鴨着く島

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『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(2)

2023-09-21 20:21:24 | 邪馬台国関連

(1)では南満州の夫余から高句麗を経て朝鮮半島の北部を占める東沃沮(ヒガシヨクソ)、挹婁(ユウロウ)そして朝鮮半島北部の大国「濊(ワイ)」について述べて来た。

結論として濊(ワイ)こそが歴史的な大国であったが、紀元前194年に秦末の混乱で燕から逃れて来た衛満によって濊の王であった箕子(キシ)の王統である準が南へ走り、その約90年後(BC108年)には衛満の朝鮮(衛氏朝鮮)が今度は漢の植民地支配(楽浪郡)によって東西に分断される羽目になった。

その結果、北方に逃れた多くの濊人がいて南満州の夫余にまで達したのだが、その証拠が夫余にある「濊王之印」および「濊城」の存在であった。(※夫余の国庫には印のほかにも玉壁が多数あったともいう。)

朝鮮半島に置かれた漢(前漢)の楽浪郡よりさらに南部、おおむね今日の漢江流域に「帯方郡」を置いたのは公孫氏で建安年中(AD196~220年)のことで、この帯方郡の設置によって朝鮮半島南部の「韓」と「倭人」のことが詳しく知られるようになった。

魏王朝によって帯方郡までが掌握された結果、半島南部の韓およびさらに海を隔てた九州島の倭人と魏の交流関係が始まったのである。

 

⑥【韓(カン)】

・韓は帯方郡の南に所在し、南には倭がある。4千里四方の地を占める(今日の韓国の地理ではソウル南部以南、金海市に比定される倭人国家「狗邪韓国」までの間の地域)。

・韓には三種あって、馬韓・辰韓・弁韓に分かれる。

〔馬韓〕

・馬韓は韓の西部の大国で、農業国家である。桑を植え、また綿布を作っている。

・各所に統率者がおり、大を「臣智」、次を「邑借」と言っている。城郭はない。

・およそ50国に分かれており、大国は戸数が1万戸を下らず、小国でも1千戸はある。合計すると10万戸余りである。

・中で「月支国」はかつて辰王が支配していた国であったが、その辰王は馬韓国内では「天から降りて来た聖者で、狗邪韓国や辰韓を統治している」と表現されていた。

(※辰王については出自が書かれていないが、「月支」は「ツクシ」と読めるので、筑紫(九州島)に依拠していた王が半島の南部を支配していた可能性を見たい。)

・紀元前1000年の頃、殷王朝末期の混乱を逃れた箕子がまず朝鮮北部の濊(ワイ)に入って王となり、40数代のちの準王の時に衛満によって国を奪われ(BC194年)、半島南部の馬韓に逃れている。(※この苗裔がのちに辰韓12国を開くことになる。)

・5月にタネ(モミ種)を撒き終わると、「鬼神」(祖霊)を祭り、みんなで歌い舞う。その舞い方は数十人が一緒になって低く高く手を挙げたり足を運んだりする。

・10月に収穫が終わると5月の種蒔きの時と同様、歌い舞う。

・大きな村では一人を選んで「天神」を主宰させる。この人を「天君」と名付けている。

・諸国には村落とは別のムラがあり、それを「蘇塗(ソト)」と言っている。大木を立てて鈴や鼓を懸けて「鬼神」(先祖)に仕える。

・これと言って珍宝はない。草木や禽獣はおおむね大陸と同じである。

・男子には時々「文身」(入れ墨)が見られる。

〔辰韓〕

・馬韓の東に位置している(今日の慶州一帯)。

・古老が言うには辰韓には秦の勃興期の混乱を避けて逃れて来た者が多い。ただし馬韓を経由し、馬韓から土地を与えられたりした。

・言葉は馬韓とは違っている。国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」という。

・楽浪人を「阿残(アザン)」と言うが、東方人は自分のことを「阿」と言い、阿残とは「自分たちの残り」という意味である。

・辰韓を秦韓と言うこともある。

・12国に分かれている。

・弁韓と辰韓あわせて24か国あり、総戸数は4~5万戸。

・12か国は辰王に属するが、統治については馬韓人に任せている。辰王は12か国の形式的な王であり、自立していない。

〔弁韓〕

・辰韓と同じく12国に分かれている。

・統率者の大を「臣智(シンジ)」、次を「険側(ケンソク)」、次を「樊濊(ハンワイ)」、次を「殺奚(サッケイ)、最後を「邑借(ユウシャク)」と言う。(※トップの臣智と最後の邑借だけなら馬韓の統率者と同じ制度名である。その間の3クラスの名は著しく貶めた名であるから、これは東夷伝特有の蕃夷扱い用法だろう。)

・国には鉄が出て、半島はおろか倭人たちもやって来て採取している。交易には鉄を貨幣として用いているが、これは大陸の「銭(銅銭)」と同じである。

・男女は倭に近く、また男子には文身が多い。

・弁韓(弁辰)と辰韓は雑居している。言語や衣服等の風俗は区別がつかない。馬韓と同様にやはり鬼神(祖先)を祭っている。

・弁韓の「瀆盧(トクロ)国」は倭と境を接している。

・12国各国にはそれぞれ王がおり、法俗は特に厳しく守られている。

 

