鴨着く島

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吉野ケ里フィーバーと邪馬台国

2023-09-24 14:22:24 | 邪馬台国関連

一昨日(9月22日)金曜日の夜10時から、NHKテレビで「アナザーストーリー」という番組があり、吉野ケ里遺跡の発掘当時のフィーバーぶりを検証していた。

佐賀県神崎郡の吉野ケ里が考古学上のフィーバーを引き起こした陰に、朝日新聞社とNHKの「邪馬台国を大きく取り上げて吉野ケ里遺跡と繋げよう」という思惑があったとし、そのことで「出し抜かれたと考えた地方紙西日本新聞社」が反撃を食らわせたというのが、アナザーストーリなのだそうだ。

具体的には次のようなことであった。

吉野ケ里は佐賀県神崎郡にある小高い丘陵地帯で、そこを開発して工業団地を造成して地元に雇用を増やそうとしていたのだが、以前からちょくちょく遺物が見つかっていたため、造成工事に取り掛かる前の1986年度から佐賀県の教育委員会が主体となって発掘調査を始めた。

巨大な建物の柱穴や、深い環濠が見つかったことで1989年の1月23日に現地説明会が開かれたのだが、その遺跡を朝日とNHKが「邪馬台国の発見か」というような刺激的な見出しで当日の朝刊に発表していたのである。

この衝撃的な発表は、実は当日訪れていた学者の中に考古学の権威者の一人で、当時国立奈良文化財研究所にいた佐原真という人が朝日新聞に漏らしていたからだという。

これに対して九州新聞界の雄である西日本新聞社は4,5日後に「北墳丘墓」の甕棺から発見された十字型の剣(有柄銅剣)と多数の管玉を受けて、「吉野ケ里の王を発掘した」とスクープした。

これはセンセーショナルな話題となり、当時の佐賀県知事自身が当地を訪れ、「吉野ケ里の工業団地の北側の3分の1は手を付けないで保存する」と言わしめたのであった。

これにより吉野ケ里の保存活動は国を動かし、1991年には「国特別史跡」となり、その10年後には国営の「吉野ケ里歴史公園」として整備された。

さて、邪馬台国との関連だが、吉野ケ里遺跡の年代は弥生時代中期であり、魏志倭人伝記載の邪馬台国時代とは200年も早い時期の遺跡であるゆえ、朝日新聞とNHKが発表した「吉野ケ里は邪馬台国か」という設定は誤謬ということになる。

ところで発表のあった1989年1月の同じ頃、作家で古代史関連の著作が多数ある松本清張が訪れているビデオが流されていた。

邪馬台国九州説の清張はすわここが邪馬台国かとの期待を以て来訪したのだが、残念ながら時代が合わないということでやや消沈したようだ。

松本清張の著作では直接邪馬台国を扱った書として有名な『古代史疑』があり、また『清張通史』(全6巻)の「1、邪馬台国」があるが、前者は1973年、後者でも1986年の発刊であり、まだ吉野ケ里の発掘が行われていなかった。

清張の考える邪馬台国(女王国)は「筑後と肥後の間にある筑肥山地」を挟んで、南に「狗奴国」そして北側が邪馬台国だというもので、狗奴国は今日の熊本県以南を領域としていたが、筑肥山地の北側に展開する筑後川流域の広大な領域だったのだが、どこに女王国の政庁(宮殿)があったかについては言及を避けていた。

そこで吉野ケ里に上述の宮殿跡らしき柱穴や王墓が見つかったので、広大な佐賀平野の東部の一角を占める神崎郡の中の吉野ケ里が邪馬台国のそれかもしれないと期待を持ったのは無理からぬことだったろう。

※(1)女王国と狗奴国の戦いについては『古代史疑』の中の「稲の戦い」(p153~178)と「1、邪馬台国」の中の「8南北戦争」(P198~229)に詳しく述べられている。)

※(2)清張は方角はともかく、距離表記(里程)と日数表記との区別に関しては同列と見ており、また「水行」(航行)距離表記は虚数(でたらめ)だと断じている。水行の千里が「航行の1日行程」を表していることに気付かなかったのは残念至極である。

※(3)吉野ケ里では、例の石棺の出た日吉神社周辺のさらなる発掘調査を開始したそうである。邪馬台国関連ではないが、紀元前後かそれより古い遺跡・遺物が新たに発見され、その時代相を考えるきっかけになればよいと思っている。

 


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