鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

豚の飼育はいつから?

2024-05-01 10:20:05 | おおすみの風景

このところ雨続きで、先月(4月)は月の半分以上が雨模様だった。

家庭菜園の作物も植え付けの初めこそ雨が欲しいのだが、こうも日照時間が少ないとせっかく植えても病気にやられないかと心配だ。

現に、湿度に弱いホウレンソウは葉に何とかという病原菌が付いたのか、葉っぱの一部を灰色にしている(灰色カビ病か?)。それでも収穫して灰色の部分をカットし、湯がいて食べているが――。

ただし朝の気温がさほど下がらないので、温度的には夏野菜の生育に良いかもしれない。

夏野菜の定番のナス・ピーマン・ニガウリはそこそこに伸びてきている。

昨日の午前11時半頃だったが、庭で作業をしていると、見通しの良い南西の方角で何やら黒っぽい煙が上がり始めたのに気付いた。

我が家はやや高台なので、その黒煙は南を流れる大姶良川の解析した田んぼ地帯の低地から上がっているように見えた。

「枯草を焼いている煙とは違うな」――もし野焼きであれば、枯草や枯れ木が燃えた時に上がる煙は水蒸気を含んでいるため白っぽいはずだ。

そんなことを考えてなおも眺めていると、黒煙の量はますます増えて行き、風向きで我が家の上空の方まで達する勢いだ。

とうとう火事だと気付き、庭からベランダに上がり、家にいた家内に大声で「119番に電話したほうがいい」と叫んだ。

消防の方にはすでにいくつか連絡が入っていたらしく、しばらく待たされたようで、「獅子目(ししめ)が現場だ」と言われたようだ。

獅子目とは大姶良地区の字名で、我が家のある台地からは大姶良川を挟んだ向こう側の台地である。

昼食後の1時過ぎには鎮火したようで、消防の放水による水蒸気のような薄い白っぽい煙に変わった。

夕方のニュースでは養豚場からの出火だったそうで、豚舎7棟と飼育中の豚500頭が焼け出されたという。

出火原因はまだ特定されていないが、当時豚舎で溶接作業が行われていたそうだからそれに原因が求められるかもしれない。

何にしてもけが人も死者も出ていないのが不幸中の幸いだった。

鹿児島は豚の飼育が盛んで、特に鹿児島黒豚(六白豚)はブランドになっている。今度出火した飼育場は飼育からソーセージの加工まで行っている所で、鹿屋市の地方納税の返礼品になっているほど知る人ぞ知る養豚場だ。

同じ黒でも「黒毛和牛」も鹿児島和牛のブランドになっているが、この黒毛和牛のルーツは兵庫県の在来種「但馬牛」にあることは以前ブログでも書いたことがあるが、豚の飼育も実は同じ今日の兵庫県だったようだ。

今日の兵庫県は奈良時代以前には「播磨国」であったが、この播磨国のことを記録した地誌である『播磨風土記』には「賀毛郡」(かものこおり=今日の加東郡)の記述の中に、次のような一節がある。

< 山田里 猪養野(いかいの)

右、猪飼(いかい)と名づくるは、難波高津宮御宇天皇(=仁徳天皇)の世に、日向の肥人、朝戸君、天照大神の坐しませる舟に、猪を持ち参り来て進(たてまつ)り、飼うべき所を求め申しき。よって此の所を賜りて、猪を放ち飼はしめき。故に猪飼野といふ。>

――仁徳天皇の時代(?~427年)に、日向の朝戸君(あさとのきみ)という人物が「天照大神」のいらっしゃる船に猪を乗せて来て「ここらで猪を飼いたいが、場所がありますか」と言って来た。

そこで飼う許可を与えたところ、猪を放して飼い始めた。それで猪養野という地名になった――。

おそらくこの記述が豚を飼い始めた最初の記事だろう。

兵庫県は牛飼いも豚飼いも本邦発祥の地ということになろうか。

ただ日向(当時は鹿児島県と宮崎県を併せた領域)の朝戸君がイノシシを飼う場所をなぜ播磨に求めたかについては書いてないのが気になる所だ。

もう一つ不思議な表現がある。

南九州(古日向)出身の朝戸君がやって来た時の舟には「天照大神が坐します(いらっしゃる)」という表現である。

この説話の時代は仁徳天皇代だから時代は5世紀前後のことで、天照大神が地上に顕現したのは垂仁天皇の時代であるから時系列的には有り得るのだが、船に天照大神を乗せる(祀る)という表現が不可解なのだ。

船には「船魂(ふなだま)」を祀るというのは聞くが、至高神である天照大神を船魂としたというのは聞いたことがない。単に最上の神を祀れば航海安全と考えたからなのか、その他の理由なのかは思いつかないでいる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