鴨着く島

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古日向論(2)邪馬台国時代の古日向①

2019-05-15 09:49:48 | 古日向論

日向論の(1)では、天孫降臨神話において古日向に天下ったとされるニニギノミコトは7500年前の鬼界カルデラの大噴火の時に滅亡した縄文早期の古日向先進文明倭人の生き残り(各地に避難し、逃れていた人々)が、大地の蘇りとともに再び古日向に戻って来たことを象徴する人物像であるとした。(※これをあえてニニギ王朝時代と名付ければ、その期間は古日向がまだまだ火山活動の活発な時期、すなわち6200年前から4000年前の頃であろうともした。)

また、その直系とされるホオリ(書紀ではホホデミ)ノミコトとは、よみがえった大地を暮らしの糧として生きることを選んだ人々こそが定着的な地域づくりの中心になるべきだとした理念を象徴する人物像であると考えた。(これをあえてホオリ王朝時代と名付ければ、その期間は古日向の大地がやや安定して来た4000年前から2500年前の頃とした。)

そしてそのホオリノミコトの子であるウガヤフキアエズノミコトは、大地の暮らしの中で特に多くの人手を必要とする水田による「米作り」を中心的な生業とする時代に入って「国」が生まれ、さらに鉄製農具の普及が急務になって製鉄が開始され、半島南部の伽耶鉄山などからの鉄製品・素材の輸入(移入)を通して朝鮮海峡間の交易、及び国々の交流が極めて活発になった時代を象徴する人物像であるとした。(※これをあえてウガヤ王朝時代と名付ければ、母のトヨタマヒメを象徴する海人船団による半島南部の大伽耶からの避難=亡命による王権の移動まで、すなわちホオリ時代の最後である2500年前から倭人が争乱したと倭人伝に書かれている150年代後半の頃とした。)

以上のように、私は天孫降臨神話に描かれている象徴的な文脈を解いてみた。

ウガヤ時代は朝鮮半島南部との交易が驚くほど活発になった時代で、なにしろ海峡を挟んだ交流であるから航海系倭人の存在はきわめて大きかった。

「魏志倭人伝」や「魏志韓伝」「魏志濊(ワイ)伝」「魏志高句麗伝」などをひも解くと、半島南部にはこの航海系倭人があまた居たことが知られるのである。

(※以上の諸伝は正確には『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人・韓・濊(ワイ)・高句麗』だが、通例として「魏志倭人伝」等々が使われているので、この論説でもこれを踏襲する。またこれらを多用する個所では単に「倭人伝」「韓伝」などと省略することが多い。)

そこで『古日向論(2)』として魏志倭人伝を中心にその時代の倭人の姿を捉えてみることにする。もちろん邪馬台国の所在、そしてテーマである「古日向はその当時どうであったのか」に論及するのは当然のことである。


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