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古日向論(2)邪馬台国時代の古日向②

2019-05-21 09:32:08 | 古日向論

さて魏志倭人伝には2世紀半ばから3世紀半ばおよそ100年の倭人の姿が描かれている。

編著者は陳寿といい、司馬氏の興した晋王朝(魏・呉・蜀による三国時代の次の王朝)の史官であった。西暦280年頃まで生きた人であるから、上記の100年は陳寿から見れば祖父母くらいの時代であったわけで、ほぼ同時代史であるといってよい。倭人の2~3世紀史の超一級史料である。

したがって魏志倭人伝(及び半島の諸伝)を解読すれば、その時代の倭人および倭人国家群の様子がかなり濃厚に捉えられることは論をまたない。

中でも倭人国家群の中心的な大国として挙げられている「邪馬台国(女王国)」の中身と所在地を巡っては、解釈上大きく分けて「畿内説」と「九州説」とが江戸の昔から対峙し続けていて、最終的な比定地の解決には至っていない。

邪馬台国の統治については女王「卑弥呼」(247年頃に卑弥呼が死んだ後も女王・台与が立った)によるいわゆる「祭政一致」(倭人伝では「鬼道」としている)的な支配がなされており、後世の天皇支配がやはり「祭政」をきわめて重要視することとの間にさほど大きな乖離はなかったことでは畿内説・九州説どの論者もおおむね一致している。

しかし比定地論争では真っ二つに分かれている。

結局のところそれは、陳寿が事細かく描いた「邪馬台国への行程」についての解釈が起因になっているので、問題のその「行程」を取上げてみる。

 

ここでは長くなるので倭人伝の書き下しはせず、行程だけを列挙していく。

郡(帯方郡)―(韓国海岸を南し、東して)―狗邪韓国・・・水行7000里

狗邪韓国―(海峡渡海して)―対馬国・・・水行1000里

対馬国―(海峡渡海して)―一大(壱岐)国・・・水行1000里

一大(壱岐)国―(海峡渡海して)―末盧国(佐賀県唐津)・・・水行1000里

末盧国ー(東南へ)―伊都国(世々王がいる)・・・陸行500里

伊都国―(東南へ)―奴国・・・陸行100里

奴国―(東へ)―不彌国・・・陸行100里

郡(帯方郡)―投馬国・・・水行20日

郡(帯方郡)―邪馬台国・・・水行10日、陸行1月

※邪馬台国への行程のあとは、「女王国より以北の国々はその戸数・道里を略載し得るも、その余の傍国は遠絶にして詳しくすることを得ない。次の国はシマ国、次はイオキ国・・・」と邪馬台国傘下の国々21か国を列挙し、最後に、

郡より女王国に至るに1万2千余里

で行程を締めくくっている。

 

 

さて私の比定地解釈で通説と大きく違うのが、「伊都国」と「投馬国」そして「邪馬台国」である。

まず「伊都国」だが、通説は伊都国を「いとこく」と読ませ、糸島市(旧前原町と志摩町の合併)に比定するのだが、末盧国を唐津市としようが東松浦半島の先端の名護屋としようが、ここで海峡を渡って来た船を捨て、ここから「東南へ陸行」して糸島市へ行くとするわけだが、糸島市なら壱岐(一大)国からそのまま直接船で接岸できるのだ。

私は邪馬台国問題に興味を持った高校2年生のころから、途中、他の仕事でタッチしない時期もあったが、とにかく通説通りに唐津か東松浦半島のしかるべき港に比定される「末盧国」で下船し、そこからは郡使一行は糸島まで歩いた。そしてそこから北部九州沿岸沿いに「奴国」「不彌国」を経て瀬戸内海を経由して畿内大和の中心部に邪馬台国はあったのだろう――とぼんやり考えていた。

ところが25年後の42か3歳の頃、ちょっと仕事に余裕ができた合間に再び集中して倭人伝に取り組んでみた時、伊都国が糸島市(あの頃はまだ合併前の前原町)なら壱岐から直接船で乗り付けられるのに、なぜ唐津で下船してしまうのだろう――と気付き、それならと末盧国(唐津)から鎮守の書いた通り、東南への道を探したところ、あったではないか。松浦川沿いの道である。

