鴨着く島

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対馬の金田城(記紀点描52)

2022-10-15 21:57:33 | 記紀点描
今夜のNHK「ブラたもり」を観ていたら、対馬の金田城が取り上げられていた。

この金田城は西暦663年に百済を救援すべく新羅・唐連合軍と戦い、百済の白村江の海戦で壊滅的に敗れた日本(まだ当時は倭だが、日本を使う)が、連合軍の日本への侵攻を怖れ、4年後の11月に完成させた朝鮮式山城である。(※河内の高安城、讃岐の屋島城も同じ頃に造られている。)

現地は初めてのタモリは、現有の石垣の高く、長く続いているのに驚いていた。主として百済からの避難民のうち、築城に優れた者たちの技術によって倭国人と共同で築造したのだろう。

記録の上で西暦667年11月に完成した(天智天皇紀6年条)とあるから、今から1355年前の話である。小高い山の中腹に帯状に造られた石塁の長さは2.2キロもあり、重機の無い当時、どのように積み上げたのか想像を絶する。とにかくそんな昔の石を積み上げた構造物が、一部とはいえそのままの形で残っているのは奇跡的である。

ここは半島から、唐と新羅の連合軍が侵攻して来たら最初に攻撃される城であるから、かなり綿密かつ強固に造られている。そのため1350年余りを経てなお現存しているわけだが、実際にここで戦闘が行われたという記録はない。

それよりも敗れた663年の8月以降、唐からの遣使は6度もあり、そのうち武将を伴う使いは664年、665年、667年と立て続けにあった。降伏文書(表函)の調印がその目的であったと思われるが、金田城が完成した667年には「筑紫都督府」が置かれ、少なくとも九州北半は唐軍の支配下に入ったようである。(※665年の唐からの遣使船には、中臣(藤原)鎌足の長子で唐に留学僧として学んでいた真人が乗っていた。この真人こそがのちの天武天皇であろうと私は考えている。そのことは記紀点描㊽に詳しい。)

6度目の最後の671年の遣使は、郭務宗という文官が李守真という武将を従え、総勢2000名という大船団を組んでやって来た。この中には百済における戦闘で捕虜になり九州に帰された者が多くいたらしく、九州に到着するとすぐに「大船団だが、攻めて来たのではない」旨を上申させている。

捕虜以外の唐軍の人数は記録に無いが、相当な圧力であったことは間違いなく、筑紫の都督府に滞在しつつ、そのうち相当数の武官が畿内に向かったものと思われる。天智天皇に対する「戦犯容疑」を掲げ、多数の捕虜返還と引き換えに天智天皇の身柄を拘束したに違いない。そしておそらくは殺害されたものと思われる。

その証拠が、20年後の692年(持統天皇6年)に、持統天皇が筑紫大宰に対して「郭務宗が置いて行ったという阿弥陀仏を大和へ送りなさい」という勅を出したことで推測される。「阿弥陀仏」は来世の至福を約束する仏で、天智天皇を処刑した償いのために制作したのではないかと思われるのだ。

郭務宗以下2000名の唐使というのは通常の平和的な使いではないことは明らかであり、それ以前に5度もの使いがありながら、一向に掴み得なかった「戦犯こと天智天皇」の所在をようやく掴み、結局、所期の目的を果たしたのだろう。天智天皇の死が、郭務宗たちの来日と同じ671年の12月3日と書紀に記されているのもそのことを裏付けていよう。

対馬の金田城も、高松の屋島城も、河内の高安城も、その他たくさんの朝鮮式山城は、唐との戦いの場とはならなかったが、白村江の海戦完敗後の日本の一大危機感の象徴だ。

しかし白村江の海戦で日本軍に勝利し、その直後からたびたびやって来た唐軍も、日本側の首謀者の死によって矛を収め引き揚げたのであった。

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