鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

二つのハイセン(その一)

2024-06-01 09:32:44 | おおすみの風景
(1)直近のハイセン
いま鹿屋市の「鉄道記念館」にシルバーの仕事で行っているが、この記念館は昭和62(1987)年の3月まであった国鉄大隅線を記念するミニ博物館である。

大隅線の旧鹿屋駅構内の一角に翌63年に建設されて現在に及んでいる。そして2年後の平成2年に同じ構内でも改札口とプラットホームを含む部分には、鹿屋市市庁舎が新築され、鹿屋市中心部の北田にあった旧市役所が移転している。

記念館の中には廃線当時まで使われていた鉄道運行用具が多数展示され、また記念館の外には模倣のプラットホームがあり、そこには当時運行していたディーゼル気動車「キハ20」車両が一台停められて、中を見ることができるようになっている。

直近のハイセン(廃線)と言っても今年で37年となり、いま40歳以下の若い市民は大隅半島を走っていた鉄道の影も形も知らない。

線路あとは、他の多くの廃線地域と同じように歩行者道路や自転車専用道路に姿を変えたが、いま現在近隣の住民を除いてはさほど利用されてはいないようだ。

それものはずで、実は大隅線が全線開通したのは昭和47年だったが、その頃すでにモータリゼーションの波は大隅半島にも押し寄せており、自動車が物流と通勤や買い物、行楽の足となりつつあった。

そして廃線になった昭和62(1987)年といえば、日本国中がバブル経済に沸き立っており、鉄道がなくなっても困るのは高校通学生と病院通いの高齢者くらいになっていたのだ。

ここで国鉄大隅線の歴史を振り返ってみると、端緒は高須と鹿屋を結ぶ民間の軽便鉄道であった。大正4(1915)年の話である。(因みに現在NHKで放送されている『虎と翼』の主人公の生まれは1914年である。)

日露戦争から第一次世界大戦の頃、大国ロシアに勝った日本は欧米やアジアで「一等国」視され、民間にもその活力はみなぎっていた。

その勢いのまま日本各地で鉄道敷設の槌音が響き、大隅でも大正12(1923)年には高須駅の2駅北にある古江駅から大隅半島のど真ん中と言える串良駅までの31キロが完成していた。

昭和に入り半島の反対側(東端)の志布志駅から串良駅の東隣り串良川を挟んだ東串良駅まで伸びてきたが、翌年には串良駅と東串良駅とが結ばれ、ここに至って半島の中央部を東西に走る「国鉄古江線」となった。

(※この時は民営鉄道だったのが国有化されたのだが、昭和62年3月の廃止後に国鉄は解体されて民営化され、元に戻った。皮肉な話である。)

さて古江線が大隅線に改称されたのは、戦後の昭和36(1961)年に古江駅から垂水市の海潟温泉駅まで伸びたあと、さらに約10年の歳月を費やして海潟温泉駅から大隅半島の付け根に当たる国分市(現霧島市)まで約35キロが完成してからである。昭和47(1972)年のことだった。

大隅半島の住民が初めて、日豊本線の国分を経由し鉄路の一本で県都につながったのであった。喜びは想像に難くないだろう。

ところが、まさにその喜びも束の間、昭和40年代は人流・物流が自動車主体になったことと、おそらく国鉄職員の数の多さから、地方路線は恒常的に赤字に悩まされることになった。

「特定地方路線」と言う名の廃止対象の赤字路線は全国到る所に存在していたのだが、大隅半島や薩摩半島を走る鉄路ももちろん例外ではなく、国鉄鹿児島鉄道管理局幹部と地方の首長を交えた6回もの会合の末に、苦渋の決断が下されることになった。

かくして昭和62(1987)年、大隅半島部では大隅線と志布志線が、薩摩半島では宮之城線と山野線が廃止されたのである。

大隅線は志布志駅から国分駅まで33駅、98.3キロ。
志布志線は志布志駅から西都城駅まで10駅、38.6キロ。
宮之城線は薩摩川内駅から大口駅まで20駅、66.1キロ。
山野線は吉松駅から水俣駅まで17駅、63.2キロ。

どの路線も志布志線を除き廃止対象としては全国的に見ても長大なほうである。

しかも大隅線と志布志線は志布志駅でつながっており、日豊本線に属する国分駅から大隅半島部を横断する大隅線で志布志駅に至り、さらに志布志駅からは志布志線に乗り換えて日豊本線に属する西都城駅まで、総距離は137キロもある。

これをつながった一本の路線としたら北海道の路線を除いては全国的に見ても最長の部類である。何とも惜しい廃線であった。
館内の壁には昭和62年3月13日に運行された最後の臨時列車に取り付けられていたヘッドマークが掛かっている。その日、大隅線内の33駅ではどの駅でも別れを惜しむ人たちで一杯だったという。

先月のゴールデンウイークのさなかに勤務していた折、福井県からやって来たという本人言う所の「廃線マニア」はまだ28歳ということであったが、北陸新幹線の福井への延伸よりも廃線を訪ねる方に興味があったようだ。

廃線になったことで大隅線(他の廃線も)は回顧(懐古の心)と歴史の対象になったのであろう。







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