唐津から松浦川に沿って佐賀平野に抜ける道はまさに「東南」に向かって行く道だ。唐津から東南陸行の路線上には「厳木(きゆらぎ)町」「多久市」「小城市」があり、このどれかが「伊都国」の比定地でなければならない。(※拙著『邪馬台国真論』2003年刊では小城市を候補に挙げたが、今では厳木町の方に軍配を上げる。かっては小城市を含む佐賀平野部の大国であり代々王がいたが、女王国に属した際におそらく戦乱で敗れ、領土を失って厳木町のような辺陬の地に追いやられたのだろうと考えたい。)

伊都国の比定地がもし糸島市なら唐津からは東北にあたる。陳寿の記述では「東南」であるから倭人伝の方角記事は北方向へ90度ずれていることになり、したがって不彌国から「南へ20日の水行」と書かれている投馬国は「東へ20日の水行」となって瀬戸内海に面するどこか(諸説あるが鞆の浦などが比定地)、さらに投馬国から「南へ水行10日、陸行1月」と書かれている邪馬台国は「東へ水行10日、陸行1月」となり、難波津のあたりに上陸して徒歩1カ月で大和地方に至り、そこが邪馬台国のある場所だーーというのが畿内邪馬台国説の行程論である。

要するに陳寿の記した方角はあてにならず、特に北部九州に上陸してからの方角はすべて北寄りに90度ずらさなければならない、という論法だが、そうなると朝鮮海峡渡海の際の「南」はこの際「東」にしないにしても、伊都国からの奴国は「東南陸行」を「東北陸行」にし、奴国からの不彌国は「東行」を「北行」にしなければならないが、奴国も不彌国も玄界灘の海中に比定しなければならず、それがあり得ないことは明白だろう。

畿内論者のこの論法は、あくまでも「邪馬台国畿内にありき」を言いたいがための史料改変の過ちを犯している。

糸島氏は古代からの地名「怡土」からきているのだが、この地名、実はもとは「伊蘇」(いそ)であった。日本書紀の仲哀天皇紀および「筑前風土記」によれば、ここの豪族(県主)の「五十迹手」(いそとて)が、仲哀天皇の一行に鏡・玉・剣を飾って恭順の意を示した(別の表現をすると「いそいそと奉仕した」)ので天皇は大層褒め、「このようにしてくれたのは伊蘇志(いそし)きことだ」と述べたーーとある。さらに、この「伊蘇志」から当時の人々が五十迹手の国を「伊蘇の国」というようになったが、しかしそのうちに「伊覩(いと)の国」と転訛してしまったーーとも書かれており、怡土(伊覩)はもと「伊蘇」だったのである。

※豪族(県主)の名「五十迹手」も通例では「いとて」と「十」を抜いて読むが、最初の地名「伊蘇」からすれば「いそとて」と読むべきだろう。

 

次に「投馬国」。通説では「不彌国から南へ水行20日」(畿内論者はこの「南」を「東」と改変する)とするが、不彌国が糸島の伊都国から春日市あたりの奴国を経てその東の「宇美町」だとすると、そこから南へ水行は不可能である。(※宇美町から水行では行けない投馬国から、さらにその南へ水行10日、陸行1か月の邪馬台国は全く行きようがない。)

伊都国を糸島市とすると、畿内説では「方角北へ90度改変論」によって、奴国と不彌国がともに玄界灘の中に比定されることになってあり得ず、また九州説でも不彌国(宇美町)からの水行20日はあり得ず、さらに投馬国の南へ水行10日、陸行1か月とする邪馬台国も、投馬国が比定できない以上、その比定地もまた確保されないのである。

であるから、まずは伊都国を現在の糸島市に比定しては、九州説も畿内説もともに成り立たないことに気づかなければならない。

私のように伊都国を唐津から松浦川沿いの経路上の厳木町に比定すれば、あとの経路は奴国にしても不彌国にしてもすんなり比定ができる。一応は多久市あたりが奴国で小城市が不彌国とみておく。ともに広大な佐賀平野の西の一角に位置する国としての適地ではないだろうか。

さて不彌国の次に「南水行20日」と出てくる投馬国を、私は不彌国(の港)から南へ20日のところという解釈はしない。

ここは倭人伝の原文では「南至投馬国、水行20日」だが、この「南」は「郡(帯方郡)から南」と解釈するのだ。このことは次の邪馬台国の「南至邪馬台国」も投馬国から南ではなく、やはり「郡から南」と解釈するのだが、そちらの方を先に論じることにする。そうすれば投馬国が南九州古日向であることも明確になる。