鴨着く島

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古日向論(2)邪馬台国時代の古日向③

2019-05-26 13:23:45 | 古日向論

ここでは、いよいよ邪馬台国の所在地について考察する。

邪馬台国には帯方郡から238年に梯懏(テイシュン)が、240年には張政(チョウセイ)という官吏が実際にやって来ているので、距離・日数・方角を網羅した行程についてはかなり正確に掴んでいるはずで、畿内論者のように「行程記事の南は東の間違いだ」と改変するのはそもそもおかしい。

ところが九州説を採る論者たちも一様に「伊都国」を「末盧国」(唐津)から東北にある糸島市(合併前の旧町では前原町)に比定しているため、畿内論者が鬼の首でも取ったかのように「唐津から糸島市へは東北であるのに、倭人伝では東南としてあるので北寄りに90度読み替えなければならない。

ーーよって九州に到達してからの方角記事は90度北向きにしなければならないーーとして、投馬国や邪馬台国への記事に見える「南至(南、至る)」を「東、至る」と改変し、瀬戸内海から畿内方面へと向かわせ、ついに大和に至らしめるという誤りを犯しながら恬として恥じないのは、「伊都国」を唐津から東北にある糸島市に比定したことが最大の原因である。

私見の「伊都(いつ)国」は「厳木(きゆらぎ)町」で唐津からはまさしく東南に位置てしいる。この「厳」は「いつ」とも読み代えられ、そうなると「いつき」で「伊都(いつ)の城(き)」と解釈できる。

ここは「戸数千戸」の小国になっていたが、かっては佐賀平野全体を覆うような大国であり、後漢書に記されたように「桓帝と霊帝の間(140年代から180年代の間)に、倭国で大乱があった」際に、北部九州での覇権をめぐる争いの末に敗れ、大国「伊都国」は解体され、ごく一部が平野から西の山間部に移動(改易)を余儀なくされたものだろう。(※佐賀平野で発見された吉野ケ里遺跡は倭国の乱より100年以上前の伊都国の盛時を伝えるものと考える。)

さて、これを前提として邪馬台国の所在地を比定してみよう。

邪馬台国に直結する行程については次の三つの記事が挙げられる。

A、帯方郡から海岸に従って航行し、韓国(三韓)を経つつ、南し東ししながら、朝鮮海峡に面する狗邪韓国(金海市)に至るのに水行7000里。朝鮮海峡を渡るのに対馬へ水行1000里。対馬から壱岐までが水行1000里。壱岐から末盧(唐津市)までが水行1000里。以上の合計で水行1万里。(※海峡渡海の三つの行程がすべて1000里なのは、距離ではなく、一日で渡り切らなければならないこと、すなわち海峡渡海には3日かかるということであり、水行1000里とは所要日数の1日を距離表記したものである。したがって帯方郡から韓国の最南端である狗邪韓国まで7000里の所要日数は7日で、これに海峡渡海の3日を加えると、郡から九州島北岸の末盧国までの所要日数は10日。ただし、これには荒天による出船待ちの日数は含まない。)

B、(投馬国の記事の次に)南、至る邪馬台国、女王の都する所へは水行10日、陸行1月。

C、帯方郡より女王国に至る、1万2千里。

 

以上のAとCから、郡から邪馬台国までの1万2千里のうちの1万里は郡から末盧国までの水行1万里に該当することが言える。

この1万里に要する日数はAによれば10日であり、Bの水行10日に一致する。

Cの1万2千里から1万里を減ずると、2千里が残る。

この2千里こそが、Bの陸行1月に該当する。すなわち、BとCは同値なのである。

別言すると、Bは郡から邪馬台国への所要日数表記で、Cは距離表記ということである。

これを踏まえた邪馬台国への道は末盧国に上陸したら、もう水行(航行)はせず、あとは「陸行(徒歩)2000里」を1か月で到達できるということ、つまり九州島の中にあるということで、畿内説の成り立つ余地は全くない。

それでは邪馬台国は九州島の中のどこにあるのだろうか?