〔評〕

「弁韓(弁辰)と辰韓とは雑居している」という記事があるが、「雑居」とは境界がない状態のことで、相互に往来がかなり自由に行われていたことを示している。

弁韓を「弁辰」と書くことが見えるが、弁辰は「辰を弁ずる(分かつ)」と解釈され、要するに弁韓は辰韓が12か国の支配を確立したのちに半島に渡った九州島の倭人たちが新たに国を形成したからだろう。

九州島沿岸の倭人たちはいわゆる「航海民」であり、身体に「文身」を施していた。この文身とは入れ墨のことだが、海中に没入した際にサメのような大魚に襲われるのを防ぐ効果があった。後には「飾り」となり、航海民以外の男子にも流行したようである。

航海民は半島に渡り鉄資源の採取や製錬に従事し、九州島や本州の王権に「鉄資源」を供給するのを生業としていた。弥生時代後期は列島で「鉄」が多用されるようになり、彼ら半島と九州島を往来する倭人は相当に富裕になったはずである。

半島において鉄採取の中心となったのが「伽耶山」であった。この鉄山からの鉄は「韓・濊・倭」がこぞって採取に従事し、楽浪・帯方の二郡にも供給されていた。当然倭国内にも流通していた。奈良市の神功皇后陵と言われる御陵の陪塚からは大量の鉄挺(テッテイ=鉄の延べ板)が発掘されたが、おそらく伽耶鉄山由来のものだろう。

馬韓・弁韓・辰韓に共通する習俗として「鬼神」(祖霊)を祭るというのがあり、特に馬韓では別の居住地があって大木に鈴鼓を懸けて祭ったり、さらに「天神」を祭っている。その司祭者を「天君」と呼んでいるという。

「天君」を「テンクン」と呼ぶべきか「あめぎみ」と呼ぶべきか迷うところだが、『隋書』の「倭国伝」には

<倭王の姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号を阿輩雞彌(あべきみ)、遣いを使わして闕(ケツ=宮殿)にいたる。>(開皇20年=600年の条)

と見え、後の天皇に当たる王の姓は「あま(天)」、字は「たらしひこ(足し彦)」、そして号を「あめぎみ(天君)」と呼ぶと書いている。6世紀後半には号として「あめぎみ」と言われたようだが、これこそ馬韓の「天君」と重なる。

倭国から馬韓へか、その反対かは決めかねるが、当時、倭国の一部である九州島と半島の南部までは同一の言語圏であり、信仰も似通っていたことが見て取れる。

辰韓の記述で不可解なのが辰韓の王のことで、

「辰王は常に馬韓人を用いて之(これ=統治)を作し、世々相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。」

とあるのだが、辰韓12国を支配下に置きながら、辰王はそこに居らず、代々馬韓人に支配を任せているという。したがって当然、辰王は辰韓国内では自立した王となっていないのである。

こんな不可解なことがあろうか。

しかし辰王の一族はすでに半島を去って海を越えた九州島に本拠地(王宮)を移した――と考えれば納得がいく。魏王朝の半島支配が辰王にとって耐えがたいものになり、一族を連れて亡命に近い移動を敢行したのだろう。その行き先を私は糸島(旧怡土郡=糸島市)と考えている。

筑前風土記逸文によると、仲哀天皇にまめまめしく仕えた糸島の豪族「五十迹手(いそとて)」は、我が祖先は半島南部の「意呂山(おろやま)」に天下りました、と天皇に訴えたというが、この糸島にやって来たのはこの亡命して来た辰王のことではないかと思われる。

その人物とはずばり「ミマキイリヒコイソニヱ」こと第10代崇神天皇である。「イソニヱ(五十瓊殖)」の「五十」を通説では「イ」としか読まないが、これはおかしい。「イソ」と読んでこそ歴史はつながる。

崇神天皇の皇子がまた「イクメイリヒコイソサチ」こと垂仁天皇で、共に「イソ(五十)」という諡号を持っているではないか。

邪馬台国の解釈で、ほぼ定説になってしまっている「伊都国糸島説」だが、これはまず唐津(末盧国)からの方角が違い、またここが伊都国なら壱岐国から船で直接着けられるのに、なにをわざわざ唐津からの難路を歩かなければならない(東南陸行500里)のか合理的な説明がない。誤りと言う他ない。

豪族の五十迹手(いそとて)が仲哀天皇によって与えられた地名は「伊蘇(イソ)国」であり、このイソが「五十」に引き当てられたのである。したがって糸島は「伊蘇国または五十国」でなければならず、倭人伝上の「伊都国」に比定するのは間違いである。

古来、糸島水道は格好の船溜まりであり、そばには「加也山(かやさん)」があり、領域内の大社に「高祖(たかす)神社」があり、祭神は「高磯(たかイソ)姫」であるから、イソ国であることの否定のしようが無いと思うのだが・・・。

 


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