の王統は、中央の王権からは初代神武天皇の分流である家柄からしてしばらくは尊崇の念を以て処遇されていたであろう。

しかし中央が大きく発展してくると次第にその火山灰土や台風禍による生産性の低さなどから彼我の貧富の差が生まれ、結果として疎んぜられるようになり、「熊曽」「隼人」とまるで異人種のような扱いをされるようになってしまった。

それは記紀の編纂による脚色のせいでもあるのだが、致し方ないことかもしれない。律令制を取り入れた中央集権国家設立急務のあおりを食ったのである。

古日向王統はキスミミ以降、500年ほど続いたと思われる。その最後はやはり中央王権が中央集権化を進める原因となった「白村江での敗戦」の時であろう。

そして古日向キスミミ王統の最期を飾った王の名は「肝衝難波」(キモツキノナニワ)ではなかったかと考えている。

               (古日向論(1)「天孫降臨神話と古日向」終)