先に私見では末盧国に比定される唐津の東南に位置する「厳木町」を伊都国とした。ここまでが距離表記では「(東南へ)500里」で、邪馬台国までは末盧国からは2000里である。唐津~厳木間が「500里」なので、これは邪馬台国までの2000里の25パーセントに相当する。

逆に言うと、邪馬台国は唐津~厳木間の4倍の距離上にあるということができる。

そこで佐賀平野を東に進み、奈良時代には国衙のあった大和町から佐賀市北部を通過して神崎町に至り、さらに北茂安町を経て筑後川を渡り、久留米市からは南下して八女市に至る。ここが邪馬台国(女王国)の所在地だと考える。

 

私が八女市を邪馬台国の所在地と決めた要因は4つある。

まずは唐津市からの「陸行2000里」の想定内であること。

次に、日本書紀の「景行天皇紀」に見える景行天皇の九州親征記事(同天皇12年~18年条)の中で、他の地域の豪族や女酋については恭順的にあるいは蔑視的に記しているのに、八女市の山奥にいるという「八女津媛」についてだけは、

【(八女の奥山を指して)天皇が詔を出された。「あの山々は峰や稜線が重なって、麗しく見えること限りがない。もしかして山中に神がおられるのか?」 この時、水沼の県主・猿大海が「女神がおられます。名を八女津媛と申し上げます。常に山中におられます」と答えた。八女という国名はこれに始まった。】

というように、景行天皇は八女及び八女津媛を至極丁重に扱っていること。

三つ目は、邪馬台国時代より300年近く後になるが、八女には筑紫の君「磐井」がいて北部九州に一大勢力を張っていたと「継体天皇紀」にあること。それだけ八女は地政学的に優れた場所であった。

最後は無論、「八女(やめ)」と「邪馬(やま)台国」との発音の類似である(最初、直観的にはこれが決め手であったが・・・)。

以上、縷々述べ来たったように、邪馬台国は九州島の中にあり、その最も推奨すべき比定地としては八女市郡域であるというのが私の結論である。

ただ、女王国の戸数が7万戸としている点について、八女市郡域だけでは収まり切れない。

これについては女王の都する所、つまり王宮(王城)の所在地としては八女だが、傍国として挙げられている21か国の戸数も含むと考えれば、7万戸は現実的に十分に可能な数字だろう。

女王国に属しているの北側の国々(対馬国から不彌国までの6か国の総戸数は3万1千戸。その平均はほぼ5千戸)で最少は伊都国と対馬国の千戸、最多は奴国の2万戸。奴国は例外的に多く、奴国を除くと5か国では平均2千戸程度になる。

女王国の北側以外の21か国もその程度と考えれば、女王国以外の総戸数は4万2千戸。したがって八女市郡域の女王国は単独で2万8千戸となる。やや多い気もするが、佐賀平野の西部にある奴国が単独で2万戸なので、宗主国である女王国はそれを上回っていておかしくはない。

因みに倭国におけるもう一か所の締めくくり的な距離表記を挙げておくと、

【倭地を参問するに、海中の洲島に絶在せり。或るいは絶え、或るいは連なり、周旋するに5千里余りなるべし】

これは「景初二年・・・」で始まる帯方郡との交流(使節往来)記事の直前にあり、それまでかなり詳しく描写して来た倭国の地理歴史に関する記事を終えるにあたって、もう一度倭国(倭地)の最大公約数的な地理観を述べてあるところである。

これによると「倭地(倭国としないで倭地としたのは、倭人のホームグラウンド、すなわち朝鮮半島にもあまた在住する倭人の本来の故郷という意味合いで使ったのだろう)は、島国であって他の地域とは隔絶している。帯方郡らの使節が海の上から見たように、島かと思えば半島として陸とつながっていたりする。大陸には無い珍しい光景の見られる地域である。」

そして最後に、

「周旋すれば(ぐるっと回れば)、およそ5千里ほどであろう。」

というのである。ここを陸上でぐるっと巡ると考えると、その前の「あるいは絶え、あるいは連なり」とは整合しない。あくまでも海路で回った場合のことである。

海路の5千里であるから、所要日数は5日となる。どこから5日かというと、末盧国(唐津)からで、唐津から西に漕ぎ出して平戸から長崎半島西岸を南下し、有明海に入って北上し、八女川の河口すなわち女王国の船着き場までであろう。

長崎半島と現在の熊本県最北部、及び筑後川南岸地帯が女王国を宗主国とする21か国の所在地と考えるのである。

女王国へは唐津から(もしくは直接平戸付近から)西回りの海路で有明海に入って八女川河口に到達した方が佐賀平野部を徒歩で抜けるより日数的にははるかに早いのだが、女王国とは仲の悪い狗奴国が菊池川以南の熊本地方に勢力を張っており、有明海南部の制海権を握っていたと考えられ、有明海航路を使えなかった(※うっかりそこを航行しようものなら、狗奴国水軍によって拿捕され、使節の女王国への贈答品などを奪われる可能性が大きい)。

※いま狗奴国を登場させたが、私見での狗奴国はここで触れたように菊池川以南の今日の熊本県域に比定している。狗奴国(王はヒコミコ、大官はキクチヒコ)は卑弥呼亡き後に女王となったㇳヨの時代に侵略し併呑したと考えている。