鴨着く島

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縄文の森(上野原遺跡)

2020-08-24 09:49:58 | おおすみの風景
国分に用事のあったついでに、途中にある「縄文の森(上野原遺跡資料館)」を見学した。

2年ぶりくらいだが、今年70歳になったので今回から無料で入館ができた。ありがたいことである。いくつになっても知的好奇心はあるつもりなので、これからは霧島方面に用事があったら必ず立ち寄りたいところだ。

というのも、ここ上野原遺跡発掘品の超目玉は7500年前の「縄文の壺」が出たことで、その本物が見られることである。
縄文時代に日本列島では壺は作られず、弥生時代になって米などの穀物生産が日常的になってから作られ始めたというのが定説であった。

しかしそれを見事に覆したたのが上野原での発掘だった。約25年前のことである。その後上野原の東7キロほどの山中で、東回り九州高速道路の工事中に同じ時代の遺跡「城が尾遺跡」でも壺型土器が三つも出て来たので、縄文早期に既にこのあたりでは壺を作っていたことが証明された。

また、そのことで宮崎県でもかって同じような形式の壺型の土器が出ていながら「弥生時代のもの?」として展示されていたのが、晴れて「縄文の壺」の仲間入りをしたようだ。

とにかく南九州ではとんでもなく古い時代に壺が作られていたのだが、残念ながら暦年較正年代法によると7300年前に噴出した直系20キロもある「鬼界カルデラ」の火砕流により、南九州地域はほぼ壊滅したようで、壺作りは後続せず、途絶えてしまった。

また同じ縄文早期(10000年前~7500年前)に属する土器で南九州独特なのが縄文ではなく「貝殻文」の土器で、平底の円筒形と角筒形の二種類の薄手の土器群である。
手前に並んだ6つが上野原で発掘された貝殻文土器(レプリカ)で、後ろは写真である。

わたしはいつもこのコーナーに来ると溜息をつく。「1万年前の芸術作品群じゃないか」――と。

7300年前の鬼界カルデラ大噴火によって上野原系の文化が滅びたあとも、500年から1000年ほどのブランクがありながら、縄文前期・中期・後期・晩期・弥生時代とほぼ連続して南九州では人為的な営みは続くが、どの時代の土器も、この10000年前の貝殻文土器の芸術性は持ち合わせていない。

しいて言えば熊本県の人吉地方に栄えた弥生時代の中で生まれた優美な「長頸壺」か、時代はもっと下がるが須恵器の土器群だろうか。ただし文様は無いか単純至極なものである。

11000年前に上野原遺跡の目と鼻の先の桜島が大噴火を起こし、その時も南九州の南半分はやられたが、そのほとぼりが冷めてから、つまり10000年前から住み始め、カルデラ噴火のあった7300年前まで南九州に住んでいた人々とはいったいどのような人たちだったのか。

「高天原にいたという神々」に極めて近い存在だったのかも知れない。

また、7300年前のカルデラ噴火によって南九州の人々すべてが滅んだわけではなく、熊本県域に近かったり、宮崎県域の向こう側に住んでいた人々が逃げることは可能だったはずである。

全国、特に信越、東北方面に伝わる「火炎土器」があるが、あれを見ていると大噴火を表現しているのではないかという錯覚を起こしてしまう。

列島全土に散らばり、かつまた丸木舟で海外へ、という妄想も起きるほど進んだ人々であったかも知れない。

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